第三話
僕は彼女に憧れを抱くようになっていった。もっと彼女とゆっくり話がしてみたいと思うようになった。でも臆病な僕は、彼女と朝短い会話交わす以外は、それ以上どうすることもできずにいた。そして、そのようにして何ヶ月かの日々が流れていった。
最終的に、僕が最も長い時間を彼女と一緒に過ごすことができたのは、彼女がその住んでいた家を引っ越していく一週間前のことだった。
あるとき思い切って、僕は彼女にピアノを弾いて聴かせて欲しいと頼んでみた。その言葉を口にすることは、僕にとってひどく神経をすり減らすことだったけれど、彼女はそんな僕の想いとは裏腹に、あっさりとオッケーしてくれた。
彼女の家に遊びに行ったのは、雨の降る、日曜日の静かな午後だった。
約束通り、僕が彼女の家を訪ねていくと、彼女は自分の部屋に僕を通してくれた。雨が降っていてあたりは薄暗かったので、彼女の部屋には電灯の明かりが灯されていた。白熱灯の、オレンジ色がかった、暖かみのある光だ。
でも、明かりが灯されているにもかかわらず、その彼女の部屋はどことなく薄暗く感じられた。まるで彼女の身体に含まれている哀しみの色素が、部屋の空間のなかに薄く溶けだしてしまっているようにも感じられた。
出窓があって、そこにはクマのぬいぐるみだとか、ミッキーマウスのぬいぐるみだとかが飾られていた。出窓の横にはピアノが置かれていた。そして、そのピアノの上には、花が飾られていた。名前の知らない、淡い水色の、綺麗な花だった。
僕がその花に視線を止めていると、「・・あの花、最近なってやっと咲いたのよ」と、横から彼女の声が聞こえてきた。
振り向いて彼女の顔を見てみると、彼女は花の方へ視線を向けて、少し寂しそうな顔をしていた。彼女の瞳のなかに溶け込んだ、淡い水色の花が、妙に哀しげに見えた。
僕は「綺麗な花だね」と、感想を述べた。
彼女は僕の言葉に少しの間黙っていて、それから、
「お母さんが好きだった花なの」
と、呟くような声で言った。
彼女の声が消えていったあとに、雨音がサラサラと降り積もっていった。
彼女は椅子に腰を下ろすと、まるで壊れ物を扱うときのような仕草でそっとピアノの蓋を開けた。そして、鍵盤の上にかけられている赤い布を取り除くと、そこに静かに両手をそえた。
鍵盤の上にそえられた彼女の両手は美しかった。その肌の白さは、冷たく澄んだ月の光を思わせ、細くて形の良い10本の指は、優れた彫刻作品を僕に連想させた。
彼女は振り返って、隣りに立っている僕の顔を見上げると、
「何の曲がいい?」
と、訊いてきた。
僕はちょっとの間考えてみたけれど、でも、何も思い浮かばなかった。もともとそれほどピアノ曲に明るいわけではなかった。
「何でもいいよ。藤崎さんが好きな曲を弾いてよ」
と、僕はしばらくしてから答えた。
彼女は僕の言葉に頷くと、少しの間思案するように黙っていたけれど、
「じゃあ、ヴェートベンの曲を弾こうかな。ヴェートベンのピアノのソナタ。たぶん、佐藤くんも聞いたらわかるんじゃない?」
と、やがて微笑んで言った。
そして、彼女はいくら唐突に、ピアノを弾きはじめた。
間近で聴く彼女のピアノの演奏は、僕が想像していたものよりもずっと遙かに素晴らしいものだった。
彼女が紡ぎ出す音の粒は、あらゆる身体の部分から僕の意識のなかに入り込んでくると、今度はそこで意識の熱によって溶かされて、液状になって、僕の意識の隅々にまで広がっていった。意識全体が淡い水色の色彩に染まっていくような感覚があった。
僕が彼女の音楽に耳を傾けながら思い浮かべたのは、湖の底に、ぽつんと、一本だけ咲いている花だった。彼女はそこで冷たい水に揺られながら、遙か遠い水面をじっと見上げている。
深度の深いそこには太陽の光がほとんど届かない。水面に黄金色の光が溶け込んでキラキラ輝いているのが微かに見えるだけだ。
でも、一日のうちに、ごく短い間だけ、そこにも太陽の光が差し込むことがある。彼女にとってはまるで永遠とも思える距離から、やわらかく透き通った光が、ゆっくりと舞い降りてくる。
そして、彼女はその光に向かって手を伸ばそうする。でも、その伸ばした手の指先が、光に触れた瞬間、湖底はまた透き通った闇に包まれてしまう。
・・彼女の音楽はどちかというと哀しげに感じられたけれど、でも、そこから力強く伸びていく希望の息吹のようなものも感じられた。
でも、まだそれは出口が見出せずに、同じところをぐるぐると彷徨っているような印象も同時に受けた。
「綺麗な曲だね」と、僕は感心して言った。「全体的に哀しい感じがするけど、でもすごく優しい感じがする。深い哀しみの底にありながら、それでも少しずつ、その哀しみから外へ向かって歩いて行こうとしているような、そんな感じがする」
彼女は僕の言葉に頷いた。
「わたしこの曲が好きで、何か哀しいことがあったりすると、よくこの曲を弾くの。・・この曲を弾くとてね、少しだけその哀しみがやわらぐの。少しだけ優しい気持ちになれる」
彼女は静かな声でそう言うと、何かの声が聞こえたかのように、ふと窓の外に視線を向けた。
窓の外にはまだ雨が降っていて、青灰色をした空間に、淡い水色の線が幾筋も走っていた。部屋のなかには彼女のピアノの音がまだ消え残っていて、雨音はその残滓を微かに震わせていった。
「・・お母さんがね、好きだった曲なの、この曲」
と、彼女は窓の外に視線を向けたままぼんやりとした口調で言った。
「・・よく雨の日とかに、家でこの曲を弾いてたのを覚えてる。」
彼女は窓の外に向けていた視線をピアノの方へ戻すと、人差し指で、ぽん、と高音のソの鍵盤を叩いた。すると、澄んだ、綺麗な音が鳴った。
彼女はその生まれた音が空間のなかに余韻を残して消えていくのを見届けるように少しの間黙っていてから、
「・・去年の冬にね、お母さん、死んじゃったの。」
と、ポツリと告げた。
彼女はピアノの鍵盤の上に視線を落としていたけれど、でも、その視線はそこにある鍵盤をすり抜けて、何か全然べつのものを見ているようにも思えた。
「2年間ぐらいずっと入院してたんだけど、でも結局助からなかった・・。お母さんが死んだのは、ちょうどこんなふうな雨の降る、冬の寒い日だった」
彼女はそう言うと、何か哀しみを押し込めようとするように、軽く瞼を閉じた。そして、何秒間の間そうしていてから、閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
「・・こっちに引っ越して来ることになったのもね、実はお母さんが死んじゃったからなの。・・こっちにお父さんの仲のいい友達がいてね、ここでしばらく暮らしてみたらどうかって、そう言ってくれたの。
この家を紹介してくれたのも、そのお父さんの友達でね・・なんていうか、お母さんが死んじゃったことで、わたしたち家族は色んなことが上手くいかなくなっちゃったの。・・お父さんはそのせいで前みたいにピアノが弾けなくなっちゃったし・・きっとショックが大きすぎたのね。
お父さん、口にだしてこそ言わなかったけど、お母さんのこと、すごく好きだったみたいだし・・わたしもお母さんのこと、大好きだった。
・・だから、わたし、お母さんが死んじゃってから、何もする気が起こらなくて、学校に行かなくなったの。家でお母さんのことばっかり考えて過ごしてた。・・そしたら、それを見かねたおじさんが、しばらくこっちで暮らしてみたらどうかって言ってくれたの。
こっちは東京に比べて自然もたくさんあるし、静かだし、一度仕事から離れて、療養した方がいいんじゃないかって。それでわたしたち引っ越してきたの」
彼女はそこでふと何かに気がついたかのように顔を上げると、「ごめんなさい。わたし、ひとりで勝手にべらべら喋っちゃって・・。」と、申し訳なさそうに言った。
そんなことないよ、と僕はできるだけ優しい口調で言った。僕で良かったら話しをきくよ、と僕は言った。
すると、彼女はちょっとの間戸惑ったように僕の顔を見つめていて、それからふっと口元をやわらげて微笑すると、
「ありがとう。佐藤くんって優しいのね。」
と、言った。
それから、「でも、こっちに引っ越してきて良かったわ。」と、彼女はその声にいくぶん本来の明るさを取り戻しながら、改まった調子で言った。
「こっちのひとはみんないい人ばっかりだし、自然も綺麗だし、・・おかげで、だいぶ前よりもよくなった気がする。お母さんの死も、まだ完全にというわけじゃないけど、きちんと受け止められるようになった気がするし・・それに、こうして佐藤くんとも友達になれたしね。」
と、彼女は続けてそう言うと、軽く微笑んでみせた。
僕は曖昧に微笑むと、何となく、ピアノの上に飾られている花に視線を向けてみた。その花は雨の色素を体内に取り込んで、より鮮やかな水色に染まって見えた。
「・・その花、佐藤くんにあげるわ。」
と、ふいに、横から彼女の声が聞こえてきた。
彼女の方へ視線を戻すと、彼女は少し気まずそうな表情を浮かべていた。そして、彼女は伏し目がちに視線を逸らすと、「・・実はね、わたし、また今度引っ越しすることになったの。」と、いくらか唐突に告げた。
僕は驚いて彼女の顔を見つめた。
「なかなか言う機会がなくて、佐藤くんにはまだ話してなかったんだけど・・実は、わたし、東京に戻ることになったの。・・お父さん、そろそろ仕事をはじめていくつもりみたいで・・最近少しずつピアノが弾けるようになってきたみたいなの、お父さん。・・だから、その関係で・・。」
僕は何か言おうとしたけれど、でもそれは形になる前に、口のなかで力無く萎れてしまった。もう、彼女に会えなくなってしまうのだと思うと、極端な喪失感があった。
「佐藤くんに会えなくなるのは残念だけど・・。」と、彼女は小さな声で言った。
僕はしばらくの間黙っていたけれど、寂しくなるね、とやがて言った。彼女は僕の言葉に頷くと、でもまた遊びにくるから、と口元で弱く微笑しながら言った。
雨音が優しいピアノ曲のように響いていた。