苦悩の先
「ああもう!!」
クロエは自分の城―住宅街のアパルトマンの一室に戻ると、業火に焼かれるような苦しみを覚えた。
「アタシは、相応しくないのよ…!」
一番嫌いな、抜け殻のような薄っぺらな自分。王子という型に無理矢理はめ込まれ、痛みで苦しみ藻掻いていたあの頃。リジーの告白はクロエの闇に眩しすぎる光を向けた。
思い出されるのは、鬱々として過ごした日々とかつて自分を「そうじゃない」と窘めた人々。自分より優位に立つ人間に、否定を突きつけることにある種の快楽を見出していた恐ろしい人間たち。いつか「王子を立派にしたのは自分だ」と言う未来だけを夢見て、エミール自身を見なかった野心の塊。
厳格なユリウスよりも、柔和なエミールは野心溢れる家臣たちの的になっていた。まさかユリウスがクロエを追放するとは思っていなかった彼らは当時冷や汗を流したことだろう。
クロエはやるせない気持ちになった。
厚顔な側近たちに呆れるのと同時に、かつて王宮に適応できず、連れ出されなければ逃げることもできなかった当時の不甲斐ない自分のことも思い出させられ、憤りのやり場が方々に及んでいてどうしようもなくなる。
王政とは言え、独裁ではない。平民が力をつけ始め、貴族の力が揺らいできたと同時に、王家の在り方も変わらざるを得なくなってきた。王として居られることができるのは、周りが王と崇めているからだと、王家は心得る。「努々驕ることなかれ」というのが先代からの教えだ。
王宮という権力の中心で生き抜くということは、従順な顔をして傍に仕える家臣たちを制し、かつ誰からも一目置かれる存在になる、ということだ。しかし、クロエは王宮ではどちらも得ることができなかった。
それがクロエの捨てきれないコンプレックスであり、今まで心の内にしまい込んでいた闇だった。
しかし、あろうことか、その病み切っていた記憶しかない王宮時代に無理して演じた「王子様」をリジーは長い年月を経たのにも関わらず、今もなお「ふさわしい」と断言してしまうくらいに美しい記憶として留めていたのだ。否、実際よりもはるかに美化してしまっているのかもしれない。
クロエは頭を抱えた。自分に好意を向けた女性の中で、リジーほど厄介な相手はいただろうか。何せ、彼女はクロエの王宮復活を目指して己の人生を歩んでしまったくらいの熱量を持っているのだ。
クロエはそれを聞き、率直に「なんでそんなことを」と思った。
―アタシって最低。最低すぎるわ。
今リジーは二十歳。蕾の園に入るのは十三歳。そもそも、自分と会ったのはいつだったか。優に人生の殆どを捧げてしまったではないか。
「本当に…どうしてそんなことを…?」
リジーの想いをありがたく受け取れず、なんなら再び出会わなければ良かったとさえ思った自分を最低最悪だと思うのだが、どうあってもクロエはリジーに対して報いることはできない。
切り捨てるようにあっさりと帰って来たが、あれでリジーが諦めてくれるだろうか。彼女には、早々に舵を切り替えて自分自身の人生を歩んでもらいたいと切に願うしかない。
クロエもまた、自分の人生を今一度見直すべき時が来ていた。
『蕾の園での契約続行の手続きについて』
リジーとは全くの別件で仕掛けられる王宮への勧誘は、クロエの心を揺さぶっていた。
蕾の園のコーチと言うのは、クロエと王族が現在唯一妥協できる道だった。エミールにとってはクロエ・イヴェットとして兄へ報いることができ、王家としては何とかエミールを自分達と繋ぎ留めておくたった一つの手段なのである。
王宮からこっそりと逃がされた見目の愛らしい少年は家出の理由を適当にでっち上げ、新しい暮らしをスタートさせた。儚く麗しい少年は、近隣の主婦や年上の女性から大いにウケた。クロエはそれをいいことに、彼女たちと交流する中で料理や洗濯等、自立した生活に必要なスキルを学んだ。加えてさりげなく彼女達からメイクやお洒落の技術を盗むことに成功し、更に新しい道を切り開いた。この時、クロエはすでに十七歳。ひとかどの青年に成長していた。
『花嫁修業の個人レッスン承ります』
手探りで始めた仕事は思いのほか順調な滑り出しだった。最初の客はツテで紹介された近所のちょっと裕福な家の娘だった。娘はクロエのレッスンを受け、同じ位裕福で誠実な男のもとに嫁いだ。
生徒当人からの絶賛の声も加勢して、結果クロエは雇い主たちから一目置かれるようになる。クロエがもはや隠すことをやめた話し方、自分らしい一人称については「カリスマ教師」ゆえの個性なのだと勝手に解釈され、いつの間にか受容されるようになっていった。
クロエは理解した。
―この職でこの世界でなら、自分らしく生きていけるわ!
王宮だけが生き場所ではない。水生の生き物が陸で生きていけないように、クロエは王宮では息ができなかった。やっと、クロエは初めて息ができたような気がした。
幸いにして、十歳から人前に出ることを避けていた上に、庶民的に垢抜けることに成功したクロエにかつての王子の面影を見出す眼力の持ち主はおらず、クロエはうまく貴族の客までも捕まえた。
口コミと確かな技術でクロエの家庭教師業は軌道に乗り、クロエは三年間暮らした隠れ家を兄に返上することにした。たまに様子を見にこっそりと遣わされる護衛に兄への手紙と稼ぎの一部を渡してクロエは住み慣れた隠れ家を出た。兄が自分のために用意した費用は全て働いて返すつもりでいた。
クロエが次の住処に選んだのはごちゃごちゃと入り組んだ住宅街のアパルトマンの一室。誰がどんな生活をしていても気にしない、働くことに一生懸命な人々が暮らす場所だった。クロエの人生は新たな局面を迎えた。自分の好きな自分でいることで、幼い頃怯えていた奇異の目に晒されても己を貫くことに遠慮もためらいも無かった。人に受け入れられなくてもいい、と自身に言い聞かせ、クロエは自分の好きな自分で居ることに拘った。
そんなクロエに、国の一流淑女育成機関『蕾の園』から勧誘が来たのは、クロエが兄への支払いを全て完了してすぐのことだった。
蕾の園は王宮の機関だ。関係者以外は出入りすることが無いにしても、王宮の敷地内に設けられている。クロエにとっては大きすぎるリスクであり、かつ激しい抵抗を覚える場所だった。花嫁修業の家庭教師としての評判を聞きつけた王宮関係者の仕業だろうと簡単に予想が付いた。
事実、王妃を始めとするクロエに一番近しい王族の企みであり、クロエがクロエらしくいられる王宮での居場所を作ろうとしたのだった。それは母親としての贖罪でもあり、我が子への執着でもあった。
五年間何の音沙汰もない上に、律儀に兄への返済を終えてしまった次男がいよいよ実家との関りを断ってしまうのでは、と危ぶまれたのである。
蕾の園からの熱烈な勧誘に、クロエは悩んだ。一人で勝手に肩の荷を下ろしてしまったことに罪悪感が無いわけでは無いし、できるなら兄の役に立ちたいとも思っていた。しかし、五年前までのあの苦悩や、兄のせっかくの決意を思い返すと、やすやすと王宮の土を踏むことはとてもできかねる。しかも、蕾の園の任期は相当な長丁場だった。
「蕾の園ではクロエ・イヴェットとして存在すること。蕾の園への立ち入りはコーチと生徒のみに制限すること。」
ついに先方が出した条件が決め手となり、クロエは苦悩の末、罪悪感と責任感から逃れられず蕾の園に足を踏み入れた。
任期の六年間が、思わぬほど実りの多かったことは僥倖である。
―これからも、勧められるままに、クロエ・イヴェットとして…エミールを偽る姿で…蕾の園のコーチの椅子に座り続けるの?リジーにはああ言ったけれど、結局は自分を守ってくれた王家とつかず離れず、この甘えた関係のまま生きて行くの?
クロエは沈思の間、無意識に閉じていた目を開いた。
蕾の園の契約続行を催促する手紙の末尾に書かれている責任者―母親の名前を指でなぞる。
全てとは言わないが、今なら多少なりとも肉親の心配が分かる。自分のことだけで頭がいっぱいだったあの頃は、とにかく周りが自分を苦しめているとしか思えなかった。
しかし、王子として育てる他ない周囲も、自分への扱いに相当苦心していたに違いない。申し訳ない気持ちと、寂しい気持ちに苛まれ、クロエは再び目を閉じた。
王宮での十五年は苦しかった。王宮を出てからの五年はただ必死に生きた。蕾の園での六年間は…。
「一番、幸せだったわ…。」
自然と長く時間を共にしたカミーユの顔が思い浮かんだ。
『先生…。』
『先生、できました。』
『先生!これ、教えてください。』
花が綻ぶように成長していった少女は今や社交界という戦場に一人で立ち、美しく咲き誇っている。クロエは置いて行かれた子供のように、「待って」と遠くに離れていく彼女の手を引き留めたいと思った自分に苦笑した。




