届かぬ想いは寂しくて
ゼスは手を伸ばしてフラウの白銀の髪をくしゃくしゃと掻き回す。そうしながら、デボラに向けてチッチと舌を鳴らした。
「フラウに出て行くとか言われたら、うちの主がブチ切れちまうよ」
「ゼスさん」
フラウはゼスを眼で咎めた。
もちろんそんなのはゼスの悪い冗談に決まっている。十年間一緒にいて、アストールが感情に任せて動いたことなんてない。彼はそんな人ではないのに、ゼスの台詞を耳にした瞬間、デボラの顔からサッと血の気が引いた。
「ちょっと、ゼス、内緒にしといておくれよ!? 村が消されちまう」
本気で慌てふためいているように見えるデボラの様子に、フラウは小首をかしげる。彼女の声に、微かな、けれども明らかな、怯えの響きを感じ取ったから。
(ゼスが変なこと言うから……)
アストールは確かに滅多に笑わないし引きこもりで人に会おうとしないけれども、優しい人だ。彼と出会っていなければ、フラウは今でも人の温もりを、幸せというものがどういうものかを知らないままだっただろう。
フラウに大切なものを幾つも教えてくれた大切な人が、そんな乱暴なことをするような人だと誤解されているなんて、とてもではないけれど我慢できない。
「アストールさまがそんなことするはずがないよ」
フラウの抗議に、デボラは何かを言いかけ、結局口を閉ざした。隣に立ったゼスを見上げれば、彼でさえも何だか複雑な顔をしている。
(ゼスさんは、アストールさまがそんな人じゃないっていうこと、判ってるはずなのに)
どうして弁解しようとしないのかとフラウはゼスを睨み付けたけれども、彼はヘラッといつもの軽い笑顔を返してきた。
「ま、冗談はここまでにしておいて、早いとこ買い物終わらせて帰ろうか。今日はアストール様も馬車で待ってることだし」
ゼスの台詞でデボラがギクリと肩を強張らせた。
「え、あの方が? そ、それは急がないと……で、何が欲しいんだい? 今年は南瓜の出来がいいよ」
あたふたと品を見せ始めたデボラの慌て方は、アストールを待たせたら悪いからという気持ちからだけのものだろうか。
(本当に、そんなに怖い人じゃないのに)
フラウはむぅと唇を噛んだ。
以前から、アストールに対する村人の感情があまり良いものではないことを薄々感じてはいた。
初めてフラウがゼスとルイ村を訪れたとき、彼女に向けられたのは恐怖混じりの憐憫の眼差しだった。年月を重ねるたびにそれは薄らいでいって、いつしか意識の外に追いやられていたのだけれど、こうやって、何かの拍子に浮き上がってくる。
魔力の欠片も持たないフラウからしたら、指をチョイと動かすだけで何でもできてしまうようなアストールはただただ『すごい人』なだけだ。その力を恐ろしいと思ったことなど、一度もない。
そう、確かに、すごい力を持っている人なのだ。きっと、すご過ぎるから、皆から距離を置かれてしまうのだろう。
庭に飛んでくる大灰色鴨と同じだ。
大灰色鴨はフラウも運ばれてしまいそうなほど大きいけれど、とてもおとなしい。なのに、ただ大きいというだけで、大灰色鴨が来ると他の小鳥は皆逃げて行ってしまう。
力というものは、どれだけ大きいか、ではなくて、どんな人に使われるか、の方が大事なのだとフラウは思う。だから、どれだけ大きな力でも、それを持っているのがアストールなら大丈夫だと彼女は信じていた。
(アストールさまは、絶対に怖くなんてないもの)
彼が誤解されていることが、フラウは悔しくてならない。けれど、彼女の言葉ではどうやってもルイ村の人たちにアストールの良さを伝えることはできないように思われた。
釈然としない思いを抱えたままフラウはゼスと買い物を終え、村の出入り口へと向かう。
アストールが待つ馬車に着いてしまう前に、フラウは意を決して隣を歩くゼスを見上げた。そうして、胸の奥にもやもやとわだかまっていたものを、吐き出す。
「どうして村の人たちはアストールさまのことをあんなに怖がっているんですか?」
ゼスは見上げるフラウに眼を向け、肩をすくめた。
「君が来る前はひどかったんだよ」
「ひどい?」
「そ。人を雇ってもひと月と持たなくてね。君が来るまではこの村で募集をかけてたんだけど、しまいにはもう来たがる人がいなくなってしまったよ」
「どうしてですか?」
「あの人が彼女たちをビビらせまくったから」
だから、どうしてその人たちを怯えさせたのかを知りたいのだが。
要領を得ないゼスの話に唇を尖らせると、彼はなだめるようにポンポンとフラウの頭を叩いてきた。
「あの人、君には知られたくないんだよ。口を滑らせた自分が言うのもなんだけど、知らないままでいてやってくれないか? 君にだけは怖がられたくないんだろうからさ」
「わたしがアストールさまを怖がるなんてこと、絶対ないです」
きっぱり断言すると、ゼスはふはっと笑った。
「だろうね。君はきっとそうだろうけど、あの人はそんなふうに想われていると思えるほどの自信が持てないんだよ」
「自信?」
「そう。……君の信頼と想いを与えられるに足る人間だという、自信がね」
良く、解らない。
フラウはそう思っているのに、アストールはそれを信じてくれていないということだろうか。
(ずっとお傍にいたいっていうわたしの気持ちも、もしかしたら、信じてくださっていないの……?)
傍にいたいからいるのだという、この心の底からの気持ちが、届いていないのだろうか。
もしも、そうなのなら。
フラウは口惜しい――いや、寂しかった。
アストールのことを大切だというこの想いが、彼には届いていないかもしれないということが。
届いて、応えて欲しいわけではない。
ただ、フラウが彼のことを大切に想っているのだということだけは、ちゃんと伝わっていて欲しいのだ。
フラウは、アストールに大切にされてうれしかったから。大切に想ってくれているということが伝わってきて、うれしかったから。
(アストールさまにも、うれしいって思って欲しいのに)
うつむいたフラウの頭に、大きな手がポンと乗る。
「君のお陰であの人は変われたんだよ。でなきゃ、今頃魔王っぷりが王都まで届いていたんじゃないかな。自分も君には感謝しているよ」
「ゼスさんが?」
見上げたフラウに、温かで穏やかな笑顔が向けられていた。
「そ。ちゃんと魔力を制御できるようになってくださいよって、何度も口を酸っぱくして言ったんだけどね、自分の言葉じゃ、さっぱり効果がなかった。でも、君が来た途端にガラッと変わってね」
やっぱり、守るものができると人間変わるよなぁ、と、ゼスはしみじみとした口調で呟いて。
「あの塔に入れられた経緯が経緯だったから、すっかりこじれてしまっていてね。自分が言えば言うほど、あの人、むしろ意固地になっていたのかもしれないな」
そう言って、ゼスは笑った。寂しさと嬉しさが入り混じったような眼差しで。
そんな彼を見ていると、フラウは何となくデボラとカールのことを思い出す。
「ゼスさんはアストールさまのお母さんみたいですね」
思わずそう告げると、ゼスは一瞬目を丸くしてから苦笑した。
「どうかなぁ。アストール様は、自分のことは看守か何かだと思ってるよ、きっと」
(看守? ゼスさんが?)
全然、彼にはそぐわない言葉だ。
眉根を寄せて見上げたフラウに、ゼスはニコリと笑顔を返す。それは、更なる疑問を跳ね返す笑顔だった。




