沈みゆく日と明日の風
「クロ―エ、エミール様…。」
「嘘でしょ…何その距離を感じる呼び方。」
カミーユはぎゅっと眉間に皺を寄せる。ようやく『クロエ』と呼ぶことに慣れたのに、今度は『エミール』だなんて、とカミーユは内心文句を垂れた。『クロエ』と呼べばいいと言われたが、カミーユはそれはやっぱり変だと思った。
問題なのは名前が変わったというだけではない。第二王子という身分が突如現れたのである。
カミーユはクロエに幾度となく茶を淹れさせ、片付けまでさせたことを思い出し、背筋が凍った。
「そう言われても…。やっぱり『クロエ』って呼ぶのは。知らない人が聞いたら混乱しますし。」
エミールはフンとむくれたように鼻を鳴らした。
「じゃあ、二人のときにはクロエって呼んで、他ではエミールって呼べばいいのよ。」
「流石に敬称無しは…。」
カミーユのつれない反応に、エミールは「キーッ」と声を上げる。
「婚約よ!アタシたち、婚約したのよ!アンタのパパにもママにもオージェちゃんにもちゃんと話したし!」
どうしてか、エミールはオージェのことを『オージェちゃん』と呼ぶ。当の本人は気にしていないようだったが、カミーユは弟がそう呼ばれる度に複雑な気持ちになった。
「あーやだやだ。酷い婚約者。アタシ、大事にしてもらえるのかしら…。」
わざとらしく大仰にめそめそし始めたエミールを、カミーユはジロリと横目で見た。
―婚約してから。クロエのレベルがどんどん上がっているような気がするわ…。
カミーユは何かを試されている気になった。泣き真似をする合間に、こちらの様子を窺っているのが分かって、些か面倒なのである。
―しょうがない。
カミーユはよっこらせと立ち上がり、エミールの傍にしゃがんだ。
「どうぞ。いくらでも。甘えてください。」
「…!!!!!」
カミーユが両手を広げると、エミールは顔を真っ赤にした。
「…!…!!」
どうやらときめきが止まらないようだ。カミーユは良く分からないが、クロエは甘やかされるのに弱いらしい。
少しして、キュッとカミーユに抱き着くエミールを、カミーユは抱き返した。
「…カミーユ!」
思いの丈が振り切ったのか、エミールはそのままギュッとカミーユを抱きしめる力を強めた。しゃがみ体制だったカミーユはバランスを崩してゴロンと後ろに倒れる。
「あた!」
「キャッ!」
二人で「何やってるんだ」と照れ笑いを浮かべた時。
「二人とも。手を動かしてくださいよ。誰のための引っ越し作業にあたし達が来てると思ってるんですか。」
鬼の形相をしたセシルが二人を見下ろしていた。
『クロエのアパルトマン』は役目を終え、引き払われることになった。エミールは第二王子として王宮に居を移す。大事な場所を片付けるのは自分の手でやりたい、というエミールの申し出に、カミーユはもっともだと頷いた。
友人たちに声をかければ皆殆ど遊びに来る感覚で「いいよ」と集まった次第である。蕾の園の歴史の中でも、皿の梱包をしたり、本を積んで紐で括ったりした令嬢たちは彼女たちが初めてだろう。
「皆~。お疲れ様~。ちょっと休憩してお茶にしましょう。」
エミールがリビングに戻り、作業で疲れているであろう一同に声をかけると、アルトとウージェニーとデルフィーヌは慌てて体制を整えた。
「あ!またあなた達!」
セシルが眉を吊り上げる。
各々スペースを区切って作業していたはずなのだが、進行具合はイマイチな様子だった。
「片付ける本を読み出したら終わりだって言ったでしょう!」
三人はセシルの説教に首をすくめる。
「ぷっ、あはは!いいわよ持って行って。読むなら持って帰って頂戴。」
エミールの言葉に、デルフィーヌはサッと手を挙げた。
「いえ、そこまではいいです。」
片付けたり遊んだり、喋ったりしている内に、日は傾いていた。淑女たちは帰る時間になり、めいめい「また明日」と言ってアパルトマンを出る。
カミーユは残り、エミールと夕食を共にした。
「お皿も大分片付けちゃったから、ワンプレートで…。」
クロエは家にある材料でササっと手際よく調理してゆく。カミーユは一生懸命玉ねぎの皮を剥いた。手伝いを申し出たのだが、カミーユの実力を良く知るエミールは「手伝わないのがお手伝いかもしれない」と辛辣な言葉を吐いた。あまりにもカミーユが傷ついた顔をしたので、何とか玉ねぎを任せることに落ち着いたのだった。
「いただきます。」
カミーユは感激した。ワンプレートに盛られたサラダも、魔法の様に作られたおかずも、パスタも、どれも美味しかった。一人暮らしスキルの高さに圧倒され、カミーユは「完敗です…」と呟いた。
「こういう暮らしも悪くなかったんだけどね。」
エミールが笑うと、カミーユは顔を上げた。
「アンタと。働いて、夕方帰って、二人でご飯作って。…すごく素敵じゃない?」
「すごく素敵…。」
素直な気持ちがカミーユから零れる。
―もし、もしも。クロエがこのままここにいたら。そういう暮らしだったのかもしれない。
温かい料理に、小さな食卓。顔を突き合わせて食べる食事。二人で手を繋いで買い物をして。どんな花を飾ろうか二人で決めて。
カミーユは想像しただけで、心が躍る一方、それは叶わない想像でしかないのだと寂しい気持ちになった。カミーユもこのアパルトマンに安心を覚えていたのである。
「アタシもアンタも庶民的だし。ふふ、王宮の使ってない離れとか、改造してもいいかもね。」
カミーユは素敵な提案に、目を輝かせた。王宮は如何せん人が多く、どこにいても誰かが見ていると聞いている。エミールをコソコソと笑った連中がいるように、きっとどこか欠点を見出されては揶揄されるところなのだとカミーユは先日覚悟した。
離れの隠れ家何て、どうしたって憧れる。
「…お料理、勉強しないと。」
真剣な面持ちで拳を握るカミーユに、クロエはまた笑った。
「帰るの?」
「え。はい。」
食後のお茶を飲み、片付けるといい時間になった。カミーユが荷物を持って立ち上がると、エミールは口を尖らせた。あっさりとしたカミーユの反応が気に入らなかったらしく、エミールは更にむくれ顔になる。
「クロエ…。」
「分かってるわよ!」
エミールはカミーユをドアまで送ると、名残惜しそうにギュウとカミーユを抱きしめる。
「送って行きましょうか。」
「迎えが来ているはずなので…。」
「分かってるわよう…。」
渋々顔でエミールはカミーユを解放した。
「明日も来ますから。」
「うん…。」
カミーユは少し踵を浮かせると、エミールの頬にキスをした。
ゴトゴトと揺れる馬車の中、カミーユは思いに耽った。これまで色んなことがあった。きっとこれからも想像しないことが起きていくのだろう。
アパルトマンに通うのもあと数回。
―あそこに行けば、クロエがいる。
そんな風に思えるのは今だけだと、カミーユは寂しく思う。「いらっしゃーい」と出迎えてくれる姿が見れるのも残り僅かなのだ。
―でも、クロエがいなくなるわけじゃない。
感傷的な気持ちを冷ますように、カミーユは馬車の窓から風を入れ、夜の涼しさに身を晒した。
「ひ、ひえ…あの子…恐ろしいわ…!」
エミールは閉じたドアの前に尚立ち尽くし、頬を抑えて赤くなっていた。この間までかわいい小さなカミーユだったのが、突然大人になってしまったような。
―いえ、アタシのせい?
彼女に心を委ねることに抵抗が無くなっている自覚はあった。カミーユも時折面倒臭そうな目をするものの、しっかりと受け止めてくれる。それが心地よくて、エミールはついつい甘えてしまうのだ。
「どうなっちゃうのかしら。」
未だに熱を持つ頬から手を離し、クロエは楽しそうに笑った。
―どうなるか分からない。これからも。
カミーユの心の中に、淡い期待が湧く。エミールと、どう生きようか。まだ見ぬ日々に想いを馳せる。
―まずは…明日のお昼ご飯、どこで買おう。
カミーユのかすかな鼻歌が、夜の街に溶けて行った。




