在りし日の
「どうして何にも話さなかったの?」
カミーユは「あれ」と思った。確かついさっき過去一番の喧嘩をしたはずなのに。目の前に立つクロエは怒っているというよりも、不思議そうな顔をしている。
―ああ、そうか。夢ね。
直ぐに思い至ると、カミーユはつぶさにクロエの姿を眺めた。髪形や容姿にこれと言った大きな変化は無いが、心なしかやはり幾分か若く見えた。コーチ時代に良く見たベストを着ているせいだろうか。
「聞いてるの?」
何も答えないカミーユに記憶の中のクロエが眉を寄せる。
―これは、覚えてる。何の時だったかしら。
「他の皆は…アルトって子以外、自分の意見をよく言うのに、アンタは人の話を聞いてばかり。」
「あ…。」
カミーユはやっと思い出すことができた。
―お茶会のマナー実習の時だわ。授業が終わった後、しばらくそのまま皆でお茶を飲んだのだっけ。
あの時はまだそれほど仲が良くなく、互いに慎重で、いつも緊張の糸が張り巡らされていた。皆でお茶を囲むなど、授業のついででしかありえなかった。
ツンとして固い話をするセシルや、ませた様子のデルフィーヌ、二人に合わせるように懸命に喋るウージェニーの会話をカミーユはいつもただ「うんうん」と聞いているだけだった。
それを見かねたクロエが、とうとうカミーユに尋ねたのだ。
―私は、何と答えたっけ。…いえ、確か。
「また何にも教えてくれないの?アタシ、アンタが何を考えているのか知りたいのよ。」
「あ、その…。」
寂しそうな顔をするクロエに少女のカミーユは狼狽えた。また、失敗してしまった。少女は心の内で落胆した。
―本当は、先生みたいになりたいと思ってた。
いつも明るく、はきはきと自分の意見を述べるクロエが憧れだった。しかし、ダンマリが染みついてしまっているカミーユは気が付けば口を閉ざしてしまう。
というのも、人に表明する程の大層な意見など持ち合わせていないという思考が深くカミーユに根付いていたのだった。人知れず、あるいは本人も自覚していなかった熱血と少々過度なストイックはじわりじわりと少女を孤独へと誘った。
そこに割り込んできたのが、衝撃の出会いを果たしたクロエ・イヴェット。
クロエはカミーユにとっては全てが新鮮で斬新だった。あまりの自分との違いにカミーユはクロエへの興味を禁じ得なかった。そしてそれは段々と憧れに変ってゆく。
クロエみたいになれたら。そう思ったはいいものの、いざ後を追おうとしてもうまくゆかない。少女はその度落ち込んだ。
「…いいこと、カミーユ。」
しょんぼりと黙り込む少女にクロエは諭すように語りかける。
―先生…。
「人の意見をきちんと聞けるアンタは偉い。でもね、自分の意見を聞いてもらうことも、同じ位大事なのよ。」
クロエの言葉はカミーユの心の奥に刺さり、抜けない優しい棘となった。
―私、あの言葉があったから。
記憶の引き出しを突いたのか、場面が一瞬でガラリと変わり、カミーユは気が付くと喧騒の中に居た。といっても、同期達との模擬お茶会である。
彼女たちに指導をしていた教師の姿が見えなくなり、言いたい放題の時間がやってきたのだ。
「紅茶は東のものが一番おいしいと思いますの。サラザン家は大きな茶畑を所有していて、いつもそこから茶葉が届くの。」
「へええ、すごいですね。あら、このクッキー美味しいわ。召し上がりました?」
「あ、ええ…ありがとうございます…。」
「ふあ~。あーあ、次のダンスのレッスン、本当に嫌。サボっちゃおうかしら。」
ぼんやりとした意識だけがそこにあるカミーユは、彼女たちの会話に懐かしさを噛みしめていた。
―こんなだったわ。そうそう。本当にこんな感じで…。
「ダンスですもの、貴女のコーチもいらっしゃるわね、カミーユ様。」
「え…。」
唐突に話を振られたカミーユはドキリとした。夢の中なのに何を動揺することがあろうか、と考えた瞬間、ハッとする。
「変わっていらっしゃるわよね、貴女もよく耐えられること。」
「実際普段どうなの?男の人なの?二人っきりになったりするんでしょ?」
セシルとデルフィーヌの言葉がチクリとカミーユの胸を痛めた。クロエのことをそんな風に言わないで欲しい。純粋な気持ちが自然とカミーユを突き動かす。
「先生は!とっても素敵な方です…!」
珍しく声を張ったカミーユに、少女たちは目を瞬いた。
「二人で勉強をした後はいつも美味しい紅茶を淹れてくださるし、私のことを良く見ていてくれる。それに…今日の髪だって先生から習ってできるようになったの…!」
「……。」
真っ赤になってカミーユが訴えると、妙な沈黙が訪れた。カミーユはいたたまれず、皆の顔を見ることができなかった。しかし言いたいことは言った、と悔いる気持ちは無い。
「か、可愛い結い方だと思っていたの…!」
張り詰めた空気を破ったのは可憐な声だった。カミーユが目を上げると、アルトが頬を染めていた。
すると、他の三人も口々に同意する。
「そんなことまで教えてくださるの!?羨ましいわ!」
「いえ、そんな…別に悪く言うつもりはなかったのよ…ただ、その、貴女が大丈夫なのかなって…。」
「そうそう。」
セシルとデルフィーヌの様子から、カミーユは彼女たちが本当に自分のことを心配してくれていたことを悟り、慌てて二人に礼を言った。
―そうだわ。この頃から、私…。
「カミーユ!これどう思う?」
「やっだアンタ本当に十四歳?」
「あははは!ほんと面白い子!」
ほろりと、カミーユの目から涙がこぼれる。夢の中なのに、頬を流れる雫は熱を持ち、カミーユの胸を締め付けた。
翌朝カミーユが腫れた瞼をそのままに部屋を出ると、出仕前の父親と出くわした。
「いってらっしゃいませ。」
平坦な口調でぺこりと頭を下げるカミーユに、子爵は何とも言えない気持ちになる。昨夜は帰るや否や、一直線に自室に籠ってしまったのだ。
本当はデュランとの縁談について本人の意思をそれとなく柔らかく聞きたかったが、今朝もどう見てもそんなことができる状態ではなさそうだった。
「行ってくる。よく休みなさい。」
オレガノ子爵はそれだけ言うと、カミーユの頭を軽く撫でて屋敷を出た。
「あの子はひょっとしたらそんな気は無く、断ってしまうかもしれないな…。」
揺れる馬車の中、子爵は一人でぼそりと呟いた。子爵の心には若干の惜しい気持ちが湧き上がったが、大部分は諦めが占めていた。
―カミーユを見ていると、新興貴族や世を渡る豪商と話している気分になる。きっとこれからの社会は彼女のような考え方の方が通用するようになるのだろう。
『カミーユ。さっきお前が話していたのは…。』
『高級娼婦のココさんですが。』
『…あまりああいう人とは。』
『でも、私よりよく物を知っていらっしゃいました。それに変に気も遣わないし、余計な遠慮もなさらなくて。自分と同じく出入りを許されているのだから、区別するのは失礼です。』
『しかし…ううんどうも私は…。』
『ああでも、お父様はそれでよろしいと思います。私は『世に出て日の浅い未婚の娘』という立場にあやかって、好きにさせていただいていますので。』
時折、カミーユとの会話の中で子爵は自らの頭と感覚が古臭く感じられることを否めなかった。
―あの子の生き方は、あの子が決めるべきだ。
何か言いたそうな顔だった。なのに、何も言われなかった。
カミーユは直前に見た父親の様子を思い返し、気を遣われたのだと察した。
「カミーユ、出かけるの?」
オレガノ夫人は心配故に少々責めるような口調で支度を整えているカミーユに尋ねた。
「何があったの?」
カミーユは母親の目を見て、昨夜の夢を思い出した。そして胸元のリボンを整える手を止め、きちんと母に向き合った。
「クロエと喧嘩をしました。私の不用意な言葉で傷つけてしまいました。」
「…あなたはそれで悲しんでいるの?」
『今だって…何を知っているの?』
脳内に昨日の言葉が過ぎる。カミーユの胸がチクリと痛んだ。
-いいえ。これではなく、私は…。
『知らないわよ!クロエが隠してるんじゃん!!』
「そうです。」
―クロエを傷つけたことが、一番悲しい。
オレガノ夫人はカミーユの瞳があまりにも真っ直ぐだったので、胸の内に小さな疑問が浮かんだ。しかし、それは口には出さなかった。
「じゃあ、先生のところに行くの?」
「はい。」
「仲直りしてもらえそうなの?」
「分かりません。でも…。」
カミーユは一度言葉を切った。夫人の質問は最もだが、それはカミーユにも分からない。ただ、自分が今必要だと思うことは。
「クロエと話がしたいのです。」




