謝礼と治療
「はい、とりあえずこれでも羽織って」
明かりの下に連れてきてみれば、金木さんの格好は想像以上にズタボロだった。
薄手のブラウスを着ていたせいで、あちこちが引き千切られて下着や肌が露わになっている。
とてもこのままじゃ人気のある所には出られない。
俺にとっても目に毒だったから、着ていたジャージを渡すことにした。
「さっきまでちょっと運動してたから、ちょっと汗臭いかもだけど」
車通りのある自販機の前で、俺たちはようやく一息つくことができた。
随分と距離を開けたから、もはや見つかることはないだろう。
渡されたジャージに、黙って袖を通す金木さん。
「……暖かい」
「よかったら、これも飲んで」
自販機で買ったココアを手渡す。
無言で受け取り、喉を潤す。地面に座り込み、通りを走る車のテールライトをぼんやりと見つめていた。
思ったよりも大丈夫そうだ。
それが、改めて彼女を観察して感じた印象だった。
あんなに恐ろしい目に遭ったにしては、随分と落ち着いた様子だ。普通の女の子だったら、もっと取り乱したり震えが止まらなかったりするんじゃないだろうか。
とにかく、こんな空気になってしまった以上、「それじゃ、あとは気を付けてね」と言って立ち去るわけにもいかない。無事に家まで送り届ける必要があるだろう。
だが、その前に金木さんがショック状態から立ち直る必要がある。そのためには、おそらく時間が必要なのだろう。
幸い、周囲に人目は全くない。当の金木さんの視線も、驚くほど気にならない。万が一さっきの暴漢と鉢合わせになっても、これなら大丈夫だろう。
「……」
やがて、ふと思い出したように金木さんが視線を上げた。
とにかく、自分の気持ちを吐き出すことが大事だ。俺は、黙って彼女の言葉に耳を傾ける。
「ねえ、正義くん。何であんな時間にあんな場所にいたの?危ないでしょ」
「……その台詞、そっくりそのままお返しするよ」
あまりにとぼけた発言だったため、つい、いつもの教室のノリでツッコミを入れてしまった。
だが、それがかえって良かったらしい。金木さんはクス、と淡い微笑を洩らす。
「私は、研修の帰りだったの。夜の病院で、看護の実習。いつも違う場所に行くから、帰り道で迷っちゃって」
「……そういう時は、素直に親に迎えに来てもらった方が良いよ」
「うん、次からはそうする」と、素直な言葉が返ってくる。
少しだけ、沈黙が二人の間を流れていった。
「凄いね、金木さんは」
「どういうこと?」
唐突に思いついた言葉が、俺の口から零れ落ちた。おそらく、いや、間違いのない俺の本心が。
「まだ高校生なのに、そんな先のことを見据えて行動してる。なんというか、大人だよ」
「そんなことない。私だって先のことなんてわかんないし。できることをやってるだけ、かな」
「それでも、俺にはそんなこと思いつかない」と、本音を伝える。
すると、今度は金木さんが口を開いた。
「そういう正義くんは、決めてるの?進路──」
「まあ何となくは。普通の大学行って、普通の会社に就職するよ。そして、普通に暮らす」
「ぷぷっ、なにそれ。超ツマンナイ」
「つまんないかもしれないけど、俺にとっての現実的な夢なんだ。多分こうなるだろうな、って言う予想の話じゃない。きっとこうなりたい、っていう願望の話さ」
「ますますツマンナイ」と何度も笑い、金木さんの視線がこっちを向く。
うん、良かった。立ち直っているみたいだ。瞳に元気が戻っている。
「ねえ、間違ってたらゴメンね。正義くんって、わざとそうしてるでしょ?」
「え……?」
予想外に突き付けられた問いは、必中の矢のように俺の心臓に食い込む。
いつものように軽くいなすことができなかった。
そして、一度返答に詰まってしまうと、もうそれを取り戻すことはできない。
金木さんが畳みかける。
「いつも思ってたの。勉強も、運動も、通学の時間だってそう。いつも狙って、目立たないポジションにいるでしょ」
「……」
まいったな。こうも核心を突かれてしまうと、返す言葉がなくなってしまう。
俺は白旗を上げることにした。
「ご名答。よく分かったね」
「うん、いつもとなりで見てたから」
大した観察眼だ。しかも、俺に一切気取られずにやってのけたことも含めれば、驚愕に値する。人一倍他人の視線に敏感な、この俺に。
賞賛の言葉の代わりに、俺は初めて彼女に事情を打ち明けることにした。
「好きでやってるわけじゃないよ。……怖いだけなんだ。他人の視線が」
「……」
ポツリ、と語りだした俺の言葉を、金木さんは真剣に相槌を打ちながら聞いてくれる。
こんなつまらない俺の話を、こんなに真面目に……。看護師のスキルに、人の話を良く聴く"傾聴"というものがあるが、それを心得ているのだろう。
「小さい頃、ちょっとトラウマがあってね。それ以来、人の視線を感じると心と体がうまく動かせなくなっちゃうんだ。俺は"フリーズモード"って呼んでるけど」
「小さい頃にそんなことが……。それから今まで、ずっとその症状と向き合ってきたのね」
「この体質も、もう慣れたけどね。そして、慣れてしまえばどんなものでもそれなりになるもんだよ」
最後の台詞は強がりでも何でもない。いかにして目立たずに生きるか、そういうゲームだと思えばそれなりに楽しいもんだ。
ひとしきり話し終えると、ようやく金木さんが口を開いた。
本当に凄い。辛抱強い娘だ。ここまで、良く俺の話に付き合ってくれるものだ。
だが、金木さんは俺が思いもよらないことを口にし始めた。
「決めた!私、正義くんに恩返しする。あなたのその症状、私が必ず直してあげるわ!」
「へ……?」
さすがは金木さん。発想が常人の斜め上を飛んでいく。
俺の、"フリーズモード"を解消するって?
冗談かと思ったが、本気も本気だということがその目を見れば一目瞭然だった。
「おそらく、社交不安障害の一種だと思うの。薬物療法が一般的だけど、私にはまだ扱えないし。でも、認知行動療法なら私でもできるはず。正義くんが感じている不安の正体を紐解いて、それが脳の錯覚だってことを少しずつ教えこんでいけばいいのよ!」
何やらメラメラと燃え上がっているようだ。すっくと立ちあがり、使命感に燃える目で俺の手を取る。
「任せて頂戴!一人では無理でも、二人ならきっと何とかなるわ!」
「う……ウン」
あまりの勢いに、俺は黙って頷くしかできなかった。
降って湧いた難病患者のおかげか、先ほどまでのショックがどこかに吹き飛んでしまっている。こういう時は、別のことを考えて忘れるに限るって聞いたことがあるし、ここは話に乗っておいた方が彼女のためだろう。
「それじゃあ、早速明日から治療を始めるから。一緒に頑張ろうね!」
そう言うと、金木さんは意気揚々と帰路についていく。
心配だから家までついていったけど、途中もよく分からない専門用語が飛び交って話についていけなかった。
とにかく、元気になってよかった。
この時、俺は翌日にあんなことが待っているとは思ってもいなかったのだった。
──翌日。昼休み。
俺は、地獄にいた。
理由を知りたいかい?
すぐに分かるさ。
「「はい、あーんして」」
両脇を美女に囲まれて、"あーんして"を繰り返しております。
金木さんが俺の口に、そして俺が青蓮院さんの口に。
世にも奇妙な、"あーんして"のバケツリレーですよ。
「ねえ、美味しい?正義くん?」
「美味しい!正義くんって料理も上手だったのね!」
同時に話しかけてこないでください。
俺の口は一つしかありませんし、その口も金木さんの手料理で塞がれていますし。
やがて、ジッと睨み合う二人の女性。
その中心点でバチバチっと火花が散っているのは気のせいか?
「……ねえ、なんで金木さんが正義くんのお弁当を作ってきてるのかな?」
「昨日のお礼と、二人だけの約束のためよ」
「……それって何のこと?」
「二人だけの秘密だもんね。昨日の夜のあなたの温もり、一生忘れないわ」
「……あ・な・た・の・ぬ・く・も・り?」
ジト目でこちらを睨んでくる彼女に向けて、ベーっと舌を出す金木さん。
どうやら、このお弁当こそが金木さんの言う"治療"らしい。
視線の恐怖に耐えるため、通常ならばセロトニンと呼ばれる脳内物質を増やす薬を処方するらしいのだが、普通の食事からでもその原料となる物質を摂取することが可能らしい。
加えて、さっきから続けている"あーん"は認知行動療法の一環だそうで、ストレスに感じている行動に別の意味を持たせることで恐怖の対象ではないことを徐々に刷り込んでいくのだとか。
人の視線を感じていても、楽しいこともあるということを体感させようとしてくれているらしい。
「青蓮院さんは、昨日正義くんに約束したとおり、彼のお弁当をあーんしてもらえばいいでしょ。そのかわり、彼には私がお弁当を食べさせてあげるんだから」
「……ま・さ・よ・し・く・ん。これはどういうことなの?」
青蓮院さん。今日のあなた、いつもと違って凄まじい迫力ですよ?どうか落ち着いてください。
「さ、気にしないで!正義くんは私のお弁当に集中してればいいの!」
二人の口論は昼休み中続き、その間、俺は無数の嫉妬の視線に晒されることになるのだった。
……金木さん、これは荒療治すぎます……
……どうしてこうなった!?
金木さん、佐藤くん相手だとちょっとネジがハズレ気味です。




