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召喚勇者のせかいせいふく

作者: 前野

 この世界を、この光景を。


 ——俺は知っている。



「——おお、勇者よ。どうかこの世界を魔王の恐怖から救ってくれ!」


 そう呼びかけてくる声に、俺はハッと覚醒する。

 目を開けると、さきほどまでとはまったく違う光景が視界に飛び込んできた。


 石造りの神殿のなか、光る召喚陣の真ん中に俺は立っている。白い装束の神官たちがそれを囲うように並び、そのなかでひとり赤いマントを羽織った男がゆっくりとこちらへ近づいてきた。


「そなた、名前は?」

「……ハジメ。一色(いっしき)ハジメだ」

「ふむ。勇者ハジメよ、まずは我々の召喚に応じてくれたことに感謝しよう」


 赤マントの国王は芝居じみた口調でそう言い、物語の導入のようなセリフをつづけた。


「この世界ではいま、古の魔王が復活し、その恐怖に支配されかけている。魔王に対抗できるのは女神に遣わされし勇者のみ。そしてその勇者こそがそなたなのだ、ハジメ。どうか神に授かったそのちからで、魔王を斃し世界を救ってはくれないか」

「——…」


 国王の言葉を聞きながら思う。

 この世界を、俺は知っている——と。


 国王が語るこの世界の状況も、この国の名も、今目の前に広がるこの光景も——俺が子どものころやりこんでいたゲームそのものだった。

 剣と魔法の異世界に勇者として召喚され、魔王を倒すための旅に出るという王道のRPG。何度も繰り返しプレイして、幼馴染とごっこ遊びまでしていたそのゲーム……だいすきだったそれと同じ世界に、俺はいま立っていた。

 この召喚の儀だってもう慣れたものだ。俺はにっこりと笑みを深めて言った。


「はい、国王様。この一色ハジメ、勇者として必ずやこの世界を救ってみせましょう」



 そうして俺の、勇者としての旅がはじまった。


 国王からもらった金をもとに、装備をそろえて仲間を増やした。

 勇者である俺に、戦士と魔術師と僧侶。4人になったパーティで王都を出、魔物を倒しながらレベルを上げる。

 何度も歩いた道だ。いつどこでどんな魔物が出るのかも、何をすればアイテムが手に入るのかも手にとるようにわかる。おかげでたいした苦労もなく、俺たちは順調にレベルを上げていった。困難だらけだと思っていた魔王討伐の旅がなんの問題もなく進むものだから、仲間たちはつぎつぎ感嘆の声を上げた。


「ハジメ、おまえすげーな! おまえの言うとおりに動けば確実に、しかも簡単に魔物が倒せる」

「ハジメくんは強いだけじゃなく、知識も豊富なんですよねえ。私も見習わないといけませんねえ」

「それに、運もいいですよね。わたしのこのローブだって、ハジメくんがダンジョンで気まぐれに順路を逸れた結果見つかったものですし」


 彼らの純粋な賞賛に、俺は目を逸らして「別に」と答えた。「ただの偶然だよ」そう続ければ、「またまたぁ」「謙遜するなって」と笑って肩を叩かれる。


「謙遜なんかじゃない……ただ知ってるだけだよ」

「え?」

「なんか言ったか、ハジメ?」

「……いや、なんでもない」


 そんなやりとりを繰り返しながら、俺たちは旅をつづけた。



 旅の道中立ち寄った町で、助けを求める者に手を貸すこともあった。パーティの連中はそろっておひとよしで、困っている人を見過ごすことができなかったからだ。

 まあ、彼らが声をかけなかったとしても、気まぐれを装って俺から手を差し伸べていただろうが——


「それにしても、すごい偶然ですね。助けた人にお礼としてもらったアイテムが、『開かずの洞窟』を開く鍵になるだなんて」

「そういや、助けたやつが『迷いの森』の抜け方を知っていたってこともあったよな」

「まさに情けは人の為ならず、ですねえ」



 俺たち一行の活躍は、魔王の恐怖に染まったこの世界のたったひとつの希望だった。

 そのため俺たちが勇者だと知ると、誰もが助けを求めたり現状を嘆いたりした。


「勇者さま、どうかどうかこの世界をお救いください……!」

「この村もいつ魔物に襲われるかと思うと、こわくて夜も眠れやしねえ」

「ぼくの両親は魔王配下の四天王に殺されたんだ。おねがい勇者さま、ぼくの変わりに仇をとってちょうだい……!」

「悪しき魔王に世界を征服されるなんて、そんなのまちがってる……そうだろう、勇者!?」


 善良な村人の、いたいけな子どもの、悲痛な叫びを何度も聞いた。

 繰り返されるその言葉たちに、俺はどこか冷めた心で、だけど笑顔を貼りつけて答える。


「ああ、この俺が必ず、この世界を魔王から救ってみせよう」



 そうして旅はつづき、俺たちはついに魔王城へ辿り着いた。


 魔王城を護る魔物たちは、人里に現れるそれよりもさらに手強い。魔王最後の守護である四天王も揃っている。

 だが、それらすべて今の俺たちの敵ではない。俺の記憶のおかげで、俺たちは魔王側の想定よりずっとはやく、強くなってここにいるのだから。


「ま、魔王様! お逃げくださ……ぐわあああぁあぁあああ!!!」


 ——戦士の一撃により、最後の四天王が倒れる。彼を倒してしまえば、残るは玉座に控える魔王のみだ。


「ふん、この程度の強さで四天王とはな。このぶんだと古の魔王とやらも、カンタンに倒せちまえるんじゃねえか!?」

「油断は禁物ですよ。噂では魔王は魔界からやってきた悪魔の化身だとか、邪神に遣わされし異界の覇者だとか言われているんですから」

「そういえば、魔王について噂はいくつもあれど、実際に姿を見たという話は聞きませんよね」

「ハッ、魔王がどんなやつだろうと関係ねえ! 俺たちの使命は魔王をぶちのめし、この世界に平和をもたらすことだけだ! そうだろう、ハジメ!」

「……ああ、そうだな」


 俺たちはそう決意を新たにすると、玉座に繋がる扉の前へと立った。

 互いに目配せをし合い、重厚なその扉に手をかけ、開け放つ。ギギギ、とおおげさな音を立て、その扉は開かれた。


「待たせたな、魔王よ! この俺たちが来たからには、もう貴様の好き勝手には————え?」


 扉が開ききるとほぼ同時……玉座の奥まで届くようにと意気込み叫んだ戦士の声が、途中で疑問符へと変わった。

 それもそうだろう。この世界を恐怖で支配し、魔物をつかって人間たちを蹂躙していた古の魔王が——


か弱い、少女の姿をしていたのだから。


「……よく来たな、勇者よ」


 頼りないほどにか細く高い声が、玉座の間に響いた。

 その声のもとへ視線を向ければ、ひとりの少女がその細身に似合わない大きな椅子に、ちょこんと座っている。

 ふわりとした赤黒い髪。線の細いからだ。漆黒のローブをまとった肌は青白く、指先はちいさく震えていた。まんまるい瞳にはこぼれ落ちそうなほど涙を溜め、それでもしっかりとこちらを見つめている。


「ゆ、勇者よ。わ、わたしの味方になれば……世界の半分をおまえにやろう……!」


 まるで最初から決められたセリフであるかのように、少女は——魔王は言う。

 震える声、恐怖に涙するその姿は、魔を統べる王どころかその支配に怯える儚い少女にしか見えない。唯一頭の上に生えた小さなツノだけが、彼女がヒトではないことを示していた。


「う、嘘でしょう? あの女の子が、魔王……?」

「彼女が魔王だというのなら、なぜあんなにも震えて……ちょ、ハジメくん!? 何をする気ですか!?」


 仲間たちが戸惑うなか、俺は聖剣を片手に魔王のもとへ駆け出した。焦る声を背に、俺は叫ぶ。


「——リカ!」

「——ハジメちゃん!」


 応えるように俺の名を呼ぶそいつを、ちからの限り抱きしめた。

 背中に細い腕がまわる。肩口が涙で濡れる。瘴気あふれるこの世界ですら、やわらかい髪からは花の香りがした。


「は、ハジメ!? 何をしてるんだ、その子は——」


 背後で仲間たちが困惑しているのがわかった。だけど彼らに何か説明してやる気もなかった。今はリカ以外のことを考えたくもなかったし、説明なんてしても意味がないと知っていたからだ。


「——どうだ、今回は新記録だぞ」

「うん、はやすぎてびっくりした。おかげで四天王たちも準備不足で慌ててたよ」

「それはよかった。おかげで倒すのが今までより楽だった」

「もう、ハジメちゃんたら……」


 猛烈な名残惜しさを感じながら、抱きしめていたからだを離す。目と目を合わせて会話がしたかったからだ。

 さみしげに細められた瞳を見つめて、安心させるよう努めてほほえんだ。


「大丈夫だ、リカ。また必ず(・・・・)会いに来るから(・・・・・・・)

「……うん、待ってる。いつまでだって、待ってるから——」


 涙をこらえ笑みを返してくれるリカに、聖剣を持つ手をぎゅっと握りこんだ。

 離れていく腕を引き戻したい衝動を押し込んで、俺は聖剣を構える。そして、震えるリカの瞳を見つめながら——


「っ! 待て、ハジメ! 何を————!?」


 ——自分の首筋を、思い切り斬り付けた。



「——おお、勇者よ。どうかこの世界を魔王の恐怖から救ってくれ!」


 そう呼びかけてくる声に、俺はハッと覚醒する。

目を開けると、さきほどまでとはまったく違う光景が視界に飛び込んできた。


 石造りの神殿のなか、光る召喚陣の真ん中に俺は立っている。白い装束の神官たちがそれを囲うように並び、そのなかでひとり赤いマントを羽織った国王が声をかけてきた。


「この世界ではいま、古の魔王が復活し、その恐怖に支配されかけている。どうか神に授かったそのちからで、魔王を斃し民を救ってはくれないか」

「——…」


 何度も経験したこの召喚の儀に、俺はにっこりと笑みを深めて言った。


「はい、国王様。この一色ハジメ、勇者として必ずやこの世界を救ってみせましょう」




◇◆◇




「——『勇者よ、わたしの味方になれば、世界の半分をおまえにやろう!』」


 ——それは、俺たちが子どものころ人気だったゲームのワンフレーズだった。


 俺と川澄(かわすみ)リカは、家が隣同士のいわゆる幼馴染というやつだ。

 親同士の仲もよくほとんどいっしょに育てられたようなもので、幼いころから何をして遊ぶのもいっしょだった。


 なかでも一番気に入りの遊びが、とあるゲームの『勇者と魔王ごっこ』。

 それは俺たちが子どものころ大流行りした遊びで、俺とリカもそれにはまりこんだ子どものひとりだった。

 俺は勇者が魔王と対峙するラストシーンが特に好きで、ふたり秘密の裏山に行っては飽きずにこのやりとりを繰り返した。


「『そんなものはいらない! おまえを倒し、この世界に平和を取り戻すんだ!』」

「『断るとは愚かものめ、目にものみせてくれる!』」


 俺はいつだって勇者の役で、リカには毎回魔王役を押しつけた。「ハジメちゃんばっかりずるい」「たまには魔王以外もやりたい」よくそんな文句を言われたが、それでも俺が誘うとリカは必ず付き合ってくれた。


「あーあ、せめて魔王さまがかわいい見た目だったら、もうちょっとやる気もでるのになあ」

「魔王がかわいくてどうすんだよ。見た目がコワイから魔王っぽさが出るんだろ」

「かわいい見た目で強いって、そっちのほうがかっこよくない? リカならそういう魔王になりたいなあ。髪はね、ふわふわで赤い色で、服ももっとおしゃれなのがいい!  あっ、でもツノだけは、このままおっきいのでいいよ!」

「……おまえ、大きいツノ似合わなそうだなあ」

「もうっ、ハジメちゃんのいじわる!」


 あのとき、俺の世界の半分は、まちがいなくリカでできていた。

 このゲームにも、勇者ごっこにも飽きてしまっても、俺たちのいちばんの遊び相手はお互いだった。

 幼馴染だからっていうのもあるけど、単純に馬が合ったのだと思う。リカは同い年の女子のするようなままごとや人形遊びより、俺やほかの男子に交じって走り回るほうが性に合うようだった。

 裏山を駆けまわるのも公園でのかくれんぼも、街の探検も家でのテレビゲームも……。お互い別の友だちが増えても、俺たちはそうやって毎日をいっしょに過ごした。


 リカといっしょにいることは、俺にとっては『当たり前のこと』だった。家に帰ったら母さんがいるのと同じような、太陽が東から昇って西に沈むのと同じような。

 だからそれに疑問を抱いたこともなければ、この関係がいつか変わるだなんてことも、考えたことさえなかった。

 なかった、のだけれど……。


「リカちゃんとハジメくんは、ほんとうに仲がいいのねえ」


 ——これは俺たちの両親や、近所の大人たちによく言われる言葉だった。なんの悪意も他意もないこの言葉が、だけど俺は大嫌いだった。なぜなら——


「まあでも、男女の幼馴染なんて今だけだものね、仲良くできるのは」


 なぜならこの言葉はたいてい、こんなふうに続けられるからだ。


 いわく、歳をとればとるほど、男と女で仲良くしつづけるのは難しいのだという。「近所の〇〇ちゃんと××くんも、昔はいつだって一緒だったのにねえ」そんなふうに実例を出されることもあった。

 俺はそう言われるたび、ムッとした気分になった。他人に俺とリカのことを決めつけられるのが腹立たしかったのだ。しかもそれが関係を否定される形だったからなおさら。

 「そんなことないよ。俺とリカはずっと仲良しだよ」そんなふうに返しても大人は「そうだねえ」と流すか、「それじゃあハジメくんは将来リカちゃんと結婚するのかな?」と飛躍した質問を投げかけてくるものだから、俺は毎回混乱した。結婚って、父さんと母さんがしていることだ。なんで『リカとずっと仲良くすること』が、『リカと結婚すること』に繋がるのか、そのときの俺にはわからなかった。


「おっ、ハジメと川澄、またいっしょに登校してきてんじゃん!」

「やっぱりおまえら付き合ってんの~?」


 歳をとればとるほど、クラスメイトにそんなふうにからかわれることも増えた。

 取り合わなければそのうちおとなしくなるからあまり気にしないでいたけれど、それでもそのたびイライラとした気持ちにはなった。恥ずかしかったからじゃない、今の俺とリカの関係をまるごと否定された気分になるからだ。


 まわりの大人も子どもも、みんなそろって『俺とリカ』を否定する。『結婚』だとか『付き合っている』だとか、今とはちがう関係に当てはめようとする。

 それが当時の俺には納得できなかった。俺とリカは『俺とリカ』であって、ほかのなにものでもない。そしてそんな関係に、俺は満足していた。だからこんな関係いつか終わるだとか、いずれ変わっていくだとか言われるのが、ひどく心外だった。


「ねえハジメちゃん、今日は何して遊ぶ?」


 ——それでも、リカはいつだってリカだった。相変わらず俺のとなりにいて、相変わらず俺といっしょに裏山をかけまわった。

 だから俺は、こいつさえこのままならそれでいいと思っていた。誰がなんと言おうと、俺たちはずっと俺たちだ。このまま何も変わらない——そう思えたから。


 ……だけど、そんな俺の思いも、すぐに裏切られることになる。


「見て見て、ハジメちゃん! 今日みんなでプリクラ撮ってきたんだー!」


 小学校も高学年になったころだ。そのころからリカは、俺には理解できない遊びをするようになった。


「またそれか。毎回毎回同じことして、よく飽きねーな」

「同じじゃないよ、だってその日の記念だもん! ね、これとかよく撮れてるでしょ?」

「……やっぱどれも同じじゃね?」

「全然ちがうっ!」


 女友だちとプリクラを撮ったり、テレビで取り上げられるようなタピオカだのパンケーキだのの店に並んだり。少女漫画やファッション雑誌を読むようになったり、アニメやゲームの話よりアイドルやテレビドラマの話が多くなったり……。

 俺からしたら「何がおもしろいんだ?」って思うようなことに、リカは興味を示すようになった。


 そんな話をされるたび、俺はげんなりとした気分になった。

 思えば昔から、女子のする遊びは俺には理解できないものばかりだった。部屋に引きこもってままごとや人形遊びをしたり、休み時間に教室に残ってただ話をして過ごしたり……。俺ならそんなことより外に出て、サッカーやキャッチボールがしたい。リカだって少し前までは、同じように外で走り回っていたのに——


 いつのまにかリカは、俺たちの輪に入らなくなった。

 いつのまにか動きやすい半ズボンではなくひらひらのスカートを穿くようになり、俺には理解できない女子の話に笑顔で溶け込むようになった。

 誕生日やクリスマスのプレゼントも最新のゲームより服やアクセサリーになって、昔はいっしょに採りに行ったカブトムシを見せても今は「きゃあ!」と叫び声をあげる。


 ひとつひとつは他愛のない変化だった。だけど積み重なるにつれ、俺はリカに違和感を覚えるようになった。

 だってこんなの、まるでリカが——


「まるでリカが、ふつうの『女子』みたいじゃんか」

「……いや、ふつうに『女子』だろ、川澄は」


 中学に上がる少し前のことだろうか、俺は友人にそう愚痴ってみた。

 そいつも昔リカといっしょに走り回ったひとりで、だからきっと同意が得られると思っていたのだが……返ってきたのはすげない答えだった。


「ええっ、リカが!? 俺らのなかでも誰よりやんちゃだったの、あいつだろ!?」

「いや、何年前の話をしてんだよ。ガキのころなんてみんなそんなもんだろ? ほかの女子だって、幼稚園のころとかはみんな公園で走り回ったりしてたじゃん」

「……そうだっけ?」

「そうそう。女子なんてみんなそんなもんじゃね? いっしょにやってたかけっこも虫取りもいつのまにか卒業しててさ、昔は自分たちだってやってたようなことを『ガキくさい』ってバカにするんだぜ。なんつーか、変わってくのがはやいよな」


 それは、そいつにとっては何気ない一言だったのだろう。

 なんの悪気もなくこぼれたその言葉が、だからこそ俺に深く刺さった。


「……変わる?」

「うん。まー俺らももうすぐ中学生だしな。いつまでも同じ世界にはいられないってことだろ」


 友人はそのまま、ハハハと笑った。だけど俺は、同じようには笑えなかった。それは俺が、昔から嫌で嫌でしかたなかった言葉だった。


『まあでも、男女の幼馴染なんて今だけだものね、仲良くできるのは』


 いつか言われたその言葉が、いまさら耳にこだました。


「ハジメちゃん、見て見て今日はね——」


 ——その日から、リカが笑顔で何かを語るたび、そしてその価値が自分にはわからないと感じるたび、友人の言葉が胸の奥で疼くように痛んだ。それに気づかなかったふりをして、俺はリカと接した。


 そうしてまた時が経ち、俺たちは同じ中学へと入学した。


「えー、ハジメちゃんと別のクラスじゃん! どうしよう、友だちできなかったら……!」

「知らねーよ。ほかにも同じ学校だったやつくらいいるだろ」

「そーかもしれないけどさあ……」


 そこで俺たちは、初めてクラスが分かれることになった。

 不安がるリカにかっこつけてはみたものの、俺もそれとは別の不安を抱えていた。心に刺さったままのあの言葉だ。

 クラスが離れることで、今まで以上にリカのことを理解できなくなるんじゃないか。リカだけが大きく変わってしまうんじゃないか——そんなふうに思ったのだ。


 だけど蓋を開けてみれば、どちらの不安も杞憂に終わった。

 もともと明るく社交的なリカがクラスに溶け込めないなんてあるはずもなく、俺は俺で新しい環境についていくのに精一杯で、不安を感じる余裕もなかったのだ。むしろ物理的距離が離れたことで、リカに小さな違和感を覚えることも減ったくらいだ。


 いっしょにいる時間はめっきり減った。お互いの部活だのなんだので登下校も別になったし、放課後どちらかの家で遊ぶこともなくなった。

 といっても、完全に縁が切れたわけじゃない。用事があれば会話もするし、話せば盛り上がってそのまま談笑をつづけることもあった。


 それは、お互いの世界がお互いだけだった幼少期とは、かけ離れた生活だった。だけど俺は、そんなリカとの関係を心地いいとも感じていた。

 しばらく関わっていなくても、会えば会話はどこまでも続き、気遣わずに素のままでいられる。たまに訪れるそんな時間は、目まぐるしい日々の小さな休息みたいで、俺は好きだった。


 そのうち、これが俺とリカの一番ちょうどいい距離なのかもとすら思いはじめた。きっと今までが近すぎたんだと。

 近すぎたから、リカに違和感を覚えることも多かったのだろう。今みたいに別の世界に生き、だけどたまに交差したときは誰よりも心地いい関係をつくれる——それが俺たちにとって一番いい関係なのだと感じた。


 俺とリカだけではなく、この世の『幼馴染』ってやつはみんなそんなものなのかもしれない。

 そしてそんな『ふつうの幼馴染』としての関係が、これからも続いていくのだろう——そう思っていた。


 そして俺たちに、二度目の転機が訪れる。


「川澄って、実は結構かわいいよな」


 二年に上がって少し経ったころのことだった。

 中学も二年にもなると、ゲームや漫画の話にまじって女子の話になることが増えてきた。「誰がいちばんかわいいか」「つき合うなら誰がいいか」「逆に誰がいちばんナシ(・・)か」——そんな下世話な話題がよく上がった。


 そんなとき俺は相槌を打つばかりで、正直あまり話も聞いていなかった。単純に興味がなかったのだ。「好き」とか「つき合う」とか、そのときの俺にはまだよくわかっていなかった。

 だけど、そのときはちがった。全身の神経が耳に集中したみたいに、すべての会話が頭に直接入ってきた。

その話の中心が、リカだったからだ。


「川澄って、3組の?」

「それわかるわ。めちゃくちゃ顔がかわいいってタイプでもないけど、明るくていっつも笑顔でさあ。いいよな、ああいうの」

「川澄は顔よりスタイルだろ! 腕とか脚とかほっそいよな。なんつーの、モデル体型?」

「そうそう、俺、同じバスケ部じゃん? 制服じゃわかりにくいけど、部活のとき薄着になったりするとさあ……意外と女らしい体つきしてんだよね、これが」

「えっまじ!?」

「ギャハハ、おまえ部活中にどこ見てんだよ!」


 衝撃だった。

 みんなの言っていることが理解できなかった。言葉の意味がわからなかったわけじゃない。その言葉たちが、リカに向けられていることが理解できなかった。

 かわいい? スタイルがいい? 女らしい体つきをしてる?

 そのどれもがリカを表す単語にはどうしても思えなくて、今まで聞き流していた下卑た笑いに初めて怒りの感情が湧いた。


「なあ、ハジメはどう思う?」

「え?」

「だから、川澄のこと。おまえら幼馴染なんだろ? なんかないの、川澄のかわいい一面の話とか」


 にやにやと問うてくる友人の顔に、腹の奥がカッとなった。

 「……特にねえよ」何かを叫びたい衝動を抑えつつ答えると、友人は「ふうん」とだけ言って、あとは別の話に移った。彼らにとってはなんでもない、話題のひとつでしかなかったのだろう。だけど——

俺の頭はもう、この会話でいっぱいだった。リカが、ほかの男たちから『女』として見られている。それは俺にとって、天地が逆さになるくらい衝撃的なことだった。そんなふうにリカに集まる視線が許せなかった。想像して、喉の奥が熱くなるような感覚がした。握りしめた掌に、爪が刺さって痛かった。


「——ハジメちゃん?」


 そんな俺を知ってか知らずか、リカはいつものように話しかけてくる。いつものような制服姿で、いつものように丸い大きな瞳で。


「なーに、なんか顔色悪くない? あっ、具合悪いんなら()が保健室まで連れてってあげよっか!」

「……」

「ちょっ、無視はさすがにひどくない!?」


 せっかく心配してあげたのに、とむくれるリカは、自分がよく知るリカとなんら変わらない姿だった。

 だった、のに。


 強烈な違和感が自分を襲った。

 それは、今まで感じていたものとは比べものにならないほど大きなものだった。


 夏服になったばかりの制服のせいか? いつのまにか変わっていた一人称のせいか? 違和感の正体をたしかめるように、俺はリカを凝視した。『実は結構かわいいよな』『腕とか脚とかほっそいよな』『意外と女らしい体つきしてんだよね』耳の奥で、友人たちの声がこだまする。リカの真っ黒な目のなかに、こわばった俺の顔が反射していた。


「……おまえ、背、縮んだ?」

「はあ?」


 やっと漏れたのは、そんな言葉だった。言ってから、「ああこれが違和感の正体か」と自分で納得する。同じくらいだったはずの目線が、数センチ下になっていたのだ。


「なにそれ嫌味? 私が縮んだんじゃなくて、ハジメちゃんが伸びてるの! はあ、いいなあ成長期」


 リカはあきれ顔でそう言うと、ふいっとそっぽを向いてしまった。その拍子に髪が、スカートがひらりと揺れる。


 瞬間、体中がカッと熱くなった。

 心臓がバクバク波打って、頭に響いてうるさかった。喉がカラカラと乾いて、声を出そうにもなんの言葉も出なかった。

 目の前にいるのが、知らない女の子に見えた。


「……ハジメちゃん? 今度は顔が赤いよ?」

「……っ!」


 心配そうにのぞき込んでくるリカに、俺はおおげさにのけぞった。

 そんな俺の様子を訝しみ、リカは首をかしげる。「ほんとに大丈夫?」濡れた唇が目に入った。揺れる髪の毛から、花の香りがした。


「——俺、帰る!」

「え、ちょ、ハジメちゃん!?」


 はじかれたように駆け出した。背中にかかる声を振り切るように、ただただ全力で走った。

顔が熱くてしかたなかった。リカの目が、唇が、首筋が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。

 体力が尽きるまで走って、家に帰れば冷たいシャワーを浴び続けた。それでも脳内から、リカが消えることはなかった。


 その日から俺は、リカを避けるようになった。




 ——もともと話す機会が減っていたとはいえ、あからさまに避ければリカにだって気づかれる。

 はじめこそ「私、何かしちゃった?」と不安そうに聞いてきたり、「突然意味わかんない!」と不満をぶつけられたこともあった。だけど俺が態度を改めないと知ると、リカはあっさりとあきらめたようだった。……最後に一度、「ハジメちゃんのばか!」と怒られはしたけど。


 お互いに関わろうとしなければ、俺たちの接点は驚くほど少なかった。

 当たり前だ。クラスも別で、部活も別で、そもそも男と女なのだから。


 リカのいない日常は、なんの問題もなくまわった。

 いつもどおり学校に行って、友だちと騒いで、授業中は眠くて、部活が終わればもう体力も底をついて、帰ったら飯を食って寝落ちして。そんな今までと変わらない日常を送った。

 それでも移動教室の廊下で、体育の授業の校庭で、登下校の街路樹の下で、リカを見かけるたびに胸がざわついた。

 そんな自分の気持ちに気がつくたび、俺はさらに強くリカを避けた。まるで名前も知らないただの同級生みたいに、ただの一言も交わすことなく俺たちは残りの中学生活を送った。


 そのうち、もう二度とリカと話すことはないのかもしれないと考えるようになった。

 そう考えると少しさみしくて——だけど心から、安心した。



「あれ? ハジメちゃん、今帰り? 奇遇だねえ」


 ——そして、中学3年。高校受験を控えたある日、『それ』は起こった。


 お互い部活も引退した、きれいな秋晴れの日のことだった。

 放課後、帰宅しようと校門をくぐったところで、鈴を転がしたような声に呼び止められた。

 リカだ。

 衣替えしたばかりの冬服を腕まくりして、川澄リカが笑ってそう声をかけてきた。


「めずらしいねえ、放課後はいつも部活に顔出してたのに。なに、とうとう追い出されちゃった?」

「……」

「ちょっとぉー、さすがにガン無視はひどくない!? いくら私でも傷つくんですけど!」

「……いや、」


 むうっと頬をふくらますリカに、やっと出たのはそんな言葉だった。

 無視したかったわけじゃない。ただ、驚きで声が出なかっただけだ。いつかのあのときのように、強烈な違和感が俺を襲っていた。

 ——リカって、こんなに小さかったっけ?


「……ね、ハジメちゃん。せっかくだから、いっしょに帰る?」


 頭ひとつぶん下から見上げて、リカはそう言って笑った。



「衣替えって絶対まだはやいよね。毎日毎日暑くって、ほんとヤになっちゃう」

「駅前にできた新しいカフェ知ってる? そこのかき氷がすっごいおいしいの! おすすめはねえ、宇治抹茶かな」

「ええっ、ハジメちゃんあの映画見てないの!? 絶っっっ対見たほうがいいよ。ああいうのは劇場で見ないと!」


 久々の会話だった。だけどリカはそんなこと気にしたふうもなく喋りつづけた。

 話題も表情もころころ変わる。その様子を見てなつかしいような気持ちにも、ざわつくような気持ちにもなった。


「そういえば、ハジメちゃんて高校どこ受けるの?」

「ああ……やっぱA高かな。近いし、あんまがんばんなくても入れそうだし」

「サッカーも強いし?」

「うるせー。……おまえは?」

「んー、まだちょっと迷ってるんだよね。A高か——〇〇女子」


 その言葉に、俺は思わず立ち止まる。

 リカの口にした学校は、ここからずっと遠くにある女子高だったからだ。


「……〇〇女子って、遠くね? ここから通えんの?」

「うーん、ちょっとむずかしいかな。だから、寮に入ることになると思う。……ね、寮生活って楽しそうじゃない? 毎日が修学旅行みたいでさあ。まあ、受かったらの話なんだけどね」

「——…」


 楽しげに語るリカに、俺は混乱した。なんでそんなことを笑って言えるんだって。

 たぶん俺は、そのときまでリカが自分とちがう高校に行くことを想像もしていなかったんだと思う。一方的に避けておきながら、リカが自分から離れていくなんて思いもしなかった。たとえお互い関わらなくたって、すぐ近くにいることは変わらないんだと、勝手にそう思っていた。

 それが女子高なんて、寮に入るつもりだなんて。もしそうなったら——


「そうなったら——ハジメちゃんとも完全にお別れだね」


 リカはこちらを向かないまま、静かにそう言った。


「あ! ねえねえ、この裏山、昔よく遊んだとこじゃない? ちょっと寄ってこーよ!」


 そして今度はやたらと明るい声で、こちらを振り返る。リカの指さす先には、子どものころふたり飽きるほど遊んだ、裏山への入り口があった。


「わあ、なつかしー!」

「あっ、ばか、あぶねーって!」

「だーいじょうぶ!」


 リカはきゃらきゃらと笑いながら、裏山を駆けまわる。コケにまみれた倒木に登ろうとするのをあわてて止めるが、聞かずにその上で立ち上がった。


「ねえ、覚えてる? ここでよく勇者と魔王ごっこをしたよね。ハジメちゃんはいつだって勇者の役で、私には魔王を押し付けてさ」

「悪かったな」

「ふふっ、いいよ。今じゃけっこう、いい思い出だしね」


 俺より一段高い場所から見下ろして、リカは言う。


「『勇者よ、わたしの味方になれば、世界の半分をおまえにやろう!』」


 ——リカを見上げるこの立ち位置も、ゲームそのままのセリフも、すべてあの頃と同じだった。秋の夕焼けが、リカの柔いくせっ毛を赤く染めていた。


「ほら、次ハジメちゃんの番だよ!」

「……『そんなものはいらない。おまえを倒し、この世界に平和を取り戻すんだ』」

「あははっ! すごい、ちゃんと覚えてるんだね。ほんとう、なつかしいなあ……」


 リカはひとしきり笑ったあと、どこかさみしげに呟いた。伏せられた目、頬にまつげの影が落ちるのを見て、心臓がドキリと跳ねる。


「……あのとき私の世界の半分は、まちがいなくハジメちゃんだったよ。きっとハジメちゃんもそうだったよね。……私ね、たまに思うんだ。あのころに戻りたいって。私がハジメちゃんのいちばんだったころ——ううん、私しか、ハジメちゃんの世界にいなかったころ」


 リカはゆっくりと倒木を降りながら、そう語った。背中がざわざわした。声だけは明るい調子を保ったまま、伸びた髪に隠れて表情が見えない。なぜだかわからないけれど、この先の言葉を聞きたくないと心から思った。


「ねえ、私、ハジメちゃんのことが好き」


 ——だけどリカは、あっさりとその言葉をつづけた。


「ほんとうはずっと前から、ハジメちゃんのことが好きだったよ。ここでふたり勇者ごっこをしてたころから。家族とか、友だちに向けるような『すき』じゃないって気づいたのは、もっと最近のことだけどね。……ねえ、ハジメちゃんは、わたしのことどう思う? 好き? 嫌い? ……きらい、だから……私のこと、ずっと避けてた……?」


 そんなことはない。リカは何も悪くなかった。俺がリカを避け始めたのは……困惑したからだ。リカがまるで、知らない女の子みたいに見えたから——そう、今みたいに。


「ハジメちゃん、私、ハジメちゃんの彼女になりたいよ。顔を合わせても何も話せないのが嫌。何か話せても、それがほかの女の子とおんなじなら嫌。ハジメちゃんの特別になりたい。ハジメちゃんの世界の半分を、もう一度私だけにしてほしい」


 語尾が泣きそうに震えた。形のいい眉が情けないくらいに下がっていた。

——リカってこんなに声が高かったっけ。こんな状況なのに場違いにも、そんななんでもないことを考えた。

 リカって、こんなに小さかったっけ。リカって、こんなに髪が長かったっけ。こんなに指が細かったっけ。こんなに短いスカートを穿いていたっけ。鞄にクマのキーホルダーなんてつけていたっけ。左腕の肘に、ホクロなんてあったっけ——

 リカを形作るすべてが、俺の知るリカではなかった。俺の知るリカは、こんなことを涙ながらに言うようなやつじゃなかった。

——それならこいつは、誰なんだ?


『いや、何年前の話をしてんだよ』


 いつか聞いた友人の言葉が、いまさら耳にこだました。


『今だけだものね、仲良くできるのは』


 追い打ちをかけるみたいに、記憶のなかの大人たちが笑った。


「————意味、わかんねえ……」

「……え?」


 やっと喉から搾り出たのは、そんな言葉だった。


「好きとか、付き合うとか、意味わかんねえよ。今までの関係じゃ、何がダメなんだ? なんでみんな、俺の、俺たちの『今』を否定するんだよ。そうやって、おまえまで……。……どうしておまえは、そんなこと思い始めたんだんだ? どうしておまえは、いつだって、そうやって——」


 ——俺を置いて、変わっていってしまうんだ?


 最後は、言葉にならなかった。結局のところ、これが本音だったのだ。

 このままを望む俺を置いて、リカが変わっていくのを見るのがこわかった。だから感じる違和感も見ないふりをした。知らない女の子みたいになったリカを、避け始めた。ただ、受け入れたくない現実から目を逸らしただけだった。


「……今までの関係じゃ、ダメだよ。だって今のままだったら、ハジメちゃんに突然避けられても文句のひとつも言えないじゃない」


 黙ってしまった俺に向かって、リカは落ち着いた声でそう言った。


「たとえば私が遠い高校に行っちゃったって、彼女って立場だったら休みの日に会う約束ができるよ。でも、今のまま卒業しちゃったら私たち、きっと完全に終わっちゃうよ。……ハジメちゃんは、それでいいの?」

「……いいも何も、終わるなんておおげさだろ。このまま、何も変わらなくたって——」

「おおげさなんかじゃない! 私、ハジメちゃんとはちがう高校に行っちゃうんだよ? 隣の家にだって住まなくなるんだ。言っとくけど、女子高だからって出会いがないわけじゃないんだからね。合コンとかいっぱいして、私、ハジメちゃんじゃないひとの彼女になっちゃうかもしれないんだよ? ハジメちゃんは、ほんとにそれでいいの!?」


 懇願するような声だった。リカの言葉を想像して、喉の奥がカッと熱くなった。

 それはいつかも感じたような気持ちだった。それがいつのことだったか、思い出そうとして——だけどそれを振り切るように、俺は言った。


「……そんなの、おまえの勝手だろ」

「——ッ!」


 俺が言うと、リカはあきらかに怒ったような顔をした。眉をしかめて、唇をゆがめて、キンと響く声で叫ぶ。


「わかったよ、勝手にする! ——ハジメちゃんのばか!」


 リカは立ち尽くす俺を置いて、そのまま踵を返した。裏山を抜けようとしているのだろう、ローファーが土を踏む音がする。『ハジメちゃんじゃないひとの彼女になっちゃうかもしれないんだよ?』泣きそうなリカの声が、耳に響いてしかたなかった。


「……待てよ、リカ!」


 俺は思わず、リカを呼び止めた。「……ハジメちゃん?」どこか期待がこもった顔で、リカは振り返る。

 『好き』も『付き合う』も、やっぱり理解はできなかった。それでも、今ここでリカを行かせてはならないと、本能がそう叫んでいた。


 どうしよう、なんて言おう。混乱する頭で、ただ一歩だけ踏み出した。「リカ」もう一度名前を呼ぶ。目が合った。心臓が跳ねる。風にスカートが揺れた。息を吸う。「俺は」自分でも自分が何を言おうとしているのかわからなかった。「俺も、」言い直す。答えはすぐそこまできている気がした。喉が鳴る。心臓がうるさい。「俺もきっと、リカのことが——」リカの瞳のなかで、くるりと光が反射した。


 ——瞬間。


「——え!?」

「な、なにこれ……っ!?」


 ズン……! と大きな地鳴りがして、突然ふたりの足元が光りだした。驚いて下を向くと、大きな光の円が俺とリカを取り囲むように広がっていた。

 いったい何が起きているのか、何ひとつわからなかった——けれど、


「リカ!」


 目の前の異様な光景に、とにかく必死にリカへと手を伸ばす。「ハジメちゃん!」視界を奪うようなまばゆい光のなか、あちらからも手を伸ばされているのがわかった。

 リカの不安げな顔が、光のなかに消えていく。そのすべてが光に隠されてしまう直前——


 ——あれ、この光、どこかで見たような……


 ちらりと足元に見えた光の紋様が、記憶の隅に引っかかる。

 互いに伸ばし合った手は——最後まで届かなかった。





「————やった、勇者召喚に成功したぞ!」

「陛下だ、国王陛下をお呼びしろ!」


 ——やけにさわがしいその声に、真っ暗だった意識が覚醒する。

 ハッと目を開けると、さきほどまでとはまったく違う光景が視界に飛び込んできた。


 古ぼけた石造りの建物のなか、ゆったりとした白い装束の男たちに取り囲まれ、俺は立っている。男たちのほとんどは力果てたように息を切らし、一部の者だけが何かを叫び走り回っていた。

 ——どこだ、ここは。

 まだはっきりとしない頭を無理やり捻ってまわりを観察する。足元にはほのかに光を放つ大きな円が描かれていた。ゲームに出てくる魔法陣のようなそれは、裏山で自分とリカの足元に現れたのと同じものだ。

 ——そうだ、リカは!?

 慌てて周囲を見渡すが、まわりには西洋風の顔立ちをした、ファンタジー世界の神官のような服を着た男たちしかいない。

 リカがいない。どこにいる? そもそもここはどこだ? リカはどうした? さっきまで裏山にいたはずなのに。この陣はなんだ? この男たちはなんだ? どうして俺はここにいる? リカは——どこだ?


 混乱する俺の前に、ひとりの赤いマントを羽織った男が現れた。

 引きずりそうなほど長いマントに、同じ色合いの大きな冠。青い瞳の目つきはやわらかく、だけど立派にたくわえられた白髭と、どっしりとした体格が威圧感を放っていた。

 まるで異国の王様のようなその男は、いまだ陣の真ん中で立ち尽くす俺を見下ろし、言った。


「——おお、勇者よ。どうかこの世界を魔王の恐怖から救ってくれ!」

「…………は?」


 ——結論から言うと、その男はほんとうに国王という立場の人間だった。

 そして国王は説明した。彼の治めるこの国——いやこの世界(・・・・)はいま、魔王によって支配されかけているということを。


 かつてこの世界を恐怖へ陥れた古の魔王——封印されていたはずのそいつがいま、再びこの世に蘇った。

 魔王の復活により魔物たちは凶暴性を増し、人間を襲いはじめた。森は瘴気で穢れ、田畑は荒らされ、統率された魔物の集団に人里は襲撃された。

 世界の国々はそれぞれ騎士団を派遣し、魔物の討伐へ向かわせた。だが、魔王によって活性化した魔物の軍隊には歯が立たたず、ついには滅びてしまった国まであるという。


 このままでは世界すべてが魔王の手に落ちてしまう——そう考えた国王は、ついに禁術に手を出すことに決めた。

 魔王に唯一対抗できる人物——『勇者』を召喚するのだ。


 勇者とは本来、この世界(・・・・)には存在しない。禁じられた召喚魔法によってのみ、異界から呼び寄せることのできる存在だ。そしてその召喚されし勇者というのが——


「俺……?」

「そうだ。我々はみごと術をやり遂げ、伝説の勇者を召喚することができた。勇者ハジメよ——どうかそなたのその力で、この世界を救ってくれないか」


 俺は驚いた。

 異世界召喚——まるで流行りの小説のような出来事が自分の身に起きたからではない。

 この状況が、|自分が昔好きだったゲームの冒頭そのものだったからだ《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。


 子どものころ、何よりも気に入って繰り返しプレイし、リカと何度もごっこ遊びをしたあのゲーム。現代から『伝説の勇者』として召喚された主人公が、魔王を倒すための旅に出るという、王道のRPGゲーム。

 俺が置かれた今のこの状況も、王が語るこの世界の話も、神官たちが口にしたこの国の名前も、すべて俺が知るそのゲームと同じものだった。

 ——俺が、あのゲームの主人公である勇者として召喚された?

 信じがたいことだった。だけどほかに説明もつかなかった。あの裏山で現れたのがこの召喚陣だったのだと言われれば、なるほどとも思えた。だけど。


 それならばリカはどうしたんだ? あのとき魔法陣は俺とリカふたりの足元に現れた。だけどこの場に召喚されたのは俺だけだ。

 選ばれし勇者は俺だけだから、俺だけがこの世界に連れてこられたのか? この召喚と関係のないリカは、あの裏山に残されたまま?

 そうだとしたら……俺はあの裏山で、リカの目の前で突然消えたことになる。あんな状況で幼馴染がいなくなるなんて、リカはいったいどう思っただろう。消えた俺に戸惑いうろたえる姿を想像して、胸が痛んだ。

 そして同時に、はやく元の世界に戻らなければと思った。戻って、俺は無事だとリカを安心させてやらなければと。


 だから俺は——国王からの申し出を了承し、魔王討伐の旅に出ることにした。

金もコネもない状況で、そうするほかなかったというのもある。だが、いちばんの理由は元の世界に帰るためだった。

 この世界にそっくりなあのゲームは、魔王を倒した召喚勇者が元の世界に戻るところで終わる。だから俺がこの世界で魔王を倒せば、ゲームのとおり現実の世界に帰れるのではないかと考えたのだ。


 そうして俺の、勇者としての旅がはじまった。

勇者にしか抜けないと言われる聖剣を手に入れ、3人の仲間を連れ王都を出た。


 ……本音を言うと、このとき俺は少しだけ浮かれていた。

 仕方ないだろう。異世界召喚なんて漫画みたいな状況に陥って、それが昔好きだったゲームの世界で、共に旅する仲間も当然ながらだいすきだったキャラクターたちなのだ。これで浮かれないやつがいるのか?

 気持ちに余裕があったのもある。子どものころとはいえ、飽きるほどやりこんだゲームと同じ世界なのだ。旅の途中で手に入るレアアイテムも、ラスボスである魔王に有効な技も、よく覚えていた。この知識があれば、魔王討伐なんて簡単だ——そう思っていたのだ。

 けれど。


 俺は甘く見ていた。所詮、ゲームはゲームなのだ。液晶ごしにプレイするのと、自分の手で戦うのはわけがちがう。

 平和な現代日本で育ったたかだか15の男が、そう簡単に剣を、魔法を扱えるか? それを使って、襲い来る魔物をなんの躊躇もなく殺せるか?


 ……俺にはできなかった。右手に持った剣が思いのほか重かった。体内で魔力を練るのに気をとられた。目の前にある『いのち』を刈り取ることに、一瞬だけためらった。

その一瞬の隙をつかれ、王都を出たはじめの森でゴブリンに襲われ——


 ————俺は、死んだ。




「——おお、勇者よ。どうかこの世界を魔王の恐怖から救ってくれ!」

「…………は?」


 ——死んだ、はずだった。

 だけど目を開けると、さきほどまでとはまったく違う光景が視界に飛び込んできた。


 石造りの神殿。光る召喚陣。白い装束の神官たち。そして、赤マントの国王——俺がこの世界に連れてこられたあの日と、まったく同じ光景がそこにあった。

 国王は、あの日と同じように俺の名を尋ね、あの日と一言一句違わずこの世界の状況を説明した。まるで、初対面の相手にしているかのように。


 俺は混乱した。国王の態度は、数日前に同じやりとりをした相手にするものではない。

 ——夢、だったのか?

 いちばんに思ったのはそれだった。

 だけど、夢だとしたら、どこからどこまでが? ゲームの世界に召喚されただなんて、それこそが夢のような話だ。だいたい、あの眼前に迫る死の恐怖が、全身を嬲られる痛みが、夢だとしたらリアルすぎる。

 ——それなら、ループ? 死に戻り?

 それらしい単語を思い浮かべてみても、答えなんて一向にわからない。そもそも、あのゲームにそんなシステムはなかった。死んだって、セーブポイントに戻るだけだ。

 ——現実に、セーブポイントなんてないから?

 ……思いついた考えに、背筋がひやりとした。


 現実はセーブなんてできないから……だからいちばん最初にリセットされるのか? 俺がこの世界にやってきた、召喚の儀のそのときに。

 どうして? 俺が、この世界を救う勇者だから? だからこの世界を救うまでは、死ぬことすら許されないのか?

 それじゃあ、いつまで? どうしたらこのループは終わる? ……魔王を、倒すまで? 魔王を倒し、元の世界に戻るまで——?


 ……それからの日々は——地獄だった。

 俺はまた聖剣を手にし、仲間を集め、魔王討伐の旅に出た。選択肢などそれしかなかった。

 襲い来る魔物たちを、死に物狂いで倒した。剣も魔法もアイテムも、使えるものはなんでも使った。死にたくなかった。ただそれだけだった。

 死んでもやり直せる——それは俺にとって、希望でもなんでもなかった。死ぬのは痛くて苦しかった。あんな思い、二度としたくなかった。


 だけど現実は残酷だ。俺がどんなにがんばろうと、必死に強くなろうと、死ぬときは死んだ。

 あるときは巨大スライムに襲われ窒息死、あるときはダンジョンの罠にかかって串刺しに、あるときは催眠魔法により眠るように息を引き取った。

 そしてまた召喚の儀に戻ってくる。どんな死に方をしても、意識が覚醒すると同時に蘇る『死』の感覚は、当然気持ちのいいものではなかった。


 このループの嫌なところは、レベルも覚えた魔法も所持アイテムも、すべて最初の状態にリセットされることだった。せめて強くてニューゲームくらいさせてくれと、俺を遣わしたらしい女神に何度も恨み言を言った。

 残るものと言ったらこの記憶くらいだ。レベルはリセットされても、そのおかげで次ループの旅は少しだけ楽なものになった。前回の経験と、子どものころの記憶を擦り合わせ、効率よくレベルを上げた。死なない立ち回りもだんだんうまくなっていった。


 ある意味知識チートみたいなそれは、だけど俺にとってプラスな面ばかりでもなかった。このせいで『死』を忘れることもできないからだ。

 何度も食われ、燃やされ、刺され、斬られ、毒に侵された。そしてその絶望のなか、ふたたび召喚の間で目を覚ます。

 発狂しそうだった。恐怖で聖剣を握れないこともあった。リセットされた召喚の間で吐いてしまうことも、ひとりの夜に突然声を上げて泣いてしまうことも。

 何度死んでも、死ぬことには慣れなかった。繰り返されるループに果たして終わりはあるのかと、何度も神に問いかけた。自分の心が、だんだん壊れていくのがわかった。


「なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだよ。勇者だとか世界だとか、そんなもん知ったこっちゃねえ。返してくれよ、俺を、元の世界に……!」


 何度も何度も、そう叫んだ。それに応えてくれる者など、ひとりもいなかった。

 ……それでも俺は、何度でも旅に出た。リカに会いたかったからだ。


 この地獄のような世界で、リカだけが俺の光だった。『リカのいる世界に戻る』その強く思うことで、死への恐怖にも立ち向かえた。どうしようもなくつらい日は、リカのことを思い出した。

 リカは今どうしているだろうか。きっと心配しているだろう。余計な責任を感じているかもしれない。毎日泣き暮らしているかも。俺を探しまわっているのかも……。その世界に、俺はいないのに。

そう考えたら、なんとしてでもあいつのもとに帰らなければと思えた。そのためにももっと強くなって、はやく魔王を倒さねばと。リカのことを考えるのは、この世界で俺が生きる活力になった。


 ……終わらないこのループは、俺への罰なのかもしれないと思うこともあった。

 リカが、リカとの関係が変わっていくのがこわくて、リカを拒絶して傷つけた。変化を恐れ、いちばん大切なひとをないがしろにした。だから、変化のないこの世界に閉じ込められてしまったのではないかと。

 変わっていくことがこわかった。変わらなければ、ずっとリカといっしょにいられる気がしていた。……そんなわけがないのに。

 結局のところ俺は、リカと離れたくないだけだった。そんな単純なことに、こんな状況になって初めて気がついた。あのとき裏山で自分がリカに何を言いたかったのかを、今更やっと理解した。

 俺は——


 リカのことが、好きだったのだ。




 何度も死んで、何度もリセットされた。そのたびに何度でも旅に出た。考えるのは、リカのことだけだった。

 リカ、リカ、リカ。

 リカに会いたい。会って謝りたい。何気ない会話をしたい。笑い声を聞きたい。ころころと変わる表情を眺めたい。触れたい。逢いたい。——好きだと、伝えたい。

 だから、強くならなければ。強くなって、魔王を倒さなければ。魔王を倒して、リカのもとへ帰らなければ——


 その思いだけを胸に、俺は旅をつづけた。

 旅のあいだ、いろんな人に出会った。魔物により故郷を焼かれた者、職を失ったもの、肉親を殺された者……みんなみんな、魔王の復活よって苦しみ喘いでいた。

勇者()が街を訪れるたび、人々は助けを求め希望を託した。どうか魔王を斃してくれ。自分たちの平穏な日々を取り戻してくれ——と。

 善良な村人が、子どもが苦しみ嘆く姿には純粋に同情した。助けてやりたいとも思った。俺がこのループから抜け出せない限り彼らもまた苦しみから逃れられないのだと、申し訳なくも思った。


 俺が魔王を倒したら、彼らもまた救われる——そう思ったら、さらに強い思いで魔王に向かうことができた。俺の努力は、死は、自分のためだけではなく多くの民を救うのだと思えたから。

 だから必死に旅をつづけた。魔物を倒し、アイテムをかき集め、むずかしい魔法も覚えた。必死にゲームの内容を思い出し、現実と照らし合わせ、仲間に情報を共有した。「なんでそんなこと知っているんだ」と訝しがられることもあったが、強くなれるんならどうでもよかった。


 ——そうして俺たちは、やっとの思いで魔王城へと辿り着いた。

 魔王城の周辺は、今までと比べものにならないほど強大な魔物が跋扈し、城へと入ればまるでダンジョンのように入り組み、魔王最後の守護たる四天王たちが次々現れた。

 ゲーム知識をもってしても、苦戦の連続だった。戦闘のたびにズタボロになりながらも、魔法とアイテムでどうにか持ちこたえ、やっと魔王城の最奥——魔王の玉座へと至った。


 魔王の玉座には、このゲームのラスボスである魔王と、それを護る四天王の最後のひとりが待ち構えている。ゲームではラスボス戦としてそのふたりと連続で戦闘することになる。

 俺は仲間たちに目配せをして、派手な装飾のほどこされた扉へと手をかけた。ぎぎぎ、とおおげさな音を立て、ゆっくりと扉が開く。


「——『待たせたな、魔王よ! この俺たちが来たからには、もう貴様の好き勝手にはさせない!』」


 そして俺は、ゲームの勇者のセリフを叫んだ。

 これが最後の戦いだ。そう思うと今更緊張してきた。思えばループは何度もしたが、魔王と対峙するのはこれが初めてだった。

 両開きの扉の向こうから、まぶしい光が俺たちを照らす。聖剣を持つ手にちからが入る。魔王を護ろうとその前に立つ四天王の姿が目に入った。ゲームそのままの見た目に少し安心する。ゲームでの彼との戦闘を頭で反芻した。そしてその向こうにいる魔王を確認しようとして——


「————え?」


 ——言葉を失った。

 見上げるほど大きな玉座、天蓋に囲まれたその場所に、ちょこんと小さく座るのが——


 リカにそっくりの、女の子だったからだ。


 ふわりとした赤黒い髪。線の細いからだ。漆黒のローブをまとった肌は青白く、指先はちいさく震えていた。真っ黒な瞳は人形のように伏せられ、何もかもあきらめたように力をなくしている。どこをとってもリカそのものとしか思えないその少女は——ただひとつだけ、頭の上に小さなツノを生やしていた。


「リ、カ……?」


 名前を呼ぶ俺の声に、うつむいていたその顔がゆっくりと持ち上がる。まんまるい瞳がこちらをとらえた。


「…………ハジメちゃん?」


 少女は、色をなくしていた瞳にわずかに光を宿し、信じられないような声色で言った。俺は確信する。彼女はまちがいなく、俺の幼馴染である川澄リカだ。


 リカだ。リカがいる。目の前に、リカがいる。


 なんで、とか、どうして、とか。そんなことは頭からぶっ飛んでいた。リカがいる。あれほど会いたくて、会いたくて、縋って、焦がれた存在が。

 「リカ、」思わず手を伸ばす。「おい、何やってんだハジメ! おまえ、魔王と知り合いなのか!?」ふらふらとリカのもとへ向かおうとするのを、仲間が押さえつけて止めた。


 魔王? 何を言っているんだ、あれはリカだ。いやちがう、あれは魔王の玉座だ。それならそこに座るのは、魔王以外にありえない。

 ……リカが、魔王? まさか。だってゲームのなかの魔王は、人間のような見た目ではあるがリカとは似ても似つかない大男だった。

それなのにどうして、あの玉座にリカが座っている? まさか、俺が勇者として召喚されたあの日——リカは魔王として、この世界やってきていたというのか?


 ——すべてを察して、絶望した。

 だって、俺は、リカに会うためにここに来たんだ。魔王を倒し、リカのいる世界に帰るために。この地獄みたいなループから、抜け出すために。

 だけど、リカがその魔王だというのなら、俺が倒すべき相手というのは。このループを終わらせる、そのためには——


「っハジメちゃん、逃げて!」


 呆けたままの俺に、切羽詰まった声が届く。

 反射的に体を逸らすと、頬すれすれに刃がかすった。リカを護っていた四天王が、こちらに剣を振るったのだ。


「なんだ貴様は、魔王様に向かってなれなれしい! 魔王様、このような人間風情、貴方様のお手を煩わせるまでもありません。さあ勇者よ、かかってこい! この私がいる限り、魔王様には指一本触れさせぬ!」


 聞き覚えのあるそれは、ラスボス戦がはじまる直前のセリフだった。このセリフを言われてしまったら、もう後戻りはできない。最終決戦のはじまりだ。

 ……そうだ、はじまってしまうのだ。そしてこいつを倒してしまったら、勇者は魔王と、リカと戦わなければならない。

 そして、斃さなければ。それが俺が元の世界に戻るための条件で、この地獄を終わらせるための条件だから。

 そうだ、魔王を斃さなければ。魔王を斃して、リカのもとへ帰らなければ。だけど今リカは目の前にいて、リカこそが俺の倒すべき魔王で——



 ……それなら俺は、


 どうしたら?



 混乱した、一瞬の隙だった。


「ぐ、ぁああああああ……!」

「……ふん、他愛のない」

「ハジメちゃん!? ハジメちゃん! やだ、嫌あああああああ!」


 俺は、四天王の持つ大剣に体を貫かれ——————死んだ。



「——おお、勇者よ。どうかこの世界を魔王の恐怖から救っ「……ぁああぁあああああ゛ああぁ゛ああああ!!!!!!!!」

「……!? ゆ、勇者!? だ、誰か来てくれ! 勇者さまがご乱心だ!」


 発狂した。

 あんまりだ。こんなのは、あんまりだった。


 どれだけ苦しんでも、どれだけむごたらしい死に方をしても、必死になって戦ったのはリカの元へ帰るためだった。

 なのに、リカが魔王だなんて。リカを斃さなければ、元の世界に戻れないなんて。このループから抜け出せないなんて——


 俺は絶望し、世界のすべてを拒絶した。

 国王の申し出も断り、神官たちの困りきった顔を尻目に与えられた居室に引きこもり、ただただ時間を浪費した。勇者も魔王も世界平和も、何もかもがどうでもよかった。


 硬いベッドに横たわり、運ばれてくる飯に中途半端に口をつけ、昼も夜もなく浅い眠りを繰り返した。

 夢にはいつだってリカがでてきた。幼いころ、いっしょに裏山を駆けまわったこと。ゲームで負けて本気のケンカになったこと。短いスカートで俺の部屋でくつろぐのが、本当は少し気になっていたこと。いつの間にか見下ろすようになったつむじがかわいいと思ったこと。告白されたこと。目の前で俺が殺された、絶望した表情をしていたこと——


 ——いろんなリカを思い出すにつれ、俺は気づいた。気づいてしまった。

 俺がこの世界で旅を続けていたのは、リカに会うためだったということに。


 俺はベッドから飛び起きて、聖剣を手にし仲間を集め、旅の準備をはじめた。国王も神官たちも驚いていたが、勇者がやる気になってくれたのならと快く支援してくれた。

 そうして俺はふたたび、仲間とともに王都を出た。

 引きこもってなまった体でも、ゲームの知識とこれまでの経験があれば旅に苦労はなかった。レアアイテムを手に入れるのも街で突然起こるイベントも、すべて効率よくこなした。自分のできる最善のルートで、俺は旅をつづけた。


 魔王城に着いたら(・・・・・・・・)リカに会える(・・・・・・)。それが今の俺の、唯一の希望だった。

 だって俺は、そのためにがんばってきたんだ。そのために何度も死んで、強くなって、それでも死んでを繰り返してきた。すべては、リカにもう一度会うために。


「勇者さま、どうかどうかこの世界をお救いください……!」


 人々の苦しみ嘆く声も、今の俺にはどうでもよかった。


「ハジメちゃん!」

「リカ!」


 そうして辿り着いた魔王城で、俺は再びリカに出会えた。前回すべてをあきらめたような顔をしていたリカも、今はしっかりと前を見据え、生気の宿った表情をしている。

 よかった、と素直に思った。

 リカが今同じ世界に生きているのなら、こうして再び言葉を交わすことができるのなら——俺は何度だって(・・・・・・・)喜んで死ねる(・・・・・・)


「っま、待ってハジメちゃ……嫌、いやあぁああああ!」


 ——リカが泣き叫ぶのも気にせず、俺は一直線に四天王へと向かう。

 そして振り下ろされる大剣を——避けることなく、この身に受けた。




「おお、勇者よ。どうかこの世界を魔王の恐怖から救ってくれ!」


 ……いったい何度、このセリフを聞いただろう。

 あれから俺は、幾度となく魔王城へ赴き、そのたびに魔王の玉座で四天王の剣に殺された。だってそうすれば、ふたたびリカに逢えるから。

ただただ、リカに会いたかった。あいつだけがこの異世界で、たったひとつの希望だった。あいつにもう一度会えるなら、死ぬことなんてもうこわくなかった。


 そのうち、あの四天王も倒してしまえばリカともっと話せるんじゃないかと気づいた。あいつを倒して、そのあと自ら命を絶てばいいのだ。

 これは名案だと自分で思った。だから次からはそう実行した。思ったとおり、ふたりだけで話す時間が増えた。リカに触れられるときもあった。そんなときはいつもより幸せな気持ちで逝けた。再び蘇った召喚の間で、薄ら笑いを浮かべるのを国王に気味悪がられることすらあった。


 自分の目の前で何度も自殺する俺を見て、リカは毎回絶望したような顔をした。俺が玉座に辿り着くころにはもう、大きな瞳いっぱいに涙をためて、震える声で俺たちを迎える。

 「いやだ、もうやめて、もう私を殺して」そう涙ながらに請われることもあった。リカもまた、勇者()魔王(リカ)を斃せばこのループが終わることに気づいているのだろう。

 そんなの、冗談じゃない。リカを殺すなんて。リカを殺して、リカのいない世界に戻るなんて。


 だから、俺は——


「勇者さま、どうかどうかこの世界をお救いください……!」


 ——だから俺は、今日も旅をする。魔王城を目指して。人々の苦しみ嘆く声すら知らないふりをして。

最愛の魔王に逢うために。……最愛の魔王すらも、苦しみの世界に閉じ込めたまま。




『召喚勇者のせかいせいふく』   了

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