決戦前夜
「……完成だ」
いつもの喫茶店で、一人珈琲を飲みながら、俺はようやく多部ログの最終稿を書き上げた。
自分で言うのもなんだが、完璧な出来栄えだ。これ以上のレビュー記事は、俺には作れないだろう。俺たち二人だからこそできた、奇跡のレビューだ。
あれから、青蓮院さんとは会っていない。
学校にも来ていない。メールも、SNSも、なにをしても返事がない。
どこにいるのか、スマホを持ってすらいないのかもしれない。
でも、俺は書き上げることができた。
彼女が残してくれた、この原稿のおかげで。
「マスター。ひょっとしたら、来週からこの店、お客さんでごった返すことになるかもしれない」
最終稿の対象店舗は、この喫茶店だ。
二回目にここを訪れた時、俺たちは互いにこの店へのレビュー記事を交換し合った。
その時の彼女の記事をもとに、俺が原稿に起こしたのだ。
俺たちの思い出の場所。
以前の彼女の言葉を思い出す。
香林堂が客で溢れ返った時、二人でいられる場所がなくなるのは寂しいと言っていたんだ。
人目を気にせず落ち着ける場所。それを欲していたのは俺だけじゃなかった。
俺の記事が公開されれば、この店が注目を浴びることは間違いない。彼女と俺の最後の居場所を、奪ってしまうことになる。
でも、そうする。
そうしなくてはいけない理由がある。そして、そうなってからが本番なのだ。
謝罪する俺に、マスターはお替りの珈琲を差し出してくれる。
そして、
「好きにしな。今までだって、気に入らない客は全部追い返してきた。店にいれたことのある客は、お前たちで10人目だ。俺の目にかなう奴以外に、俺の珈琲を飲ませるもんか」
いつもと同じ味。
でも、来るたびに微妙に変わる味。俺たちの顔を見て、少しずつブレンドを調整してくれていたんだ。
今日の珈琲は、苦くて、深くて香ばしい。
彼女が大好きだと言っていた味だった。
「マスター……。そんな声だったんですね。初めて聞きました。それと、もう少し商売っ気は出した方が良いと思いますよ」
俺の忠告にも、マスターはいつものように黙ってシニカルな笑みを返すだけだった。
「先生、多部ログの最終稿です」
「確かに、受け取ったわぁ」
生徒指導室で、香田先生に原稿を手渡した。
原稿に目を通すと、先生は目を見張った。
「佐藤クン……あなた……」
「はい。先生のご要望通り、本気を出しました」
「こんな記事を載せたら、それこそ一位を取っちゃうわよ?」
「もちろん。そのために書いたんですから」
今となっては、この報酬を提示してくれた出版社には感謝しかない。
香田先生は不満だったようだが、俺はもう覚悟を決めたのだ。
「……そう」
原稿に目を通し終えると、先生は深くため息をついて椅子に座りなおした。
「自宅に連絡をしてみたの。でも、ご両親からは青蓮院さんの所在については教えてもらえなかった。元気ではいるみたいだけど、今は一人にしておきたい。そうおっしゃってたわ」
「多分、それ。俺のせいです。俺が間抜けだったせいで、彼女を傷つけてしまいました」
紅茶で唇を湿らせ、佇まいを直し、一つだけ咳払いをする。
でも、それだけだった。それ以上は何も聞いてこない。
本当に、優しい先生だ。俺を信頼してくれているのが分かる。
「実は……一か月前。彼女が俺を探し出すと宣言したあの日。俺も心の中で秘かに宣戦布告をしたんです」
あの日の、胸の高鳴りは今でも忘れない。
きっと──あの瞬間に、俺は本当に彼女に恋をしたのだろう。
「彼女が俺を探し出すのが先か、俺が"究極のラブレター"を書き上げるのが先か。自分勝手に、誰にも言わずに」
少しだけ呆れたように先生は軽く微笑んだ。
垂れ目がちの大きな目が、ひっそり歪む。この表情こそが、香田先生を一際輝かせている。ひとを心配せずにはいられないのだ、この先生は。
「それで、勝負はついたの?」
「はい……。俺の完敗です」
「……そう」
「なので、勝負に負けた俺はその対価を支払う義務があります」
「それが、この原稿?」
俺は黙って首を振る。
多部ログの最終稿は、俺たちの作品だ。敗北の対価としてはふさわしくない。
「それは、これから書き上げます。少なくとも、待ってくれている読者が一人はいるわけですし」
「じゃあ、がんばりなさい。先生も、応援する。あなたからの恩を、言葉だけで済ませるつもりはないのよ?」
「期待せずに待ってます」と返して、俺は生徒指導室を後にした。
その晩──
佐藤 自由の自室。
彼が基本的に自室ですることと言えば、「一人で寝る」「女子と寝る」のどちらかである。
部屋の中を見渡すと、あちこちに女子の"マーキング"の後が散見される。
ヘアゴムやイヤリングの片割れ。
普通なら洗面所にあるべき歯ブラシ。
いったいどうやって帰宅したのか?下着まで置いてあった。
もはや女性の部屋では、と疑いたくなるような、まさに混沌そのものである。
そんな部屋で一人寝ていると、不意に隣の部屋から声が聞こえた。
彼の、兄の声だ。
「──完成だ」
何が完成したのか。自由はもちろん理解していた。
思ったよりも静かで、落ち着いた様子だ。失敗作を書き上げる度に恥ずかしさで悶絶している兄を見てきたので、このリアクションは意外だった。
壁に後頭部を当てて、いつものように話しかける。
「ようアニキ。ついに満願成就、完成したのか?"究極のラブレター"ってやつが」
「まあ、そんなもんかな。出来上がってみると、意外とこんなもんかって感じだが。それでも、今の俺にとって、これ以上はない」
自由は内心舌を巻いた。
あの、控えめに言っても控えめな性格の兄がここまで断言するのだ。よほどのものが出来上がったに違いない。
「明日、彼女に告白する」
「……うまくいくと良いな」
正直な気持ちを、告げる。
兄だ。また、無数の恩と借りを作った相手でもある。そして、一生かけても追いつけない、究極の目標でもあった。
「安心しな。もしも告白を邪魔する奴がいたら、どんな相手だろうと叩きのめしてやるからよ!」
「……いつもすまないな」
(なんだ、気付かれてたのか……)
拍子抜けした気分になって、肩から力が抜ける。
いままでも、陰ながら兄のサポートをしてきたつもりだったが、どうやらすべてお見通しだったらしい。
(やっぱり、俺様はアニキみたいにコソコソとやるのは苦手だもんな)
改めて自分の性分を受け入れて、自由は手にした一通の手紙を見つめる。
今時手紙で思いを伝える等、兄以外にいるわけがないと思っていたが、そうではなかったらしい。
情熱というよりは、覚悟と決意を込められた手紙には、たった一言こう書いてあった。
── 果たし状 黒原哲也 ──
(俺様も、俺様の決着をつける日が来たようだな。まあ、さっさと片付けて、アニキの一世一代の大舞台を見に行くとするか)
そうとなったら話は早い。
休むべき時に休み、やるべき時にやる。いつもの彼のスタンスは、どんな時も変わることはない。
目を閉じ数秒も経てば、あらゆるしがらみや決意ですら、眠りの彼方に置き去りにしていくのだった。
マスターの名前は、『ゲンタリさん』です。




