正体
「また来てる…。」
留守にしている間に届いていた手紙の送り主を見てクロエは重たい気持ちを抱えていた。机に手紙を置くと、深いため息を吐く。澄んだ青い目が、陰鬱な影を秘めていた。
蕾の園からの催促状である。来期の講師の継続申請を促しているのだ。蕾の園は、どうしても自分を手放そうとしない。それも監視のためだと承知している。クロエは王宮に報いたいという気持ちと、煩わしい気持ちに板挟みになっていた。
また、クロエを悩ませているのは蕾の園だけではない。先日からボワール家へ招かれることになった理由をずっと考えていた。リジーは優秀過ぎる生徒だ。今更講師など必要ないことは明白だった。講師を依頼してくる訳に、「もしかして」と思い当たることはある。
「もしもバレたら…どうしようかしら。ああ、もっと遠くに行っているべき…。」
そんなことを考えた途端、あの日出会った少女が浮かんでくる。クロエは頭をブンブンと横に振った。
―何を考えているの。今以上の最善なんてないのよ。
クロエは温いことを考えた自分を戒めるように固く目を瞑った。クロエの記憶の中には、いつまでも残り続ける日々がある。
良く晴れた穏やかな春の日、クロエは彼女と出会った。
「先生、でしょうか。あの…よろしくお願いします。」
あどけない少女だった。周りの同級生のコーチは皆女性なのにどうして自分のコーチは男性なのかと戸惑っているのが手に取るように分かった。クロエはそれが面白くなく、少し意地悪な気分になり、彼女の小さな鼻を摘まんで「諦めなさいね」と言ったのを覚えている。
カミーユは大人しい少女だった。自分の意見を言うことが得手ではなさそうだったが、自分の意思や考えが無いわけでは無いようだった。
物静かなカミーユはジッと色んなものを観察し、出来るだけ色んな面から物事を考えようとする性格だった。「これは?」「あれは?」とクロエに気になることを尋ねては、自分の中でよく咀嚼するように少女は黙ってウンウンとひとり頷いていた。結果、彼女の中でどんな考えに至ったのかは、彼女が人に伝える必要がないと思っているのか、口に出すことは無かった。
クロエはカミーユが何を考えているのか、知りたいと思い、カミーユの意見を何とか引き出そうとアレコレ苦心した。
「何してるの?」
ある日柱の影からこっそりとクロエを観察していたカミーユを見つけると、クロエはダッシュでカミーユを捕まえ、質問した。首根っこを掴まれたカミーユは直ぐに観念すると、「すみません」と謝った。
「いいわよ謝んなくて。で?何してたの?アタシに用事?」
カミーユは口を尖らせ、話そうかどうかしばし迷う素振りを見せた。早々に痺れを切らしたクロエが「言ってみなさい」とカミーユの柔らかい頬をツンツン突くと、少女はクロエの指から逃れるためにやっと口を開いた。
「どうして先生は女の人みたいな話し方をするのだろうって、思って見ていました。」
デリケートな部分直撃の話題にクロエはビシリと固まったが、カミーユの曇りの無い純粋な瞳に見つめられ、クロエはどんな言い訳も冗談も使えないと察した。カミーユが面白がって聞いているわけでは無いことは聞かなくても分かる。
「答えは出た?」
クロエの試すような聞き方に、カミーユはううんと顔をしかめて首を捻った。彼女が分からない問題に直面したときの仕草である。
「理由なんて無いわ。そういう人間だからよ。」
「そういう、人だから。」
カミーユはあっさりとしたクロエの答えを素直に飲み込んだ。そして神妙な顔つきで、「フリではなかったんですね」と頷く。
クロエはカミーユの言った意味が分からなかった。体を屈め、視線を合わせる。真意を問うようにカミーユの赤茶色の目を覗くと、少女の目はくるりと動いた。クロエは覗きこまれているのは自分の方だと、ドキリとした。
「どういう意味なの?」
「…女の人ばかりだから、仲間外れにならないように女性らしくされているのかもと思っていたので。」
カミーユの回答はクロエには中々の衝撃だった。例え周囲に迎合した方が生きやすいとしても、世間では「男性」が「女性」と同じように振舞えば余計に浮くものだ。事実、カミーユに悟られないようにしていたがクロエは他の教師たちから距離を置かれていた。
「それ以外に、思い付かなったので。すみません。先生はそのままで、その、素敵です。」
口数少なく、少女は言った。気を遣った素振りの無い言葉にクロエの目がしらが熱を帯びた。
「やあねえ!何言ってんのよこの子は。アタシが誰かに遠慮して生きるなんてあり得ないわ。」
誤魔化すようにカミーユの肩を親しみを込めて抱くと、少女はポツリと「先生みたいになりたい」と言い、クロエは心臓を掴まれたような感覚を覚えた。
無垢ゆえか、慣れからか。
―いえ、理由なんてどうでもいい。
クロエはカミーユに対して、偶然受け持っただけの生徒に持つべき感情以上の想いを抱かずにはいられなかった。どうしようもない愛着と庇護欲がクロエの中で湧き上がる。ただし、庇護欲と言ってもカミーユに降りかかるもの全てからクロエが守るのではない。彼女が自分で振り払える力をつけてあげたい。何とかしてこの子を一人前にする、とクロエは固く決意した。
それゆえ時には厳しいことも言ったし、喧嘩もした。だが、彼女が喧嘩をできるようになったこともクロエにとっては喜ばしいことだった。六年間、クロエは全くカミーユのために生きてきたし、それがクロエ自身のためにもなったのだ。
己を貫き続けることと、自分を誰かに受け止めて貰えることは全く異なる次元の話だ。前者を邁進して生きてきたクロエにとって、カミーユとの出会いは人生において決定的な出来事となったのである。
―そんな彼女と出会わなかった人生なんて、何になろう。
クロエはくしゃりと手紙を握り潰した。
ボワール家へ五回目になるレッスンのために足を運ぶと、浮かない顔のリジーがクロエを出迎えた。クロエはいつもと違う空気を感じ取った。もうこのまま何も無ければ今日でレッスンを終わりにするよう申し出るつもりだった。
しかし、相手も限界を見極めるに長けた社交界の猛者、事はクロエの思うようにはいかなかった。
リジーは今日しかない、と思っていた。レッスンを続けるだけの口実はもうもたない。クロエに会う度にこれきりかもしれないという焦りがリジーを苛んだ。どうかこの苦しみから、自分をずっと捉えている長い苦しみから救って欲しい。
「…今日は、お話がしたく存じます。」
「何でしょう。」
クロエはずっと一線を引いてきた。一貫してブレることなく他人行儀に振舞った。若い頃のようにむやみに自分自身を貫くことはしなかった。受け入れられないことに反抗する時期は既にカミーユと共に過ごした日々で終わっている。人間、時と場合によっては自分らしさを控える必要があるということを真に学び、生徒によって適切な指導態度に変えることを覚えた。
加えて今回は、敢えて心を許さず、ただ従順に雇われた人間として接していた。そしてその態度は着実にリジーを追い詰めていた。
「あなた様は…私の古い知り合い、にとても良く似ていらっしゃいます。最後にお姿を見たのはもう十年以上も前ですから古い話をと笑われてしまうかもしれませんが。」
「私はどなたに似ているのでしょう。人によっては光栄ですね。」
リジーはクロエの目を真っ直ぐと見つめた。クロエはひたすら風が凪いだように静かで、消えてしまいそうな程儚かった。クロエが今何を感じ、考えているのか、人の心を読むことに長けているリジーにも分からなかった。しかしその澄んだ青い瞳には、はっきりと覚えがある。
「エミール・ランベール様…。あなたは、この国の第二王子様ではありませんか…?」
リジーの消え入る声は涙に代わり、ぽろりと灰色の目から雫が零れた。
クロエは何か言おうと口を開いたが、言葉は発せられることなく、ピタリと唇を閉じる。
―やっぱり。アンタが知りたがっていたのはソレだったのね。
これまでリジーがぶつけてきた質問の内容から、クロエは自身が王宮関係者ではないかと疑われているとは予想していたが、どうしてリジーが『ソレ』に感づいたのかが分からなかった。
「幼い頃、一度だけお会いいたしました。私はあの時のことがずっと忘れられません。隅っこで小さくなっていた私に手を差し伸べてくださった…。本物の、王子様だと思いました。」
「お、お人違いでは。」
「どうか!おっしゃってください!あなた様にもう一度会いたくて、わたくし…。」
いつもは気丈なリジーの瞳から、大粒の涙がポロリポロリと零れ落ちる。
クロエの心臓がドクリと妙な感じに脈打った。知らず、クロエの体は体温を失っていった。ひたりひたりと、緊張感と恐怖がクロエの神経を這う。
何も言わないクロエに、リジーの確信が高まる。
リジーは一歩踏み出した。信じられない気持ちだった。幼い頃、優しさに触れて、憧れて、知らぬ間に目の前からいなくなってしまった彼が、やっと戻ってきてくれた。リジーの心に光明が差した時。
「やだわ!アタシ、貴女の望む『王子様』じゃなくってよ。今も、昔も。」
ぴたりとリジーは動きを止める。得も言われぬ違和感を覚えた。目の前の麗しい初恋の人物を見つめると、かの人は悩ましく首を竦めた。片手を頬に宛てたクロエから流し目を送られる。妙に婀娜っぽい仕草にリジーはびくりとした。頬には涙の跡が残ったまま、リジーの涙は引っ込んだ。
「えええ、え、エミールさま、ですよね?」
「そうよ。どうかして?残念だけど、これがアタシ。」
リジーは息を飲んだ。記憶の中のクロエ、もといエミールは確かに儚い美しさを湛えた少年ではあったが、そんな話し方ではなかったし、仕草もそんなにたおやかではなかった。彼に何があったのか、リジーは必死に記憶を辿った。
―驚いているわね。
クロエは密かに安堵した。精一杯明るい声を出したものの、心の内は凄絶たる風景だった。バレた。もう何を言っても彼女は確信している。何一つ思い出せない幼いリジーとの過去。彼女の内で美化された自分の姿に吐き気がした。
―最初からアタシ自身で行けば良かったわ!アタシの馬鹿!肝心なところで見誤るなんて!
クロエはリジーが何かを疑っていると察する一方で、自分に好意を抱いていることにも気が付いていた。必要があって紳士的な振る舞いをしたクロエに好意を抱いた女性は初めてではない。しかし経験上、彼女たちは素のクロエを見ると自然と退いていくものだった。
それは、クロエにとっては非常に屈辱的だったが、貴族社会、特に古参の上流貴族に身を置く人間にとって、型にはまらない人間は忌諱したがるものであり、その実情をよく知っているクロエは彼女たちを責める気は起こらなかった。むしろ彼女たちを退けるには、進んで用いる手であった。
今回も、どうか幻滅して離れて行くことを期待してここぞというときのために素の自分を隠してきたのである。そして。
案の定、リジーは呆然としていた。彼女の中の憧れの『王子様』が崩れ去ったに違いない。
―結局この子は、幼い頃の初恋を追っていただけ。アタシが本物の第二王子であるかどうかは大きな問題ではなさそうね。でも、何としても他言だけは…。
「エミール様!」
幻滅したと思いきや、リジーは思い詰めた顔でさらにクロエの方に一歩距離を詰めてきた。クロエは思わず一歩後ろに下がる。
「な、なあに…?」
まだ足りなかったか、とクロエは持ちうる可愛らしさを総動員して、過剰なくらいににっこりと笑った。
リジーはそんなクロエを見て、一層感情を高ぶらせ「ああ…」と声を漏らした。
「そういうことでしたの…あなた様が王宮を追放されてしまった理由は…なんて酷いこと…。」
「え。」
「今、公にはご病気で表に出られないということになっていますが、恐れ多くも我がボワール家は古くからの王族とのお付き合い…エミール様のお姿が見えないのをご心配申し上げた際、本当はエミール様が王宮にいらっしゃらないということをこっそりと教えていただいていたのです。」
思わぬ発言はクロエへの新たな爆弾となった。リジーはクロエが口を挟む間もなく、自身が辿り着いた答えをさめざめと語った。
「第一王子ユリウス様は誇り高くて、冷静で厳粛な方…。あなた様を追い出したのは、ユリウス様と伺っております。あなた様のそのようなお姿をユリウス様はお許しにならなかった、ということでしょうか…。」
「アタシを追い出したのが兄上って、どこから聞いて…!」
「他でもない、ユリウス様のお言葉と。」
クロエは目の前がチカチカした。話に頭が着いて行かない。例えリジーの言うことが彼女の聞いたそのままのことであっても、クロエは決定的に合点がゆかない。
―追い出されてなんかいないんだけど!?
クロエは心の中で叫んだ。




