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サウナにて

作者: 神乃木 俊

 この御時世、頑張った自分へのご褒美はどれくらいあるだろうか。


 ぱあっと散財したいなら旅行が手っ取り早いし、甘い物好きならケーキが並ぶバイキングも良い。お金を使わずとも運動すれば気分はすかっと爽快だし、愚痴を口実に友人と集まるのも一興だ。されどまだ、最高の娯楽が残っている。


 それはなにかというと、そう、温泉である。


 溜まりに溜まった苦労も熱いお湯に浸かれば、たちまち霧散してしまうものだ。おれにとって温泉とは、神がこの世に与えたもうた楽園である。ということで、一ヶ月の市議会対応をなんとか無事に終えたおれは、行きつけの温泉へとやってきていた。


「ふう、極楽極楽」


 おれは雪化粧した富士山の壮大な壁画を仰ぎながら、妖しく緑に光る薬湯にどっぷりと肩まで浸かっていた。硫黄の香りをかぐと、じんわりと毒気が抜けていくようだ。


「温泉は最高だなぁ」


 観念としては楽園なのは間違いないけれど、立ちのぼる煙の向こうの実態は地獄絵図とも言える。洗い場では爺さんたちがよぼよぼの体を洗うサービスショットが満載で、通路にはふるちんのガキたちが奇声をあげて走り

回っている。情緒なんてあったもんじゃない。


「露天風呂に行くか」


 頭に乗せたタオルを手にとり、まえを隠しながら外へと向ける。足でペダルを踏むと水が出てくる機械を横目に濡れたタイルを渡り、突き当たりの仕切り戸を開ける。


 すると立派な大浴場がでんと広がる。


 大小の石が縁を囲っており、浴槽自体は檜だか杉だかの木であしらわれた造りになっている。まわりには観葉植物やししおどしも飾られ、なんだか古き良き時代の雰囲気なのだが、今日のお湯には黄色のアヒルのおもちゃが何匹もぷかぷかと漂っている。


 そういえば今日は月のイベントの日だった。家族連れへのサービスらしい。


 先客に邪魔にならないように隅っこに座り、アヒルのおもちゃを指で弾いて干涸びた心を癒す。父親の腕のなかできゃっきゃと水面を叩くいたいけな男の子を眺めていると、こちらまで童心にかえった気分になる。


 ここ最近、おれはかなり疲れていた。

 仕事の進捗が(とどこお)って徹夜もざらで、資料作成に追われる日々。食いっ逸れることも稀でなく、温泉に入るまえに体重計に乗ったら2キロぐらい痩せていた。


 そして最後の一撃は、後輩との映画デートの失敗。


 引きずっていた疲れと興奮がたたって映画中に眠ってしまい、それ以降、後輩の彼女の口数が明らかに減ってしまった。話しかけてどこかもよそよそしく、取りつく島もない。


 しかしながら温泉でのんびりしていると、くよくよ悩んでいたことも水、ならぬ、お湯に流せそうな心持ちになってくる。


 うまくいっても恋、うまくいかなくても恋だ。


 それに人生、悪いことばっかりじゃないはず。人生はきっとプラスマイナスゼロ、ちょいプラスくらいだ。良いことだってあるさ。


 煙が立ちのぼる先を追いかけると、冊に沿って四角に切り取られた空に満点の星たちがまたたいていた。そこに宿る満月。なんとなく丸顔の彼女の顔が浮かんだ。


「きれいだ」


 神秘的な雰囲気に包まれていると、高校生だろうか、がやがやと集団で露天風呂へとやってきた。まだ恋の酸いも甘いも恋のなんたるかもしらない少年たち。部活で鍛えたあちこちの筋肉を仲間に披露して盛りあがっている。おれは少年たちに露天風呂を開け渡して、そばにあった壷型の風呂へと移動することにした。


 この少年たちがいつか恋に落ちることがあったなら、おれと同じ轍は踏まないで欲しい。


 少年たちに待ち受ける厳しい恋の未来を憂いたところで、はたと足が止めた。気になる看板がおれの視界に映った。そこには優しい言葉ながらに警告している。


 『サウナに入るまえに、十分な水分補給をしましょう』


「サウナ、か」


 かつて小中高と一緒だった親友と温泉に入るたび、どちらがよりながくサウナに入っていられるかと競争したものだ。懐かしい青春時代の一ページ。思わず眼を細める。


 さっぱり汗を流してかっとビールを体に注ぎ込めば、さぞかし美味いだろうな。


 おれは一つ深呼吸して扉を押した。そこは大量の盛り塩がしてあるちいさな部屋で、左にサウナと掘られた木製の扉が姿を現した。扉を開けて一歩足を踏み入れる。むわっと熱気が頭から爪先まで襲いかかった。


 これだよ、これ。この感覚が醍醐味なんだよ。


 おれは心踊らせながら一番上の角を陣取る。天井に取り付けてあるテレビからは相撲中継が流れている。おれは相撲を見るふりをしながら冷静に先客の分析をはじめる。


 室内には三人の先客がいた。


 一人目は、入口近くにいる痩身の中年男。万年窓際にいて、ひたすらデスクトップに向き合ってタイピングしていそうな冴えないメガネだ。


 続く二人目は、三段目にいるダルマ体系の親父。焼け野原の頭は汗で電球のように輝いていて背中も汗でびっしょり。息遣いも荒い。


 この二人は相手にならない。だが。


 おれは背筋を伸ばして、二段目に座っている分厚い背中を見遣る。最後に残った、サーファー風の茶髪の若い男。そいつの体は男のおれから言わせても見事なもので、背中の筋肉は彫刻さながらだ。肌もこんがりと黄金色。強者であることはもはや事実。体力に自信がある人種だ。このサウナの熱気を作りあげている機械のまえにいるのがなによりの証拠。熱風を浴び続けてもびくともしていない。


 まちがいなく、強敵だ。


 時計が一周するあいだに、おれは取り巻く状況を把握し終えた。おれはサウナに入るにあたってある鉄の掟を己に誓っている。


 それは、自分より先にサウナに入室していた者よりさきにサウナを出てはならぬ、というものだ。これはかつての親友と切磋琢磨した日々のなかで二人で定めあった掟だった。未だこの掟を反故にしたことはない。もしその親友と再会が叶った暁には、この約束を肴に酒を酌み交わすと決めていた。


 自分のため、そしてなによりも、親友との掟のため。

 おれは負けられない。


 こうして戦いの幕は静かに、けれども暑く、切って落とされた。


 ☆

 

 心頭滅却すれば火もまた涼し。

 

おれは体をサウナのなかに置き去りにしながらも、心を広大な宇宙へと漕ぎ出していた。大きな物事に意識を集中させることで、時間を忘れようという作戦だ。


 おれたちの住む地球。


 それは太陽系に属する惑星であり、天の川銀河にある無数の天体の一つに過ぎない。だが神様のいたずらか、幾重もの物理現象の総和か、生命を生み出せる環境を持つという奇跡の星になった。そこに生まれ落ちたおれたち。生きている不思議とありがたみ。


 おれは毛穴という毛穴からたまのような汗を噴出させながら、自分がまさにこの場所、奇跡の地球で生きているという実感にうちふるえた。


 この奇跡の地球で産声をあげ、異性と巡り合う。大切な人を想うということ。


 そこに邪な感情はあってはならないんだ。必要なのは相手への尊敬とひたむきな純粋さ、そして傾聴と共感であり、それらが揃ってはじめて、おれは彼女を振り向かせることができるんだと思う。おれは間違っていた。今ならはっきりと断言できる。


 おれは、間違っていたんだ。


 もしかしたらこのとき、ふたたび燃えあがりはじめた彼女への真実の愛の炎が、室内の温度をさらに上昇させたのかもしれない。


 ここでついに一人目の脱落者が出た。一段目の万年窓際メガネ男だ。奴は逃げるように出ていった。


 これで残り二人。


 おれはここで眼を開けて時計を見遣る。時計の長い針はちょうど十二から六へ半周している。入ってきてから六分が経過したことになる。


 サウナの時計には色々な種類があるが、今回は一分で長針が一動く、つまりは十二分で一周するタイプだった。おれはこの十二分で一周のタイプの時計を好んでいる。リアルタイムで秒数や分数を数えられることにくわえ、サウナにしか置いていないというのも潔くていい。おれは割と形にこだわるタイプなのかもしれない。


「ふう」


 ここでダルマのおっさんが弱音にも似た息を吐いた。背中はすでに滝さながらである。受けつけでもらう借り物のタオルで背中を拭うと、ぱんと膝を叩いて立ちあがる。脇腹からこぼれたお腹が揺れる。これで脱落者、二人目。と思いきや、おっさんはおれと同じ四段目にあがってくると、ぜい肉ではちきれんばかりの腰をどすんと落ち着けた。


「ぶふう」


 ため息は出ているけれど、その顔は穏やかで諦めていない。まだ粘るようだ。だが無理をしているのは一目瞭然。ギプアップは目前だろう。


 やはりデッドヒートになるのは、あのサーファー男か。


 横綱に土が付き、座布団が舞う土俵の画面を見ながら足を組み変える。おれのすね毛も熱を持ちはじめている。肺に溜まっていた新鮮な外気もすでに排出され、吸気で入ってくる空気は熱くて酸素がうすい。ここからが正念場だ。かつて友と磨いたおれの実力、とくと見るがいい。


 持久戦を厭わない覚悟を決めたおれだったが、そこでいきなり事態が動いた。


 サーファーの男がすくっと立ちあがったのだ。


 長身のそいつは長い髪を揺らしながらふりかえると、階段を斜めに横断しながらまっすぐおれに近づいてくる。おれは金縛りのように動けなかった。


「すいません。ちょっとお願いがあるんっすけど」


 そいつは額の汗をぬぐいながら言った。


「ここで筋トレして良いっすか」


「筋トレ、だって」


「ええ。体を鍛えているもんで」


「べ、べつに。好きにすればいい」


「どうも」


 おれの了承を得ると、そいつは二段目の段差で腕立て伏せをはじめた。これにはダルマの親父も眼を丸くしている。おれも突然の奇行に言葉が出なかった。だがその背中は、この程度のサウナじゃ満足できないと挑発しているようでもあった。


 高見の見物をしていれば、眼の前の筋トレ馬鹿が勝手に自滅していくのは目に見えていた。けれどそんな決着の付き方では勝利の美酒は美味くない。おれは完璧な勝利の美酒を味わいたかった。


「おれも、筋トレしていいか」


「お。いいっすね。おたがいに頑張りましょう」


 そうしておれもサウナで筋トレという暴挙に踊り出た。さっきまでダルマの親父が座っていた場所に手を添える。ぱさぱさに乾いたタオルのうえ、サーファー風男のセットを真似て、腕立て三十回、腹筋、背筋五十回をこなしていく。ほとばしる汗が落ちてタオルに染みていく。


 あれ、なにかがおかしい。


 おれの胸に違和感が走った。けれどその違和感の正体を知るまえに、平日はデスクワークに明け暮れるおれの体は悲鳴をあげた。そもそもこれだけの筋トレをやることはない。腕や足は小刻みに震える。体の外も内も熱い。純粋に酸素、まっさらな酸素が欲しい。


「はあはあ、きっついな」


「いやいや、すごいっすよ。いきなりでこれだけ出来るの」


 筋トレが絆えを連れてきたのか、そいつは汗びっしょりの笑顔をおれに届けてくれた。話して分かる、こいつは良い奴だ。


 しかしながら絆を得た代償は大きかった。


 おれはうちなる声に必死で耳を塞ぐ。水が欲しい。はやく楽になりたい。外に出たい。それが叶わないなら、せめて冷たい外気だけでも吸わせてほしい。欲望は奥から奥から沸き出して渦巻いていく。


 おれはそいつと会話することで誘惑から逃れることにした。


 そいつは近くの公立大に通う学生らしかった。アパートが近くにあり、この温泉には頻繁に訪れるという。予想通りサーファーをこよなく愛する好青年だったが、もうすぐ就活がはじまるので、サーフボードはしばらく倉庫行きだと残念そうにしていた。


「やっぱり、社会に出るって大変っすか」


「そうだなぁ。好きなときに海に行くってのは難しいと思う」


「そっかぁ。やっぱりもうすこし学生でいたいっすねぇ」


 おれもテニスに明け暮れたモラトリアムを送った立場として、そいつの苦悩が痛いほど分かった。おれは気がつけばそいつと意気投合していた。あとで連絡先を交換してくださいと頼まれたので二つ返事で快諾した。


「ありがとうございます。それではおれ、さきに出ますわ。明日早いんで、すぐに上がってきてくれると嬉しいっす」


「あ、ああ」


 温泉を出た売店前で待ち合わせの約束を終えると、そいつはまたあとでと鍵付きの輪っかをはめた手を振って颯爽と出ていった。こうしてあっけなく、サーファー男との勝負はついてしまった。


 まさかのまさか。最終レースは、ダルマの男との一騎打ちとなった。


 大穴が来たものだと一人で戯けて笑ったが、余談を許さないに状況に突入していた。酷使した体が変調を来たしはじめたのだ。


 筋トレが終わってからというもの、まるでカメラのピントをしぼるように、視界がすこしずつ狭窄していく。動悸が激しくなり、お腹がぐるぐると騒ぐ。これはあれだ。おれは朦朧とした頭で他人事のように考える。


 脱水症状だ。


 ここにいては危険。頭では十二分に分かっていた。だがおれは撤退の判断をすることができなかった。鉄の約束は鎖となっておれを縛っていた。ダルマの親父をうかがってみる。


 荒い呼吸。けれどその顔は穏やかなものだ。まるで眠っているようだ。おそらくは耐え忍んでいるのだろうけれど。時計を見る。時計はすでに一周と半分。つまりは十八分を越えている。


 おれは最長二十五分の記録を持っているが、この状況では記録更新は望めない。というかすでに出たい。それどころが出ないとまずいんじゃないかと頭のアラームがフル回転している。だが、親友との掟が。


 もはや意識混濁がはじまり、恍惚にも似た葛藤に揺さぶられていたそのとき、ダルマの親父が大きく息を吸い込んで、それを放出してみせた。


「ぶえっくしょん!」


 くしゃみ。それは体温をあげるための生理現象の一つであり、鼻腔内の知覚神経を介して脳細胞に伝達を行って体をふるわせる運動。 

 

 おれは戦慄した。


 このダルマの親父は九十℃を越えるサウナでくしゃみをしてみせた。そして鼻をすする。まだ熱さが足りないらしい。汗もスプリンクラーのごとく掻いている。息も荒い。けれどこの親父はうだるような熱をまったくものともしていない。


 か、勝てない。


 おれは大急ぎでサウナをあとにした。ぐうの音も出ない完敗に涙がちょちょ切れる想いだったが、ただでさえ水分がすくないおれの体は涙液の製造が間に合っておらず、結果的には悔し涙を見せることなく敗北の道を辿ることになった。


 ☆


「はあ、危なかった」


 風呂を出て水分補給したおれはなんとか人心地に戻っていた。おなかのぐるぐるは残っていたが、視界は元通りになり動悸もおさまった。売店前にはサーファー風の男が携帯をいじりながらベンチに座っていた。


「おつかれっす」


「おお。飯は喰ったか」


「いいえ、まだ」


「なんか喰っていくか。奢ってやるよ」


「まじっすか」


 おれたちはそうして併設されている食堂に向かった。掘りごたつに座ってメニューを注文する。おれはうどんでそいつは丼物を頼んだ。料理が運ばれてくるあいだにたがいの連絡先を交換する。


「ツイッターかフェイスブックはやってますか」


「いいや」


「はじめると面白いっすよ。色々な情報も入ってくるし」


 おれはそいつに携帯を見せてもらいながら色々な動画を見た。そいつの解説も相まって心から楽しむことができた。一つの携帯をのぞいて盛りあがるなんて、ノリとテンションで生きていた学生時代に戻ったようで懐かしかった。


 料理が運ばれてからも、おれたちは適当な会話を交わらせて楽しんだ。念願の冷たいビールに口をつけながらサウナでの死闘を肴にしていく。


「しかし、ここのサウナを良く効くなぁ」


「そうっすねぇ。このあたりじゃ一番暑いらしいっすよ」


「だろうなぁ。しかしあのダルマみたいな体系のおっさん、凄かったな。筋トレしていたとはいえ、若いおれたちでもひいひい言っていたのに、なんだかんだで最後まで居座っていたもんな。人は見かけによらねぇな。なあ、おまえも良くここに来るんだろう。あの親父は常連だったりするのか」


 そいつはコーラが注がれたグラスを中途半端な位置で停止させて首を傾げる。話がピンと来ていないらしい。


「ほら、サウナだよ、サウナ。お前の後ろにいただろう。こんな太鼓腹の親父が」


 ジェスチャーを交えながら説明する。眼の前のそいつはじっとおれの目を見たあと、改まってグラスを置いた。


「なんの話っすか」


「はぁ。だからサウナだって。サ、ウ、ナ」


「おれの後ろには、あなた以外にだれもいませんでしたよ」


「なに言ってんだおまえ、たしかにあのとき」


 そこでおれははっとした。


 サウナのなかで筋トレしているときに感じた違和感の尻尾をはっきり掴んだ気がした。眼の前にいるこいつは、筋トレの許可を取るときおれにしか尋ねなかった。そしておれはこいつに負けじと三段目で筋トレするわけだが、その場所はまったく濡れていなかったんだ。あのダルマの親父が滝のような汗を滴らせて座っていたはずなのに。


 さあっと全身から血の気が引いていく。


 おれの顔色を見て、眼の前のそいつは険しい顔つきで携帯をいじりはじめた。そしてとある男の画像を見せてくれた。どこかの温泉施設の入口で取られたようだ。裸ではなくピチピチのポロシャツを着ているが、まちがいなくおれが見たダルマ親父だった。


「こ、こいつだよ、こいつ」


「もしかして、サウナで急に気分が悪くならなかったっすか」


「たしかに筋トレしたあと気分が悪くなった。だけどそんなことはどうでもいい。この親父はだれなんだよ」


「それ、やばかったかもしれないっすね」


 そいつは背筋を伸ばして、さっきまでの陽気さが嘘のように淡々とした口調でいう。


「落ちついてきいてくださいね。この人、全国のサウナ巡りをしていた変わったおっさんだったんすよ。どこぞの街にサウナがあると聞きつけては、どんな偏狭な場所にも出かける、その界隈じゃ有名な親父だったらしいっす」


「なんで、過去形なんだ」


 ぐりぐりとした喉仏を揺らしたあと、そいつは告げた。


「死んだんですよ。とある街のサウナで。脱水症状からの心筋梗塞で」


「え」


「それからというもの、全国のいたるところのサウナで、この親父の目撃情報が出ているんっすよ。ネットで噂っす。この親父は未だに自分が死んだことに気がついておらず、いまでも全国のサウナを巡っているって。目玉親父ならぬ、ダルマ親父ってニックネームが付いています。これがまたタチの悪い霊で、ダルマ親父を目撃した人は決まって脱水症状になり、ひどいときは意識を失って病院送り、なんて大事になる人もいるらしいんっすよ」


 面白い冗談だと笑い飛ばしたかった。


 けれど実際に意識を手放しかけた体験と、この話を語るそいつの眼がマジだったから、それができなかった。そういえばサウナに入るまえの部屋に尋常ではないほどの塩が置いてあったっけ。あれはもしかしたら、成仏出来ずにサウナをめぐるダルマ親父に向けたお清めの塩、だったのかもしれない。

 

もしもあのとき、親友との鉄の掟に縛られて我慢大会を続けていたら、おれはどうなっているのだろう。脱水症状であの世逝きだろうか。笑えない。


「もういい。もう出よう。どこかべつのところで飲みなおそう」


「だから明日は朝が早いんっすよ」


「おれのおごりだ。付き合ってくれ。すいません、お会計」


「しょうがないっすねぇ」


 せっかく温泉で温まった身も心も、すっかり湯冷めしてしまったおれは、命の恩人かもしれないそいつを道連れに、ネオンが灯る夜の街へと逃げだすのだった。

映画デートの前日を描いた、拙作の『インソムニア』を読むとさらに面白いかもしれません。

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