本気と建て前
状況は、俺が想像していた以上に最悪だった。
体育の授業の次は、数学の授業にも香田先生が乱入してきた。
乱入とは言ったが、数学の先生が病欠だったので担任が代理授業を受け持っただけなのだが。
『先生、国語の担当だから数学のことはちょっとわかんなくてぇ。ちょっと簡単すぎちゃったらごめんなさいねぇ』
言うや否や、黒板を埋め尽くさんばかりの複雑な数式を書き始める。
高校で習う範囲の数式だけで構築されているが、とんでもなく長く、そしてあちこちにミスジャッジを誘う罠が張られている。
香田先生、確か大学での専攻は数学で、国語は一番苦手とか言ってたっけ……。
『じゃあ、この問題が分かる人いるかしらぁ?簡単すぎてやる気が出ないって言われるのも困るからぁ、一番に答えた人にはプレゼントを用意してあるわ』
猛烈に嫌な予感がする。
案の定、先生は一瞬こちらに目配せをして何枚かの紙の束を取り出した。
『このクラスの席次表よぉ。4000人もいたら、誰がどの席に座ってるかもわからないでしょうから、これを使って友達を増やして頂戴。もちろん、全員フルネームで記載してあるわぁ』
「……2+e^0.5です……」
みんなの注目浴びるより早く手を上げ、即座に回答する。
時間差で周囲のクラスメイト達の視線が俺に殺到するが、時すでに遅し。"フリーズモード"に移行し、全身硬直して机に貼り付けにされる。
『佐藤くん、正解よぉ。こんなにすぐ解いちゃうなんて、ちょっと驚いちゃった。やっぱり簡単すぎたかしら。とにかく、ご褒美をどうぞぉ』
机の上に置かれた席次表には、恐ろしいことに俺の本名がきっちりと書かれていた。
先生、本気で俺のことをばらすつもりなんですか……?
「佐藤くん、凄いね。あんな難しい問題、一瞬で解いちゃうなんて」
"フリーズモード"ではまともに返事できない。あいまいな笑みを浮かべるだけで金木さんに応じる。
彼女が本当に感心しているのが分かったが、頼むからこれ以上周囲の注意を惹きつけるようなことはしないでくれ。
「佐藤くん、やるじゃない。やっぱり、私の見立てに間違いはなかったようね」
数学の授業後。ウンウン、と何故か一人で満足そうに頷く彼女。
俺が周囲の注目を浴びるのを、なぜこんなに喜んでくれているのかは分からないが、とにかく今は他に用事がある。
「ゴメン、青蓮院さん。これからちょっと用事が……」
俺の視線の先を盗み取ると、彼女の顔が珍しく強張っていた。
いつもの彼女らしからぬ、やや剣呑な表情でこっちを見つめてくる。
「ひょっとして、また香田先生のところ?」
「そ、そうなんだ。さっきの授業で、ちょっとわからないことがあって」
「嘘でしょ。あんなにすらすら問題解いておいて、そんなの信じられない」
どうしてここまで食い下がってくるんだ?
俺が先生と話したら何かまずいことでもあるって言うのか?
「質問なら、授業中すればいいじゃない。そうじゃなくても、今ここでも」
「……ちょっと、みんなの前では言い辛いことなんだ」
ド直球の正論に、俺はかなり苦しい言い訳を返すことしかできなかった。
すると、何故か彼女は大層ショックを受けたような表情で、
「(ガーン!)先生と……大事な話……?それって、私にも内緒なの?」
私にもも何も、あなた以上に聞かれちゃまずい人はいませんぜ、青蓮院さん。
万が一にも私もついていくなんて言われてはたまらない。
「二人っきりで、今すぐ話さなきゃいけない事なんだ……!」
必死な俺の形相に納得してくれたらしい。黙って俺を通してくれた。
納得、と言うよりもやたらと落ち込んだような表情に見えたけど……気のせいだろう。
とにかく、俺は先生の後を必死に追いかけていった。
「どうしてあんなことするんですか。先生は、実家の和菓子屋さんを繁盛させたいだけなんですよね?」
「どうしてって、さっき言った通りよ。先生、やればできる子が好きなの」
本気で言ってるよ。この人。
「ラブレターの件はさておき、前から気になっていたの、君のことが」
不意に、先生の目に光が宿る。
「あれだけの実力がありながら、どうしてそれを隠すのか。能ある鷹は、っていうけど、君の場合はあまりにも隠すのがうますぎる。ひょっとしたら、隠す才能こそが、君の天賦の才なのかも、と疑ったことがあるくらいよ」
何やら一人で盛り上がっているようだが、勘違いもいい加減にしてくれ。
「大した理由なんてありませんよ。その方が都合がいいからです。本気を出すと、とても辛い目に遭うからやらない。それだけです」
「だから、あんな手を使って俺のことをからかうのはやめてください」とだけ最後に添えて、俺は指導室を後にした。
あんな口ぶりだから分かりにくかったが、どうやら先生なりに俺のことを気にかけてくれていたのだろう。
きっと、さっきの俺の言葉で納得してくれたはずだ。もう、あんなイタズラはしないだろう。
ありがたいと言えばありがたいのだが、過ぎたるは及ばざるがごとし。俺は、今のままが一番快適なんだ。
目立つと、本当にロクなことがない。
職員室を出ると、急に俺の胸ぐらをつかんでくる奴がいた。
おいおい、職員室の前で大胆なことをする奴だな、と思ったが、相手の顔を見ると、不思議と納得してしまった。
怒りで顔を真っ赤にした男子生徒──陸上部の不良、山根が俺の耳元でこうささやく。
「おい、佐藤とか言ったか。ちょっとツラ貸せよ」
ほら、言わんこっちゃない。
目立つと、本当にロクなことにならないんだ……。
当然ながら、山根君は佐藤くんの弟があのカオス君だということは知らないです。
あと、彼の胃腸は健康です。




