たとえこの身は傷付かずとも
ゼスが出て行き静まり返った食堂に一人残されたフラウは、ただ座って待っているのは落ち着かず、立ち上がり、使ったカップを洗って片付ける。けれど、そんな作業はあっという間に終わってしまって、すぐにまた、手持ち無沙汰になってしまった。
今頃、アストールとゼスはどんな話をしているのだろう。
幼い頃、ゼスの母親を傷付けてしまったというアストール。
そんなアストールについてきた、ゼス。
ポンポンと、まるで実の兄弟のように軽口を叩き合っていた彼らの間にある深い溝に、フラウは気づかなかった。それは多分、二人が彼女に気づかせないようにしてくれていたからなのだろう。
フラウは、彼らにとって守るべき存在だったから。ずっと、一切の『良くないもの』から、遠ざけられていたのだ。
ただただ守られるだけでいた自分が、フラウは歯痒くてならない。
(きっと、今もそう)
フラウには『悪いところ』を見せたくないから、ゼスはアストールと二人だけで話をしに行ってしまったのだ。
(でも、それでいいの?)
アストールとゼスの間のことだけなら、彼らだけで話し合うべきだ。
けれど、今は、それだけではない。
フラウのことも、絡んでいる。フラウのことを、どうするのかも。
ゼスに任せておけば、彼は、フラウにとって一番良いようにしてくれるだろう。塔を出て行きたくないという彼女の意を汲んで、アストールを説得してくれるに違いない。
(だけど、それじゃ、わたしの気持ちはアストールさまに届かない)
フラウは、ゼスに代弁してもらうのではなく、彼女の声で、彼女の言葉で、アストールに彼女の想いを知って欲しかった。
(わたしが、行かなくちゃ)
フラウは顔を上げ、真っ直ぐに前を見据える。一度大きく深呼吸をしてから、足を踏み出した。
アストールたちがいる三階を目指して、フラウは階段を上っていく。三階にあるのは、アストールの寝室と書斎だ。廊下の奥に寝室、その手前に書斎――だけれども、書斎は図書室を兼ねているからかなり広く、階段を上がりきってから扉までは距離がある。
半ばほど廊下を進んだところで、フラウの耳にはゼスとアストールの声が届いてきた。ここの壁は厚いから、扉に身を寄せるほどまで近づかなければ、中の物音は聞こえない。
にもかかわらず話し声が聞こえてくるということは、どうやら、扉がちゃんと閉まっていないらしい。ゼスは大雑把に見えて、その実、きちんとしている。そんな彼が大事な話をするときに扉を閉め損ねるなんて、らしくなかった。
フラウはそこで逡巡する。
話し合いの場に入れてもらうつもりではあったけれども、許可を得る前から二人の会話を聞いてしまうのは、良くない気がして。
足取りを鈍らせながら、どうしよう、と、フラウが思ったときだった。
「――いつか彼女を傷付ける。僕は、やはり『魔王』なんだよ」
自嘲を含んだ、アストールの言葉。
それを耳にした瞬間、フラウからためらいが一気に吹き飛んだ。
タッと駆け足になって、ほとんど扉に体当たりをする勢いで部屋に飛び込む。
「そんなこと、絶対にありません!」
悔しいような、腹立たしいような、そんな気持ちと共に声を上げたフラウに、アストールが目を瞠る。
「フラウ!?」
フラウがこんな無作法なことをしたのは初めてで、アストールは、彼女がこの場にいることと、そんな行動を取ったことの両方に驚いているようだった。
二の句を告げずにいるアストールに、フラウは詰め寄る。
「アストールさまは魔王なんかじゃありません。アストールさまがわたしを傷付けるなんて、絶対にありえません」
フラウはきっぱりと断言したが、アストールはふいと彼女から目を逸らした。まるで、その信頼の言葉から逃れようとするかのように。
ズキンと胸が痛んだ理由は、アストールに顔を背けられたことと、いつも泰然とした態度を崩さない彼の自信なさげな姿を目にしたことの、どちらの方が大きいのだろう。
多分、どちらも、だ。
他の誰から避けられても何も感じないけれど、アストールだとただ目が合わないというだけでもこんなにつらい。
顔を伏せるアストールがゼスから聞かされた幼い頃の彼と重なって、喉が詰まる。
フラウはアストールに手を伸ばしたくて、彼を抱き締めたくてたまらなかったけれど、そうしても良いのか判らない。
ギュッと胸元を押さえたフラウに、アストールの軋んだ声が降ってくる。
「お前は僕のことを知らない」
唸るようにそう言ったアストールの両手は真っ直ぐ下ろされ、固く握り締められていた。きっと、掌には血がにじむほどに爪が食い込んでいるに違いない。フラウは手を伸ばしてそれを解いてしまいたい気持ちをこらえながら、かぶりを振る。
「いいえ、知ってます」
「お前が知っていると思う僕は、僕がお前に見せている僕だけだ」
「わたしが知っているアストールさまは、わたしが一緒に過ごしてきたアストールさまです!」
フラウは言い、祈る形に両手を胸の前で組む。
「アストールさまにお逢いするまで、わたしはこの世界に存在していないようなものでした。ここに来るまでのことを、わたしはあまり覚えていません。多分、それは、嫌な記憶を忘れたいからとかではなくて、覚えておくに値するほどのものが、なかったからなんです。でも、アストールさまとお逢いしてからのこの十年間のことは、ほんのひと時たりとも忘れられるものはありません。全部、わたしの宝物なんです」
確かに、この身体は十年より前からこの世に在った。息をして、物を食べていた。
けれど、人間というものは、ただ在るだけではダメなのだ。フラウというヒトを認識して、つながってくれる者がいなければ。
この塔に来るまで、フラウにはそれがなかった。
フラウを見る人はいても、彼女と目を合わせる者はいなかった。
フラウに声をかける人はいても、彼女と言葉を交わす者はいなかった。
孤児院で、たとえ何十ものヒトの中にいても、ずっと、彼女は独りだった。
だから、フラウにとって本当の意味でこの世に生を受けたと言えるのは、アストールと出逢った時なのだ。アストールが彼女の名を呼び、彼女に触れた瞬間から、フラウはフラウになった。それまでのフラウは、本当の意味で『生きている』とは言えなかった。
アストールと出逢わなければ、フラウは今も人の温もりを知らないままだっただろう。
名前に、ただ個を識別するための呼称以上の意味があることを、知らないままだっただろう。
フラウはアストールを見上げ、懸命に告げる。この胸の内にあるものを、違えることなく彼に伝えたかった。
「アストールさまがいなければ、わたしはわたしになれませんでした。だから、アストールさまは、わたしの神さまなんです。他の人から見たアストールさまがどんなかなんて、関係ありません。わたしのアストールさまは、わたしが見てきたアストールさまです。十年間、昼も夜も一緒にいた、アストールさまです」
フラウは手を伸ばしてアストールの拳に触れる。彼は一瞬ビクリとしたが、フラウの手を振り払おうとはしなかった。だからフラウは、それを両手で包み込む。
「わたしが傷付くことがあるとしたら、それは、アストールさまを失ったときです。身体には何も起きなくても、アストールさまを失えば、わたしの心はボロボロになってしまいます。身体の傷には耐えられても、それには、耐えられません」
その時に生まれるだろう痛みを思うだけで、こらえる間もなくフラウの目から熱い雫が零れ落ちる。
「ッ――すみませ――」
涙をアストールに見せまいとフラウはとっさに顔を隠そうとしたが、その必要はなかった。
彼女がそうするより早くアストールの腕の中に引き寄せられて、気づいたときにはもうその広く暖かな胸に包み込まれていたから。
(ああ、アストールさま、だ)
香りも、温もりも。
アストールに抱き締められるのは、何日ぶりのことだろう。
在るべき場所に納まった心地良さに、フラウの心と身体が自然と寛いでしまう。
「アストールさまがわたしを要らないとおっしゃっても、わたしは、アストールさまのお傍にいさせて欲しいのです」
囁きと共にフラウがアストールの胸に頬を寄せると、背中に回された彼の腕に力がこめられた。




