世知辛い世の中
カミーユは朝日に目を覚ました。ひと月経って見慣れてきた天井をぼんやりと眺める。ごろりと寝返りを打ち、思い出されるのは昨日の事。
全く知らぬ人間だと思って余裕の表情で近づいてきたミシューへの呆れと憎らしさといったら、言葉にならない程だった。加えて、平手を食らっておきながら「惜しい」とはっきり顔に書いて追いかけてくる滑稽な姿。カミーユは心底がっかりしたし、気持ち悪いと思った。
これまで近くにいた男性は、家族を除けばミシューとクロエと学校のお爺ちゃん先生位のもので、カミーユの中の男性のサンプルはかなり偏っていると言える。それが主な要因とまではいかないが、この一件でカミーユは当分男は御免だという気持ちになっていた。
クロエと言えば、先月の卒業の時においおいと泣きながら「これで当分会うことは無い」と別れたばかりであったことを思えば、少々決まりが悪かった。
―こんなに直ぐに泣きついてしまうなんて。
否な顔せず、どうしたのかと慌てて飛んできてくれたのは嬉しかった。両親がクロエのキャラクターに驚いていたのは想定の範囲内だったが、カミーユからすればあれでこそクロエである。もしも両親が嫌な顔でもしようものなら、泣いて怒ってでもクロエの良さを訴えただろう。
六年の間、クロエとはたくさん衝突もしたがそれ以上に世話になったし、尊敬もしている。カミーユは今の自分があるのはクロエのおかげだ、とさえ思っていた。
「立派なレディーになることが先生への…クロエへのお礼よね。」
つい先生と呼んでしまうが、卒業の時にクロエは言った。
「もう先生じゃなくなるわ。外で会っても呼んじゃ駄目よ。アンタの肩書の方がずっと上なんだから。」
カミーユに寂しさが募った。肩書なんていいのに、と思ったがそれではいけないのだろう。カミーユがこれから生きていく世界では。
カミーユは暗い思考を振り払うように、ベッドから降りた。カーテンを開ければ、柔らかな日差しが部屋の中をいっぱいに照らした。それだけで、少し晴れ晴れとした気持ちになるのだった。
身を整えて部屋から出て来たカミーユを待っていたのは母親だった。子爵は既に出仕し、弟も学校へ行ったらしい。オレガノ夫人はカミーユに気が付くと、足早に近づいてきた。
朝の挨拶を交わすと、夫人は早々にカミーユを書斎に連れて行った。落ち着かない様子の母親に、カミーユは不安になった。昨日の今日である、何かあったのではないかと疑わずにはいられなかった。
母親は書斎に入るや否や、一番大きな机の上を指さした。
「カミーユ、今朝からこれ…」と夫人が示したのは、机に積まれた手紙ときれいな包みの箱の山だった。
「な、何ですか、これは…?」
カミーユは崩れそうになっているそれらに目を丸くする。一体誰から、どうして。
机の上はもう一杯で、傍らのソファにまで花束や贈り物が置かれている。母親に説明を求めようと視線を向けたが、丁度メイドがバタバタと慌ててやって来た。
「奥様!またです!」
「今度はどなた!?」
「マルグリット男爵家からです。」
メイドが手にしていたのは新しく届いた封筒と花束だった。カミーユは名前こそ知ってはいるが、まるで面識のない送り主からのバラの花束を不審な気持ちで見つめた。
「というわけで、朝からひっきりなしに貴女への手紙や贈り物が届いています。」
しばらくして、やっと贈り物の到着が落ち着くと、母と娘はようやくゆっくりとお茶を飲むことができた。母親はまだ娘が寝ていた間の、今朝からの騒動を話して聞かせた。
カミーユはオレガノ夫人の言葉に思わず「何で…?」と呟いた。開けて御覧なさいと夫人に指された手紙の山から、一通無作為に開封する。
そこには丁寧な挨拶から始まり破談のお悔やみと慰みの後に、是非あなたとお近づきになりたいという旨がつらつらと書かれていた。
「『心中お察しいたします。昨夜の凛としたお姿に感銘をいたしました』…。成程…?」
カミーユはうんざりして、渋い顔で紅茶を口にした。
ひとつも嬉しそうでないその表情から、娘が手紙を正しく読み取ったと察した母親は気遣わし気に娘の手を優しく撫でる。
「貴女の昨日の行いが悪い方へと転がらなくて母はホッといたしました。」
それだけでも良かったじゃない、という口ぶりにカミーユは悩まし気に頷いた。それは確かにそうなのだが…。
「お母様、出かけてきてもよろしいでしょうか。」
カミーユはメモを持って住宅街をうろついていた。近くまでは馬車で来たが、馬車の入れない細道を進まなくてはならなくなり、致し方なく降りて歩いている次第だ。
ここでもない、あそこでもないと、建物に吊り下がっている看板を見ながらカミーユは目的のアパルトマンを探す。探しているのは言わずもがな、尊敬するクロエ大先生の部屋だ。
―昨日の今日で呆れられるかしら…。
今朝の反省が全く生かされていないのは自覚していたが、今のカミーユが教えを乞おうとすると、どうしてもクロエの他に適任が思い当たらなかった。昨夜のお礼も兼ねて、ちゃんとクロエ好みの手土産も用意している。
―あった。ここの308号室ね。
やっと見つけたアパルトマンの一室を、カミーユは控えめにノックした。気軽に甘えるなと怒られるかもしれない、と思いながらドキドキして反応を待つ。
「はーい」というよそ行きの声が聞こえた。少しして開かれたドアから現れたクロエは、カミーユを認めると思い切り眉を寄せた。
「アンタ!何その恰好は!スカートに皺!あと自分で髪を三つ編みにするのはやめなさいって言ったでしょ!」
開口一番に飛び出て来たのはカミーユの身だしなみへの駄目出しであった。カミーユはいつも通りのクロエに安心を覚える。
へらりと表情を崩すカミーユをクロエは「こっち来なさい!」とプンプン言いながら部屋に引っ張り込んだ。
淑女としてなってないだの、そんな格好でこの辺をうろついたのかだのと、チクチクとお小言を並べ、カミーユのスカートの皺を伸ばし、髪を綺麗に結い直すと、クロエはようやく機嫌良くカミーユの持って来た土産を受け取った。
ピカピカになったカミーユは鏡の前で一回りしてみた。綺麗に整えられた三つ編みが跳ねて、カミーユは思わずにんまりした。
「お茶を淹れるから座っていなさい」と言われ、カミーユは大人しくちょこんと椅子に腰を下ろす。人の部屋をあまりジロジロと観察してはいけないと思いつつ、「ここが先生の部屋か」と好奇心が疼いた。
寄宿学校にはコーチ用の寄宿舎もあり、在学中はカミーユもクロエもそれぞれの部屋に住んでいた。クロエが学校に雇われる前に住んでいたところを手放さないでいるとは聞いていたが、六年離れていたとは思えない程、部屋は隅々まで手入れが行き届いていた。
―ホコリ一つ落ちていないもの。
流石先生だ、とカミーユは感心した。
少ない数の家具が絶妙な配置で置かれていて、機能的でありかつお洒落。家具はモダンなデザインで揃えられていたが、よく見ると花瓶や額縁など、アンティークの小物が備えられている。まるで専門業者の仕事のような、「こんな部屋に住みたい」と思わせる素敵な部屋だった。
クロエのセンスの良さにカミーユが脱帽していると、ティーポットと菓子を持った家主がやって来た。
クロエはご機嫌な様子でカミーユの持って来た手土産の箱を開けると、一段と嬉しそうな声を上げた。
「ちょっと、カミーユこれ【アンディ・ショコラ】のマドレーヌじゃない!アタシ大好きよ。」
クロエの喜びように、思わずカミーユの顔も緩む。自分のチョイスが正解だったとカミーユは心の中でガッツポーズを作る。
クロエが丁寧に淹れた紅茶は素晴らしい香りがした。カミーユは久しぶりに飲むクロエの紅茶を堪能し、クロエも頬に手をあてて「ん~おいしい!」とマドレーヌを幸せそうに食べた。
―何だか懐かしい。ほんの少し前までこうしていたはずなのに。
カミーユの心の中がほっこりと温かくなる。昨日の苛立ちも、今朝の落胆も、一瞬どこかに飛んでいってしまったような気になった。
「で?何があったの?昨日のお礼だけじゃないんでしょ?」
「あ。」
カミーユの油断を狙ったように、クロエは紅茶に口をつけながら眼光を鋭くした。カミーユがここに来たのはただ談笑しにきたわけでは無いことはとうにバレている。
丁度マドレーヌを食べようとしたカミーユは口を開けたまま目を瞬かせた。真っ直ぐ向けられるクロエの目は、「鬼コーチの目」をしていた。
カミーユはマドレーヌを大人しく皿に戻して神妙に居ずまいを正すと、一呼吸おいてから「くっ」と悔しさを露わにした。
「皆、心配しているとか、心中お察しするとか言いながら、私の昨日の行動を利用してオレガノ家との縁談のいい取っ掛かりにしようとしているだけなんですよ!」
思いの丈を吐き出したカミーユに対して、クロエの反応はとてもあっさりしていた。
「でしょうねえ。そういう世界だって教えたじゃない。何をカリカリしているのよ。やだ教育不足だったかしら。」
「なあんだ」という様子で紅茶を飲むクロエにカミーユはすっかり落胆した。もっと共感してもらいたかったのが本音である。
「皆口ばっかり…口ばっかり…。」
「習うだけと実際目の当たりにするのは違ったってことよ。」
カミーユはやりきれない思いで、うめき声を上げながらテーブルに突っ伏した。クロエは「あらあら」と言いながらカミーユの頭に手を伸ばす。整えた髪が乱れないように気を付け、クロエはよしよしと優しく教え子の頭を撫でた。
「アタシとしては?アンタが見当違いに手紙やプレゼントに喜ばなくて安心したわよ。偉い偉い。」
クロエはまだ荒波に飛び込んだばかりのカミーユを労し気に見つめた。六年間共にしたおかげで彼女には十二分に思い入れがある。
もう先生ではないと宣言したが、頼ってきてくれる間は力になるつもりだった。何でもかんでも甘え放題の彼女ではないと信用しているからこそである。
「それに…ごめんなさい先生、気を悪くしたらアレですけど、男の人って殆ど先生としかまともに関わってこなかったから、何か他の男の人が皆ミシューみたいだったらって思うと…。気が重たくて…。」
カミーユの発言に、クロエは「あははは!」と明るく笑った。カミーユは真剣に相談しているのに、と不満げな視線を投げる。
―この子、こういうとこあるのよね!
クロエにとって、教え子のいじらしさは可愛さでしかない。
「大丈夫よ、確かにアタシはいい男だけど、世の中にはいい男はまだたくさんいるわ!」
「そうでしょうか」と項垂れるカミーユにクロエが「また先生って呼んでるわよ」と釘を刺したところで、クロエの部屋のドアが控えめにノックされた。
来客だろうか。カミーユとクロエは揃って顔を見合わせた。