概念を食す。
「やあ、君が○○君だね?」(ここで主観の人物が対話している存在はあくまでもどこにでもいる平凡な中学生のため名前は割愛(以降はAとして記述))
「......」
「よく来たね。担任の先生からお話は聞いているよ」
言いながらデスクに所狭しと乗った物の中から、書類の束のひとつを取った。椅子のキャスターが僅かに体を曲げた。
「君がなんでここに居るのかはここにいる人達はわかっている。君のお母さんと、僕と、君の三人のことだ」
微笑みを向け、書類に目を落とす。チラリと見えたそれにはボールペンの汚い走り書きのようなものが駆け巡っていた。
「でもね、 どうしてここに来なきゃ行けないかは、君しか知らないんだ」
メガネを透して、どこか固定された意志を持つ瞳が覗き込んでくる。
「君の担任の先生とお母さんの言うには、典型的な精神病患者の割には話が出来る方だと思うんだけど、君はどうかな?」
「......」
瞳を回して、焦点を合わせないようにする。無言の訴えだった。
「A、ほら、言える?先生、どうかAを──」
「そんなことをするな。君は言葉を話せるだろう。君は立派な健常者だ、胸を張れる程のね。だからそんなフリは辞めるんだ」
「......!」
「......」
俯いた陰気な顔は強ばりを見せ、のち落ち着きを取り戻したように見えた。
彼は表情に笑みを戻し、
「お母さん、A君と出かけてきてもよろしいですか?なに、ほんのちょっと男同士の語らいをしに行くだけですから」
彼は唐突にAの腕を取って立ち上がった。陰気の気流を纏っていたAでも急に触れられた事が琴線に触れたらしく、
「......!ちょっと!」
「...うん、いい声してるじゃないか。それじゃあ行こう」
彼は強引にAを引っ張って診察室を後にした。残されたのは愚かしくも狼狽えた母親が残った。
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市営の病院にしては広い面積を占めるガーデンスペースに向かって、彼はAを引き連れ歩いていた。
「...自分で歩けますから!」
腕を払われた彼は呆けた顔で、
「なんだ、君は敬語が使えるのか。中二にしては偉いじゃないか。大したもんだぞ」
Aは飄々とした雰囲気の大人に掴まれた学生服を直し、
「............普通です」
「そうだ、それが普通なんだ。当たり前。本当に異常なのは、それが出来ない奴らが徒党を組んで、最終的に出来ないを「当たり前」にしてしまうことなんだ」
彼は印象の変わり始めたAの変化を察知し、自らを見せる方向に話題を向けた。彼の口調には経験が滲んでいた。
「......」
「どうしたって、世の中は多数派に良いように出来ている。少数派は常になにか別の武器を身につけるか、自分から信念を捨てることで生きているんだ」
話しながら彼は小さなモッコクの木の傍で止まった。
「君にはあの鳥が見えるかい?」
彼はその細い嘴で赤い実を啄んでいるシジュウカラを示した。
「......知らないです」
Aはほんの些細な抵抗をした。Aは自分でもわかる通り、この機会は自分の持つ疑問をぶつけられるチャンスだと思っているのだ。
「そうかい?......君はきっと自然に触れるのは嫌いじゃないと思うんだけどな」
彼は頭を掻いた。Aは呆れたような諦観の声色で、
「......何をしに来たんですか」
どうにも先の見えない問答が続くような気がしてAには小さな苛立ちが生まれていたが、それは彼も同じだった。
「そうだったね」
彼は素っ気なく答え、大きなプラタナスの木が見えるベンチに腰掛けた。
「ほら、君も座るといい」
変わらず張り付いた笑みを向けられた彼は俄に嫌悪感を覚えた。その嫌悪感を霧散しようと、少し乱暴に彼の隣に座った。
彼は白衣のポケットから缶コーヒーを二つ取り出して、片方Aに手渡した。
プルタブのひしゃげる音から、彼は語りだした。
「衝動制御障害......君の持つ衝動性は確かに、精神病として上等なものだ。大きな危険性も勿論、周囲からの援助もかなり必要になってくるからね」
学生服と比べ、薄い生地の白衣へ神無月の涼風が吹き付け、缶を持つ手を強張らせる。彼は大きい一口を飲んだ。
「......僕はどうしたら」
彼は俯き缶を握るAと自身の腕の時計とをチラと盗み見て、
「おっ、もうお昼時じゃないか」
と、持ってきたコンビニ袋らしきものからサンドイッチを取り出した。
Aはそれを目に入れることも無く、ただ俯いて自分の手に缶コーヒーの温い熱が伝わるのを見つめていた。
「君にも上げよう」
ふいに空虚を介さずして声を掛けられ顔を上げると、まるでそうする為に持ってきたかのようにサンドイッチが面前に差し出されていた。
「......?」
Aは最初、何が起きているかあまり理解せずに無言で受け取った。それが当然な事のように。
ふと我に返り、Aは、
「...いえっ僕は、大丈夫です」
掴んだそれを突き返し、Aは現在出せる限界近くの声量で拒否の感情を露わにした。
しかし彼は張り付いた笑みに一瞥だけをAに見せると、自分の持つそれに齧り付いた。
「そうだ、聞いていなかったんだけど、君は嫌いな食べ物あるかい?」
素早く舌で唇を拭い、聞いた。未だ食物を突っぱねるAの訴えは当然、却下なのだと示している。
Aは無駄な足掻きと諦め、手元に戻して同じく齧り付いた。
同時に、Aの中に瞬時に頭の中にどうしようもない様々な考えの奔流が駆け巡った。なぜ自分はここに居るのか、なぜ自分はここでこの男と昼食時を共にしているのか、母はいま何をしているのか、僕は結局何がしたいのか、僕はどうして、僕はどうして──
「おーい、そんなに美味しいかい?ウチの売店のなんだけどな、そんなに肥えてないのかな?」
彼の声にAははっとした。Aはフリーズし、震えていた。何か、口にしなければと焦り、
「あ...えっと......」
「......」
彼はそんなAの様子を見て、
「......君は今、恐怖を感じたんだね?」
その質問にAは納得し難いと心中反論の言葉を探したが、その見通されている風貌にすぐに諦めた。
「......はい、急に色んなことを考えてしまって、その中で、僕は、僕は他人を傷付ける事を浮かべてしまって...!」
食欲の失せたAは、トレーの上に跡のついたサンドイッチを置いた。
それと引き換えにAに無性に悔しさや悲しさが込み上げてきた。それらが重力に引っ張られAの瞳に大きな水溜まりを作り始めたところに、
「......A君、僕のとっておきの話をさせてもらってもいいかな?」
Aはその言葉に現在的な状況を思い返り、恥辱さが込み上げてきた。平静を保とうと目を拭った。服の摩擦が水垢を赤い熱の色に変えた。
「......はい、えっと、はい」
Aの返事を受けた彼も途中のサンドイッチをトレーに戻した。
しかしAの考えとは裏腹に、彼はAの期待に応えようとは考えていなかった。
彼は風の吹く中でプラタナスの枯れ葉に未練たらしく残った緑を見て、彼はAの中に己を見た事を認めたのだった。
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「僕もね、実は精神病なんだ。...と言うと、君みたいな真面目に苦しんでいる人には失礼なくらいのものだからハッキリとは言いにくいんだけど」
いまいち要領のつかめない言い方にむずがったAの感情そっちのけに、彼は身勝手にコーヒーを飲んだ。
「僕はさっきA君に「嫌いな食べ物あるかい?」って聞いたろ?その逆ではないけど、君には思い入れのある食べ物ってあるかな」
「思い入れ...?」
Aは結論の出さない話術に、余計な口を挟んで進まない事を憂慮し極力薄い反応を心掛けた。正直な所、Aはあまり興味を持っていなかった。
「そう。あるかな?」
彼は目の前の空間を通して問いかけた。虚無へ問うこの光景ではAが居ることがある意味、この場では彼の救いになっているとも言える。
「強いていえば、母の甘い卵焼きくらいでしょうか、そこまでの思い入れのあるものは......」
Aはあまり浮かばないことが社会に対して後ろめたいような気がして彼の横顔から顔を逸らした。
どうしてそんなことを聞いてくるのか、早く切り上げて部屋で寝ていた方がマシだと思えてきた。
「......僕はね、ある時から食べたものの味がなくなったんだ」
「......?」
「別に味覚障害というわけじゃないんだよ。最初に、精神病と言ったもんね」
彼はかぶりを振り、メガネを直した。
「僕が二十八の誕生日を迎えた日、僕はたまたま一人で過ごしていて、自分で買ってきたケーキを食べたんだけど...悲しいとかは言わないでね。本当にたまたまなんだから!......それで、僕は初めてケーキという【概念】を食べたんだ」
「......概念?」
「そう訝しむのも無理はないけど...本当なんだ。感じたのは味じゃなく、僕という個人が生涯をかけて作り上げた【ケーキ】という存在への【概念】さ」
抑揚をふんだんに付けて彼は話した。その自分だけが理解出来ているような唯一性とそれに含まれる小さな寂寥の念がAにもわかったような気がした。
「...つまり?」
Aが簡単な反応しかしない事に気付いたのか彼はより逆効果を狙うように、
「おいおい、本当の話なんだよ。まぁ、信じてもらうもらわないはあまり関係がないんだけどね...」
本当に、この人はなんだか不思議な人だ、誰にも分からない感覚というものを信じている。精神科医というのは誰もがこういう人なのかとAは穿った印象を持った。
見透かしたように、彼は
「僕らがみんなそうだと言う訳じゃないけど、精神科医なんてどこかしらなんかイっちゃってるもんさ。......話を戻そう。僕は【概念】を食べた。正確には味わった。味というか、それに変わるものを、とにかく味わった。その感覚はねぇ、走馬灯って感じなんだよね、きっと」
僕はまだ見たことないけど、と缶コーヒーを飲み干して言葉を切った。
「それは、僕が生まれた時から【ケーキ】に対して抱いていた【甘い】【特別】【イチゴ】といったケーキといえばこれってのを含有していた訳だ。その味は、無味だった。代わりに僕は、恐ろしい程に綺麗に整えられた記憶のようなものを食べたんだ。......そいつは、美味いか美味くないかだと、確かに美味かった。美味しかったんだ。どんなに訳分からなくて捻くれようとケーキは変わらずケーキだったってことなんだろうかな?でね、その感覚はケーキだけじゃなくなった。不思議なケーキで終わらなかった。僕にとっては世の中の食べ物全てが百八〇度変わってしまったんだ」
すると、おもむろに彼は食べかけのサンドイッチを両手に二つとも持った。
「分かるかな?僕が食べた方のサンドイッチと君の食べた方のサンドイッチ。これは見た目と中身が同じでも、僕にとってはそんなの関係ない。僕の作り上げた【サンドイッチ像】が平均に保つんだ。いや、違うな。これしか経験できない訳だから、僕にとってサンドイッチとは一つでしか無くなる」
彼はサンドイッチを戻した。過去を見つめる彼の事を、Aは現実味のないファンタジーのようにも、実はこれが真実なんだという、生物本能の声が聴こえているようにも感じていた。
「僕は恐れた。不味いと思っていた物や苦手な物を食べたら、どうなるのか?それと同時にこれまで好きだったものでも何か僕の持っていた【概念】で味が壊れてしまったらどうなるのか。......僕はある程度グルメだからね。そしてさっきの通り、僕もどっかしらイッちゃってる人間だから、どんな概念を持っていたかなんて信用出来ない訳だ。」
「......それで?結局どうしたんですか?」
Aは相槌代わりに語らいを続けさせた。
「それでも人間だから、食べない訳には行かない。しかし、何か食べる度になんだか分からない記憶やよく分からない物を見せられる訳だからね。僕は思っていた以上に食べ物に複雑な思い入れがあったらしい。......ちなみに、病院とかは行かなかったよ。説明できる自信もなかったし、解決策が見つかるとも思えなかったから。自分の中でひたすらに反芻して最適化して付き合っていこうと決めたんだ。それで、ある時、僕はその記憶のようなもののモンタージュに食べるのが嫌になって、拒食症の様になった。元々細い体が更に痩せ細って、ひ弱な方だったから仕事も手につかない。これはもうダメだー、と本能的にそこにあったリンゴを齧ったんだ。」
と、急にAと目を合わせる。彼は問うているのだ。どうなったのかを。しかしAには見当もつかない。そもそも理解し難い話だ、話半分に聞くのも良い所だろう。
結局首を傾げるだけに終わったAを見て、
「その時、僕はね、遂に【概念】が消えたんだ。何年かぶりに味を味わったんだ。理由は分からない......。生物の本能がこの誤作動を止めたのかもしれないし、神が試練を止めてくれたのかもしれない......。」
彼はおもむろにAの分のサンドイッチを手渡した。自らも二口でさっと食べ終えた。
「だから、今はこの味もわかる。そしてその時、思ったんだ。僕にとってはそう感じている味は他人にとっては違う味で、それは誰にでもそう当てはまる事で、そして僕はそれを知る術は無く......。だからといって僕は知りたいとも思わなかった、自分で考えておきながらね。」
Aも聴きながら食べ終え、話を聞いていた。
彼は帰り支度を始めた。
「そして僕は今でも概念を食べている。普段理解していないけれどね。概念を食べるということは、予想以上にキツいんだよ。自分が持っている、普段考える意識なんてのは本当に脳ミソのほんの表層だけなんだって良く分かった」
彼は立ち上がって、Aに
「さぁ、戻ろう。冷えただろう」と促した。
「とっておきと言いながら、つまらなかっただろう?」
「...そうでも、なかったです」
俯き歩く、Aの耳は赤く、彼の耳も同じ色になっていた。
初めてまともな短編を書いた気もしますが、そもそもこの世界から幾分か離れていた為、執筆の楽しさを再度認識しました。
本を読むことは続けているんですが、如何せんSFしか読んでいないもので、文章ってのはこういうもんだったかと頭を捻ります。
あーそれと、あけおめ!!!!ことよろ!!!!(めっちゃ早い)