あなたがどう思おうとも
フラウの白く丸い頬を伝う涙を目にした瞬間、アストールの我慢の糸がプツリと切れた。その行為の良し悪しなど考える間もなく手が伸びて、気づいたときにはもうフラウを腕の中に抱き込んでいた。視界の隅に、そっと部屋を出て行くゼスが映ったが、今のアストールの頭の中はフラウのことでいっぱいで、彼の動向など気にしていられない。
「泣くな。お前が泣くのは見ていられない」
傍にいたいというフラウの言葉に、アストールの胸が詰まる。決して手放したくないと、否が応でも彼女をとらえる腕に力がこもった。
だが、今はそう願ってくれていても、フラウはアストールのことを知らないのだ。彼がかつて何をしたのかを。
柔らかな白銀の髪に頬を埋め、アストールは半ば懇願するように呟く。
「僕は、お前を失うことが、死ぬほど怖いんだ」
傍に置き、制御できないこの力でいつかフラウを傷付けてしまうかもしれないことが怖かった。それと同じくらい、全てを知って、フラウの心がアストールから離れていってしまうことが、怖かった。そうなる前に距離を置き、彼女の中では瑕疵のない完璧な自分であり続けたかった。
フラウを広い世界に解き放ってやりたいなど、体のいい建前だ。
心の奥底では、力の暴発を見られ、かつて周囲の者がアストールに向けていた怯え塗れの眼差しをフラウから注がれることを、何よりも恐れていたのだ。
(なんて、情けない)
ごまかしきれなくなった己の本心に、思わずため息がこぼれる。
と、腕の中のフラウがもぞもぞともがいた。
腕の力を緩めてもフラウは離れようとはせず、アストールにピタリと身を寄せたまま頭を反らして彼を見上げてくる。
「アストールさまの方からどこか遠くに放り出さない限り、絶対にわたしからは離れませんから」
そう言ったフラウは自信に満ち満ちていたが、アストールは眉間にしわを刻む。
「……お前は、何も知らないからそう言えるんだ」
フラウはアストールのことを揺るぎなく信じてくれているが、自分はその信頼に値しない人間だということを、彼自身が一番よく知っている。
全てを知れば、きっとその澄んだ青銀色の瞳も色を変えるだろう。
そうなっても、アストールはフラウを責められない。そうなるのが、人として当然の心情なのだから。
だが。
「わたし、ゼスさんからお話を聞いてしまいました」
どこか申し訳なさそうに、フラウが言った。申し訳なさそうなだけで、そこにアストールを忌避する響きは、微塵もない。
フラウの台詞の内容と、彼女が申し訳なさそうにしていることが、アストールの中ではどうしてもつながらなかった。
「……え?」
うろたえたアストールは、フラウを放してふらりと後ずさる。いや、後ずさろうと、した。が、今度は彼女の方がアストールの服をしっかり握り締めていて、彼を引き留めている。
(聞いたって、何を、どこまで、だ?)
花束のことだけだろうか。
それとも、もっと――?
(いや、それなら、こんなに普通にしていられるわけがない)
声に出せないアストールのその問いかけを聞き取ったかのように、フラウが一言一言区切りながら、告げる。
「花束のこと、ここに雇った人が居付かなかった理由と、アストールさまがここに来られる前のこと」
「全て、聞いたのか」
アストールは、フラウの小さな手を見つめる。
知ってなお、こうやって触れていられることが信じられない。
「怖くはないのか」
呟くように発した問いに、フラウがきょとんと目を丸くする。鼻先を突かれた仔猫のようなその顔は、本当に、何を訊かれたのか解からない、という風情だった。
「何を怖がるんですか?」
眉をひそめたフラウが問うてくる。問う必要があるとは思えないことを。
「何って、だから、僕の力は暴走するんだ。制御できないんだよ」
「できてるじゃないですか。花束のことだって、確かに花は散ってしまいましたけど、わたしには擦り傷一つ付きませんでした」
それって、制御できていたってことでしょう? とこともなげに首を傾げたフラウに、アストールの方が面食らう。
「だが、昔、僕は乳母を傷付けて……」
「それは『昔』、ですよね? わたしも十年前とは全然違います」
まるで何でもないことのようにフラウは言い、そして、続ける。
「人は変わるものでしょう? 第一、アストールさまがわたしを引き取ってくださってからの十年間の中で、アストールさまのことを怖いと思わせるようなこと、一度もなかったじゃないですか。良いことしかなかったのに、怖いとか、どうやって思えっていうんですか」
フラウは、心底からそう思っているようだった。つまり、彼女は、本当に、アストールのことを欠片も恐れていないのだ。
「お前は……」
呟きながら、アストールはすっかり涙が乾いたフラウの頬を手のひらで包み込む。柔らかな肌は吸い付くように彼の手に馴染んだ。
そっとフラウの頬を親指で撫でながら、アストールは回顧する。
「ゼスの母親――僕の乳母のことは、実の母以上に慕っていた。なのに、些細なことで起こした癇癪で、彼女を歩けない身体にしてしまった」
厳しさと優しさを兼ね揃えた人だった。人としての――いずれ人の上に立つ者としての道を説き、制御困難な力に振り回されるアストールを恐れることなく、常に毅然とした態度で接してくれる人だった。
だが、あの頃のアストールは、どれほど尽力しても全く実らぬ努力に倦み始めていた。
彼女に怪我をさせた日も、教育係を任じられていた宮廷魔術師にため息をつかれ、気持ちがささくれ立っていたのだ。もういい、魔力を制御する訓練などしないと教本を放り投げたアストールをいさめた彼女に、アッと思ったときにはもう遅く、魔力が迸っていた。
倒れ伏す彼女から流れ出す紅い血の色は、今も眼裏に鮮明に残っている。
彼女が失われたと思った時の、途方もない絶望。
彼女の命が助かり、けれど、二度とまともに歩けない身体となってしまったと聞かされた時の、罪悪感。
「お前をあんなふうに傷付けるようなことがあったら、僕は自分を赦せない。僕は、――多分、僕は、誰よりも僕を恐れている」
十年の間何もなく、もう大丈夫だと思っていたが、駄目だった。
たとえフラウが信じてくれたとしても、アストールが心の底から自分を信じられる日は決して来ないだろう。
奥歯を食いしばったアストールに、フラウは真っ直ぐな眼差しを注いでいる。しばし無言で見つめてから、彼女の頬に置かれた彼の手に自分の手を重ねてきた。
「アストールさまが怖いとおっしゃるアストールさまのことが、わたしには少しも怖くありません。アストールさまが信じられないとおっしゃるアストールさまのことを、わたしは信じています」
真顔でそう言ってから、ふと微笑んだ。
「いいですよ、怖がりで疑り深いアストールさまは、いつまででもご自分のことを怖がって疑っておられれば。アストールさまがどう思われようと、わたしには関係ありませんから」
「フラウ……お前は、いつの間にそんなに強くなったんだ?」
「アストールさまのお陰です。アストールさまがわたしを慈しんでくださったから、わたしは強くなれたんです」
フラウはアストールの服の身頃をギュッと掴んだ。
「アストールさまはわたしに幸せをくださいました。わたしもアストールさまにお返ししたいです。アストールさまが要らないっておっしゃっても、わたしはお傍にいますよ? たとえアストールさまが本当に魔王になったって、絶対に離れません」
アストールが、フラウのことを要らないと言うなど。
「……そんな日が、来るはずがない」
歯ぎしり混じりで唸るようにそう言うと、フラウは瞬きを一つしてから破顔する。
「じゃあ、諦めてください」
フラウのこんな満面の笑みは初めてで、アストールは一瞬魂が抜けた気がした。
(こんな笑顔を見せられて、手放せるわけがないじゃないか)
アストールは深々と諦めのため息をつく。そうしてフラウの頭と背中に手を回し、再び自分の胸へと引き入れた。
華奢なのに温かく柔らかな身体が、この上ない充足感をもたらしてくれる。
「降参だ。お前のことは、絶対にどこにもやらない。これからもずっと、お前の居場所は僕の傍だけだ」
その宣言に、フラウからの返事はない。
だが、その代わり、アストールの背に回された手が、言葉以上に雄弁に、彼女の想いを伝えてくれた。




