甚だ不本意
カミーユはガス灯で照らされた荘厳な石造りの建物を飛び出した。ドキドキと脈打つ心臓は、走っているからか、気分の高揚からか。いずれにせよ興奮していることには変わりない。カミーユはもつれそうになる足を一心不乱に動かした。
大層なことをしてしまった。反省はしているが後悔はしていない。あれでもまだ可愛い方である。本当はもっとたくさんの言葉を用意していたのだが、いざとなったらその一割も出て来なかった。
―でも、あれでいいわ。
カミーユの胸の内に、すっきりとした風が吹き抜ける。それでも奴の頬を叩いた手が、未だに熱を持っているような気がして、カミーユはブンブンと手首を振った。
「繋いであげましょうか。」
隣から差し出された大きくてしなやかな手を、カミーユは迷わず取った。金髪の男は満足そうに笑うと優しくカミーユの手を握り、エスコートするように、大きくて長い階段を下りた。
二人を乗せた馬車がオレガノ家に到着すると、家族使用人が慌ただしく総出で出迎えた。
「カミーユ!どうだった!?ああ、クロエ先生もよく一緒に行ってくださいました。」
オレガノ子爵は普段の落ち着いた様子はどこへやら。狼狽えながら二人を部屋へ通す。
「申し訳ありません。手が出ました。」
「何!!?」
「二発、お見舞いしました。言葉で以てというつもりでしたが、私と知らずに軽く声をかけられ、追いすがられましたのが生理的に我慢なりませんでした。」
「ああもう、無礼にも程がある。」
カミーユが何かを思い出し、己の拳をギュウと握ると、子爵は重たいため息をついて項垂れた。カミーユは父の姿を見て、再度プランタン家への怒りが込みあがってきたが、もうこれで仕舞としたのだ。これ以上関わって、こちらに未練があったと思われても屈辱である。カミーユはぐっとこらえて目を瞑った。隣に座るクロエの手が優しくカミーユの頭を撫でると、カミーユは静かに息を吐いた。
カミーユが寄宿学校から家へ戻って来たのはほんのひと月前のことである。十三歳から家を離れ、長く厳しい生活がやっと終わった。自分を待っているのは婚約者と社交界。将来への希望に少なからず高鳴らせた胸で意気揚々と帰って来た実家には。
どことなく暗く、重たい空気が漂っていた。
とても久しぶりの娘を歓迎する雰囲気ではなく、暗い表情の使用人たち、それ以上に陰鬱な雰囲気の家族。言うなれば、「お通夜」という感じが正しい。
カミーユは家族の異様な様子に何か不幸が発生したことを察し、家族か親戚に何かあったのではないかと案じた。どうしたのかと心配して詰め寄る娘に、父親が意を決して重たい口を開くと―。
「お前の婚約が破棄された。」
不幸があったのは身内ではなく自分であった。冗談ではなくカミーユは空いた口が塞がらなかった。その無防備っぷりと言ったら、何かを簡単に放り込めてしまいそうな程である。
―誰かの病気やケガでなくて良かったけれど、え?え?どういうこと??
カミーユは更なる大きな混乱に襲われた。
オレガノ子爵は娘の可哀そうな反応にいたたまれなくなり、「まあ座りなさい」とカミーユをソファに座らせた。
傍で見ていた母親と弟はひそひそと心配そうに何かを言い交している。
「カミーユ、順を追って話そう。ショックなのは分かる。まず、新興貴族のプランタン伯爵が十年前、当家に結婚の申し出をしてきた。あの時は評判も悪くなかったし、新興貴族を否定しないという姿勢を示すためと今後の社会の展望を考えて…。」
「お、お父様…!?全然入ってこないです!」
床の一点を見つめながらカミーユは訴えた。オレガノ子爵はハッとして、息子に「紙!紙!」と言って紙とペンを持って来させた。妻はその紙とペンでどうするつもりかと思ったが、子爵は紙に一生懸命分かりやすく現状を図示し始めた。
久々に帰って来た娘に、この上なく悲しいお知らせ。カミーユのことは勿論、妻と息子の目には必要以上に気を遣っている父親まで涙ぐましく映った。
カミーユは父親が懸命にしてくれた説明を一通り聞くと、ジッとして頭の中で整理した。
「私が小さい時、プランタン伯爵からミシューとの結婚の申し出があって、当時は問題なかったため了承。私は恥ずかしくない花嫁になるためにあの学校へ。その間、ミシューは変わらず女の子に囲まれていた。こちらからの度重なる苦言は「結婚するまでですから」で躱される。で、私の卒業を見計らったかのように紙一枚で婚約の解消を宣言、と。」
「こういうことで合ってますか?」とカミーユが正面に座る父親と、いつの間にか隣に座っていた弟のオージェと母親に尋ねた。三人はしきりに頷き、弟は小さく拍手した。カミーユは一仕事終えた疲労と達成感を覚えてソファにもたれかかったが、直ぐに追って怒りが沸き上がってきた。
「いったい何様なんですか!??」
カミーユは憤然と立ち上がった。握る拳はブルブルと震えている。この六年、自分が立派な淑女になるべくどれ程の努力を積んできたのか。瞼を閉じれば今でも鮮明に思い出す、あの厳しかった日々を。それに比べてあのぼんくらが何も考えずにご機嫌に過ごしていたのかと思うと、腸が煮えくり返る思いだ。
カミーユは口数の多い方ではなく、大人しい人間だと思われがちだが、元々隠れ熱血なタイプであった。幼い頃、自分に目もくれないミシューに密かに「今に見ていろ」と闘志を燃やして見返すつもりで猛勉強し、国一番の寄宿学校『蕾の園』に入学したくらいだ。
そんなカミーユが、その努力も空振りにされるような今回の不当極まりない行為をおめおめと水に流すことなど不可能に等しい。カミーユはキッと父親に鋭い視線を投げる。
「それで、はい分かりましたとお仕舞いになさるんですか!?」
オレガノ家としても相当軽んじられた対応であり、この上ない屈辱に違いないのに、世間様に知られたらどうするつもりかと、カミーユは顔の真ん中を歪ませながら父親を見下ろした。
母親は興奮しているカミーユの肩を優しく抱き、ゆっくりと座らせる。いつも内気だった娘が、随分とはっきり物を言うようになって帰って来たものだと内心驚いた。
興奮した猫のように息を荒げるカミーユに、子爵は「お前の怒りはもっともだ」と前置くと声に疲れを滲ませた。
「向うへの返事は『こちらもそのつもりだった』と返してやった。…いや実際婚約解消を考えてなかった訳では無いんだ。どうも、目に余る行為が多くてな。でもお前に一度話してからと思っていたらこの様だよ。」
オレガノ家は、この不当極まる婚約破棄を大事にしないという選択をした。責め立てたところで向こうが非を認める訳もなく、待っているのはみっともない泥仕合。こちらの労力や費用が削られ、更なる悪評が立つだけだというのは火を見るよりも明らかだった。
そして、その判断が世間に受け入れられたことは、形として現れた。
「どこで知れたのか、新たに婚姻の申し出も来ているわ。後で手紙を見て頂戴。」
カミーユの母親は務めて明るい声を出した。続いて弟もフンと胸を反らせる。
「当然だよ。うちと向こうでは信用が違う。王宮の執務官に名前を残し続けるオレガノ家の肩を持たない方が不自然だ。真っ当な貴族なら尚更だね。ま、普通に見て、あっちのバカ息子は庇いようがなかったけど。」
弟のオージェは姉の手を労わるように両手で包んだ。カミーユは、三つ下の弟の手が記憶よりもずっと大きくなっていたことに驚いた。
「僕たちが暗かったのは、今まで頑張ってきた姉さんがショックを受けるだろうと思ったからだよ。…ごめんね、姉さんの婚約者があんな奴で。」
オージェの温かく優しい眼差しにカミーユはほろりとした。
家族の話を聞き、この対応がすでに終了していることは理解したカミーユだったが、家族の気遣いを差し引きしてもやりきれない思いが残った。流石に事の顛末を聞けば、「そんな家に嫁がなくて良かった」とも思うものの、家同士のことはさておき、一人の人間として、女として、今回のような仕打ちに納得していいものだろうか。
―否。
カミーユは心の中で首を横に振る。「決して許せない」とカミーユがぼそりと口に出すと、両親は気まずそうに顔を見合わせた。
この思いをどうしたらいいのか。カミーユは神妙に、正面の父親を見据えた。父の顔にははっきりと「困った」と書かれている。
―それはそうよね。家同士でもう揉めるのは勘弁よね。それでも、これは『家』だけの問題で片付けられていいの?黙って耐えることが美徳?
カミーユは自問に対して、またも否定する。この場にいる家族に頼れないのであれば。カミーユが助けを求めるのは一人しかいない。
「先生を、クロエ先生のご意見をお伺いしたいです。」
クロエ・イヴェット。カミーユに六年間ついた花嫁修業のコーチである。オレガノ夫妻はカミーユが学校に入る時にしか会ったことがなかったが、六年間カミーユと二人三脚で過ごした信頼の厚い人物である。カミーユの目にただならぬ危険な色を見て取った一家は、娘とは別の期待を寄せてクロエ氏の意見を聞くことにした。
「それは、カミーユが自分で決着をつけなさい!」
「先生!先生ならそうおっしゃると思いました!」
固く手を握り合う師弟を見て、両親と弟は唖然とした。一報を入れるや否や、クロエは直ぐに「来たわよ!」と飛んできた。そして事情を聞けば先の通りである。家族は心の隅で、「可哀そうだけど、事を蒸し返すよりも新たに来ている縁談を前向きに考えなさい」と言ってくれるのを期待していたのであった。
ところがクロエ氏はオレガノ家の期待に少しも応えないどころか、まったく別件で彼らに強烈なショックを与えていた。
「アンタのこれまでの頑張りはアタシが一番よく知ってる。紙切れ一枚に泣き寝入りすることなんて無いわ!」」
強く言い切るその姿は容姿こそ王子のような美しさだったが、雰囲気や仕草は女王を彷彿とさせた。
以前会ったときは笑顔の爽やかな好青年だったとオレガノ夫妻は記憶している。故にクロエの一挙一動はオレガノ家が抱いていた先生像を悉く破壊した。
オレガノ子爵はあらゆることに混乱していたが、突っ走ってしまいそうな二人にハッとすると「ちょっと待ってください」と口を挟んだ。クロエは子爵に向かって一瞬哀れむような顔を見せたが、静かに首を横に振った。
「もう、お家のことはお済でしょう?『この子』の、個人の尊厳を傷つけたことはどうなさるおつもりですか?ただの捨てられた女でいることに甘んじるのですか?」
クロエの言葉に、オレガノ子爵は言葉を詰まらせた。それはどうしようもないことだと思っていたからだ。それ故に、カミーユの無念さを慮って一家で暗くなっていたのである。
クロエは家族に厳しい選択を迫ったが、オレガノ子爵の胸中を理解していた。これ以上の騒動は御免だろうし、妙なことをして世間から白い目で見られるリスクを犯すわけにはいかないのは当たり前だ。家にとっても、カミーユ自身の未来を考えても。それでも、クロエの考えは違った。
「大丈夫。世間は正しく評価なさいますよ。女遊びを繰り返す無礼な家の放蕩息子に、誰の目から見ても立派な淑女が正当な意見を述べることを。そして、この子は自分でそれをやれる子ですわ。」
クロエは自信たっぷりにカミーユを見た。カミーユは力強く頷いた。オレガノ夫人は娘の毅然とした表情を目にすると、信じられないと言ってため息をついた。オージェも驚きの目で姉を見つめる。そして二人は期待に満ちた目でオレガノ子爵へと視線を移した。
本心を言えば、彼らも心底腹に据えかねており、何とか一矢報いたいと思っていたのである。
家名を背負う身として、オレガノ子爵は最後まで粘ったが、終には半ば諦めるようにクロエとカミーユの強い意思を尊重した。
お読みいただき、ありがとうございます!
夜も二話出しますので、よろしくお願いします。