後日談1 めぐみと正義
完結したのに、恥ずかしげもなく帰ってきました。
本編を読み終えた義理の母からのリクエストに応えるべく、補完パートとしてちょっぴり後日談を載せます。
「……喧嘩したの?」
呆れ半分、からかい半分といった口調で、金木めぐみは相槌を打つ。
机に頬杖を突き、頭の重みを手のひらに載せる。白く、柔らかい頬がマシュマロのようにたわみ、その上にある大きな瞳は、今は半眼でとなりの席の相談相手を捉えていた。
相談相手──佐藤正義は、抑えていたものをこらえきれなくなったようで、畳みかける様にめぐみに話しかける。
どうやら、きっかけは些細なことらしい。
行きつけのコーヒーの味に関する感想を言い合った結果、それがものの見事にずれていたのが発端。
なのに、気が付けば「この前の公園で、そっと出したのに手を握ってくれなかった」など、コーヒーの味とは全く関係のない話題にまで飛び火。
しまいにはうつむいたまま一言も発さなくなったらしい。
「二人っきりの時になると、本当に繊細……というか、ウジウジして……ていうか、根暗?分かってはいても、どうしてもギャップが激しくてね」
本当に途方に暮れているのだろう。少し垂れ気味で、上品な黒色の眼は、いつも以上に苦悶に歪んでいた。以前とは違い、前髪を切り揃えたおかげで、それがよりはっきりとわかった。
めぐみが知る限り、彼がこれほど苦悩している姿は見たことがなかった。
どうやって他人の意識の外に逃げるかに頭を巡らせていた以前とは違い、今は他人の意識の中に踏み込まなければいけない。
慣れないことを始めると、どうしても綻びが生じるものだ。
「まあ、青蓮院さんの気持ちもわからなくもないけど……。それを佐藤君に全部理解しろっていうのも……ねえ。」
頬杖をついたまま頷くという、微妙に難しい仕草をする。
拍子に、肩にかかった亜麻色の髪がふわりと背中に流れ落ちていく。
教室の後ろで静かな歓声が上がった。最近校内で急増しているファンのものだろう。
髪を伸ばしたせいか、あるいは時折見せる愁いを帯びた瞳のせいか、もしくはどんな相手の相談にも親身にのってあげるホスピタリティ──たとえそれが、かつて自分を振った男子であっても──のせいか、ひょっとしたら研修先の病院で念願のナース服に袖を通せるようになったせいかもしれない。
もっと身も蓋もないことを言えば、二大巨頭の一角が陥落したせいで人気が集中しただけという見方もある。
青蓮院琴音のファンについていえば、くだんの日にあれだけ堂々と告白した正義に対抗できる男子は存在しなかった。
人目に慣れるべく、髪を切り揃え、徐々に本領を発揮しつつある彼のスペックに比類するものなど、校内のどこを探しても見当たらなかったのだから、それも当然だろう。
唯一の例外もいるが、彼にはそもそも兄に張り合おうという意思はない。ゆえに、ほとんどすべての男子が彼女の攻略を断念した。
一方、女子の間でのランキングは穏やかなものである。
本領を発揮し始めた──あるいは本性を現したといってもいいだろう──正義に対する女子の反応は相当のものであった。灰かぶりと思われた地味な男子が、実は王子様級のスペックを隠していたのだからそのインパクトは計り知れない。
しかし、彼にアプローチをかけようという女子はほとんどいなかった。もちろん、ライバルはあの青蓮院琴音なのだ。勝ち目があるはずもない。
さらにいえば、彼の本性──いや、本名も知ってしまったからには、おいそれと声をかけるのも躊躇うだろう。
たった一人の女性にあれほどの情熱を注ぎこむ様を世界中に知らしめたのだから、入り込む余地などないと考えるしかない。
──もちろん、めぐみもその一人だ。
「本当、困ったものよね」
同情するようにうなづく。ただし、頬杖はついたまま。
くだんの日の後も、当然ながらめぐみは正義のとなりの席だった。
気遣いの塊のようなめぐみだからして、翌日もいつものように気さくに正義に声をかけ、何もなかったようにふるまっていた。
おそらく、4000人もいる同級生で、めぐみと正義の関係について勘づいたものは誰もいないに違いない。
その時の正義は、一瞬ためらうように視線を泳がせたが、めぐみの気遣いに感謝するように何気ない会話を始めた。
それ以降は、いつもの通り。離れることも、踏み込むこともしないまま、机一個分の距離を保ったまま日々を過ごしていた。
今回は例外だ。珍しく、二人の仲に踏み込むことになってしまった。
朝から見るからに元気のない正義に、めぐみが耐えかねて声をかけたのだった。
受け取り方によってはタダの惚気と取られかねないが、長い間正義を見つめてきためぐみには彼が本気で悩んでいたのは分かっていた。
「いや、ゴメン金木さん。こんなこと相談すべきじゃないってのは分かってるんだけど……。まだこういうこと相談できる人が他にいなくって」
「いいってば。私もこういうの嫌いじゃないし。佐藤君の対人関係を克服できるように協力するって言った手前もあるし、ね。気にしないで」
空いたほうの手を軽く振りながら片眼を瞑る。はにかむ様な笑みに、正義の延長線上にいた男子が何人か卒倒しかける。
そろそろ授業が始まる。相談に乗るといった以上、何かしらの総括が必要だろう。
看護スキルの一つとして『傾聴』というものがある。
相手の悩みを全て引き出し、聞き手に専念するテクニックだ。
相談者というものは、悩みを解決してほしくて相談を持ち掛けるものだが、その中の半数程度は悩みを共有するだけで満足してしまうものらしい。
あるいは、声に出し説明する過程で自己解決することもしばしばある。要は、アドバイスなどなくても悩みはどうにかなってしまうのだ。
しかし、今回ばかりはめぐみも一言添えてやりたいという気持ちになっていた。
冷静に分析すれば、それは心配半分、からかい半分だっただろう。
……正直に言って、コーヒーの苦手なめぐみにとっては喧嘩の発端については全く共感できるものでは無かったが、重要なのはそこではない。
重要なのは、二人の仲が順調に進展していることと、それを途切れさせないようにすることだ。
そのためには、やはりある程度は自分で結論を出す必要があった。
しばし考えて、こういって正義を励ますことにした。
「喧嘩するほど仲がいい……。いいえ、仲良くなるには喧嘩するしかない、ってことじゃない?」




