王者の気迫
宵闇の商店街を山根は一人で歩いていた。
あろうことか、琴音の母に見つかってしまうという大失態を犯したにもかかわらず、彼の顔は興奮で赤らんでいた。
すんでのところで邪魔が入ってしまったが、琴音は彼を拒まなかった。
勘違いも甚だしいのだが、その事実は彼に余計な自信を植え付けてしまったようだ。
(今回はしくじったが、別にそれはどうでもいい。青蓮院が俺を受け入れるつもりがあるのが分かったからな。後はいつでもいい。今回よりも、もっと人気のない場所を選んでやれば……)
考えながら、数刻前の感触を思い出す。
琴音の肌の柔らかさ。ほんのりと香る甘い匂い。全てが彼を興奮させた。
「くっそ!やっぱり我慢できねえ。今からもう一回アイツを追いかけてけば……。邪魔な母親も別に力づくで抑えこめんだろ」
連絡ひとつで人数を集めることなど簡単だ。これまでだって何度もそうやって、全員に美味しい思いをさせてきたのだから。
腕に焼き付く琴音の感触が忘れられず、いてもたってもいられなくなる。
携帯に手を伸ばし、集合をかけようと指を走らせる。
と──
「ハロー」
グイっと、何者かに襟首をつかまれて強引にその場で転倒させられる。
ものすごい腕力、というか瞬発力だ。引き寄せられた瞬間、一瞬両足が浮いたほどだった。
「ってえな!何しやがる!」
怒鳴る山根の視界に入ったのは、端正な顔立ちの長身の青年だった。
何がそんなに愉快なのか、男でも惚れかねないような蠱惑的な笑みを浮かべている。
校内で知らぬものはない笑顔だった。そして、山根が最も嫌っていた顔でもある。
「テメエが俺に何の用だ……佐藤自由!」
立ち上がり、刺し貫く勢いで睨みつける。
自由はそれでも平然と笑ったままだ。
「用事もねえのに公衆の面前でいきなり引きずり倒すわけねえだろ。頭大丈夫か、オメエ?いや、大丈夫じゃねえからそんな不細工な面晒して人前を歩けるわけだよな」
爽やかな笑顔を一切崩さないまま、ドブ沼を掻きまわしたような罵詈雑言が飛び出してくる。
「何の用かって?そりゃあ、琴音ちゃんファンクラブ会員番号1(自称)の俺様が、あんなことやった奴に用事があるとしたら一つしかねえだろ」
瞬間、爽やかな笑顔に一筋の亀裂が走る。目つきが氷のように冷たくなったのだ。
それに気づかない山根は、薄気味悪い笑みを浮かべてこう切り返す。
「なんだよ、見てやがったのか。加わりたいんならそう言──」
山根の言葉は最後まで続かなかった。
人の顔面の中心、すなわち鼻っ柱を完璧に捉えた右ストレートが炸裂したのだ。一部の狂いもなく、山根の鼻は内側に向かって陥没した。
「な、なにひやがる……こんな場所で堂々と殴るな──」
動揺に震える台詞ですら、最後まで言うことは許されなかった。
一発目とまったく同じ箇所を奇麗に打ち抜かれ、今度こそ山根はその場で悶絶する。
山根は完全に誤解していた。故に油断していたのだ。
夕刻とはいえ、商店街には人通りも多い。これだけ大勢の前でいきなり殴りかかってくるなどとは思っていなかったのだ。
予想通り、周囲から悲鳴が聞こえてくる。しかし、自由は全く意に介さない。むしろ、周囲から注目を浴びることを喜んでいる節すらあった。
「てめえ、こんなことしてタダで済むと思うなよ……。学校にバレたら、どうなるか分かってんだ──」
三発目も同じ箇所。胸ぐらをつかみ、強引に立ち上がらされてからの一発だった。
「自分こそ散々ヤバいことやっておきながら、いざ自分が同じ目に遭えば学校に守ってもらうって?クソダセえこと言ってんじゃねえよ」
見下ろす眼光の鋭さは、まさしく王の威圧感を備えていた。
偽りがない、本物の気迫だった。
「学校にチクりたけりゃ好きにしろよ。ただし、俺様はやられたら必ずやり返すからな」
そこで初めて山根の背筋に悪寒が走った。
王者の気迫が確信させたのだ。こいつは、こちらが折れるまで何発でも同じ場所に拳を叩き込む、と。
学校だとか、周囲の反応などはどうでもいい。敵には一切の慈悲がない。
「わ、わかったよ……。もう青蓮院には手を出さね──」
四発目の瞬間、目の前に比喩でなく本当に星がちらついた。気絶しないよう、倒れぬようにそのまま胸ぐらをつかみ上げる。
驚くべきことに、片手で山根の体重を持ち上げてみせた。
「分かってねえだろうが、全然。テメエみてえなゲスは、二度と琴音ちゃんと同じ空気を吸うんじゃねえってんだよ!」
「ひっ……!」
本気の怒りを目の当たりにして、辛うじて山根にできたのは嗚咽に似た悲鳴を上げるだけだった。
完全に心が折れたのを確認すると、自由は拘束を解いた。
正真正銘の化け物だ。こんな男と同じ学院にいるなんて、もはや考えるだけでも悪夢だった。
「も、もう二度とあんたの前には顔を見せない。もちろん青蓮院にも、だ。約束する」
「好きにしろよ。俺様は別に構わねえからな。次見かけたら今日の3倍は叩き込むだけだし」
頭蓋骨に損傷が出るかもしれない、と本気で心配するほどの発言だった。
黙って首を振り、その場を退散しようとする山根。
すると──
「あ、そうそう。もう一つ忘れてた」
夕飯のおかずをもう一品思いついたような気軽な声で、自由は再び山根の胸ぐらをつかみ上げる。
そのまま壁に叩きつけるように押し付け、こう続けた。
「これは、アニキの分のお返しだ。目立たねえように、ボディにしといてやるぜ!」
五発目は、最も重く深い一撃だった。鳩尾を奇麗にえぐり取られ、今度こそ山根の意識が刈り取られる。
意識を失う刹那、いつかの校舎裏での出来事が浮かんだ。
「佐藤 自由……まさか、アイツの弟だって言うのか!?」
「ああ、みんなには内緒だぜ?」
あれだけのことをしておきながら、最後には相手にウィンクをして見送る。
やられた方にとっては恐怖でしかなかったが。
「ははっ、まさかあんなダセえ奴の弟だったとはな……。隠しておきたい気持ちもわか──」
六発目は顎先をかすめる、完璧な軌道だった。
脳を揺らされ、今度こそ奇麗に失神する山根。
「完全に心を折ったつもりなのに、最後にそんな軽口叩けるなんて大したもんだぜ」
地面に転がる山根に、飄々と語りかける。
用件は片付いた。周囲のやじ馬を適当に追い散らかして、その場を立ち去る。
去り際に、こんなセリフを残して──
「勘違いしてんだよな~。小さい頃から一度たりとも、アニキに勝てたことなんかないんだからさ」
暴力シーンは苦手だったのですが、山根君のおかげで気持ちよく書けました。
彼には感謝しかありません。




