反射炉と石炭とクリッパー
反射炉
17世紀後半~18世紀には欧州で一般化した製鉄・金属精錬施設。
日本で建設されるのは幕末であり、伊豆韮山、肥前佐賀、長門萩などが有名である。韮山には現存しているという。
この頃の日本における製鉄は出雲を中心とした中国地方のたたら製鉄がメインであり、高純度でありながら豊富な砂鉄と森林資源によるものであったが、山を切り崩すこと、木材の伐採により治山治水に重大な問題が有り、土砂により天井川だらけとなり、水害が頻発していた。例えば、出雲広瀬藩など市街地が全て流されてしまい流路も変わり川床に埋没、旧河道に新市街地が建設されるという事態が発生している。
また、たたら製鉄は非常に優秀な和鋼を生み出す代わりに、製造方法が非常に原始的であり、大量生産には適していないものであり、産業革命なんてものを目指す以上は、この方式に頼ることは出来ないのである。
とは言え、その構造は現代に一般的な高炉式と似た部分があるので、反射炉よりも進んだ高炉を導入するにあたってはたたら製鉄の近代化したものと考えることが出来ないこともない。
そして、欧州で反射炉による製鉄が普及した結果、当初はたたら製鉄と同様に木炭が燃料として用いられていたが、後に伐採し過ぎで木炭が入手難となった。当然のことながら、たたら製鉄よりも遥かに量産性の高い反射炉に木炭など用いれば日本中の山が禿山になりかねないので、石炭の導入が最適と判断された。
幸い、戦国期より筑豊では石炭を少量とは言えど産出し、暖房などに用いていたので態々探鉱する必要がなかった。問題は、運搬手段であったのである。当時の千石船でも筑豊から瀬戸内に石炭を輸送し、塩田にて用いていたが、和船の構造から言って、過積載が基本のそれで、重量物である石炭なんてもの運ぶなど沈没させますと言ってるようなものであり、最低でも洋式船、クリッパー型式が望ましかった。
よって、蒸気船の導入まではクリッパー型式の船を量産する必要があったのである。過積載は出来ないので、輸送単価は多少上がるけれども、安全性と積み荷の保持については保証ができること、船速がメリットである。