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短編集・散文集

彫刻

作者: Berthe

 集中していた顔の緊張をふっと解いて、木の椅子から静かに立ち上がり、後ろへまわりながら手のひらで背をやさしく押してゆっくり戻そうとすると、床をきしるいやな音が耳につく。こんどは両手にきちんと持ち上げそっと収めると、(まど)()は今一度卓上に置いた三面鏡へ身をかがめて指先に前髪をつまみ、切り揃えた爪の先と指の腹でちょんちょんと払いながら満足のゆく毛流れを見いだそうとするうち、よくあることだけれどもなかなか定まらないそれにふっと倦怠をおぼえた。


 手がとまって気のぬけるまま、そこで初めて心づいたように鏡のなかの世界をぼんやりながめると、三つあるうちの円佳からみて左手にあたる長方形のミラーの下方に、なかば俯きながら片手に口元を覆う(ひろ)()をみつけて、円佳はすぐに嬉しくなるまま安らかな気持ちにつつまれて頬がゆるんだ。


 つぎの瞬間、彼が静かにあおむいてこちらへ気がつき、ほんの束の間まるでそこらに転がっている血の通っていない石ころを見るともなく見ながらそのまま素通りする目つきをくれるや否や、すぐさま円佳専用の愛情に満ちた微笑をたたえて軽やかに腰を上げ、自分のほかには目もくれず寄り道せずにこの部屋における最短距離をえらんで後ろへやって来て、肩にそのあごを載せすべすべであたたかい頬を髪にすりつけてくれるのを期待するまま目をつぶっていると、まだそれらしき物音ひとつしないので、そうと知りつつゆっくり瞼を開く。


 オーギュスト・ロダンの彫刻さながらの佇まいでまつ毛に瞳を隠し、物憂げに考えへと沈んでいるような彼の口元を覆う片手がすっと離れて、親指と人差し指に前髪をつまんで整えるかと思うと、同じ箇所をこんどは薬指と小指にはさんでさっと流す。ほんのりくせのあるそれは、整髪料の威光になびかずに、タオルで無造作にふいてからドライヤーできちんと風を当てて乾かしたのち、彼の気まぐれな手櫛だけで自分好みの毛流れにまとまってくれるので、円佳は時折感心するままうっとり羨望をおぼえてそれを彼に伝えてみると、素直に喜んでもいいはずなのに、それとも女と男とでは髪の毛にたいする愛着の色合いやこだわりの角度や性質がことなっているためか、そのたびに反応は予期したものを裏切ってかんばしくない。


 日頃の不満にふいと耽りつつ、鏡越しに楽しみながら口を結んで黙しているうち、彼の手が前髪をはなれて目線はうつろなまま、鏡のなかで小首を傾げたと思うと、そここそ円佳の愛してやまない、ふわりと柔らかな曲線があどけない西洋の少年を偲ばせる、もみあげに指先でふれてつまみのばした。もみあげから頬を訪れてもなお一点のひげの気配すらなく、ひげと呼べるのは口元とあごに少しだけ、それも小指のつめの先で一本一本つついて数えられそうなほどしか生えていない幼さとは好一対、と考えるのはちょっと可笑しいけれど、脚には意外なほどきちんと生え揃いくるりとしているのには今も妙な心持ちがする。


 いつしか鏡のなかの彼につられて小首を傾げるまま人差し指に毛先をもてあそびつつ、焦点はその穏やかな光景をはなれて、なにも見えなくなるほどにぼんやりおぼろになったところへ、先に出てていい? あとから来てよ、と、うなずけるはずのない問い掛けが真っすぐに耳のふたをこじあけるように飛び込んできて、円佳ははっと覚めるまま鏡のなかを隈なく探しても、宏樹の席はひんやり空いて好きなひとの影すらなく余韻は溶け去り、三面鏡をあわてて閉じて見返ってもなお静かなその部屋でへなへなと尻もちをついた途端、薄手のラグに吸収されないほんのりした痛みに、このところ時折浸る大切な悲しみを突如遮られて俄に癪に障りすぐに泣きたくなって両手に顔を覆いかくした。

読んでいただきありがとうございました。

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