ジョギング幽霊
その日は、朝の5時から河川敷にいた。犬の散歩やジョギングの人がいる。みんな、なかなかにお洒落な格好をしてる。
俺は何時もの仕事着だ。汚れてもいいような、ぼろシャツ、古ズボン。ポケットには、秘伝の紙くず。伏見小父さんのいわゆる『お札のようなもの』だ。
今、俺の目の前には、じっと何かを待つように座った犬がいる。中型の雑種犬だ。賢そうな顔をしている。茶色の短い毛で、顔はやや尖っていた。
小さな耳をピンと立て、やってくる何かの音を聞き漏らすまいとしているようだ。
俺も犬の見ている方を向く。
いく組かの別の犬が、飼い主と共に通りすぎて行く。小さい犬、大きい犬。白い犬、黒い犬。人懐こい犬は寄ってきて、飼い主さんを困らせる。吠えかかる犬が、飼い主さんを焦らせる。どの犬も、みなどこか飼い主さんと雰囲気が似ている。
突然、犬たちが一斉に吠え出した。歯を剥き出して唸り声を上げている犬もいる。だが、目の前で座っている犬は、尻尾を振って喜んでいる。
待ち人が来たようだな。
黒いスニーカーの若い男が走ってくる。一昔前のスタイルで、上から穿くタイプのウェアは、丈が長めだ。軽快な足取りで、ぐんぐん近付いてくる。
顔は……うん、見えねえな。真っ黒な渦みたいになってやがる。
「ひいっ」
「えっ?」
「うっ」
「何あれ」
足を止めて動かなくなった犬に手こずっていた飼い主達が、口々に短い悲鳴を上げた。
俺は、ジョギング幽霊が側に来るのを静かに待つ。
座っていた茶色い犬が、すっと立ち上がる。尻尾を千切れんばかりに振り、眼を輝かせていた。
幽霊は、犬の前に来るとしゃがみこんだ。犬は飛び付いて喜ぶ。
一方、他の犬達は、唸り声や吠え声を一際激しく上げていた。幽霊は、わしゃわしゃと茶色の犬を撫でた後、のろのろした動きで他の犬達を見回す。
吠えかかる犬達に、顔の渦から黒いトゲトゲの荊が伸びて行く。
飼い主達は、青褪めて動けなくなっている。
「おはよーございます」
俺が淡々と声をかけると、男が渦巻く黒い顔をこちらに向ける。トゲトゲの荊は、相変わらず、ゆったりとした動きで吠える犬達に向かう。
「懐かないからって、犬にあたっちゃいけねえや」
俺が説得を試みると、男は急に動きを速めた。犬に向けていた荊が、一斉に俺を襲う。
俺は、すかさず擦りきれたポケットに手を突っ込んだ。秘伝の紙くずを1枚掴み、拳に握り混む。
「頼むぜ、神坊」
今回は、神霊ちゃんより少し力が強い神坊を呼び出す。紙くずに書いた文字列に、俺の生命力を流し込む。紙くずが青白く光り出すのを合図に、腰を捻って遠心力で拳を飛ばす。
「悪霊退散」
拳は渦巻きの真ん中に当たり、ジョギング幽霊は荊と共に声もなく消えた。
「おっと」
幽霊に駆け寄っていた茶色の犬が、眼を血走らせて唸りを上げる。
「貴様ぁ、よくも我が僕を」
犬は、キンキン声で威嚇して来る。ちっとも恐ろしくねえな。
「退散」
わざわざ新しい紙くずや神霊を準備するまでもねえ。ボスぶってやがるが、コイツはただの駄犬だぜ。
まだ光りが消えないでいた拳を軽くぶつけてやると、幽霊犬は、大袈裟に吠えながら消えて行った。
河川敷の散歩犬と生きてるジョガー達は、何事も無かったかのように動き出す。俺とは全く眼を合わせない。
大方、何も見てない、と自分に言い聞かせているのだろう。
次回、コーヒー幽霊
よろしくお願い致します