となりの席の金木さん
♪すばーらしーい、あーさがきた♪
♪きぼーうの、あーさだ♪
月曜日、俺は久しぶりに平穏な通学を堪能していた。
誰にも見られないって、素晴らしい!
満員電車の見知らぬオッサンの背中よ。もっと俺を押しつぶしてくれ。そしてもっと俺を覆い隠してくれ!
通学路を歩く生徒諸君よ。もっともっと歩きスマホをしてくれ。誰かとぶつかりそうになったり、物が飛んできたりしても俺がひっそりと守ってやるから!
悪夢のように長い廊下を、洪水に押し流されていくようにただ漫然と進んでいくこの感覚よ!
ああ、目立たないって、やっぱり素晴らしい!
香田先生の件も片付き、当面の問題はクリアした。先生の口から、俺の正体が漏れることはないだろう。
しかも、昨晩ついに投稿サイトのランキングでも月間一位を獲得することができた。もうあんな危険なラブレターを書くことはないだろうが、快挙は快挙。素直に喜ぼう。
つまり、今の俺はかつてない程に穏やかで順調な日を過ごせている、ということだ。
周囲の人間に聞こえない限界ギリギリの声で鼻歌を口ずさみながら、いつものように3分かけて自分の席に向かう。
するとそこには、いつものようにとなりの席の金木さんが座っていた。
ここまでもいつも通り。そして、平穏で穏やかな朝の会話が始まるのだろう。
だが、金木さんは少しだけいつもと違う切り口で俺に声をかけてきた。
「おはよう。ま・さ・よ・しクン」
「おはよう、金木さん。……急にどうしたの?」
この学校ではあまり偽名の方で呼ばれることがなかったので、ちょっとだけ驚いた。金木さん、たまにこういう不思議なことをするんだよな。
「佐藤くん、じゃあまりにもありふれてるじゃない。だから、名前で呼んでみようかなって」
「別にいいけど、他の生徒に変な目で見られたりしない?」
小さなことでも、少しでも目立つ確率が上がるのであれば遠慮したいところだ。
俺の偽名は別に珍しいものでもないが、苗字に比べれば目立つのは間違いない。そしてなにより、女子から名前で呼ばれるという行為自体が周囲の注目を引くのだ。
「そういえば正義くん、何かいいことあった?今日はいつもより機嫌がよさそうじゃない」
「え、わかる?」
「隣の席でいつも見てると、ちょっとした変化でも気づいちゃうものなの」
「ハハ、それは敵わないな。良いことがあった、というよりも困りごとが解決したって方が正しいかな」
席に座り、視線を教壇に向ける。
担任の香田先生がホームルームを始めていた。いつもと変わらぬ様子だ。いつぞやのように、俺の本名をちらつかせて脅してくるような様子はない。
うんうん、平穏とは、こう言う状態を言うんだよな。
「あ、それってひょっとして山根君のこと?なんか、今度転校するって噂が流れてるの」
「……へえ」
「よかったね。これでもう、あんなひどい目に遭わずに済むもんね」
山根が転校。随分と急な話だな。何かあったんだろうか?
「でも、正義君にあんな酷いことしておいて、謝りもしないままってのはなんだか釈然としないけど」
「まあいいよ。とにかく、何より大事なのは今が平穏だってことだし」
そうこうしているうちに1時間目の授業が始まる。
今日のルーティンでは、俺が指名される確率は0.139%だ。今日も、安心してひっそりと彼女を盗み見て、思いを馳せることができるってもんだ。
……ん?いつの間にか金木さんは自然と俺のことを名前で呼んでいた気がするな。
俺の得意技、"話題逸らし"を逆に使われてしまったようだ。
いやいや、まいったまいった。金木さん、本当に変わった人だね、君は。
──金木さんの視点です。
(キャー!どうしよう、ついに名前で呼んじゃった!)
下手すれば心臓の音が漏れ聞こえているのではないかと思えるほどだったが、鋼の精神力でそれをどうにか抑え込んで見せる。
となりの席の金木さん──金木めぐみは平然を装い、今日も佐藤正義の隣に静かに座る。
3年になって同じクラスになり、隣の席になった。
これだけの人数になると席替えですら一大行事になりかねないため、実は始業式以来ずっと隣の席のままだったのだ。
毎朝何気ない会話を繰り返すうちに、いつの間にか好きになっていた。
初めは、なんて特徴のない平凡な男子だろうと思ったのだが、そうではなかった。
彼はそれを狙ってやっているのだと、すぐに気づいた。
例えばテストの時間、彼は開始数分でいつも記入を止める。正確には残りの時間も問題を解いているふりをしているのだが、鉛筆が紙に擦れる音がしないのですぐに気づいた。
気になって点数を教えてもらえば、いつも平均点ピッタリ。何故かはわからないが、たった数分でそれだけの点数がとれるというのは、逆にすごいことではないだろうか。
体育の時間も、彼はいつも人の波に進んで溺れに行っていた。
大勢の中に紛れ込み、それでも誰ともぶつからずに平然としている。誰もそんなことに気づいていないだろうが、めぐみだけがその事実に気づいていた。
となりの席で、いつも見ているからこそわかるのだ。
そして、今も隣でこっそりと彼の顔を覗き込む。
(はあ……やっぱり格好イイ!何度見てもため息しか出ない)
前髪と眼鏡で巧妙に隠しているのだが、非常に整った顔立ちをしている。これも、隣の席だからこそわかる、めぐみだけが知っている彼の姿だった。
人から見られることに人一倍敏感な彼なのだが、めぐみは幼い頃からこっそりと何かを観察する、いわゆる"のぞき見"が得意だった。
出版社に勤める年の離れた姉に「あんた、記者に向いてるわよ」と太鼓判を押されるほどに。
(この前、校舎裏で怪我させられた時にちょっとだけ触っちゃったけど、腕の筋肉だってとても硬くて逞しかった。って、何思い出してんだろ、私!?)
心の奥では火を噴かんばかりに恥ずかしがっていても、表情にはおくびにも出さない。彼顔負けのポーカーフェイスである。
(まずは一歩前進よね。名前で呼べば、自然と相手のことを意識するようになるって聞いたことあるし。席替えも当分ないわけで、少しずつ……少しずつ距離を縮めていければ……!)
幸い、競争相手はいない。彼の本当の姿を知っているのは、めぐみだけなのだ。彼の魅力、圧倒的な才能を見事なまでに隠しぬくその自制心。
それをとなりの席でこっそりと眺めているだけで幸せだった。そして、少しずつ距離が縮まっていく感覚も。
そう、競争相手はいない。
いないはずだった
「ま・さ・よ・しくーん」
昼休み。誰かが彼を呼び止める。
(彼のことを名前で呼んだ!?私以外に、そんな人がいたなんて?)
「一緒にお弁当を食べよう」なんて言える訳もなく、でもいつかはそんな日がくればいいと願いながらとなりの席で黙々とご飯を食べていためぐみの耳に、衝撃が走った。
いったい誰がそんなことを?得意の"のぞき見"で、顔の向きを一切変えずに目の動きだけで声の主を補足する。
そこには、とんでもない人物が満面の笑みで立っていた。
豪華なお弁当箱を抱え、青蓮院 琴音が彼の隣に座り、こう言った。
「一緒にお弁当を食べよう!」
その台詞に、めぐみだけでなくクラス全員が凍り付いたのだった。、
最終局面の火ぶたを切って落とすのは、やはりこの人!(?)金木さんでした。




