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かまわぬ模様

作者: 倉紀ノウ

 

 いつもの癖で、革靴を履いてきてしまったのがまずかった。

 慣れないジャージ姿に革靴ではいささか不自然か。人が見たらこの姿をどう思うだろうか。

 私は、池の近くの芝生のような雑草に座っている。芝生ではないけれど、短い草が生え揃っているので座るに腰を下ろすにはちょうどよい。

 サングラスをかけて、バッグを腰につけた若者が釣りをしている。若者は慣れた手つきでリールをシュルシュルと巻いている。

 今日は平日だったはずだが、休みなのだろうか。

 景気の実態調査という名目でキャバクラに通っていた布巻という議員がいたが、彼はたしか釣り好きだった。

 私は若者の傍に寄って行って、彼がこちらに気づいてから、

「釣れるかい?」

 話しかけた。

「全然。今日はだめだね。水温が高すぎる」

「ふうん。そんなもんか」

 すると若者は、釣り竿の持つ方をこちらに向けて、

「投げてみる?」

「いいのかい?」

 私は生まれて初めて釣竿というものを握った。日曜の釣り番組というものは何度か見たことがあるが、あれは船で釣っていた。

「指はここにかけて。そやって前に投げるんじゃなくて、上にはね上げるんだよ。ロッドの弾力でルアーを飛ばすんだよ。おっさん不器用だな」

 いやしくも数日前は、私は議員だった。

 こんな貧民の若者など面会すらできぬほどの権力と金を握っていたのに、この私のことを『おっさん不器用』呼ばわりと来た。しかし私はこの若者に腹を立てなかった。最近の若者というのは無気力・無関心で、自分のこと以外に興味がない。ところがこの若者は、私に親切に釣りの手ほどきをしてくれておる。

まことに感心な奴だ。

 人と関わる、ということができておる。

「こうかな」

「ちがう、こう」

「こう?」

「もっと親指を離すタイミングを遅く。あせんな」

「こうか」

「全然違うけど、そんな感じ」

 苦戦するうちに、心なしか感覚を掴めてきたようだ。少し練習をすれば、この若者の技量などすぐに追い抜くだろう。

「おっさんマジで不器用だな。久々にびっくりしたわ」

「いやあなかなかおもしろかったよ。ありがとう。君はなかなか感心な若者だ」

「は? なんだこのおっさん」

 私はなんだか清々しい気持ちになって、釣りの手ほどきを終えた。新しいことを始めるというのは、なかなか良いものだ。

 清々しい気持ちになった。

 と、それは良いことだが、私は逃げている最中だということを思い出してしまった。




 胸中にタールを流しこんだような。

 そんな苦しさから逃げたい。

 逃げたいと思うこと。それ自体から逃げたい。

 苦衷。

 真っ黒なタールが、くちゅう、という音とともに、胸中へどしどし押し寄せてくる。

 一体、どこへ逃げたら。



 賭け麻雀が発覚したのが、つい先日のこと。

 それから、政務活動費を使い込みしていることも露呈してしまった。私たちは第二の歳費と呼んでいるけど、政務活動費というものは前払いで、政務費をごまかしてキャバレーに行っていること、領収書を改竄したこと。公共事業への便宜の見返りとして不正な金を受け取っていたこと。その諸々が堰を切ったように流出・露呈してしまい。本当に取り返しのつかないことになってしまった。

 結果、辞職を迫られた。議員としての活動の一切はできないようになってしまった。

 私よりももっと悪いことをしている人もたくさんいるのにな。市長なんか、めっちゃ脱税して若い女を行きつけの料亭なんかの座敷に呼んでノーパン祭りとかやってるのにな。

 ちくしょう。運に見放された。

 もっとうまくやればよかった。秘書に電話しても繋がらない。まさか、秘書が私のことをリークしたのだろうか。調べたところで、どうしようもない。証拠も揃ってしまっているし、弁解のしようがない。

 今後の各種支払いのこと。

 世間体のこと。

 住居のこと。

 一体どこから手をつけたらよいの。

 と、完全に上の空だった。

 かえりしなのことであった。無保険の車で事故を起こした。

 車は大破。相手は大怪我。外れたドアから転げて出てきた、その男の足があらぬ方向を向いていたこと、それだけを覚えていた。

 その後は何も覚えていない。気が付いたら自宅の玄関に靴を履いたまま立っていた。

 とりあえず、気を落ち着かせるために妻に電話しておいたが、妻はこの一大事にどこへいったのか、車が無い。妻の生活用品や、服がないことに気づいた私は、もしやと思って金庫を改めてみた。

 空であった。妻は金を持って逃げていた。電話もつながらなくなっていた。

 二十三歳の、色白で若くて自慢の妻だったのに。

 自分の寝室に、私だけが知っている小型金庫が隠してある、そこに五十万あったのでとりあえずその金を掴んで外へ出た。

 ちょっと待てよ。私は立ち止まった。私が今着ているのはスーツ。このまま外へ出てふらふらしたんじゃ目立ってしょうがない。着替えよう。着替えといっても、休日は家にいることが多いし、家ではバスローブみたいなものしか着ないし、普段着がスーツのようなものだったので平民が着るような安いものは持っておらん。だが、肥満防止のためにいつかランニングマシンで運動しようと思って購入しておいたジャージがあるのを思い出した。

 私は値札も付いたままにして収納してあったジャージを着た。上下グレーのジャージ。恰好悪いったらありゃしない。やっぱり私にはパリッとしたスーツが似合っている。

 って、そんなことを考えている場合じゃない。家には色々ヤバイものもあるし、ガサが入ったら確実に捕まる。サツが来る前に逃げなくては。

 といった具合に、私は逃亡を決意したのだった。

 私は逃げている。

 私は人殺しではない。ちょっとばかり人の足を一本折ってしまっただけだ。

 先も述べたと思うが、ジャージ姿に革靴を履いているわけで、これは傍から見れば不自然なことであろう。少しでも逃亡の気配を消すために、ジャージに合う靴を探すことにした。

 足を運んだのは靴屋。靴屋に入るのはこれが初めてで、生まれてから一度も自分で靴を買ったことがない。これまで靴というのは誰かが必ず用意してくれていたもので、黙っていても出てくるものであったので大して気にもとめていなかった。

 靴屋。と、これがいかにも安い靴が並んでいそうな店である。

 中に入ろうとしたが、店先でふとサンダルが目に入った。このサンダルは特殊な構造をしていて、踵の部分にU字の取っ手のようなものがついている。取っ手のようなものだから、やはり取っ手として使用するのかと思ったが、私は咄嗟にその構造を理解することができた。つまり、このサンダルはサンダルとして履く場合は上部にはね上げておけば良いし、靴として使用する場合はその取っ手を踵に当てる。こうすれば走ったときにサンダルがどこかへ飛んでいく心配がないのである。このサンダルには何か名前がついているのだろうか。いや、サンダルなのだからサンダルでよいだろう。私は値札を見た。サンダルを購入したことも無いので、値段というものの見当がつかぬ。一体全体、おいくら万円するのだろうか。値札を見ると二百九十九円という、雀の涙程度の額である。こんな値段のサンダルを私が履くのは沽券に関わるが、逆に考えれば庶民と同化できるので、私はこれを買うことにした。

 先も述べた通り、靴など一度も自分で購入したことがないので、

「私はこれを買うことにしたので、これをください」

 とレジ係に言うべきか迷った。

しかし、その安っぽいサンダルを持ってレジへ向かっていくと、

「ありがとうございます」

 と、こうくる。

 私は店員の前に据えてある白い台にサンダルを置くと、店員はバーコードリーダーで値札を読みとり、

「三百二十三円です」

 とくる。あれ、二百九十九円ではなかったのか、と訝ったが、消費税というのがあるのを思い出して、そのまま支払いを済ませた。




 ジャージ姿に、庶民が好んで履くような特殊なサンダルを履いた。髪も庶民のごとく、乱しておいたので、これで庶民と同化することができたであろう。これで不精髭でも生やして、ちょっと俯いておれば誰も俺だと気づかない。

 これはこれでよい。

 ひとまずは安心。

 しばらく休暇も取っていなかったしな、ここらで人生の螺子の巻き直しをしよう。逃亡ついでに、ぶらり旅、というのも小味がきいている。

 時間というものを気にせず、ただ昼と夜の繰り返しに身を任せる。逃亡中でありながらも、旅情というものを大事にしていきたい。と思っている。

 胸の中が罪悪感とか焦燥感とか、そういうものでチクチクする。チクチクするのは四六時中ではなく、間を置いてのことなので、旅をしているうちに忘れる。

 ぶらり旅の道中で、目についたそば屋に転がり込むというのもまた小味がきいている。

 私は目についた店の暖簾をくぐった。

 蕎麦屋にはうまい酒がある。蕎麦を手繰りながら、それをあてにちびりちびりと冷酒を呑むってのも乙なもんでしょうよ。と、私は座敷に上がって蕎麦と蕎麦がきと冷酒と種だけの天ぷらを注文した。

 舌が驚くほどうまい蕎麦だった。座敷も良い感じに小奇麗で、客も少ないというのがまた良い。時の流れに身を任せて、店の雰囲気を味わいながら酒を飲んだり蕎麦を食ったりしようじゃないか。

 と、こういう塩梅で俺が蕎麦を手繰っていると、

「蕎麦というものをね、もっと拡大解釈していただきたいんですよ」

 店主らしき老人がつかつかと寄ってきて、しかし座敷には上がらず、一言漏らした。

「うまいでしょ。実は五百年も前から蕎麦打ちをしている。私は魔女です」

 言っている意味が分からない。だが、私に話しているので、無視をするわけにもいかず、そちらを見ていると、

「蕎麦を丁寧に打ってうまい冷酒を出す。それはね、人間への悪意なのです。害意と言ってもいい」

 顔は尋常そのもので、真面目な話をしている風だった。目つきも真っ当に生きている人間のものだった。

「ほら、人は自分に害はないと悪意じゃないと思うでしょ? そこが違うんですよ。あなたが蕎麦を食って幸せな気分になる。それ。それこそが、悪意が成功したという証なんですよ」

 それだけ言うと、店主らしき老人は、ゆっくりと奥へ引っ込んでいった。

 私の脳内に空洞が生まれた。

 自分の頭で処理できない事柄であった。

 私は、しばし、卓に向き直って、蕎麦や冷酒を嗜んだ。

 よし、うまいそばは手繰ったし、うまい冷酒も呑んだ。

 魔女という親父が気味悪かったが、私は強引にそう思うことにして、店を出た。

 さて、これからどこへ行こうか。




 街中をふらふらと歩いているのは危険と断じた。大事故を起こして逃走したのだ。高級外車であるし、私が持ち主だということはすぐに知れる。山の方へ逃げなくてはいけない。東京から逃げるとなるとどこだろうか。すぐに浮かんだのは奥多摩。

 静かな旅館もあるし、逃げるなら奥多摩が良かろうか。誰も追って来ないし、気持ちよく過ごせるはずだ。

 駅で降りると、もう夕闇が迫っていた。身を隠すにはちょうどいい。偽名でどこか適当な宿でもとることにしよう。

 私は目についた古い宿屋に入った。

 飛び入りであったが、快く入れてくれた。おそらくは私に泊ってもらいたいがために宿泊している客を一組、追い出したのであろう。私というのは元来それくらいに貴い人間であるのだから。

 なんだか、薪屋病治の小説に出てきそうな宿であった。

 数々の小説を読んできたが、薪屋病治ほど頭の良い小説家はいないと思った。もしかすると私よりも頭が良いかもしれない。とはいえ小説みたいな文字の塊をつぶつぶ書いているような人間よりも私が劣っているようなことはないと思う。ただ、私は謙虚な精神の持ち主であるから、他人の秀でている面を正当に評価できるというわけだ。だって薪屋病治という人間は五回も結婚して、浮気や強姦もしまくっているような輩だから、人として評価はできないのである。しかし、彼の書く小説たるや奇跡としかいえぬような産物で、たった一文でその場の情景はもちろん、その場にいる者の表情や立っている場所、醸す雰囲気などがありありと浮かんでくるのだから文章の魔術師と呼んでもよいくらいだ。

 この旅館はちょうど、薪野病治作「うるめいわしの韜晦」に出てくる、主人公神谷と浮気相手の路子がふらりと入った伝統ある旅館の雰囲気に似ていた。





 鎌に、Cのような視力検査に使うランドルト環のような輪っかにひらがなの、ぬ。それが全体に羅列してある。

 こういう模様をなんというのだろう。

 いやたしか、かまわぬ模様という名ではなかったか。

 そう、どのくらい前の人々か知らぬが、まだ着物を着るのが当たり前だった頃、こういう服が江戸の荒くれ者に流行ったとか、そういうことであった。

 かまわぬ模様。

 この模様の着物を着ていることで、つまりは「かまわぬ」という姿勢を誇示しているということか。

 なにが起ころうと一向にかまわぬ。誰が何を言おうとかまわぬ。そういうことであろうか。

 着物というか、ドテラであった。ドテラも着物の一種なのだろうか。着物にもドテラにも縁がないので分からない。

 実際に着てみた。すると、ほんの一瞬だけど、傍若無人なかまわぬ精神が湧いてきたような気がする。股間に風通しもよく、なんだか博徒のような気分がした。

 かまわぬ模様はさておき。

 腹が減る、ということがあまりなかった。その時間になれば、いかなる場所にいても朝食、昼食、夕食というのが即座に用意されたからである。

 しかし腹が減った。

 下に降りてみる。レストランのようなものはあるが、すでに閉店している。ロビーには自販機が並んでおる。

 なにか、食えるものはないものか。

 自販機の群れを一つ一つ確認していくと、見慣れない自販機があった。

 焼き肉弁当五百円とある。他にも唐揚げ弁当、トンカツ弁当、ちくわ弁当とある。

 弁当自販機か。腹が減っている。こういった即席な食い物を私が食えるかどうか分からんが、一応買ってみよう。

 焼き肉弁当のボタンを押すと温かい弁当が落ちてきた。紙の包装を取り去ってみると、見た目はなかなか食えそうな弁当である。私は椅子に腰掛けてこれを食うことにした。

 ご飯がなかなか柔らかい。肉の味付けもほどほどである。

 奴ら、私が自販機で購入した弁当なんかもさもさ食しているとはつゆも知らぬだろうな。

 それはよいとして、なぜかまだボタンのランプが消えないことに気が付いた。自販機というものを普段から使用しないせいで、勝手が分からん。だが、さきほど私が小銭を投入する前は、ボタンのラムプは消えていた。そして、銭を投入するとボタンが点灯した。ということは、今このボタンを押せば、銭を入れてもおらんのに弁当が出てくるということか。試しに、私はちくわ弁当のボタンを押した。途端に弁当がどさりと落ちてきた。

 なぜ、銭を入れてもおらんのにちくわ弁当が出てくるのか。銭を入れる意味が無いではないか。

 私はしばらく自販機の前で首を捻っていたが、私にも理解不能なことはある。あえてその謎を放置しておく、という姿勢も忘れてはならない。そう考えて、私はロハで出てきたちくわ弁当を抱えて部屋に戻った。




 年増の女将が、頼んでもないのにビールと肴を運んできた。

 断る理由も無いし、勝手にさせておけ、と窓から見える闇を見つめていた。

「つまりは積極的に中庸なんですよ。ここは」

 と、年増の女将がなんか言うのが聞こえて、ふとそちらを向いた。いたって真面目な顔、普通の目で、女将は私を見ていた。

「中庸というと、どっちつかずとも言えるでしょう。でもね、ここは黒も認めず、白さえ認めず、ただ灰色の部分だけを上手に斟酌していこうよ、っていうことなんですよ、この場所は。私の文法はおかしいですか? グレートな具合にグレーでしょう」

はあ? と、思わず出かかった言葉を呑み込んだ。

「例えば蕎麦を頼めばきちんと蕎麦が出てくる。しかし、店員の言うことは限りなく狂っている。かと思えば、よく考えたらもしかしたらそれはまっとうなことなのかもしれないことを言っている。結局、どちらなのか分からない。それは現実なのか妄想なのか分かりますか。黒でも白でもなく、ここは黒と白の線が合わさった線上の灰色の世界なのです。

 覚めない夢は現実と知ることです。では、曖昧な現実は夢なのかと言うでしょうね、あなたは。でもね、そんな対なんてものはなく、ただあるものはある、ないものはないのですよ。漫画の登場人物が実は現実で生きている、なんてことはないでしょう。映画やドラマの見過ぎです。

白線と黒線の間を跨いでばかりいたあなたには理解できないでしょう」

 と、全く何を言っているのか分からないが、この女将は蕎麦の一件を知っているようなのである。

 で、なに? 

 黒だ白だ、現実がどうだと、一体なんの話をしておるのだ。宿屋の女将というものは、普通は「旅行ですか、観光ですか?」とか「この旅館の近くの山にはね、夜になると猿が出て」とか当たり障りの無い事を一言目に言うものだが、いきなりなんなのだ。

「蟻は巣を殺せと言いますよね。では人間は何を殺しますか。人間はね、人間によって滅ぼされる。でもね、そんなまっとうなことを言っているといつか自分が人間になってしまう。その意味が分かりますか?」

 女将はそういうと、すっと物音も立てずに出て行った。足袋のせいなのか、床を歩く音さえしなかった。

 頭がぐらぐらする。体を冷やせば少しはこのぐらぐらが収まるかと思って、ビールを飲んだ。冷えていて、尋常にうまかった。

 それにしてもあの女将、一体何を言っていたのだろう。考えても、意味が分からない。意味が分からないことは考えても意味が分からないので、そっとしておくとして、私はこの混乱具合から脱出するために、テレビをつけた。

 すると、再び「失礼いたします」の声。あの狂った女将か。襖が開いて現れたのは、女将と違う女。頼んでもないのに、芸者なのかなんなのか得体の知れない女が入って来た。

「ここだけの話なんですけど、人間って、恋愛くらいしかすることないじゃないですかあ。いやね、人間は種を増やすっていう使命があるから恋愛を本能にプログラムされているんですけどね、私は本能的にプログラムされているから、稲庭うどんを作るんです」

 と、出し抜けにそう言った。

 着物を着て、しかし足袋ではなく靴下を穿いた三十程度の女である。

 こいつは誰なんだ。しかし、発する言葉のおかしな女のこと、変に言葉をかけると発狂するかもしれない。私はこの女と接触したくなかったので、ただの客として黙って座っていることにした。

 この旅館は全体的に狂っているのか。

 女はすくっと立ち上がって、斜め上に視線をやってから、

「くるくるくるくる。おこんちゅうが、あそぶ」

 五本の指を揃えて体の前に突き出し、歌うように何かを唱えた。

 日本舞踊の一種なのだろうか。だか、奇妙なことには変わりない。

「おこんちゅう。紅白団子。おこんちゅう、どうぶつ」

 女は姿勢を変えずに謡い続けている。

 量りがたい。なんの補足も説明もない。

 一体なんのことを表現しているのか。なんの輪郭もつかめない芸。

 少しは分かるようなことをして欲しいのに、おこんちゅうだのどうぶつだの、何を意図したものかわからない芝居を延々と続けている。

 はっきり申し上げると苦痛だ。

 延々と意味の分からないことをしているのが苦痛で仕方が無い。でも、客は俺しかいないし、サービスでやってくれているのだから見ないわけにもいかない。俺はとりあえず目をそちらに向け、意味が分かっているかのように軽く頷いたりしていた。




 苦痛の座敷芸から解放されたのが結局一時間。あの狂った女、結局一時間も踊りやがった。

 怒りなのか悲しみなのか複雑な感情が湧いてきて、いささか疲れた。

 部屋に戻った。沈黙が苦痛なので今度はちゃんとしたものでも見ようかとテレビをつけた。

 目に飛び込んできたのはニュース。

 都内で交通事故。男は逃走、という見出しだった。

「いわゆる〝かまわぬ模様〟のドテラを着た四十歳前後の男性が付近で、目撃されており……」

 一瞬で私のことだと分かった。背筋に冷ややかな電流のようなものが走った。

 こりゃまずい。完全に私のことだ。

 だが、何かおかしくないか。かまわぬ模様のドテラをひっかけたのは旅館に来てからであり、自動車事故を起こしたときはスーツを着ていたはずだ。

 しかし、私がかまわぬ模様のドテラを着ているのは確かだし、時系列が狂っているが事実は整合している。

 構わぬ模様のドテラはまずい。すぐさまドテラを脱いで、その辺に投げた。

 頭では理解していたけれど、事件がすでに明るみになって、捜査も始まっていることが事実となって、私の心臓ははりさけんばかりに鼓動した。

 世界がぐらぐらと揺れている。今この瞬間にも。警察がこの宿に躍り込んでくるかもしれない。

 息苦しくなった。この宿も危険な場所になってしまった。

 ゆっくりしている場合ではない。早く逃げよう。




 追われている。

 追われている人間の心理状態を知る機会が今まで無かったのだが、こんなに苦しいとは思わなかった。

 とにかく全てが追手に思える。早朝にラジオ体操している人がいると、「いや、あれは私を捕まえにきた連中で、ラジオ体操でもして私を油断させようとしているのだ」と思ったり、道行く車が全て私を偵察に来た者だと、真剣にそう思ってしまっている自分がいる。心臓も絶えず動悸がしている。絶えず、安住の地を探している自分がいる。眠りも浅い。わずかな物音でも反応して起きてしまう。特に人工の音に恐怖を感じる。まるで臆病な動物にでもなってしまったかのようだ。

 髭を剃っていないから、少しは違う人間に思えるだろうか。

 よくわからない山の中で数日過ごしてから、結局都会に身を潜めることにした。

 都会での食料探しは、森の中よりは楽だった。

 飲食店が裏口に置く残飯を漁る。特にファストフード店から出る残飯は、カロリーも高いので有難かった。他のホームレスもいるから、独り占めはできない。やっぱり仕切る人がいて、でた残飯に対して分配を決めた。私にも、ホットドッグの残りのソーセージ三本 と潰れたマフィン一個が与えられた。

 都会でホームレスをしていれば捕まらないだろうか。

 段ボールで拵えた家で眠りながら思う。

 ここは住所も何も無い。私を検索できるものなど、何一つない。

 私は段ボールハウスの中で、初めて安心して眠ることができた。

 安心して眠ること。それが幸福でとても贅沢なことだと初めて知った。

 金など要らない。人間は安心を求める生物だったのだ。



 ホームレスにもいくらかの金が必要だった。一個五十九円のカップラーメンを買う金、カップ酒を買う金、食パンを買う金。少額とはいえ、銭は要る。

 みなはアルミ缶や雑誌や捨ててある家電を売って、その小銭を稼いでいる。二十八才のミヤタという男は驚くことに売春をして稼いでいる。

 アルミ缶や雑誌の販売は、すでに他の者が商売をしていて入りこむ余地が無い。

 かといって、住所がないと働けないので、どうしようもない。どうしようかと考えつつも、街をふらついていた。もう人相は変わっているので私と分かる人はいないだろう。まだ三ケ月ほどしか経っていないのに、別人と思うくらい、私の体型と顔は変わっていた。

 街のゲームセンター付近を歩いていた。ここは若者が集まる場所だ。だが、ホームレスも立ち入る地域だった。私の身なりを見れば、誰も近寄ってこない。空気のように無視してくれる。それは有難いことだった。

 かつて私は議員だった。だが、ここではその地位も手腕も役に立たないことが分かってから、ホームレスの生き方に従うようになっていた。

 とにかく今は、金を得る手段を探さなくては。

 ふと見ると、向こうの自販機の近くでしゃがんでいる老人が見えた。

 よれたジャンパーを着て、下は作業着にサンダル。ホームレスだ。

 掃除でもしているんだろうか。

 ふと興味が湧いて、私はその老人に声をかけた。

「なにをなさっているんですか?」

「え、小銭拾ってんだよ」

 老人は私の方を少しだけ確認してからまた足元を見た。

「あんちゃんも路上暮らしかい」

 ホームレスと言わず、路上暮らしか。

「はいそうです」

 私は、自分が金をなんとか稼ぎたいことを打ち明けた。

「ふーん、そうかい。俺と同じだな」

 老人は言った。老人は、自分はかつて中学校の教師だったと言った。私も、実は自分が議員だったことを打ち明けた。

「私にも、小銭拾いを教えてもらえませんか」

 この人になら、師事しても良いと思ったので腹を括って聞いた。

「はは。小銭拾いの授業か」

 せめて世話になる人の名を聞いておこうと、老人の名を聞いたが、教えてくれなかった。

 それから私は、この老人に小銭拾いの要領を教えてもらうべく、毎日ついて回ることにした。

 まず起きるのは早朝。どの小銭拾いよりも早く起きる。回る場所は決まっている。自販機の下や釣銭の忘れを確認し、パチンコ店の駐車場でメダルやパチンコ玉を拾う。溜まったらパチンコやスロットを打つのかと思ったら、そうではなく業者に売るのだそうだ。これは店員が駐車場の掃除に来る前に済ませなくてはいけない。

 そうして毎日集まる小銭は、一日でだいたい三十円から良いときは千円の収穫になった。

 一割が弟子である私の取り分だ。十円なら一円。千円なら百円といった具合。

 それでも、金がもらえるのは嬉しかった。

 今日は、私が自販機の下で五百円玉を見つけた。祝儀だといって二百五十円もの取り分を頂いた。老人は、金を抜け目なく拾ってはいるものの、それほど金に執着していないようだった。ただ、生きるために必要だからそうしているようだった。

 もらった二百五十円で、小さい缶ビールを買って、二人で乾杯した。しばらくぶりの酒だった。

 小さな缶ビールではあまり酔えなかったが、気分は良くなってきたので昔話に花が咲いた。私たちは、過去の話や人生の奥深さなどについて語り合った。

 人生がなぜ思うようにいかないか。思っていることと反対の事が起こってしまうか。

 私は人生の謎について尋ねた。老人は、よく分からん、と言ったが、実は知っていて教えてくれないだけなのかもしれなかった。

 だから、

「本当はあなたは知っているけど、教えてくれないんじゃないですか? つまり、自分の中での理解を私に教えるために言葉として外に出すと、その真実味が失われるというような」

 と聞いた。すると老人は、空になった缶ビールをしばらく見つめて、

「実はね、これは誰にも言っちゃいけないことだけどね、俺は模様の世界の住人なんだよ」

 こんなことを口にした。

「模様の世界の住人?」

「うん。まあこの世界にはいろんな世界があるわな。物語の世界、押し花の世界、競輪の世界。動物の世界てのもあるわな。色んな世界があるの。模様の世界も然り。心模様とか、なんとか模様とかいうじゃない。そこに人間とつくと人間模様となるわけだ」

「人間模様の世界というのは、どういうものなんです?」

「つまりね、その世界では弁当自販機で弁当を買おうと思ったときね、銭なんて入れなくてもボタンを押せば弁当はいくらでも出てくる。でも、自販機の売り物としてちゃんと売ってる。おかしいでしょ? これが模様の世界なんだよ。っていうか俺は普通の爺でしょ。あんたがこれまで会って来た奴らと比べるとまともな言葉を喋ってるでしょ。あっ、ホームレスがまともなことを言うのがおかしい? ではまともな人間がまともに喋っていない世の中は一体なんなんだよ。つまりさ、あんたがいた世界ってのは、あんたが現実世界だと思っていたのが構わぬ模様の世界で、俺は人間模様の世界からきた人間ってわけ。つまりさ、俺が一番言いてえのはさ、お前が本当に正しい人間ならば、自分が正しいなどと考えはしないってことさ」

「え、どういうことですか? 人間模様というのが私にはわかりません。私がかまわぬ模様の世界に迷い込んだということですか? ここは現実じゃないのですか?」

 矢継ぎ早に問うと老人は、

「つまり動揺してんだな? あんた、どっからか知らねえけどさ、現実の境を越えて、違う世界に入りこんじまったっつうわけよな。早い話。ゆっくり言ってもそんなとこだけどな。たぶんあれじゃない? 流れ的に言って、蕎麦屋のあたりじゃない? まああんた、かまわぬかまわぬ、とか言えばいいじゃん。あんたは、別に死のうが生きようが、かまわぬのでしょ?」

 と結んだ。さらに、こんな独り言を付け加えた。

「みんなよく人生がどうとかいうけどな、俺にいわせりゃ、人生なんてな。暑かったり寒かったりするだけのもんなんだよ」



私は冬は自宅でも寝袋で寝ているのですが、仮眠から起きたときにスマホがありませんでした。家の中にはもってきたはずなので、どこかに置き忘れたのかと色々探しました。どこにもないので、そのどこにもないこと自体がありえないことだと思い、ここは「自分のスマホだけがない世界」に来てしまったんだと本気で疑いました。再度寝袋を調べるとふつうに寝袋の中にスマホがありました。

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