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最強の男

 静かな夜だった。

 そこは広く、誰もいない。

 縦に長く伸びた部屋で、左右対称の造りだった。

 木造で、灯篭や柱が等間隔に並んでいる。

 それだけの部屋。だが壁や床にはくすんでいる部分が散見された。

 それは多くの人間が研鑽を重ねた証であった。

 血と汗と涙と垢と、あらゆる人間の執着とも言える何かを染み込ませている。

 暗く沈んだ空間の中、一人の男が座禅を組み黙想している。

 微動だにしない。文字通り動かない。

 呼吸さえ浅く、肩も腹も傍目では動いているように思えない。

 微弱な動作の中、彼の中にあるものはただ一つ、無心であった。


 彼の名は王龍爪ワンロンジャオ

 齢百を超え、尚も肉体は精悍。若く猛々しい。

 無駄な脂肪はなく、老人と言える特徴は顔の皺と白く染まった毛髪のみ。

 四肢は無骨。拳は岩石を思わせ、足は大木を想起させる。

 彼がどれだけの鍛錬を積み重ねてきたのか、一目でわかる。

 そんな無機物を思わせるほどに泰然としていた男の顔に、深い皺が走った。

 閑寂な空気が僅かに張り詰める。


「何者だ」


 龍爪の口から零れた言葉を受け、暗がりから何かが揺らめく。

 龍爪は一寸の乱れなく立ち上がり、ゆっくりと振り返る。

 視線の先にあるものは観音開きの扉と、一人の男だった。

 窓から射す月明かりに照らされた男を見て、龍爪は疑念を抱く。

 若く、恐らくは日本人であるその男は、ただそこに立っていた。

 何も持ってはいない。

 量販されているTシャツとズボンを纏っている以外に特徴はない。

 年は恐らく十代中盤から後半。まだ学生かもしれない。

 若い、いや青いと言っていいだろう。

 顔など、まだ幼ささえ感じさせる。

 だが、肉体は鍛え上げられている。

 数多の武術家を見てきた龍爪をして、感嘆を覚えさせるほど。

 なるほど常人ではないようだ。

 だがそれだけだった。


「何者だ」


 もう一度、龍爪は問うた。

 二度目の言葉には僅かな拒絶感が滲んでいた。

 それもそのはず。

 この地は、よそ者が入り込めるような場所ではない。

 外国人であれば尚のこと。

 脆弱な日本人ごときが足を踏み入れていいはずもない。


「モガミアキラ」


 男は抑揚のない声音で答える。

 声は僅かに高く、完全な声変わりをしていないことがわかった。

 その未熟な声と体躯に、龍爪は嫌悪感を抱く。

 だが同時に理解もしていた。

 この場にいるということは、そういうことであると。

 龍爪の中に油断はない。

 この不作法な男に対して礼を重んじる必要はないが、問わねばなるまい。


「一応、要件を聞こう」

「中国の裏社会を牛耳る暗殺武術集団の十二代目当主。名はなく、ただ存在する集団。

 その実態は謎に包まれ、情報化社会の波の中でさえも噂程度にしかならない。

 情報が出てもすぐに消去され、跡形もなくなる。

 武力を必要とする組織へ派遣する暗殺者を育てることを目的とした組織。

 その頂点に立つ王龍爪。それがおまえなのか?」


 わざわざ隠す必要もない。

 龍爪は抵抗なく首肯する。


「いかにも」


 男は嬉しそうに寂しそうに笑った。

 その感情がわからず、龍爪は眉間にしわを寄せる。


「俺の質問はあと一つだけだ。あんたは……あんたはこの世界で最も強い男なのか?」


 龍爪は迷いなく、淀みなく、驚きもなくゆっくりと頷いた。


「そうだ」


 それは自負ではない、事実だ。

 世界中に最強と名乗る人間は多くいる。

 彼らの多くは井の中の蛙だ。

 あまりに傲慢、あまりに無知。

 だが、龍爪はそうではない。

 数多の最強を下し、数多の達人や暗殺者を輩出している。

 当然、彼自身の実力も抜きん出ており、過去に負けた経験は一度もない。

 物心ついた頃から、一度も。

 中国武術、空手、柔術、合気、ボクシング、テコンドー、ムエタイ、サバット、カポエイラ、忍術、ルチャリブレ、パンクラチオン、システマ、サンボなど、多岐に渡る敵と戦った。

 素手だけでなく剣術、槍術、斧術など武器を扱った戦いもしてきた。

 地方武術もその中には含まれており、時として虚を突かれることもあった。

 だがその中の誰も、龍爪を脅かすことはなかった。


 唯我独尊。

 彼が最強であると断言している理由は負けたことがないからである。

 そして彼が闘ってきた相手は全員、最強であるか、圧倒的に強いと言われている相手であった。

 若かりし頃、彼は世界を旅し、戦いの日々を続けていた。

 総合戦闘数は優に万を超える。

 すべて真剣、つまり死合であった。

 それを数十年続けたのだ。

 負け知らず、と言えば聞こえはいいが、それはつまり負けないだけの強さを維持しているということでもある。

 百歳を超えて尚も現役である理由はそこにある。

 龍爪は強さにこだわり、日々己を高めている。

 故に最強。故に成長を続ける化け物となっている。

 圧倒的自信が彼には染みついている。

 だが、その男が目の前の若者を見て、身体を強張らせた。

 アキラと名乗った日本人は笑ったのだ。

 そのあまりに純粋で狂気的な顔に、龍爪は強い警戒心を抱いた。

 勘違いしてはいけない。狂気など、彼にとっては日常茶飯事だ。

 己の現状に酔い、演じる人間などいくらでもいる。

 自己陶酔を客観視すれば、恥辱にまみれた姿を露呈していると気づくだろう。

 それは若さであり、幼さの象徴でもある。

 だが、目の前にいる若者の放つ覇気は過去に類を見なかった。

 純然たる思い。そこにあったのは得体のしれない何かだった。

 龍爪は四半世紀も生きていない子供に怖気を抱いたのだ。


 若者が地を蹴る。

 龍爪は瞬間的に構え、アキラの挙動に相対した。

 早い。だが目で追えないほどではない。

 そしてアキラは跳躍した。

 その瞬間、龍爪の中に落胆が生まれる。

 子供の喧嘩ではあるまいし、視認している状態で空に身を置くとは。

 愚か!

 龍爪は滑るように床を進む。

 半身になり、肩を突出しながらの前進。

 単純な歩法に見えるが、その実、あらゆる技に繋がる第一段階。

 何が来ても対処できる、受けの型だ。

 飛んだということは選択肢は限られる。

 蹴りか組み付くか。

 拳打はない。あっても効果は薄いため気にしなくてもいいほどだ。

 だが何をしてももう遅い。

 勝負は決したも同然。

 が。

 龍爪は目の前の光景に目を見開いた。

 アキラは空中で身をよじり、回転しつつ軌道を変化させたのだ。

 まるで虚空で踊っているかのようであった。

 そのため、龍爪の攻撃範囲を大きく外れた。

 だがそれも半歩動けば修正できる。

 すぐに対処した龍爪は、身体を右方に回転し、掌打を放った。

 轟音を生みながらの一撃。

 それは大男の意識でさえ一撃で刈り取ることができる威力を持っている。

 空中では逃げ場はない。


 だが、アキラはその一撃を華麗に回避した。

 否、腕を避けつつ、腕を掴みながら回転を維持した。

 そして龍爪の下半身に向かいブランコのように滑ると、そのまま股下を潜ったのだ。

 自らの腕に吸い込まれ、龍爪は転倒を余儀なくされる。 

 転瞬、龍爪は反射的にひねりを加えつつ前方宙返りし、回避する。

 そのまま反転し、後方へ向き直った。

 同時に圧倒的な膂力で腕を引こうと力を込めた。

 しかしその目論見は露と消える。


「なんだと!?」


 その言葉は龍爪の口から出ていた。

 龍爪の身長は二メートルを超える。

 対してアキラの身長は百八十五、六センチ程度。

 骨格が違えば腕力も違う。

 いくら鍛えても生まれ持ったもので大きな差が生まれる。

 だというのに、龍爪が全力で腕を引いても動かない。

 アキラは龍爪の手首を掴んでいるだけ。

 綱引きのように後方に体重を流してもいない。

 龍爪は強引に腕を引き抜こうと必死になるが、アキラは平然としている。

 この差はなんだ。

 このまるで岩を相手にしているような手ごたえのなさ。

 いや違う。質が違う。

 何かがおかしい。この男は何かが。

 初めて抱いた感情に龍爪は戸惑いながらも認めない。

 その一瞬、龍爪は確かに見た。

 アキラは足の指先で床に穴を空けて掴んでいたのだ。

 つまり足だけで己の身体を固定していた。

 あまりに常軌を逸した行動に龍爪は咄嗟に叫んだ。


「チェリャーー!!」


 気勢と共に龍爪はアキラに向かい踏み出す。

 突然の力の反転。単純だが効果的な行動だ。柔術の基本でもある。

 人の本能に根差す行動、反射。

 それを逆手にとった無自覚の行動であった。

 故に本人さえも理解しておらず、その先は長年染みついた所作に繋がる。

 何万、何億、何兆とこなしてきた突き。

 その一撃がアキラの喉へ向かう。

 当たれば死。

 その覚悟を持った攻撃。

 じん

 刹那、交錯する影が二つ。


「ば……か、な」


 圧倒的な速度、膂力、研鑽、経験、年月、体格、才能。

 そのすべてが拳には詰まっていた。

 はずが。

 龍爪の喉に、アキラの足刀が埋まっている。

 近距離の蹴り。

 身長差があるため、丁度いい塩梅で蹴りが入る可能性は考慮していた。

 だが、その攻撃を許さないほどの速度で突きを放ったのだ。

 蹴りよりも突きの方が圧倒的に早い。

 なのに。

 アキラの蹴りの方が先に届いたのだ。

 その理由は簡単だった。

 アキラは異常なほどの関節の柔らかさを利用し、予備動作を最低限に抑えていた。

 つまり身体を傾け腕を振り、足を持ち上げる、という動作の前半部分を排除した。

 足を持ち上げるだけで蹴りあげたのだ。

 そんな方法では威力を維持できない、はずが。

 龍爪の意識は完全に刈り取られる。


 たった一撃。

 たった一幕。

 それだけで勝負は決した。

 数分にも満たない紡ぎ。

 その結果は、龍爪の敗北であった。

 龍爪はくずおれ、呻きながら若者を見上げる。

 彼が龍爪に向けていた感情は、達成感でも優越感でもなかった。

 ただそこにあったもの、それは寂寥。

 寂しげに、悲しげに、龍爪を見下ろしていたのだ。

 その純粋な感情を受け、龍爪はこう思った。

 ああ、すまない、すまない。

 龍爪は武術家としての矜持を思い出した。

 戦い、競い、相手と命のやり取りをする。

 その時、どんな相手でも、どんな敵でも自然に生まれた感情。

 相手に落胆させてはならない。

 手を抜いてはならない。

 全力で倒し、全力で殺す。

 それが武に身を置いた者の使命であると。

 思い出した。

 一度も負けず、一度も挫折しなかった男は、理解と共に意識を失う。

 動かなくなった老人の前には佇む若者が一人。


「あんたも、違ったのか……」


 アキラは落胆し、嘆息する。

 最強であると聞いていた。

 でも心が熱くならない。

 今まで戦った相手の中で、恐らくは一番の強敵だった。

 その相手でさえ、追い込まれることもなかった。

 強かった。けれど、自分の方が圧倒的に強かった。

 それだけのことだが、異常なほどに虚しさを感じた。

 なぜなら、アキラは手加減をしたからだ。

 それほどに実力の差があると理解したからだ。

 獅子は兎を狩るにも全力を尽くすという。

 だが彼は獲物ではない。倒し食す相手ではない。

 それに圧倒的な力量差がある相手に全力を注げば、ただ蹂躙するだけだ。

 そんなものに価値はない。終えた後、去来するものは虚しさと恥だけだ。

 手加減していたことは相手には気づかれていなかったようだ。

 それでいい。これで彼の人生が終わるわけではないのだから。

 だが、その事実のせいで現状を見せ付けられたような気がする。

 アキラは龍爪の顔を見た。

 気絶しているだけだ。死んではいない。

 そうするようにしたのだから当たり前だ。

 アキラは部屋を出た。

 そこは山の中腹。

 扉前から見える空は白み始めている。 

 無数の階段が下っている中、アキラはゆっくりと元の道を辿った。


「うう……」


 誰かが呻く。

 その声がそこかしこから聞こえた。

 空に日が昇り、辺りの様子が明瞭になる。

 地面に伏している暗殺武術の門下生達。

 あるいはここの門番、達人級の者。

 その数、五百程。

 その誰もが、地面に倒れていた。

 死者はゼロ。

 相当な力量差がなければこうはならない。

 アキラは唯一、地に足をつけ、歩き続けていた。

 ようやく見つけた最強らしき最強だったが、最強ではなかった。

 他にもっと強い奴がいるんだろうか。

 いや、いてほしい。

 その希望だけを胸に、彼は生きている。

 もっと強い相手と戦うために。

 もっとひりつような戦いをするために。

 そのためだけに戦い続けている。

 そうして数ある最強達を倒してここまできた。

 若かりし頃の龍爪同様に、世界を行脚し武者修行を繰り返している。

 だが、彼は知らない。

 王龍爪が、この世界で名実共に最も強い男であったということを。

 その男を倒した。


 誰にも知られず、自らも知らず。

 ひっそりと。

 モガミアキラはその瞬間、世界で最も強い男になった。


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