異世界への招待
アキラの一日は早朝から始まる。
朝四時に起床し、入念なストレッチを始める。
簡単な食事をし、百キロ近くの重りを身に着けて、百キロ走る。
ジョグ&ランであり、常に体力を消耗する手法をとっている。
休憩は一切ない。
昼食前に帰宅するとすぐに食事をする。
彼の一日の消費カロリーは三万。
力士でさえ、期間によって一万カロリー程度である。その三倍。
もちろん、そのカロリーはきちんと吸収されており、消費もされる。
ただの大食いな人間とは違う。
およそ人の領域を超えているが、彼にとっては普通のことである。
より高カロリーを必要になるであろう時には追加で摂取するほどだ。
高カロリー高タンパク質の物だけを摂取してもかなりの量が必要だが、栄養が偏る。
そのため野菜や果物の摂取も重要だ。
プロテインのような加工食品だけでは飽きるし、まずいし、味気ない場合も多い。
最近は甘くしたりしているものもあるが、好んで飲むようなものでもない。
必然、調理が必要になる。
アキラの唯一の趣味と言っていい。
彼の頭の中にあるものは、戦いかトレーニングか食事のことだけだ。
高カロリーなものと言えば、ナッツやイモ類。
肉類もカロリーは高いがかなり重い。
その上、量を摂取するにも油が多すぎて健康に悪い。
過剰な運動で消費しても偏食的であれば肉体に悪影響を及ぼす。
糖分の量も気にしなくてはならない。
ちなみにアキラの食事は一日五回である。
超人的な消化速度があっても、一度に八千近くのカロリーを摂取すればすぐには動けない。
その時間がもったいないと考えたため、食事の回数を増やしたのだ。
食事の時間は長くても二十分程度なので、多くの時間を割くことはない。
アキラは平屋の家に一人で住んでいる。
持家だ。彼自身の金で購入した。
裏稼業をすれば危険は多いが、金回りはいい。
荒事専門の仕事なんて腐るほどあるし、やりたがる人間は意外に少ない。
実力が伴っている人間となれば尚のこと。
そのため、アキラの存在は裏界隈では有名で、ひっきりなしに依頼が舞い込んでいた。
報復も多いが、すぐに察知できるし、それくらいの刺激がなければ面白みはない。
ただあまりにも簡単に撃退し続けたためか、誰も来なくなってしまったが。
最近ではアキラを登用すること自体、業界内で禁止しようという風潮が強くなっているらしい。
まるで戦争法だ。
すでにかなりの財産を得ているので問題はないが。
ただし、収入のほとんどは食事とトレーニング器具に消えている。後は貯金だ。
さて話を戻そう。
家具がほとんどない部屋、台所、トイレ、風呂、そして地下にトレーニングルーム、あるのはこれだけである。
必要なもの以外は何もない。それが彼の家だ。
昼食を終えると再びトレーニングが始まる。
過剰な負荷をかけた状態での、架空の相手との戦い。
濃厚なイメージ。相手は最強の存在である。
どんな行動をとっても必ず対応されるという理不尽な状況を想定し続ける。
その相手とひたすらに戦う。それだけだ。
戦いに必要な筋力は、戦いを続けることで得られる。
体中に負荷をかけ続ければより効果的だ。
だが今のアキラにとってはそれだけでは足りない。
一切の合間なく、動き続けて、戦う。
食事を挟み、一日の汗を流すと、就寝する。
休息は誰にでも必要だが、ただ休むわけにはいかない。
重りをつけたまま、立って構えをとった状態で寝る。
あまりに無茶な眠り方だが、その方法をアキラは数年続けている。
常人であれば間違いなく何かしらの悪影響が出る。
だがアキラの身体はそれ以上を欲し、常に飢えている。
たゆまぬ鍛錬により、アキラは生物の頂点に立った。
海洋生物との戦いはあまり経験がないが、サメ程度なら余裕で倒せる。
サイやゾウやクマとも戦ったことがあるが、中々に歯ごたえがあった。
彼が続けていたものは努力などという生半可なものではない、病的な継続によって成し遂げられたもの。
戦うことだけ。
そのために彼は生き、行動している。
生きると同義であるが故に、手を抜くという考えもない。
呼吸を怠ければ死ぬ。だから息を吐き吸う。それと同じ感覚なのだ。
アキラの日々は同じ。ひたすらに同じ。
己を鍛え続ける。
だが、最近思ってしまう。
本当に強い相手はいないのではないか、と。
ここ数年、誰かと戦ってもスリルを味わうことさえない。
高揚もない。淡々と、ああ、こんなものか、と思うだけ。
銃火器を所持した相手も同じ。巧みに扱う相手であっても弱くてしょうがない。
所詮は道具。道具の扱いは鍛え上げられても、道具そのものの性能は戦いの中では変化しない。
面白みがなく、単純だ。なぜなら道具でできることは限られているからだ。
新手が少ない。結局は何かしらの延長線上でしかない。
アキラにとって道具を使うことは、戦いをつまらなくする要因でしかない。
別に使ってもいいが、武具使いほど脆弱な気がする。
最大の武器である己を扱いきれていないのに、武器に縋る精神が許容できない。
それで強いなら良いが、弱いのだ。
武器破壊を一つの戦法としているアキラにとってはより顕著だった。
武器を破壊された使い手は、丸裸になった状態。
その逆境を跳ね除けた相手は存在しない。
結局、強い人間は武器に頼らない人間ばかりだった。
だが、彼等も結局はアキラを満足させるには至らなかった。
見下しているわけではない。
ただ、それが事実だと認識し、落胆している。
もしかしたらこの生活がずっと続くのではないか。
もう昔感じたような、命のやり取りをすることはないのではないか。
もうあの頃のように、生きている実感を得られることはないのか。
不安が胸中を包み込んでいる。
しかし他の生き方を、今さらできるはずもない。
大学にでも行って、普通の企業に就職し、普通に働き、普通に恋愛し、普通に家庭を築き、普通に子供を作り、普通に死ぬ。
そんな生活を考えるだけで怖気が走る。
他人に押し付けられた幸せに従うなんて、地獄だ。
結局はこのままなのだ。
このまま戦い続け、いずれ己よりも強い敵が現れるのを待つことしかできない。
そんな日々が続いていた、ある日。
いつも通り、ジョグ&ランの日課を終え、帰ってきたアキラは自宅の扉を開けた。
木造。どこにでもある家だ。元々は借家だったものを買い取った。
年齢的には不釣り合いなかなりの大金を支払ったが、アキラにとっては、はした金だった。
老朽化しているが住み心地は悪くないし、近隣に民家が少ないので干渉されずに済む。
そんな我が家に入ると、アキラは違和感に気づいた。
無言のまま立ち尽くし、殺意を込めた視線を周囲に流す。
何かがおかしい。
危機感を抱いた生物の本能。
誰かの報復かと思ったが、質が違う。
強い警戒心の中、アキラは違和感の下に近づいた。
郵便ポスト。
やや古い家なので、扉に投函口がある。
鉄製の箱があり、そこに郵便物が溜まる構造だ。
アキラはポストを開け、中を見た。
その中にはいかがわしい広告やハガキが入っていたが、ひときわ目立つものがあった。
黒い手紙。
それを手に取り、裏側を確認した。
差出人の名はない。
薄いので危険物の類は入っていないだろう。
ヤクザやマフィアの連中は報復のために姑息な手段をとる場合があるが、奴らの仕業ではないらしい。
封蝋とは古風だ。
中から出てきた手紙に目を通した。
そこにはこう書かれていた。
『その世界の最強の者へ。
生ぬるい生活、弱者達との戦い、高揚しない出来事の数々、裏切られた期待。
そんな日々に飽き飽きしてはいないか?
漫然と生きる中で疑問を抱いてはいないか?
もしも、より強い者と戦いたいと願うなら。
もしも、何かしらの大望を持ち、何を賭しても叶えたいと願うなら。
機会を与えよう。そこはあらゆる世界の最強達を集めた場所。
名もなきその地には弱者はおらず、存在するのは勝者と敗者のみ。
戦いを望み、身の丈に合わない願いを持つものよ。
もしも、その地で頂点に立つことができたならば、あらゆる願いは叶うだろう。
平穏は終わる。異世界へ旅立つならば、二度とその地へは戻れない。
それでも刺激を、戦いを、願いを求めるならば。招待しよう』
そこまで読んでアキラは次の一文に目を通した。
『右を向け』
そう書いていた。
反射的に首を動かすと、そこには不自然な扉があった。
そんな場所に扉はなかったはずだ。
構造的に、その先にあるのは壁だ。
だが、そこには確かに扉があった。
黒い扉だったが、周囲には明光が溢れ、扉の存在を強調している。
アキラは不意に扉を開けた。
その先にあったもの。
それは。
草原だった。
青々と茂った草木が微風に揺れている。
それだけの光景の中、いくつかの特徴があった。
まず空がない。
いや、正確には『空には天井があった』のだ。
遥か上空に灰色の壁が見えた。
しかし辺りは明るい。壁そのものが光り、空間そのものが光源のように感じた。
正面には森や岩などの自然物が並んでいる。
それだけの場所。
それ以外の特筆すべき点がない。
だが、それだけでもわかることはある。
この扉を通れば、全く別の世界に行くことができるということ。
アキラは扉を閉めた。
再び開けた。
同じ光景が広がっている。
再び閉めた。
「……なるほど」
アキラは何度か頷き、現実を受け入れた。
武術家に必要な能力は何か。
多くあるが、その中の一つに想像力というものがある。
あらゆる事態を想定し対処する。
それを瞬間的にするには、迷いがあってはいけない。
必然、取捨選択を迫られる。
その中では常識や、当たり前などという凡人の枠組みは捨てなければならない。
限界を作れば、視野狭窄になるからだ。
必然、彼にもその能力は備わっている。
つまり。
彼は圧倒的に順応能力が高い。
故に現状を受け入れ、あまり突飛な出来事でも受け入れることができる。
その上、数々の修羅場をくぐっているため、動揺しない。
傍目から見れば、かなり冷静に見えるだろう。
もちろん、彼の胸中に疑問はいくつも浮かんでいるし、僅かにも狼狽はしているだろう。
だが、それは星の瞬きよりも短い間隔で消失する。
アキラは再び手紙を見た。
『扉は一週間後の午前0時に消える。
それまでに転移するか残るかを決めろ。
転移すれば戻れない。二度と郷里の土は踏めない。
手持ちだと判断できる範囲であれば、荷物を運ぶこともできる。
慎重に選ぶことを勧める。以上。諸君の来訪を期待する』
そこで文章は終わっていた。
アキラはもう一度最後まで読み返し、そして丁寧に手紙を封筒にしまうと、下駄箱の上に置いた。
「なるほど」
もう一度言った。
彼なりに、情報を整理しようと必死になっているようだ。
非常識な出来事の中、アキラは気づいた。
己の心臓が高鳴っている。
これは動揺ではない。
興奮だ。
血が熱くなり、いつの間にか、全身の筋肉が強張っていた。
何を迷う必要がある。
こんなおあつらえ向きな状況、避ける必要がない。
ああ、この感じだ。
子供が玩具に憧れるような。
一大イベントを前に興奮するような。
圧倒的な期待。
知らないということへの期待だ。
アキラは、思わず笑みをこぼした。
それは少年のような笑顔であった。
二度、三度と深く呼吸をし、完全な冷静さを取り戻したアキラは顔を上げる。
「とりあえず飯だな」
明らかに異常な状況だが、アキラはあくまでマイペースだった。
お腹が空いたので食事をする。
ということで。
アキラは台所に向かい、朝食の準備を始めた。