どこかの最強
六日後。
アキラは扉を前に仁王立ちしている。
「準備は万端だな」
アキラは一人で満足そうに頷いていた。
この六日で、できるだけ財産の処分はおこなったし、不必要なものは適当に寄付した。
この自宅も競売にかけた。
売れる頃には失踪しているが、何もしないと後々困る人間も出るだろう。
一応、弁護士にいなくなった場合の対応は任せてある。
色々と困るだろうが、これ以上は対処のしようがない。
格闘家には三種類の人間がいる。
本能派か理論派か、その間。
本能派は大雑把な人間が多いが、直感が鋭く獣じみている部分が強い。
理論派は科学的な根拠や実例を参考にし、トレーニングをおこなったり戦いに活かす。
そしてアキラはハイブリッド系。
彼は食事やトレーニングに気を遣う。
案外、格闘家によくいる性格だ。
部分的に几帳面である。
そのため失踪後の後処理をしたり、荷物の吟味をおこなったりもしている。
さて、そんな彼が異世界へ持っていくものに何を選んだのか。
それは彼の横に置いてある鞄を見ればわかる。
総重量百二十三キロ。
缶詰類、手製ピクルス、手製プロテイン、漬物、炒った豆類、燻した肉、魚、ドライフルーツ、砂糖、塩、醤油、みりん、日本酒、ハーブ類、コンソメ、塩切り麹、携帯固形食品、各種調理器具等々。
食に関連するものばかりである。
衣類も少しある。
他のものは現地で調達するか作成すればいいので問題ない。
彼にとって重要なのは文明の利器ではない。現代の完成された食事だ。
厳選したもので、消費期限が長いものばかりだ。
「さて行くか」
鞄を背負い、立ち上がる。
これくらいの重量ならば軽いものだが、問題があった。
「……積み込みすぎたかもしれねぇ」
ここまで慎重に荷物を選んだのだが、最後の最後で気づいた。
扉を通れないのだ。
アキラは強引に扉を通ろうとした。
だが、鞄の質量は圧倒的。
通らない。入らない。引っかかる。
力任せに通ろうとしたが、ビリッと何かが引き裂かれた。
これはまずい。
アキラは一旦、戻った。
そして中身を再び取り出し、腕を組んで眺める。
この中でどれを取り出すべきか。
ここまで六日間、悩みに悩んで選んだものだ。
「マジかよ……ここから更に選べってのかよ」
仕方がないので日本酒やみりん、ハーブなどの調味料を取り出した。
苦渋の決断だったがしょうがない。
再び扉を通った。
今度は何とか通れた。
草原に降り立ったアキラは周囲を眺める。
制限のある空だけが異世界であると主張している。
振り返ると扉はまだ健在だった。
左右を見ると、いくつも同じような扉が並んでいる。
どうやらアキラ以外にもこの世界へ転移しようとする者がいるようだ。
扉の反対側を見る。
そこにあったのは空だった。
扉の横を素通りすると、その先の地面がなくなっている。
下を見下ろすと、延々と空が続いている。
先には海も陸も見えない。異常なほどに澄んでいるので雲もない。
なのに何も見えない。大気があるため遠くまで見えないのだろうが。
それにしてもそれほどの高度ならば普通に行動できるものだろうか。
地球の地上にいる時と、然程変化はないようだが。
ここは異世界。
ならば常識は通用しないのかもしれない。
どうやらこの地は宙に浮いているようだ。
空に浮く島。
アキラは非現実的な現実をとりあえず受け入れた。
あまりに異常な状況でありながらもアキラの足取りは軽い。
再び扉前まで移動して、辺りを見回す。
未知への期待に胸を躍らせている中、視界に何かが入ってきた。
佇んでじっと待っていると、その影が何かわかった。
どうやら人らしい。
こちらに走ってきているそれは、剣のような武器を持っている。
それが三人。
そしてその後方に一人、一際小さい影が見える。
子供だろうか。少年らしき人間は、全員の荷物を持ったまま走っていた。
かなり苦しそうな顔をしている。
前方にいる屈強そうな男三人につき従っているというところだろう。
アキラは感慨なく、男達が到着するまで待ち続けた。
全力疾走している男達は息を荒げて、アキラの目の前にたどり着くと奇声を上げた。
「はあはあ、み、身ぐるみ全部置いていけやぁっ!」
疲れているのか、声が裏返っていた。
特徴のない顔立ちの凡庸な男達は、無駄に露出度の高い服を着ていた。
その後ろに、整った顔をしている少年が苦悶の表情を浮かべながら、くずおれた。
「おい、ヒューイ! すわってんじゃねぇぞコラァ!」
「す、すみま、せん……んぐっ!」
少年は足をガクガクと震わせながら立ち上がる。
そんな様子をアキラは無感情に見つめていた。
「おい聞いてんのか! さっさと荷物を置いて失せな。
でなけりゃこの剣がお前を切り裂くぜ?」
舌なめずりをする男だったが、脅しにもならなかった。
見れば中々に鍛えた体躯をしているが、言動は明らかに小物だった。
よくわからないが、どうやら強盗の類らしい。
「断る」
もちろんそう答えるしかない。
瞬間。
白刃が眼前に迫ってきた。
アキラは反射的にのけ反り、鞄を緩衝材として地面に着地する。
間髪入れずに、喉に何かが落ちる。
鞄を肩から下ろし、横に転がりながら回避する。
回転しながら鞄の安否を気遣うが、相手の男は鞄を傷つけることなく斬撃を止めていた。
奪う予定の荷物を傷つけないようにしたのだろう。
視界は流れる。
その中で、強盗の一人が目の前に迫っている。
肘鉄が下から昇り、顎を削ろうとする。
アキラは手の甲でそれを払うが、首の後ろに走る感覚に気づき、膝の力を抜いた。
瞬間、彼の身体はぐにゃりと折れて地面に落ちる。その衝撃を逃がすように足に力を込めた。
後方から別の男がアキラの後頭部を狙い、剣を払っていたのだ。
見ずに回避したアキラは、後方の男の股下をくぐり、すぐに態勢を整える。
だが、別の男がアキラの死角に潜んでいた。
剣の柄が膝に向かう。
これは二段構えの攻撃。
瞬間的に避けても、刀身が残っている。
どう対処しても回避は困難。
だが、アキラの人外じみた反射神経でその一撃は空を切ることになる。
アキラはドアをノックするように右手の指で刀身を横から弾いたのだ。
必然、膝に凶器が通ることもなく、刃は虚空へと落ちた。
相手に一瞬の隙が生まれる。
アキラは右手を動かした慣性を左手に繋げ、肘を男の顎に放つ。
縦の剣閃を生み出すには、当然ながら膝を折る必要がある。
結果、横からの攻撃に対処するには一度立ち上がるか、そのまま態勢を返して後方か前方へ逃げなければならない。
それは不可能だった。
なぜならアキラの所作は圧倒的に早かったからだ。
「ぎょふッ!」
男は気味の悪い声を出しながらその場で昏倒した。
アキラがすぐに横っ飛びすると、地面に剣が埋まる。
と、同時に横から圧力が生まれる。
「シィッ!」
二人の男が連携し、跳躍したアキラを攻撃したのだ。
迫る剣を避けることは常人には不可能。
空中で回避はできない。
はずだったが、龍爪との戦いで見せた空中での軌道変化の技により、アキラは鼻先三寸で半月の凶刃を回避した。
足を広げ、腰をねじり、全身の筋力を総動員しての動き。
あまりのアクロバティックな動きに男達は驚愕の表情を浮かべる。
だがそれだけ。
無駄な台詞を吐くことも、無駄に動揺することも、相手を侮ることもしない。
そこにあるのは。
絶対的な強者達の戦いだった。
アキラは背中から地面に着地しつつ、足を持ち上げる。
オーバーヘッドキックのような挙動で生み出された蹴りは男の後頭部に吸い込まれる。
そのまま強引に腹筋を使い後方へ飛び上がると、再び裂ぱくの気合いと共に、地面が切り裂かれる。
僅かにでも行動が遅れれば命はなかっただろう。
アキラは、跳ねて立ち上がるとすぐに構える。
同時に、蹴りを与えられた男はぴくぴくと痙攣したまま動かない。
正面にいた最後の男は何も言わず、動揺を抑えたまま地面ギリギリを疾走する。
下からの軌道。
あまりの速度に風音が遅れて聞こえる。
が。
破!
視界内での攻撃は安直。
いかな速度を持っても、いかな膂力を持っても。
見えているのならば対処する方法はいくらでもある。
結果。
「く、そが……つえぇ……じゃ、ねぇか……」
剣を小突き破壊した上で、アキラは男の胸を強打した。
踏み込むと同時に右手で刀身を弾き、左手で拳を突き出す。
回避と攻撃を同時におこなう。
それがアキラの闘術の基本。
一瞬の一瞬。
その間に決着はついた。
地面に倒れている男は三人。
立っているのは一人。
そして離れた場所でへたり込み、アキラを見上げている少年が一人。
アキラは呼吸を整え、昏倒している男達を眺めた。
粟立つ。
首筋がピリピリと電気が走る。
首筋に一本の赤い線が走っていた。
一つ間違えば死んでいた。
それほどの切迫した戦いだった。
過去数年感じたことがないこの感覚。
高揚している。
思う。
まるで小物。
まるで雑魚。
そうであるはずなのに、三人の男達の力量は確かだった。
あらゆる世界で最強だった存在。
その文言に嘘はなかったのだろうか。
龍爪よりも強かった。
それが三人も。
しかもまだ異世界に足を踏み入れて数分だ。
アキラは込みあがる期待感を抑えきれない。
笑ってしまう。本当に、強い存在だらけなのだ。
だが。
アキラを前にした少年は明らかに怯え、震えていた。
それは確実に演技ではない。
心の芯が冷え、明らかに強者を前にした弱者のそれだった。
「あ、あ、あ、う、うそ……こ、こんな簡単に、た、倒される……なんて」
使い込まれた衣服は現代のものに近かった。
顔立ちは日本人ではないのに、話している言葉は日本語だった。
違和感があったが、別に気にすることでもない。
戦いに支障は一切ないのだから。
「こ、こ、ころ、殺さないで……ぼ、僕は、そ、そいつらにめ、命令されてただけ……。
ゆ、許して、ぼ、僕は何もしてない……」
がたがたと震える少年を前に、アキラは毒気を抜かれてしまう。
弱い者いじめに興味はない。
アキラが興味を持つのは強い相手のみだ。
それ以外の人間はどうでもいい。
普段ならばそう考えるが、ここでは少し事情が違う。
「おい、おまえ、ヒューイとか言ったか」
「ひゃ、ひゃい!!」
声をかけるとビクンと肩を震わせた。
アキラは嘆息しながら続ける。
「俺はアキラだ。安心しろ。何もしやしない。
俺はここに来て間もない。少しでも情報が欲しい。教えろ」
「え、あ、は、はい……ぼ、僕でわかることなら」
「とりあえずここで最も強い人間は誰だ?」
「に、人間ならレジュラという男がこの階層では最強ですが……」
「階層? 人間なら?」
「えとですね、この世界には色々と事情がありまして……説明した方がいいです、よね?」
「ああ、頼む」
ヒューイはまだ怯えているが、とりあえずは危害は加えられないと理解したらしい。
少しは落ち着いたようで、おずおずと話し始めた。
「こ、この世界はいくつかの階層でわかれていまして……その、て、天井が見えますよね?
上に行くにつれて強い方達が住まう階層になります。ここは最下層の人域と言われる場所で、生物の中で最も弱い人間が住まう場所で……」
「それは、生物の中で人類が最も弱いってことか?
それともこの世界の人類の中で最も弱い人間の階層ってことか?」
「ぜ、前者です……ただの人間はこの世界ではとても弱いので……」
色々と含みがある言い方だが、一先ずは置いておくことにした。
「一つ上の階には超人域があるらしいです……そ、それ以上は知りません。
そこは人外じみた人間ばかりがいる場所らしく、普通の人間は行かないので……」
なるほど、どうやら上に行くごとに強い存在がいる階層になるらしい。
しかし超人とは一体。
疑問は置いておいて、とりあえず聞いた。
「行くにはどうしたらいい?」
「そ、そそそ、そんな! む、むむむ、無理です! こ、殺されますよ!
レジュラも滅茶苦茶強いですが、上の階層はレジュラ以上の強い存在ばかりなんです!
いくら強くても、あ、あなたただの人間でしょ? し、死にますよ!」
アキラは首をひねる。
「おまえも招待を受けたんじゃねぇのか?」
「そ、それは……そうですけど、僕は僕の世界では最強でした。
でもとても小さな世界で……。調子に乗っていただけでした……」
国ではなく世界と言った。
あの手紙の言葉通りならば、並行世界のような、もしくはこことは別の異世界からの来訪者達が無数にいるらしい。
先程戦った三人の男達のような強者は地球にはいなかっただろう。
ならばやはり別世界の最強と謳われた人間が招へいされたのだろう。
ヒューイに脅威は感じないが、各世界の最強といっても実力差はかなりあるようだ。
しかし三人の強さは間違いなかった。
奴らよりも強い存在ならば、間違いなく楽しめる戦いになるだろう。
「で? そのレジュラはどこにいる?」
「え? ほ、本当に行くんですか?」
「ああ」
「き、危険ですよ!」
「だから?」
「だ、だからって……あなたは何かの望みを叶えるためにここに来たのでは?」
「ここでの戦いが俺の望みだ。強い奴と戦う、そのためにここにいるんだからな」
アキラの言葉を聞くと、ヒューイは呆気にとられて言葉を失っていた。
そしてすぐに我に返ると自嘲気味に笑う。
「そう、ですか。でもきっと後悔します。みんなそうなので」
「みんなとやらがそうでも、俺はそうじゃないな。俺はその中にはいねぇからな。
問答はいい。さっさと場所を教えろ」
「……ここからあっちの方向へ進むと、階層中央に人域唯一の都市があります。
そこから上階層へ行く扉がありまして、利用するための鍵をレジュラが持ってます。
各域の序列最高位だけが上層へ行く権利がありますので」
「つまりそいつをぶっ倒して鍵を奪って登れってことか」
「そ、そうなりますけど! い、いきなりは無理です!
ま、まずは序列を上げないと!」
「序列ってなんだよ」
「えとですね、左手の甲に現序列が出ているはずなんですが」
アキラは自分の手を見下ろした。
確かにそこには何かの模様が浮かんでいる。
刺青をした覚えはない。
淡い光を生み出しているそれは、見たことがない文字が並んでいる。
だが不思議と読めた。
●ランキング
滞在域 :人域
滞在域序列 :155,123位
総合序列 :484,897位
「なんだこりゃ?」
「それがあなたの現状の序列です。
まずは滞在域で二位にならないと、最高位の相手と戦えません」
「……んだよそれ、面倒くせぇな」
「そうしないと、一位の人ばかりが戦いを強いられるのでしょうがないんですよ」
「じゃあ、二位をぶっ飛ばせばいいのか?」
「い、いえ、自分と序列が千以上離れた相手とは戦っても上昇しませんので……。
あ、あと、上位になったら自分から見て、百位圏内の相手と戦わないと序列が上がりません。
ほら、そうしないと結局、二位の人が戦いを強いられ――」
戦うことには問題がないが、こうシステマチックになると気分はよくない。
というか無駄に考えることが面倒くさい。
「わかった。つまりあれだ、出会う奴を全員倒せばいいんだな?」
「え? あ、い、いえ、相手の序列も見れるので、それで選んでですね」
「ちまちましたのは嫌いだ。どうせ俺より弱いんだからよ。全部倒せばいいだろ。
相手が強ければそれはそれでラッキーだし、別にいいんじゃねぇの?」
「ラ、ラッキーって……」
ヒューイは呆れたようにアキラを見た。
しかしアキラの言うことは的外れではない。
実際、目につく相手を倒せば最終的には一位に近づく。
かなり大雑把な方法だが、アキラの目的は別に上層へ行くことではない。
強い相手と戦うこと。
ならば戦い続ければおのずと上層へ行けるだろう。
「じゃあ、俺は行くぜ」
「え? あ、あの、い、いいんですか?」
「なにが?」
「何がって……ここは弱肉強食の世界。弱者は、敗者は虐げられるだけ。
僕は……弱者で敗者です。だから」
「あ? おまえがどうだかは知らねぇけど、俺はおまえから情報を貰った。
それ以上は別にいらねぇし興味もねぇ。どうでもいい」
「…………強いんですね、あなたは」
「俺が? 違うね。他の奴が弱いんだよ」
自分を強いと思うことはある。
だがその強さはまだまだ発展途上であり、もっと強い存在がいるはずだと信じている。
それは憧憬だ。
幻かもしれないとも思う。
それでも追い求めてしまう夢である。
たまたま、今まで戦ったやつが自分より弱かった。
だから相対的には自分は強いが、真の意味で強いわけではない。
もっと強くなる。
もっとギリギリの戦いを。
そのために彼は進んでいる。
そんな単純な理由。
子供だと、非現実的だと、愚かだと社会に生きる人間は言うだろう。
だがそれが彼の生き方であり、彼の望みでもある。
誰しもが幸福を望むが、その幸福には他人からの承認を多分に含む。
レッテルを貼られて、それを誇りに思うことにどんな意味があるのか。
本当にそれは幸福なのか。
本当にそれは己の望みなのか。
否定はしない。肯定もしない。
だがアキラは違う。
そんな提供された幸福に旨味を感じない。
アキラにあるものは、ただ己が望むものだけ。
追及するためにここに立っている。
アキラは鞄を背負い、歩き始めた。
が、途中で足を止めた。
「なあ、もう戻れないんだっけか?」
「え? ええ、扉を通ってしまった後はもう戻れませんけど……」
「そっか……」
アキラは明らかに落胆していた。
その様子を見て、ヒューイは恐る恐る聞いた。
「あ、あの、帰りたくなったんですか?」
「ああ……ふと、な」
「やっぱり、戻れないと思うと後悔しますよね……」
「いや、やっぱり日本酒は欲しかったなと思ってな」
「はい?」
「調味料だ。やっぱり日本酒は必要だろ。料理酒よりも日本酒派なんだよ、俺。
酒蒸しとか美味いからな」
「は、はあ、そうですか」
「じゃあな」
アキラは階層中央へ向かい歩き始めた。
足取りに不安や迷いは一切ない。
むしろ軽かった。
その悠々とした後姿を見て、ヒューイは立ち上がる。
そして、なぜかアキラの背中を追った。