泡立つ気持ち
あっという間に目の前からいなくなってしまったカミーユに伸ばした手を見つめ、デュランはキョトンとした。
自分が口にしたこと、それを聞いたカミーユの表情、デュランは今の出来事をゆっくりと頭の中で辿った。駆けて行った彼女に、どんな意見を求めたのだろう。
―いつものように、僕が納得する返事を期待した?それとも…。
「レスコー卿!」
自分を呼ぶ声に、デュランはわずかにハッとする。冷や汗を浮かべながらオレガノ子爵が近づいてきた。デュランは子爵に対して恭しく礼をする。
「娘が何か無礼を?」
そこでデュランは初めて、周りの控えめなどよめきと、好奇心にあふれた視線に気が付いた。
―何てことだろう。
デュランは信じられない気持ちだった。一瞬でも、自分がその場の注意を失うなんて。
「あの、レスコー卿。」
気遣うように声をかけてくるオレガノ子爵にデュランは遠慮がちに、それでいて親愛を込めて微笑んだ。
「いえ、オレガノ様。お嬢さんは…大事なご用をお忘れとかで。それはいけないと、不躾ながら背中を押してしまいました。ご心配をおかけして申し訳ありません。」
気持ち声のボリュームを上げて、周囲への説明まで済ませる。子爵はデュランの言葉に胸を撫で下ろしたようだったが、「急用…?」と不思議に思ってもいるようだった。デュランは誤魔化すように、普段のカミーユの様子を褒めそやすと、それとなく子爵の背に手を置き、庭の方へと足を進めるよう促した。
連れ立って庭に出てゆく二人を、周囲の人々は気になる様子で見ていたが、追いかけてまで見に行く無粋な者はいなかった。
デュランは柔らかな日差しの下、カミーユの父親であるオレガノ子爵を非常に控えめに観察した。
オレガノ家と言えば、自ら目立とうとはしないが、王宮に名前を残し続ける堅実な家だ。暗い噂も無く、当主も誠実な人柄だと聞いている。娘が蕾の園入りしたときには婚約が決まっていたため、あまり注目はされなかったが、現在子爵はフリーになった娘に寄ってたかってくる人々をうまく制御している。
誠実で、善良で、強か。これまで直接的な交流こそ無かったが、デュランはオレガノ子爵のことを気に入っていた。唯一の減点としては、プランタン家との婚約を一度でも結んでしまったという点だったが、カミーユが平手で応えたと聞くと一考した。
ただ、この場で着目すべきは「オレガノ子爵がカミーユの父親である」こと。デュランの興味を占めるのはこの一点に尽きた。
「信頼のおけるあなた様に折り入ってお願いがございます。」
オレガノ子爵は、デュランの一段低くなった声に静かに反応した。何を言われるのか、分かっているかのような落ち着きようだった。
「私がお力になりますでしょうか。」
「むしろ、あなたでなければ。」
デュランはゆっくりと腰を折り、オレガノ子爵に頭を垂れる。
「カミーユ嬢に、結婚を申し込みたく存じます。」
オレガノ子爵の眼が、ゆっくりと細められた。
昔から自分は良く褒められた。そういう生まれだからだと、冷静な父親が諭したおかげで物心ついた頃からどんな美辞麗句にも浮かれることはなかった。
人にはいつも意図があり、目的がある。近寄ってくる人間の顔色や声の調子をよく観察してその考えを読むことに努めた。しかし、その法則から外れる人間にもしばしば出会った。それは、端的に言えば自分に「恋をした」者たちである。
彼女たちの行動原理は全て「恋」のためであり、頻繁にデュランの考えの及ばない行動に走った。例えば、「尊敬しているから」と言って自分の姿画を部屋一面に飾り立てたり、躓いたところに差し出せされた手を中々離さないどころか自身の胸に手を押し当てたり。相手に好意を持たないデュランにとってはどれも不快だったが、とりわけ酷かったのは過剰なストーキング行為と私物の窃盗と全く身に覚えのない修羅場である。
これらの身の毛のよだつ記憶がデュランに深く根付き、「恋」など碌なものではないという絶対的命題に辿り着いた。
代わりにデュランが好むのは分別のある人間との理性的な交流である。その点、リジーは普通にしていれば頭が良かったし、古い付き合いでデュランの考えにも共感はせずとも理解は示していた。惜しむらくは、幼い頃の初恋とやらをずっと引きずっていることだったが、それも美しい思い出を愛でているくらいに思っていた。それがどうだ。リジーは彼女の記憶の中にだけ居たはずの、初恋の人物に出会ってしまったらしい。
―ああリジー。残念だ。あんな君、見たくなかったよ。
要らぬ見栄を張り、理不尽にカミーユを叱責した姿はデュランにとって愚かとしか捉えようがなかった。
そして強く思った。カミーユのそんな姿は決して見たくない。
デュランはカミーユがどんな意見も柔軟な姿勢で聞いていることを尊敬した。未だ排他的ではあるものの、形を変え始めた社交界には柔軟な人間が必要であると常々思っていたデュランが出会った相手、それがカミーユだった。
―彼女がこのままどこぞの誰と結婚して埋もれてしまうなんて。
―彼女が恋に走ってその尊厳を損なうなんて。
そんなことはさせない。させてはならない。
デュランの胸に熱いものが宿った。それこそ自分の役割、使命である。
「…お嬢さんは、これからの社交界にきっと必要な方です。彼女を守ることは、家同士を超えた、もっと大きな意味で重要となると思っています。」
「ああ、頭をお上げください。レスコー卿。」
オレガノ子爵は最大の敬意を払った。目の前で腰を折る人物は、これまでのどの相手よりも格上の家の出であったが、これまでのどの青年よりも真摯な情熱が向けられていた。オレガノ子爵は貴族としてや父親としてよりも、一人の人間として心が動かされそうになった。
しかし、口から発したのは了承の言葉ではなかった。
「あなたでしたら我が家には勿体ないくらいです。ですが、どうかそのお話は娘にしてやってください。私は一度判断を誤りました。そして、何が最も大事かを他ならぬ娘に教えられました。…人間の尊厳です。思えば我が家はそれでもってきたようなものです。実直、誠実、それでこそオレガノ家であったと。妙な見栄を張ったり、小手先の利益に走り回ることなど、慣れぬことはするものではありませんね。カミーユは蕾の園に行ってから見違えるようになりました。あなたにそのような申し出をしていただけることがその証拠です。」
子爵は一度言葉を切り、深く息を吐いた。
「恐れ多いことですが、私はカミーユの意思を汲んでやりたいと思っております。あの子があなたの手を取るならば、何も文句はございません。」
―成程、カミーユの父親だ。いや、それよりも改心した口か。
どこに、我がレスコー公爵家からの申し出を蹴る人間が居ると思うだろう。一も二もなく、飛びつくのがこの世界の常識である。にも関わらずこの父親はこの場で一刻も早く話を付けようとするどころか、手前に引き取ることもしない。
―彼女を評価するものとしては僕と同士だね。
デュランはますますこの子爵のことが気に入った。義理の父親として置いてもいいと思え、恭しく了承の意を込めて頷いた。
「はあ、はあ…!」
カミーユは居てもたってもいられなかった。この気持ちを確かめたい。決して浅ましいものではなく、尊いものであると信じたい。クロエへの気持ちが次々と溢れてはカミーユを突き動かした。
逸る気持ちと裏腹に、いつでも冷静な自分の思考の一部分が水を差してきた。
―自分の恋心をどうしようというの。
物心ついた時には、婚約者が居た。彼はいつもたくさんの女の子に囲まれていた。自分は殆ど彼と話したことは無かった。正直なところを言えば、好きでも嫌いでもなかった。彼との結婚は義務であり、良いも悪いもなかった。
社交界に出てからも、カミーユの心に居たのはクロエだけ。誰にもなびくことがなかったのは、きっとクロエが一番だったから。縁談を当分御免だと思うことに、ミシューの件などもとより関係なかったのだ。
カミーユはやっと自分の気持ちが理解できた。
「どうしたらいい…?」
それなのに。いくら社交界が貴族以外を受け入れ始めたと言っても、一介の家庭教師であるクロエが自分の婚約者の候補に上る望みは限りなく薄い。
カミーユは初めて覚える激情に顔をしかめた。頭の中では色んな声が聞こえる。そのどれもが正しいように思えて、カミーユはどうしたらいいのかが分からなかった。
―来てしまった。
衝動的にサロンを抜け出し、馬車も使わずに足を進め、無機質なアパルトマンの部屋の一室の前でカミーユは立ち尽くした。
あとはドアを叩くだけ。クロエがいつもの笑顔で「どうしたのよ」と出てくるのを待つだけ。
―何をしに来たと言えばいい?顔を見に?それともリジーみたくレッスンを頼む?会って私はどうしたい?
カミーユが自問自答を繰り広げ、ドアの前に突っ立っていると、突然内側からドアが開き、呆然としていたカミーユの額にぶつかった。
「痛!」
「えっ!?何!?すみませ…。」
中から慌てた声をあげた家主は、ドアの前で額を抑える彼女に目を見開いた。
「カミーユ…。」




