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降りかかった火の粉が燃え盛る

 カミーユの指先に自然と力が入る。カミーユは土俵をウージェーヌに譲ることを暗に伝えた。カミーユの意図を察したウージェニーはふっくらした顔にパッと明るい笑顔を浮かべた。


「任せてください。いくつにしようと考えれば簡単ですのよ。パイをn等分とするときは…あらやだ分かりづらいですわねπをnですって!こっちのタルトにしましょう。縁は正円だと思ってくださいね。」


 セリーズはウージェニーの数学的な文言の羅列に面くらった。ウージェニーはにこにこと楽しそうに円の中心を通ったり、通らなかったりしてタルトを等分する方法を語ってゆく。

 何を隠そう、ウージェニーは学問教科では常にトップだったのだ。特に強かったのが理数系である。彼女の頭の中に詰まっている式や定理がこんな時に役に立とうとは本人も思わなかっただろう。

 カミーユは段々と顔が赤くなっていくセリーズを涼しい顔で眺めた。


 ―困っているわね。…私ももうついていけないもの。


 カミーユは分かって聞いているという顔を崩すことなく、セリーズが音を上げるのを待った。


「体積的にピッタリかという検証は平面の切り取り線を垂直に下ろすという条件で割愛させて…。」

「もういいわ!何なの!?」


 顔を赤くして怒るセリーズに、ウージェニーはコテンと首を傾げた。


「分かりづらかったでしょうか。」


 セリーズは目を見開き、何か言いたそうに口を開いたり閉じたりした。分かりづらかったどころではない。何せ、ウージェニーだってそんな風にタルトを分けようとは思わない-彼女も前衛的美術のような切り方のタルトが出てきて「等分ですから」と言われたら激怒するだろう-セリーズを追い払うためにわざわざ難しくしたのだ。


「話をはぐらかされて不愉快だわ。失礼します。」


 鋭く三人を睨みつけると、セリーズはサッと踵を返した。カミーユと友人たちは顔を見合わせて肩を竦めた。セリーズを追い返したものの気持ちは晴れることなく、何となく嫌な感じが胸に残った。


「一体何だったの…?ごめんなさいブラガ様、ウージェニー。嫌な思いをしたでしょう。」


 ウージェニーはフルフルと首を横に振ったが、気遣うような視線をブラガに送った。

 しかしブラガ卿は穏やかに微笑むと、申し訳なさそうにしている二人に向かって大丈夫だと軽く手を振る。


「古くから血と名前を受け継いでいる生粋の貴族の方々の中には、他と一線を引いてこその特権階級という概念があるということは存じ上げていますから。」

「ブラガ様…。」

「それよりも、私は貴女のことを改めて素敵な女性だと思い知らされました。」


 笑みを深めて恥ずかし気もなく率直に言葉を紡ぐブラガに、ウージェニーは顔を赤らめる。カミーユもついでに顔が熱くなり、自分がこの場に居てもいいのかと狼狽えた。当の婚約者同士は一向に気にしていないようで、一瞬にして二人の世界を展開した。


「聡明で、かわいらしくて、たくさん召し上がるあなたが好きですよ。」


 ブラガはそう言いながら、テーブルに残ったタルトの最後の一切れをウージェニーに差し出し、ウージェニーはカミーユの見たことの無い顔で照れながらブラガに礼を言った。



 カミーユは恥ずかしいような、呆れたような、羨ましいような複雑な気持ちで友人とその婚約者を見守った。

 結局、ウージェニーがクロエの部屋で嘆いていたことなど単なる杞憂で、心配すること等なかったのである。

 二人の熱に当てれられた一方、カミーユの心にかかった靄はその影を濃くした。ウージェニーはセリーズの登場で中断してしまったお姉さま方が絡んでくる理由を忘れずにカミーユに告げた。


 ウージェニーと別れた後も、屋敷に帰ってからも彼女の言葉がカミーユの頭をぐるぐると駆け回る。


「いいこと、カミーユ。さっきのセリーズ様を含め、今社交界では「第一王子の婚約者に誰がなるか」ということに心血を注いでいる方々がいるのよ。」

「それは勿論知っているけれど。でも家には関係のないお話よ?選ばれる取っ掛かりも引っかかりもないわ。流石に王子様となると。」


 オレガノ家は古い名家だが、歴々王族と関わりも無ければ、自分のところと比べて優れる家はたくさんある。家を守る使命感はあれども、野心家ではないオレガノ子爵はそもそも競争に乗り出す気も無かった。

 故にカミーユからすれば、王子の妃選びなど隣の芝、対岸の火事、雲の上よりも遠い話だという認識だったのである。

 いまいちピンと来ていないカミーユに、ウージェニーはスッパリと言った。


「あなたがお姉さま方に絡まれたのは、王子様の婚約者を狙っているからだと思われたからだわ。デビューして間もない娘が評判を上げてきたんですもの。彼女たちからしたら脅威だったのよ。」

「……?」


 カミーユは驚いて声が出なかった。あまりに見当違いかつ迷惑極まりない事態に頭がついていかない。

 カミーユのあんぐりとはしたなく開いた口に、ウージェニーは眉を寄せてサクランボを放り込む。


「ん!?」

「そんなはしたない顔…先生に怒られるわよ。」


 抗議の視線を送りながら否応なくサクランボを咀嚼するカミーユに、ウージェニーは更に続けた。


「あの三人、今有力な婚約者候補と噂されるご令嬢達よ。その期待と焦りからね。」

「新しい芽を摘もうとしたってこと?そんなのキリがないでしょうに。」


 カミーユの発言に、ウージェニーは呆れ顔になった。


「あなた、その認識改めた方がよろしくてよ。あなたの話、結構上でも広まってたってセシルが言っていたから。」


 ウージェニーのジトリとした目に、カミーユはドキリとした。


 ―まさか。


 ごつん、と音を立ててカミーユは机に突っ伏した。


「まさか、そんなヘッドハンティング的に私に声がかかるわけがない。だって他にも適齢で素敵なお嬢さんはたくさんいるし、繋いでおいた方が有益なお家が控えているじゃない…。」


 見当違いな可能性に困惑し、うろうろと視線を彷徨わせていると、ふと自室の鏡に映っている自分に目が留まった。


 母親譲りの亜麻色の髪、父親譲りの赤茶色の目。コンプレックスだった骨太な体は大人になるにつれてドレスがきれいに着られる体型になった。決して美人ではないと思うが、クロエが言うところの「美は一日にしてならず」、手入れを欠かさないおかげか、それなりにキチンと見えると思う。

 物事も人並みには理解していて、眉をひそめられない程度には常識を備えているつもりだ。


 それでも。


 カミーユは自分が王子の婚約者争いに参加する未来は浮かばなかった。王子と釣り合うかどうかなど、考えたことも無い。

 そもそも権力に興味がない。歴史書を嗜むついでに時の勢力図を知ることは面白いと感じる質だが、自らが主人公になりたいとは思わないのである。社交界に出ているのも一貴族として家を守るために過ぎない。


 それこそ、自分が王子の婚約者を狙っているらしいなどと吹聴されたらたまったものではない。余計ないざこざは誰だって御免被るのだ。カミーユは一刻も早く、ご令嬢たちが思い違いを正してくれることを願った。




 カミーユが切実な思いを込めて悶々と念じていた甲斐もなく、セリーズはカミーユとウージェニーに辱めを受けたと怒りに震えていたし、その話をどこからか聞いたヴィオレットは穿った見方でカミーユを見直し、エトワールは賢しさをひけらかす人間よりも可愛げのある自分の方が得だと勝ち誇っていた。


 そんな彼女たちによってカミーユのいないところで不名誉な噂はどんどん広められ、カミーユの同期達の耳に届くと、同期たちはあらぬ事実に憤慨した。


「デルフィーヌ。久しぶりね。」

「あら、セシル。よかったわ。不愉快な話を聞かなくて済みそう。」


 あからさまに嫌そうな顔をするデルフィーヌにセシルは呆れた。しかし、セシルも気持ちは同じである。


「聞いた?カミーユの『高慢な勘違い女』ってやつ。気が知れないわ。」


 デルフィーヌの問いにセシルは厳しい顔で頷いた。噂を流した大元にも、良く知らぬままに口にする人々にも二人はすっかりうんざりしていた。


「オレガノ子爵の耳にも入ったらしいわよ。」

「お気の毒だって、お父様が言っていたわ。悪戯にお立場を傷つけていい方ではないのに。馬鹿なのかしら?」


 セシルはデルフィーヌの歯に衣を着せない言い方を咎めるように睨んだが、当の本人はどこ吹く風だった。


「世間の人は誰が言い始めたかなんて関係ないんだから、困っちゃうわよね。」

「それには同意するわ。信憑性の無い人から聞いた話を、全くそれっぽく人に語るんだから。どうしようもないわね。」


 デルフィーヌとセシルはわざと声を高くして話した。周りの人間が、ミニエ侯爵とサラザン伯爵の娘たちの会話を気にしていると分かっているのである。

 彼らは案の定、彼女たちが『蕾の園』出身でありカミーユと同期だったと思い出すと、ハッとして口を噤んだ。


 コツリ、と床を鳴らす軽い音がデルフィーヌとセシルに背後に立つ人の存在を知らせた。二人は今気が付いたかのように、揃って後ろを振り返る。


「事実無根ですの?私、カミーユ様のことをよく存じ上げなくて。是非お聞かせくださいませ。」


 二人の傍にそっと淑やかに現れたのは、エトワール・ノディエだった。彼女の登場に、デルフィーヌは「待ってました」と言わんばかりの好戦的な笑みを浮かべ、セシルも静かな闘志をほとばしらせた。

 エトワールはデルフィーヌとセシルのピリピリとした気配に怯むことなく、人好きのする笑顔を浮かべた。甘ったるい、砂糖菓子のような微笑みだった。


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