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妊娠中毒

作者: 中矢葵弓

 彼女の母親が他界したのは、彼女が中学三年生の六月のことだった。

 台風が近づき、雨足が強くなって風が激しさを増していく未明に、彼女の母は約一ヶ月の植物状態を終えて死を迎えたのだ。


 すうっと、まるで海の潮が引くように指先から血の気が引き、氷のように冷たくなっていった。

 彼女の母は妊娠中毒症で、お腹の中で八ヶ月まで育っていた男の赤ん坊と一緒に彼岸へ旅立った。

 小さな桐の棺に納められた赤子は、顔も形もすっかり人間の赤ん坊で、顔立ちは彼女の弟に似ていた。

 ただし、見知ったどの赤子よりも二回りほど小さく、肌はシリコンのような質感に見え、まるで蝋人形でできた精巧な人形のようにも見えた。

 生まれなかった赤子を見て、彼女はこう考える。

 なんて可哀想で、運のいい奴なのだろうかと。

 何かを知る前に……、自分が何者であるか気がつく前に死ねた「弟になったかもしれない」その骸に、彼女はそれ以上の感情を抱けなかった。

 棺を囲むふたりの弟たちや父のように、慈しむように亡骸へ触れるなどもっての他だ。

 それよりも、まるでその赤子がこれまで生きて蠢いていた家族であるかのように可哀想がり、悲しんでいる彼らが、彼女にとっては心底気味悪く、そして腹立たしくもあった。


 彼らの行為を見ていると、命を軽く扱われている気がして、苦しかったのだ。

 その赤子は、誰のせいで死んだのか。

 母は、誰のせいで死んだのか。

 そう考えると、赤子に触れようとは思えなかった。

 赤子にあまり関心を持たない娘に、父親は不機嫌な表情を見せた。

 それも、彼女にとっては納得がいかなかった。


(どんなに赤子を可哀想がっても、母さんの死を悲しんでも、私たち家族が母さんを殺したことには変わらない)


 彼女の心の奥底にその考えは沈んでいき、やがて体中へと浸透していった。

 誰も自分を責めない。家族も責められない。

 死者の責める声さえも聴こえない。

 彼女はただ、寂しかった。


 母親の葬式から数ヶ月経ち、すっかり秋になった頃、彼女はひとりの同級生と交際を始めた。

 彼は、顔も体型もどちらかというと「格好悪い」部類で、彼女は友人たちからどこがいいのかといつもからかわれていた。

 何が良かったのかというと、彼と映画や本の話をするのが楽しかったということに尽きる。

 彼と好きなものを題材に他愛もない話をすることが、彼女にとって安らぎになっていたことは事実だった。

 ところが付き合い始めると、彼は彼女を毎週のように自分の部屋へ呼ぶようになった。

 ふたりはテスト勉強をしようだとか、映画を観ようなんて口実で集まっていたのだが、部屋に行くと必ず彼は彼女の体を弄った。

 そういう目的なのだろうと彼女も気がついてはいたが、それを拒むことはしなかった。

 「寂しかった」ということは、理由になるだろうか。

 好きな相手から体を求められることそのものに、悪い気はしなかった。

 それに、もしも拒んで嫌われてしまったら……。

 彼女は彼との関係が終わることを面倒臭く思い、黙って触らせていた。

 彼の手は最初、ためらいがちに彼女の指に触れ、足に触れ、次第に体の中心へと手を伸ばしていく。

 流石に端から触っていくのかと、彼女も様子を窺っていたが、次第に胸へ下腹部へとのびてくる手に、どこまで許していいものかと不安に思うようになった。

 人がセックスをして子供を作るということは知っていた。交際するということは、いつかそういうことをするということだと考えてもいた。

 しかし、彼女にとって彼の行動はあまりにも考えなしに見え、次第に彼への好意は減退していった。

 それでも毎週彼の部屋へ足を運んだのは、寂しかったからなのだ。

 母親が死んでから、彼女には自分の心を許して話をできる存在がいなくなっていた。

 いつも悩んでいることや不安に思っていることなど、良いことも悪いことも関係なく心動いたことは母親になんでも話していた。そんな話を、父親にする気にはなれず、弟たちにも話す気になれなかった。

 友達であれば、話して良いことと話さない方がいいことを考えるので、話せることも限られる。だからこそ、友達はいればいるほどいい。

 彼は、そんな「話を聞いてくれる友人」のひとりであって、彼を失うことは自分が心を許した話し相手をひとり失うことでもあった。

 思えば、話し相手をひとり失ったところで、また新しい友人を見つければいいだけのことだったのだ。

 しかし、学校か家の往復といった狭い社会の中でしか生活したことのない当時の彼女にとって、せっかく出会えた気の合う相手をひとり失うことはかなり抵抗感のあることだった。

 彼の家へ通うたびに彼の行為はエスカレートしていき、日々やりとりしていたメールの内容も、本や映画の話ではなく性的なものに変わっていく。

 会えば、体を弄りキスをして、再び体を弄る。

 その指はとうとう彼女の女性器の内部にまで侵入し、まだ何ものも受け入れたことのないそこをかき回した。

 想像していたような痛みはなかった。

 痛みはなかったが、日々すり減っていった好意は、もうほとんど心には残っていなかった。

 ただ彼女は、それを女が耐えるべき仕事であるかのように思い、苦行を受け入れるかのような心持ちでやり過ごしていた。

 十二月の初旬のことだ。彼の誕生日が十二月で、誕生日に近い土曜日に彼女は例のごとく彼の家に呼ばれた。

 今日も体を触られるのかと憂鬱に思いながら、彼女は用意していたプレゼントを渡して、カバンの中から参考書を取り出す。

 ふたりとも高校受験を控えていた。

 もう二ヶ月もすれば入試が始まり、次の春には高校生になる。

 家が裕福とはいえない彼女は、学費が安くすむ公立高校へ入らなければと気を張っていた。

 参考書に向かう彼女に、彼が不満げに唸る。

「なに? おまえ勉強する気なの?」

「うん。もうすぐ期末だし……入試もあるから」

 彼は眉をひそめたかと思うと、ふっと表情を緩める。

「今日はいいじゃん」

 そういって、彼女を後ろから抱きすくめた。

 ときめいたりはしない。

 彼女は心の中で、嘲笑した。

 麗しい見た目でもないふたりの未成年が、抱き合っている。

 きっとこの光景は、はたから見れば滑稽以外の何ものでもないだろう。

 彼女は肩で彼を払おうとするが、彼は彼女を離さなかった。

「勉強しようっていったから、ここに来たんじゃん」

「今日くらいいいだろ。それよりさ」

言いかけて、彼はふっくらとした妙にツルツルの唇で彼女の唇を塞ぐ。

「なあ、今日は最後までしよう? 俺、誕生日だし……」

 そう囁いた声は、かすれていた。

 なにが最後までだ。

 誕生日といっても、十五になるだけじゃないか。

 結局はそれしかないのかと、彼女は心の中でため息をつき、覚悟を持ってこう尋ねる。

「……ゴム持ってんの?」

「ゴム?」

「コンドーム。知ってるよね? 避妊具。あるんなら……いいよ」

 用意しているというならば、我慢してもいい。そう思った。

「はあ? そんなん女が用意するもんだろうが」

「っ……」

 彼の言葉に彼女は顔をしかめたが、彼はそんな様子には気付かず、いつものように彼女の服を脱がし始めた。


「やめてっ!」

 産婦人科の、小さな子供の声でざわつく待合室に、若い女の咄嗟の声が響く。

 声の主は、室内に反響した自分の声で我に返った。

 周囲に座っていた他の女性や、彼女らに連れられた子供達の声が一瞬止み、再び遠くに聴こえる喧騒がゆっくりと戻ってくる。

 場違いな声をあげてしまった彼女は、バツが悪そうに黙り込み、再びうつむいて不安げに冷えた指先を組み合わせた。

 十年も前の出来事を思い出し、彼女は自分の唇を噛み締める。

 あの日のことを思い出すと、今でも己の唇の皮や全身の皮膚という皮膚をすべて剥いでしまいたくなった。

 高校入試を控えていた十五歳の彼女は、あの日、彼に言われるまま股を開いた。中に出されたら子供ができるのではないか。子供ができたら、自分の将来は奪われてしまうのではないか。そんな不安でいっぱいだった。

 すべて終えた後の彼に「子供ができたらどうするつもりか」、「責任を取ってくれるのか」と詰め寄ると、彼は「子供ができたら高校へは行かずに働く。おまえもそうすればいい」と簡単に言い放った。

 そこには、彼女の意志や将来への希望に対する思いやりは何一つなかった。

 彼の目の前には、ただ、彼の欲望しかないのだと、彼女は思った。

 まるで、自分を彼の思い通りになる従順な何かのように思われているのだと強く感じ、彼女はそれ以来連絡を取ることをやめた。

 そして、その日から彼女は来るはずの生理を待ち続けた。

 いつも億劫でしかない月のものを、あんなにも待ちわびたのは、後にも先にもあのときだけだ。

 あんな奴の子供を産みたくない。

 あんな奴と人生を共にしたくない。

 子供なんて欲しくない。

 妊娠したらどうなるのか。

 私は父親に殴られて、あいつも父親に殴られてくれるのだろうか。

 と考えて、彼女は思い直す。

 そもそも、自分の父親に、そんな資格があるのだろうか。

 案外、産めばいいなどとヘラヘラ言うのかもしれない。

 なにせ、自分の子を身ごもった妻の身すら守らなかった人だ。

 彼女の母は、妊娠しても具合が悪くなっても、一度も病院へは行かなかった。

 家にお金がなかったからだ。

 母と父が「堕ろしたのではなかったのか」と口論し、罵り合っているところを見たことがある。母は嘘をついて「堕ろしてもらえなかったのだ、しょうがなかったのだ」と父の罵倒へ言い返していた。

 産みたかったからではない。家に堕胎費用がなかったから、したくてもできなかったのだ。

 彼女の母は胎児を抱え、浮腫んでぶくぶくになった具合の悪い体で、何ヶ月もの間ひとりで死に向かっていたのだ。

 自分も父も、母を救おうとはしなかった。

 彼女は「まだ何も知らない子供」として、黙っておくことにしたのだ。それを母も父も望んでいると感じていた。

 妊娠していないかという不安を抱えた時、彼女は自分が母親に対して、家族だとか娘だとか以前に人として最低なことをしたのだと、深く思いつめるようになった。

 私だったら、この状況をなんとかしてほしい。無理矢理にでも病院に連れて行って、しっかり怒って、検査して、安心させてほしい。

 母も本当は、誰かに手をひいて病院まで連れて行ってほしかったのではないか……と、不安な心で考えた。

 もし妊娠していたら、子供を堕ろさなければ高校へは行けないだろう。

 堕ろすとなったらお金がいる。二十万はかかると聞いたことがある。

 そんなお金、自分には出せない。自分の父親も出せない。彼は出してくれるだろうか。

 いや、彼ではない。出すとすれば、きっと彼の親が出すのだ。

 私は自分の人生のために、またひとり、小さな命を奪うのかもしれない。

 嫌だ……。怖い……。

 クリスマスの朝に生理が来るまで、彼女はずっと悩み続けた。

 その間も絶えず自分の部屋へ呼び続ける彼を、憎しみをこめて無視し続けた。

 別れるとはっきり伝えて別れたのに、彼はしばらく彼女に声をかけ、別の高校に進学してからも、一緒に登校する友達と待ち合わせをしている彼女のそばをわざわざ通っていった。


 その後数年の間、あの日彼にされたことを思い出すたびに、身体中をかきむしりたい衝動に駆られ、特に唇の皮は、乾燥した皮を剥いても収まらず、その内側までえぐって皮膚を引き剥がしてしまいたいほどだった。

 あれから十年。もう何年も忘れていたのに。

 産婦人科に来たためか、いつの間にか記憶の中へトリップしていたようだ。

 病院はあまり好きではない。

 命を救う場所だが、絶えず死の匂いがする。

 それでも今ここに座っているのは、定期的にきていた月のものが止まっており、昨日、尋常ない吐き気に襲われ「これが噂のつわりというものか」と思い至ったためだ。

 とうとう彼女の体内に、新しい命が宿ってしまったらしい。

 相手は分かっていた。

 今交際している男性だ。

 かつては、子供ができていたらどうしようかと、まるで人生が終わってしまったかのような不安を感じていたが、今はいくらかマシだった。

 自分は大人になっていて、いざ堕胎するとなればそのための費用も出せる。産んでも、仕事を続けるには少し面倒だろうが、未成年が産むわけではないので、社会的に殺されてしまうなんてことはないだろう。

 大人になった自分には、子供の頃ほど怖いものはなくなっていた。

 ところが、彼女はまた別の不安を抱いている。


 診察室で医師を目の前にし、彼女は予想通りの答えを聞いていた。

 彼女の妊娠は六週目に入っているということだった。

「あの……」

 カルテに何かを書き込み、今後の予定について説明する医師に、彼女は声をかける。その声は自然と震えていた。

「何かご不明な点でも?」

「あ……その……、産みたくないんです」

「……交際中とのことですが、もしかして」

「いえ、相手はその人ですけど、産みたくないんです」

「ああ。……中絶をご希望でしたら、十二週までなら当院で処置を行えます」

「はい……」

 あと六週……、と彼女は頭の中で日を数える。

「九週目までに中絶した方が、あなたの体への負担が少なくなるから、堕ろすなら早い方がいいのだけれど、お相手も望んでないの?」

「子供を、ですか?」

「ええ。中絶の際の同意書に、相手の方のサインもいるから……。相手がわからないとか、逃げられたなんてこともあるから、そういう時は女性だけのサインでいいんだけどね」

 医者は突然知人女性のような口調と表情を浮かべ、ため息交じりに笑みを浮かべた。

「相談してきます……」

「そうしてください」


 彼の家へ向かう彼女の足取りは重かった。

 彼は決して悪い人ではなく、むしろよくできた人だった。

 料理が好きで、きっと共働きでも家事を分担してくれるだろうし、子供も好きだから子煩悩な父親になるに違いない。

 大学で非常勤講師をしている彼の給与は少ないが、無駄遣いもしないし、浮気の心配もしていなかった。

 いや、彼女はむしろ彼に浮気をしてほしかったのだ。

 自分だけに執着されることが嫌で仕方がなかった。

 きっと子供ができたと伝えれば、彼は喜ぶに違いない。

 けれども……。

 彼女の肩が冷える。

 不安と苦しみで、胸が押しつぶされそうになる。

 産むのが怖いのだろうか。

 いや、何かが違う。

 私は、この先彼とずっと一緒にいるということが恐ろしいのだ。

 彼と「一緒にいなければならない」と思わされている気がしていることが、恐ろしくてたまらない。

 彼にこの妊娠を伝えれば、きっと結婚することになる。

 そうすれば、とうとう彼女の自由は、子供と家庭に奪われてしまう。

 そこに甘んじられるほど、彼女は彼を信用できない。

 きっと、何があっても自分は仕事を続けなければならないだろうし、子供の世話はなんだかんだと女の自分が請け負うことになるのだろう。なんとか保っている心の余裕も、子育てが始まれば保てるとは限らない。

 ああ、悔しい。

 彼女はほぞを噛むような心持ちで歯を食いしばる。

 おそらくお腹の子ができた晩のことだ。

 彼はセックスの後にひとりで幸せそうに笑っていた。

 彼女はその横顔に気分を害した。

 自分は彼との行為に幸せなど感じていないのに。幸福どころか憎しみの感情がふつふつと湧き上がっているのに。彼はそんなこと知りもせずにあんなにも幸せそうに笑っている。

 彼女の彼に対する好意は、これまでの彼の言動から、ゆっくりとすり減っていた。

 それは、他人が見ればなんとも思わないような細かい言動の端々だったかもしれない。けれども、それらは確実に彼女の心に違和感をもたらし、蓄積していき、好意を冷めさせた。

 いつの間にか、彼に対する気持ちなんてとっくに冷めていたのだ。

 それなのに今更、こんな風に子供ができてしまった。

 結局好きでもないものに、いつも縛られるのか。

 そう思うと、一刻も早くこのかわいそうな子供を堕ろして、最初からこの世にいなかったものにしてしまわなければと考えた。


 彼の家に着くと、ローテーブル越しに正面に向きあって座り「子供ができた」と伝える。

 すると彼は彼女の手を取って立ち上がり、子供のように飛び上がって喜んだ。

 彼女は彼の、こういう子供のようなところが大嫌いなのだ。

 笑うに笑えない彼女を残して、彼はひとりで舞い上がっている。

 子供の名前はなんにしようか。家を引っ越さないと。その前に結婚だ。来週あたり互いの実家へ行かないと……。なんて矢継ぎ早に話を進めていく。

「ちょっとまって」

という彼女の声は聞こえておらず、彼は上機嫌でキッチンへ向かい、お茶を入れ始める。

「妊娠初期でも、カフェインはやめておいた方がいいのかな? つわりきてる? 何か食べたいものがあったら言って」

 彼は彼女の表情など見ることもなく、思いやりの言葉を並べたてながら冷蔵庫の中をのぞいている。

「とりあえず、来週は君の実家へ行って、その次の週に俺の実家へ行こう。どうかな? 俺の方は去年一緒に行ったけど、君の実家ははじめてだから、なんか緊張する……」

「……」

 実家になど行きたくないと思った。

 あるようでない実家だ。

 古い団地に、低収入で細々と生きる父親と弟が住んでいる。里帰りしたところで、そこには彼女の部屋も彼女の布団も何もなく、行けば彼女が掃除と家事を行う。食事も自腹で作ることになるのだ。

 一方、彼の実家は自営業で、彼は大事にされていた。行けば彼の部屋も残っているし、客用の布団もあれば、食事も用意される。まとまった資産もあった。

 周りの親戚関係も色濃く残っていて、しっかりとした家といった雰囲気だ。

 そんな彼の実家へも行きたくない。

 昨年のお盆に行った際、まだ結婚の予定もないのに、「息子の嫁」だと親戚やご近所中に紹介され、客が来るたびに茶くみをやらされた。まるで珍しい動物を飼い始めたかのように見せびらかされた気分だった。

「私はものではない。まだ結婚の予定もないのに」

 そう不満をもらすと、彼はこう言った。

「俺が一生独り身じゃないかと心配してたから、喜んでくれてるんだよ。親戚の圧力みたいなものもあったし……ちょっとくらい見栄を張らせてやってほしい」

 その言葉を言われた時、彼女はほのかな違和感を抱いたが、その時は飲み込んでしまった。

 言葉の中に感じた真意を、うまく言葉に表せなかったのだ。

(ああ、やっぱりこの人もそうなのだ)

 彼女は心の中でそう呟いた。

 今ならうまく言葉にできる気がする。

 不安と疑いの気持ちが充満している彼女の内側に、真っ黒な靄のような雲が立ち込め、それが彼女の頭に締めつけるような痛みを運んできた。

 気がつけば、鼻の奥の方がツンとした痛みとともに熱を持ち、熱い涙の雫が頬を伝っている。

「……どうして、私を見てくれないのよ?」

 こぼれ落ちた言葉は、涙に濡れた鼻声だ。

 その声でやっと彼は振り返り、彼女の顔を見た瞬間、華やいでいた笑顔を引っ込めた。

 何が起こったのかわかっていないようで、ただ驚きに目を見張っている。

 いつも大きな目が、さらに見開かれている。

 彼は濡れていた手をキッチンのタオルで拭きながら彼女の元へ歩み寄った。

「どうしたんだよ? なんで泣いてるの?」

「だって、あなた、私のこと見てないじゃない……」

「ええ? 見てるじゃないか。現に今だって……」

「見てない! 私が本当はどうしたくて、これからどうしていきたくて、何がしたくて、何を考えているか、見ようともしてない!」

「は……?」

 理解できないと表情で示され、彼女は寂しさをいだきながら、思考を巡らせる。

「どうして、そんな簡単に、私が妊娠を喜んでいると思えるの? こんな……こんなに不安で仕方がないのに……」

「そりゃ、子供を産むんだ、初めてのことはみんな不安じゃないかな?」

と言いつつ。彼は彼女の肩へ手を添える。その手に悪寒を感じて、彼女はそれを振り払った。

「やめて! それだけじゃない。妊娠したら、私は仕事を続けられない……続けられるとしても休まなきゃならない。産んだらどうなるかわからない。保育園だって今から探さなくちゃならないし、そもそも私に育てられるかわからないし……」

「俺も手伝うよ」

「っ……手伝うって何よ? ほら、やっぱり、あなたも一緒じゃない。子供は女が育てるものだと思ってる。手伝うって何? この子はあなたの子なのに、まるで私がひとりで勝手に産んだ子を、仕方なく一緒に育てるようなつもりでいるの?」

「そんなつもりは……」

「ねえ、あなた、私をなんだと思ってるの? 子供ができたら喜んで、結婚して指輪を贈ったら嬉しがって、式を挙げたら喜ぶだろうなんて思ってるの?」

「そりゃ……みんなそうじゃないか? 子供ができるんだぞ? 幸せな家庭っていうじゃん……。現に俺は幸せだ」

「何それ。意味わかんない。そんな保証がないもの、どうやって手に入れるのよ。正社員になる気もないくせに……」

「それは……申し訳なく思っているけれど、関係ないじゃないか。俺だって就活はやってるし、自分ではどうしようもないし……」

「どうしようもないことなんてわかってるよ。だけど、共働きで、それでも子育てはこっちに比重がきて、今やってる仕事も続けられるかわかんなくて……。ねえ、子供産んで育てていくのに、いくら必要かわかってる?」

「それなりに」

「それなりにってなによ?」

「……とりあえず、出産費用は後で返ってくるから」

「全額返ってくるわけじゃないじゃない! それに、無痛分娩とか好きな病院だとか選んでたら全然足りない。お金が返ってくるのは産んだ後。ねえ、そういうこと、考えてるの?」

 彼女の剣幕に、彼は眉を顰めて深刻そうに唸った。

「……考えるよ、これから」

「これからって……それじゃ遅いじゃん。だって、私、この先もっと仕事したいし、昇進もしたい。お金だって貯めたい。行きたいところだってやりたいことだってたくさんある。まだ欲しかったもので手に入ってないものだってあるのよ」

「子供がいたってやればいいじゃないか」

「産んでできる保証なんてないじゃない」

「……なんだよ。さっきから保証保証って。そんなものどんな物事にもありはしないだろう」

「でも、子供がいなかったら、家庭がなかったなら、私は私の責任で、それを求められる」

 彼女は涙の混じった声で喉から絞るように言い切ると、深い呼吸を繰り返した。

「……結論として、君はどうしたいんだ?」

 彼女は、そこに何がいるのかもまだはっきりとはわからない下腹へ手をあてる。

「産みたくないです。私は、この子を人間にはしません」

「堕ろしたいってことだね」

 男の、いつもより一層低い静かな声が、彼女に問うた。

「そうよ」

「俺が、頑張るって言っても? 就職先を見つけて、家事も子育ても折半して、君に負担がいかないように協力するとしても?」

 彼女は彼の言葉にまた新たな違和感を覚えつつも、頭の中で想像する。彼と子供がいる日々を。

 しかし、胸にこみ上げてきたのは、つわりに似た嫌悪感だった。

「嫌だ。私は私なのよ。家に他人がいる……」

「他人って……俺のこと? ちょっと待ってくれよ、これまでずっと、俺は」

「家の中だけじゃない。私の中に、他人がいるのよ。この状態がたえられない……」

「半分は君だろう……」

「違う。子供は他人よ。私は私……」

「落ち着いて……」

 私は私だと呟き続ける彼女の背中を、彼は撫で摩る。

 彼女は彼の手を拒絶するように身をよじった。

 男は仕方なく諦めて、手を引っ込める。

 彼女はただ俯いて、一点をにらみ、柔らかいカーペットが敷かれた床へ大粒の涙をぼたぼたと落としていた。

「……どうしていつも、私たちばかりこんな思いをするの?」

「どんな?」

 彼女は鼻が詰まっているのか、口で大きく息を吸う。そして、吐き捨てるように息を吐いた。

「こんな、怖くて、痛くて、不安で、嫌なものは全部私たちに押し付けられる。子供を産むことも、仕事を辞めなくちゃならないことも……結婚すれば苗字を変えさせられるし、手続きは面倒だし、今までの私のことなんて何一つ知らない新しい親戚に嫁として扱われて……、私が好きなものも、得意なものも、勝手に決めつけられて、母親になるんだからとか、妻なんだからって、自分が求めていないものを押し付けられて、期待されて、朝早く起きて子供の世話や旦那の世話をして、自分の身なりもきちんとしなきゃならない。洗濯も掃除もして、仕事へ行って、子供を迎えに行ってご飯を作る。また家の用事をして、子供をお風呂に入れて寝かしつけて、子供が保育園や学校へ行けば、そのための用事もやって……私は、私はいつ私でいられるの?」

 男が深くため息をついた。

「君は自分のことばっかりだな。『私、私』って、自分のことしか考えてないじゃないか。結婚しようが子供を産もうが君は君だろう」

 ため息交じりのその言葉に、彼女は顔を上げる。

 鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった真っ赤な顔は、潤んだ瞳で男を睨んでいた。

「そうやって、簡単に言ってしまえるところが嫌なのよ……」

「どういう意味だよ……?」

「妊娠して、お腹の中で日々他人が育っていって、きっと私の体は、私の意志とは関係なくどんどん変わっていく。体重は増えるだろうし、体の形も変わるだろうし、食べたいものも変わっていく。気持ちだって変わっていく。結婚したら、苗字は変わるし、周りが私を見る目も変わる。何もかも変わって、きっと私は今の私を忘れてしまうのよ。

ねえ、あなた……あなたは一体何が変わる? あなたが失うものは何?」

「変わらないものなんてあるはずないだろう」

「そんな、分かり切った物言いをして……。そんなあなたに、私は随分前から冷めていました」

「え?」

「もっとよく考えてものを言ってほしかった」

「そんなのお互い様だろう」

「そうかもしれない……。でも、もう無理です。ごめんなさい。この子は堕ろします」

 静かな女の声に、男も大きなため息をつき、落ち着いた声を発する。

「わかったよ。どうすればいい?」

「中絶の同意書にサインが欲しい……」

「……ひとつ聞いてもいい? 君にその子を産んでほしい俺の気持ちはどうなる?」

「それじゃあ、産みたくない私の気持ちはどうなるんですか? あなたは、そう言って、私が思い直して子供を産むことにしたらそれで満足なんですか?」

「そんなことは……」

「そういうことですよ。もしあなたにそう言われて、今ここであなたの言葉を渋々飲んでしまったら、きっと私はこの先ずっと、今この時を最後まで憎んで呪うことになるでしょう。自分の気持ちを無視して、あなたに従ってしまったと」

 女はそばに置いてあったショルダーバッグからポケットティッシュを取り出すと、豪快に鼻をかみ、それを丸めてバッグの中にしまう。冷たい手のひらで火照った頬を少し撫で、鼻が詰まったままの喉でため息をついて、バッグを肩にかけると立ち上がった。

「別れましょう。私には、愛も家庭も無理です。同意書は明日……そうね、カフェで会いましょう。そこで書いてください」

 女の言葉に、男もすがるように立ち上がり、女のほっそりと痩せた二の腕を掴んだ。

 腕を掴まれ、女は十年前に付き合っていた少年の、まとわりつくような肉厚の指先を思い出し、肌が粟立つ。

「考え直さないか? 子供は産まなくていい。結婚だってしなくていい。もし望むなら、俺が苗字を変えたっていいし……」

「子供を産んで、家庭を作ってくれる人を見つけてください」

そう言いおいて、女は男の家をあとにした。背筋を伸ばし、すっかり日の暮れた住宅街を、かかとを鳴らして帰っていく。

「この先は、自分に正直に、ひとりで生きていこう……」

 街灯に照らされた薄暗い路地で呟いた言葉は、寂しさを含みながらも力強い口調だ。

 孕んだ体のほのかな気怠るさを纏いつつ、女の心は今までの人生で経験したことがないほど軽く、そして確かな揺るぎないものとして、女の胸のあたりを暖かく灯していた。



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