好きな人を振り向かせるのに忙しいので、ヒロインの座は差し上げます!【コミカライズ】
突然だがわたしには前世の記憶がある。
前世でのわたしは親を早くに亡くし、バイトに明け暮れた大学生活を送り、必死で入ったのはとんでもなく忙しい会社だった。早朝出勤、深夜退勤、泊まり込みの作業も当たり前。休日って何だろうと思ったけれど、仕事が終わらないのは自分が至らないせいだから仕方がない。お給料は色々天引きされていたけれど、殆ど会社で過ごしていたから使う事も少なかったし、そのうちご飯の味がわからなくなったから食事に興味も持てなくなった。
そんな毎日をどれだけ過ごしたか分からないけれど、ある日、わたしは社長の前で倒れてしまった……と、思う。業績に対しての指導を受けている時に、急に息が出来なくなって目の前が暗転していった。
きっと、そのまま、死んでしまったのだろう。
家族もなく、親しい人もいない。何のために生きているかもわからない、そんな人生だったと思う。だから――未練なんてなかった。
今世のわたしが七歳の時に父が事故で、十二歳の時に母が流行り病で亡くなった。家族三人、とても仲良く暮らしていたから、二人との別れは胸が引き裂かれるようだった。前世の記憶を取り戻したのは、その頃だ。
それからわたしは、村の女衆と一緒に機織りをして生計をたてた。幸いにして器用だったわたしは、一人で暮らしていくには充分な程に収入を得る事が出来ていたのだ。
生活が変わったのは十四歳の時だった。
村に豪華な馬車に乗った、お貴族様が訪れたのだ。その人はわたしに会いに来て、わたしが孫娘だと告げた。庶民だと思っていた母は侯爵家の一人娘で、父と駆け落ちをしたのだと。
そうしてわたしは、侯爵家に引き取られたのである。
侯爵家の暮らしは、有り難い程によくしてもらった。そう、有り難すぎるほどに甘やかされたのだ。前世の記憶があるからか、甘やかされすぎるのではだめだと一念発起したわたしは、祖父母に頼んで淑女としての教養やマナーを身に付ける事に必死になった。
侯爵家にはわたし以外に跡継ぎがいないのだ。婿を取るにしてもちゃらんぽらんな娘のところに、好き好んで婿に来る人はいないだろう。もし居たとしても、それはそれで怪しすぎる。
二年間頑張ったおかげで、家庭教師の先生にもお墨付きを頂ける令嬢になれた。そうしてわたしは十六歳で、貴族が通う学園に入学したのだけど……。
「ねぇ、聞いてらっしゃるの?」
何故にわたしは絡まれているのか。
「ええ、もちろん。えぇと……カーラ様」
大丈夫、覚えていた。わたしの前で腰に両手をあてて、顔をしかめているこの人はカーラ・ルドウェル子爵令嬢。金色の髪が見事なまでの縦ロールで、ピンクのリボンが飾られている。わたしを見つめる茶瞳に宿るのは、敵意。
「あなた、クラウディア・ベーレンスで間違いないのよね?」
「間違いはありませんが、失礼でしてよ」
「っ、そう……ですわ、ね。失礼しました、クラウディア様……」
カーラ様は一体何が言いたいのだろう。謝罪をしたにも関わらず、相変わらず不躾な視線を送ってきている。
「クラウディア様は、この学園に見覚えはないですか? 乙女ゲーム、なんて言葉に聞き覚えは……?」
乙女ゲーム。
あれでしょう? 女の子が主人公の恋愛ゲーム。前世で聞いた事はあるけれどプレイする暇は残念ながらなかった。きらきらした可愛らしいヒロインの美麗なパッケージを見て、惹かれた事はある。
いや、そんな事よりも。乙女ゲームなんて言葉を口にするという事は、彼女にも前世の記憶があるのだろうか。
「乙女、げえむ……何ですの?」
いきなり呼び出されて、不躾な態度をとられて、乙女ゲームについて問われる。嫌な予感がするので、ここは知らない振りをする事にした。正直なところ、お友達にはなれそうにないタイプなので、関わり合いになりたくもないのが本音。
「知らないならいいんです。じゃああなたはヒロインじゃないんですね!」
「ひろいん……」
「でもおかしいわね……ピンクの髪に緑の目、顔も、それに名前も間違いなくヒロインのものなのに……じゃあ、ここはあのゲームの中でも違う世界軸って事? 気付いた私がヒロインになれる? 庶民から貴族の家に引き取られたのも同じだし……そうだわ。クラウディア・ベーレンスにその気がないなら、私がヒロインになったって……」
なにやら自分の世界に入って、ぶつぶつと呟いている彼女は、端から見ていてちょっと怖い。彼女の言い分によるとここは乙女ゲームの世界で、クラウディア・ベーレンスがそのヒロインという事なのか。
……いや、正直どうでもいいわ。ここが乙女ゲームの世界なら、ヒロインが攻略する対象もいるんだろうけど、それもどうでもいい。なんせわたしには――
「お話は済みましたか」
わたし達の間に、割り込んできたのは一人の男子生徒だった。薄茶色の長めの前髪が風に揺れる。前髪の隙間から覗く青い瞳は冴え冴えとしていた。
彼はジークヴァルト・ミューラー。ベーレンス家に仕える騎士の一族で、わたしの護衛である。
「え、あ……はい……っ、え? こんなイケメン、ゲームにいたっけ?」
「私に何か」
「いえ、あの……お名前を……」
「失礼します」
ジークヴァルトを見たカーラ様の顔が、見る間に赤く染まっていく。イケメンと聞こえたけれど、そうでしょうともと、そこは大きく頷きたい。
彼はカーラ様を一瞥すると、名前を聞かれているのも関わらずに、わたしの手を引いてその場を立ち去ってしまう。カーラ様には悪いけれど、繋いだ手が嬉しくて、わたしの足取りはとっても軽いものになっていた。
そう、わたしはこの護衛騎士に恋をしているのだ。
「一体なんのお話だったんですか」
「乙女ゲームを知っているか、とか。ヒロインとか……ちょっとよく分からなかったわ」
わたし達は向かい合って、ベーレンス家の馬車で帰宅している。
先程のカーラ様の話が理解出来ていないわけでもないけれど、それをジークヴァルトに伝えるつもりもなかった。
彼は「そうですか」と短く頷く。その顔に感情はなく、まるで風のない湖面のよう。それでもその美貌に翳りはないのだから羨ましくなるほどだ。
「何か絡まれたのかと思っていましたが」
「ある意味では絡まれたんじゃないかしら。でも出来ればもう、関わりたくはないわね」
「では今後、近付けないように致しましょう」
「ありがとう」
「それとクラウディア様、こちらを預かっております」
そう言って彼が渡してくるのは手紙の束。わたしはそれを受け取って、差出人を確認する。ほとんどが男子生徒からだけれど、それに交じって女子生徒からのも。
まぁ自分で言うのもなんだけど、先程のカーラ様の話を聞くにわたしは乙女ゲームのヒロインである。という事は……そう、美人なのだ。こればかりは謙遜しても仕方がない。事実そうであるし、己を磨く事にも時間を掛けてきたし。それにわたしは侯爵家の跡取りでもある。将来の伴侶として【優良物件】なんじゃないかと思うのは、前世の記憶があるからか。
女子生徒からの手紙は、まぁ憧れとかそういう類いだろう。
「帰ってバイスに見てもらうわ。家にも話が来ているかもしれないから」
「そうですね」
「……やきもちは焼いてくれないの? こんなにお手紙をもらうのよ、わたし」
「どうして私がやきもちを」
「わたしがあなたを好きだからに決まってるでしょ。やきもちを焼いてほしいのよ」
わたしが気持ちを伝えるのはいまに始まった事ではない。二年前にわたしの騎士になると紹介された時に一目惚れをして以来、なんならその時からずっと告白をし続けているのだ。なのに彼はまったくもって靡いてくれない。
「アウルベアみたいな顔をしていますよ」
「失礼すぎるわ」
果ては私が物思いに耽ると、こうしてモンスターに例えてくる始末。一睨みすると可笑しそうにくつくつ笑った。
「え、好き」
「はいはい、ありがとうございます」
漏れでる言葉はいつも簡単に流される。
彼はわたしの隣に移動してくると、長い前髪の隙間から視線を送ってくる。
「少し眠ったらいかがですか」
「わたしの寝顔がそんなに見たいのね」
「黙って欲しいだけですが」
「悪態も素敵だなんておかしくない?」
「おかしいのはあなたの頭ですね」
これもいつものやりとりだ。わたしはくすくすと笑ってから、ジークヴァルトの肩に頭を預けた。馬車の揺れが心地よくて、目を閉じたわたしの意識はすぐに眠りへと落ちていった。
ある日のお昼の事だった。
「やだぁ、エリーアス様ったらぁ」
語尾にハートマークがたっぷりついていそうな程に、甘ったるい声。そちらを窺うとカーラ様がにっこり笑いながら食事を取っているところだった。
中庭の木陰で、カーラ様を見目麗しい男性方が囲んでいる。エリーアス様と呼ばれたのは……あれは王太子殿下ではないだろうか。婚約者に公爵令嬢がいたと思うけれど、こんなところで他の女子生徒と食事をしていていいのだろうか。
それにしても、今日もカーラ様の縦ロールはぐるんぐるんだ。
「ルドウェル子爵令嬢ですか」
「ええ。あちらで食べましょう」
二人分のランチボックスを持ったジークヴァルトに、あの一団から離れた木陰を目で示す。関わり合いにはやっぱりなりたくない。
その木陰に、ジークヴァルトがハンカチーフを敷いてくれる。有り難くそこに腰を下ろすと早速ランチボックスを開けた。学園のカフェで販売しているお弁当だ。今日のメニューはチキンとお野菜がたっぷりのサンドイッチ。小さなカップには真っ赤なイチゴが添えられている。
わたしの隣に座っているジークヴァルトが、自分のボックスからイチゴのカップをとると、わたしのボックスに入れてくれた。
「お好きでしょう」
「好きだけど、ジークヴァルトだって好きでしょ?」
ジークヴァルトはただ口端に笑みを乗せるばかり。こういうさりげない気遣いに、どれだけわたしがドキドキしているのか、この男は知らないんだろうな。
わたしはお返しにサンドイッチを二切れ、ジークヴァルトのボックスに入れた。
「お腹が空いてしまいますよ」
「イチゴがあるから大丈夫」
わたしはサンドイッチを両手で持って、かじりつく。食べやすいように一口サイズになっているのが嬉しい。
うん、美味しい。これだけお野菜が入っていると食べ応えがある。生まれた先のご飯が美味しいところで本当によかった……! 前世では味覚障害になっていたのか、何を食べても味がしなかった。美味しいと思えるのがこんなにも幸せな事だなんて。
「やーん! だめですよぉ!」
一際高い声に、思わずびくりと肩が跳ねる。
そっとそちらを窺うと、王太子殿下とは違う男性が、カーラ様の口にイチゴを押し込んでいるところだった。うん……正直見るのが厳しい。
カーラ様が【乙女ゲームのヒロイン】というポジションになったという事は……あの周りの男性方が攻略対象という事なのだろう。きっと彼女はこの世界の元になった乙女ゲームをプレイしている。というか乙女ゲームの世界に生まれるってどういう事なの。考えてもそこが良く分からない。
「……カーラ様の周りにいる方が誰か分かる? ああ、名前はきっと覚えられないからどんな人かだけでいいわ」
「王太子殿下、隣国の王子殿下、宰相閣下令息、騎士団長令息ですね」
逆ハーレムというやつだろうか。
「気になりますか」
「カーラ様がどんなつもりで、あの人達と一緒にいるかは気になるけれど……。まぁいいわ。刃傷沙汰にならないといいわね」
そう、わたしにはそれよりも大事な事がある。このわたしの騎士を、どうにかしてわたしに夢中にさせたいのだ。
わたしの視線に気付いたジークヴァルトは、首を傾げる。そんな仕草にさえ鼓動が跳ねるんだから、もうわたしはだめかもしれない。
ジークヴァルトは何を思ったのかわたしの口に、イチゴをひとつ押し付けてくる。ぱくりとそれを口にすると、ジークヴァルトの指がわたしの唇を撫でていった。
「……っ!」
「真っ赤で可愛いですね」
「か、かわ……っ!」
「イチゴがですよ」
「ジークヴァルトがわたしを弄んだ!」
「人聞きの悪い事は言わないでください」
彼は素知らぬ顔でサンドイッチの続きを食べている。口の中に広がるはずの甘酸っぱさも、いまのわたしには感じられない。顔が熱い。
「はぁ……好き」
「そういう事は想い人に言ってください」
「だから言っているんだけど。あ、もっと気分が高揚するような雰囲気で、情感たっぷりに囁いた方がいい?」
「もっと相応しい方がいらっしゃると言っているんです」
「わたしはあなたがいいの。こんなに口説いてるんだから、少しは靡いてくれてもいいんじゃないかしら」
「はいはい、ほら早く食べないと遅れますよ」
先に食べ終わったジークヴァルトが追い立ててくる。わたしはサンドイッチと一緒に溜息を食べてしまう事にした。
こんなに想いを伝えても彼はそれに応えてくれない。それは脈なしという事なんだろう。彼にとってわたしは、仕える相手。恋愛対象にはならない。――でも、諦められるわけもなくて。
呑み込んだはずの溜息が、おかしいな。胸の奥で燻っているみたいだ。
またある日の午後だった。
わたしは相変わらずジークヴァルトにアプローチをして、相変わらず軽くあしらわれる日々を過ごしていた。
カーラ様の素行は悪名となって学園内でも話題になっているけれど、本人達は気にしていない様子。いつも同じ集団で賑やかにきゃっきゃといちゃいちゃしている。
あれが乙女ゲームのヒロインかと、わたしは内心震えるばかり。もしかしたらわたしが、ああなっていたかもしれないんでしょう? それだけは勘弁願いたい。
王太子殿下の婚約者である公爵令嬢が婚約破棄の準備に入って、それを王家総出で引き留めているとかも聞いたけれど……どこまで本当の事かは分からない。でも公爵令嬢はとても美しく才媛だから、あの王太子殿下には勿体ないかもと思ってしまう。
まぁわたしは関わらないように、わたしの好きな人を追いかけるだけ……と思っていたのに。
「はわわ、またお会い出来ましたね!」
カーラ様である。
わたしと話していた時はこんな喋り方じゃなかったような? ピンクのハートが幻覚となって見えるくらいに甘い声。それが向けられているのは、わたしの好きな人であるのだから、このもやもやとした気持ちも致し方ない。
今日も王太子殿下達を引き連れたカーラ様と、廊下でばったり会ってしまったのだ。運が悪いにも程がある。
「そうですね、では失礼します」
ジークヴァルトが素っ気なく応えると、カーラ様は色付く頬をぷうっと膨らませた。
「待ってください! これからみんなでお茶をするんです。一緒にいかがですか?」
「おい、カーラ。俺達だけでは不満なのか?」
「そういうんじゃないですよぉ、みんなで仲良くの方が楽しいでしょう?」
王太子殿下の低い声に、カーラ様はにっこりと答える。仕方がないなとばかりに王太子殿下はカーラ様の頭を撫でている。わたしは一体何を見せられているんだ。
「予定がありますので、失礼します」
ジークヴァルトはわたしを背に隠しながら、断りの言葉を紡ぐ。横をすり抜けようとした時に、わたしの腕を掴んだ人がいた。急に引っ張られてわたしはバランスを崩してしまう。
「わ……っ!」
「クラウディア様!」
振り返ったジークヴァルトが腕を掴んでくれたおかげで、倒れ込まずには済んだけれど、わたしの腕はジークヴァルトと隣国の王子にそれぞれ掴まれている状態。
「クラウディア嬢か。その美しい顔に似合う、美しい名前だね」
にっこり笑って紡がれる褒め言葉に、わたしの背筋が総毛立つ。そういうのは求めていないのだ、わたしは。
「お離し願えますか」
「もう少し君の事を知りたいんだけど……だめかな」
「申し訳ありませんが、予定がございますので」
張り付けた淑女の笑みが剥がれそうになる。隣国の王子の向こうで、カーラ様がわたしに恐ろしい程の鋭い視線を向けているものだから余計に。
「じゃあ後で、君の家に花を届けるよ。いいだろう?」
「私の婚約者を口説くのは、やめて頂きたい」
地を這うような低音にびくりと肩が跳ねる。不意にぐいっと強く腕を引かれ、たたらを踏んだわたしはジークヴァルトの胸に抱き留められていた。
え、なにこれ。ジークヴァルトのいい匂いがする。鼓動さえ伝わる近距離に頭がくらくらしてしまいそう。
「婚約者、か。それは悪い事をしたね」
隣国の王子は肩を竦めて笑うけれど、尚もわたしの髪先に触れている。ジークヴァルトはその手をぱんっと叩き落とした。
「触れるのは以ての外です」
「……ユリウス様、行きましょう? 私以外を見ちゃ嫌ですぅ」
険悪な空気を裂いたのは、やっぱり甘いカーラ様の声だった。どこか棘があるように感じるのはわたしの気のせいでは……ないようだ。すっごく睨まれている……!
カーラ様が隣国の王子の腕に絡み付くと、その一団はまたカーラ様を褒め称えながら立ち去ってくれた。喧騒が遠ざかっていく。
「……あ、の……ジークヴァルト?」
「申し訳ありません。もっと気を配るべきでした」
「いえ、それはいいんだけど……」
わたしが絡まれた事に対して、この護衛騎士は悔いているようだ。それよりも、ジークヴァルトはさっき何と言った?
わたしの事を『婚約者』だと言わなかっただろうか。その場を切り抜ける為の嘘? 待って、この距離じゃ何も考えられない。
「顔が赤いですよ」
「赤くもなるわよ……」
わたしを離したジークヴァルトは、平然とした表情で指摘をしてくる。あの言葉の真意を聞きたいけど、聞けない。嘘ですよなんて言われたら、きっとわたしの心は壊れてしまうもの。
「怒らないんですか」
「何を?」
「あなたを、婚約者だと言った事を」
触れてほしくないと思っているのに、どうしてピンポイントで貫いてくるんだろう。わたしの心がまるで読めているみたいに。
「えっと……やり過ごすための、嘘――」
「嘘じゃないですよ」
傷を浅くしようとした言葉は、ジークヴァルトの柔らかな声で遮られた。
「私はあなたの婚約者です」
「……いつから?」
「つい先程から」
「え、っと……待って、頭が追い付かない」
「放っておけないんですよ、あなたの事が」
何それ。
わたしの気持ちを知っていて、そんな理由で婚約者だと名乗るのか。それはあまりにも酷くないか。かっと顔に熱が集うのを自覚した。顔だけじゃない、頭にも血が上っている。
「ジークヴァルト・ミューラー、いいこと? わたしはあなたの事が好きだけれど、そんな同情みたいな理由で婚約者だと言われても、ちっとも嬉しくなんてないのよ」
「どうしてあなたはそう残念なんですか」
「残念とは何よ。好きだからってわたしが何でも許すと思ったら大間違いよ」
「残念な人に残念と言う以外に、何を言えましょう」
毒舌も悪態も、ジークヴァルトの口から紡がれるなら好きだった。でも今は腹がたって仕方がない。
言い返そうと口を開いた時には、わたしはジークヴァルトに抱き締められていた。先程よりも強く、両腕でしっかりと。
「あなたは綺麗で、家柄だっていい。性格だって可愛らしいし、どこに行ったって愛されるでしょう。放っておけない事の何がいけないんですか。放っておいたら俺の手の届かないところに行ってしまうでしょう」
「……ジークヴァルト?」
「諦めるよう、俺は何度も進言しましたよ。もっと相応しい人があなたにはいるって」
「えぇ、と……」
「それでも俺をあなたが望んでくれるなら、俺だって向き合うしかないでしょう。あなたにも、自分にも」
いつもの声じゃない。熱の宿った、余裕のない言葉。
「あなたは俺の婚約者です。いいですね」
「えっと……つまり、ジークヴァルトはわたしの事が好きって、そういう事?」
「あなたはどこまで残念なんですか」
「ちゃんとはっきり言葉にしてほしいのが、女心ってものなのよ」
「いまここで睦言なんて聞いて、腰を抜かさない自信はありますか?」
それは、ない。ジークヴァルトのその声で、わたしが好きだなんて言われたら気を失ってしまうかもしれない。
無言になったわたしの顔を覗き込んで、ジークヴァルトは笑った。そしてわたしの額に唇を押し当ててくるものだから、結局わたしはその場に崩れてしまったのも仕方がない事だと思う。
ある日の午後。
ベーレンス家の中庭にある東屋で、わたしとジークヴァルトはお茶を楽しんでいた。花壇の花々を揺らす風がほんのり冷たくて、わたしは腕を摩った。それに気付いたジークヴァルトが着ていた上着を肩に掛けてくれる。
「ありがとう、ジークヴァルト」
「ジーク、でしょう?」
「……ありがとう、ジーク」
わたしが言い直すと満足したように笑った彼は、わたしの腰に手を回す。逆手でティーカップを持って紅茶を楽しんでいるけれど、わたしはこの距離感に心臓が破裂してしまいそう。
「……ジークがこんな風になるなんて思わなかったわ」
「嫌いですか」
「そうじゃない、けど……恥ずかしいわ」
「あれだけ私の事を好きだと言っていて?」
「言ってたけど……うぅ……」
どうにも言葉にするのは難しい。
婚約者宣言をしてからのジークヴァルトは、距離を一気に縮めてきた。相変わらず悪態はつくし毒舌だけど、纏う雰囲気が甘いのだ。
「我慢をしなくて良くなったものですから。慣れてください」
「我慢って?」
「あなたの気持ちに応える我慢」
「そんなのをしていたの? え、じゃあジークも前からわたしの事が好きだったの?」
「そうですね、初めてお会いした時から」
嘘でしょ。ポーカーフェイスにも程がある。
「もう! もっと早く言ってくれたら良かったのに」
「だから言ったでしょう。あなたには相応しい人がいると、身を引こうとしていたんですよ」
カップをソーサーに戻したジークヴァルトは、その長い指先でわたしの頬を撫で擽る。長い前髪の奥で、青瞳が悪戯に煌めいた。
「それでも諦める事なんて出来ませんでしたが」
まただ。また声が熱を孕んでいる。
「もう逃がしてあげられません」
逃げる? そんなはずないじゃない。
そう言いたいのに言葉が出ない。間近に迫るジークヴァルトが薄く笑った。
「好きですよ、クラウディア様」
もうだめだった。
くらりと眩暈がして、ジークヴァルトの胸に倒れ込む。顔が熱いし心臓がばくばくと喧しい。わたしを難なく抱き留めるジークヴァルトが、満足そうに低く笑った。
やっぱりヒロインになんてならなくて良かった。
この人と会えて良かった。
伝わる温もりに促され、わたしもジークヴァルトの背に両腕を回す。温もりが解け合う感覚が心地よくて、口から言葉がついて出る。
「好きよ、ジークの事が」
「知っています」
当然とばかりに笑うから、つられるようにわたしも笑った。
幸せを何かで表したら、きっとこんな温度だと思う。それくらいに幸せで、胸が苦しくなる穏やかな時間だった。
そういえばカーラ様は王太子殿下の伴侶となった。ああ、違う。元・王太子殿下だ。学園内で様々な問題を起こした殿下は王太子の座を剥奪され、ルドウェル子爵家に婿入りする事になったらしい。
「こんなの正規ルートじゃない! 私は間違ってない!」とかなんとか騒いでいたらしいけれど。
乙女ゲームのヒロインって、ハイリスクハイリターンなのかもしれない。
まぁわたしには関係のない事。好きな人が振り向いてくれたと思ったら、翻弄されるばかりなんだもの。
そして今日もわたしは、やっぱり彼を想っている。