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原書の罪  作者: 玉之浦椿
起ノ章
9/19

/3-5

       ◇



 ヴィネルマ図書館とマドニア城下町の中程に横たわる小川を先ほど越えた。

 先に帰ればいいのに、アルマは魔導二輪を従わせて、アイリス達と歩を共にしている。

 大ぶりの白い撫子なでしこを彷彿とさせる魔導二輪の外装が移動に合わせてゆっくりと上下して、まるで水面で波に揺られているよう。その動きに見入っているアイリスに、銘は慧華えのはなだとアルマが教えた。

 外装の花弁に当たる部分が時折、様々な色合いで淡く発光し、その時々で慧華は違う趣をアイリスに与えていた。

 シシーが乗っていた光天ひかるかみが何者も寄せ付けない白ならば、慧華は何者も受け入れる白だった。

 アイリスは今までに出会った魔導二輪を思い返してみた。

 光天ひかるかみ霄劔よいはや、そして慧華えのはな

 どの魔導二輪も一つ一つ名前があり、形状も違う。

 そのどれもが、乗り手の体躯や思考を考慮して行動を最大限補助するようにアルマが監督した特注品だった。

 特に、魔導精神性——魔術理解を行う際の、学習者の精神が及ぼす影響——の確立と、魔術の有形化でもって精神と親和性の高い形をなしているため、乗り手の持つ思考が形や機能に多大な影響を与えている。

 アイリスにはいまいちピンとこないものだったが、つまり、乗り手の心の有り様を強く映す物として、魔導二輪はあるということらしかった。

 それを聞いたアイリスは、一つ魔導二輪を見る目が変わると同時に、ふと思うことがあった。

 来るものを拒まず、受け入れる白花弁の撫子、それを表す慧華は——

 他色に染まるようで、その実全てを拒む白雲、それを模す光天は——

 その身に触れる何者をも一息に切り裂く黒刀、それを象る霄劔は——


 ——それに乗る彼らのどのような心を映したのだろうか、と。


 人数多く、話しながら歩くと自然歩幅が狭くなる。

 会話も足音も、風が指揮する草原の輪唱にたち消え、彼ら以外に聞く人もいない。

 野原に咲く花が、その身に朱を混じらせ、幽玄に謡っている。

 アイリスは見上げた。

 空の紅はより濃く染まって、月や星々がその輪郭を点々と白く浮かび上がらせていた。

 少し離れた丘の頂上でヴィネルマの外観が鮮やかに色を反映して、背後の空や山を紅く切り裂いている。

 アイリスは、その切り裂かれた傷から吹き出した血が空全体に広がっているような印象を抱いた。

「助かるかな」

 負傷者の傷口が脳裏に強く浮かんで、アイリスはぽつりと言った。

「願わくば探索者として復帰できるまで回復してくれればいいのだけれど」

 難しいかもしれません。アルマは微笑んでいるような表情の中、目元に少し影を作った。

「目撃者って一人だけなの? あの時間帯ならまだまだ人が集まってたと思うんだけど、大きなお犬様じゃぁ人の目を掻い潜るのは難しいんじゃない?」

 アイリスの前方をてこてこと歩いていたツバサ。振り返って顔だけを乗り出すようにして言う。

 言い切った後、流れるように前方に向き直って、歩幅をアルマに合わせた。

「あの場で名乗りでてくれたのが一人だったのよ。もしかしたら他にもいるかもしれないわね」

 それに、とアルマは続ける。

「必ずしも人の目につく風貌をしていたとも言い切れないの」

「へぇ?」

「中型犬にも満たなかったそうよ。視界に捉えた影は」

 影、という言葉にアイリスがぴくりと反応した。アイリスにとって、影、という言葉がもたらすのはクロノパイディア遺跡での出来事だった。底の見えない暗がりと手のひらに収まりそうな月、そして自分を見下ろす人型の『影』。

「ちっさ。それじゃどうかじったってあの傷にはならないよね。これは国警から召集かかるかな?」

「見間違いでなければ、そうね。可能性は高いと思うわ」

 実際には、高速に物陰に消える四足動物の残像を目撃者が影のように錯覚したのだろうが、アルマの返答はアイリスに嫌な連想を起こさせた。

 あの『影』がここに現れたのではないか。

 クロノパイディアで見かけた『影』は人型で、話題に上がっている影は四足動物の型をしているのだから直接は関係ないのかもしれない、けれどもしかしたら、と。

「『影』、ね〜……」

 シシーも同じものを思い浮かべているようだった。

「そういえば、クロノパイディアでは影が仕掛けとして現れたそうですね」

 シシーの一言を瞬時にクロノパイディアへと繋げられるほどに、アルマは機転が利いた。

 ツバサが、口を尖らせた。

「それってどんなの?」

 ツバサはその出来事を知らない。そのせいで話についていけなくなることが嫌なようだった。

「地面に出来た影がそのまま起き上がったような人型で、手腕のみが立体的だったと聞いています。挙動も不信だったと」

「ふぅん、……それってさ、あんな感じだったりしない?」

 ツバサはあっけらかんとしていた。そのせいでアイリスは脳が言葉を噛み砕く前に、反射的に振り返ってツバサの指さした先を見ていた。

 アイリス達が通ってきた道、整えられた石畳に音もなく犬がいる。

 燃えるような夕日に赤く染まった世界の中、インクを一滴落としたような犬がいる。

 アイリスの心臓が跳ねた。奥行きがなく、形の定まらない胴体に、確固とした形を保つ犬の頭が載っている。胴体の大きさに迫る顔を唸らせ、歪な犬はすぐにでも襲いかかってきそうだ。

 思えば影。

 

 それは、形は違えど『影』のようだった。



       ◇



 赤と黒の対比がアイリスの網膜に焼き付いて、一線、空間をなぞった『影』は鋭い金属音を響かせて中空に弾かれた。

 瞬く間の攻防。今、『影』が大口を開けて不揃いに鋭い歯を此方に向けていたことを知り、アイリスがやっと身構えた。

 頭が重いのか、地面に仰向けに落下した『影』はしばらく身じろぎして体制を整えると、整備された道を外れ、茂みに身を隠す。

 青白く明滅する薄膜越しに、シシー、ツバサ、アルマ、そしてアイリスが身を固く、草陰を見据えた。

「今のがお犬様かな? ブッサイクな形してたけど、あの口なら人の形も変えられるでしょ」

 油断なく——いつの間にか手にしたナイフを構えたままに、ツバサはあいた手でシシーに何かしらの合図を送る。

「そうね。影を見たとは聞いていたけれど、本当に——」

 影だったとは。そう続くであろうことはありありと理解できた。アルマが口を止めた理由。

 二度目の接触。今度はアイリスの背後からだった。

 小さな悲鳴を漏らすアイリスの鼓膜を、細く、確たる風切り音がすり抜ける。次いで、ノイズ混じりの吠え声が叩いた。

 アイリスを抱くアルマを挟んで、ツバサと『影』が対峙している。間合いは広く、ナイフを振りぬくツバサでは到底届かない距離を埋めたのは、風の刃。生命片マナと呼ばれる緑色の残滓が軌跡をなぞって『影』まで伸びている。

 シシーの展開する薄膜が何者も通さないのは、クロノパイディアで経験していた。先ほどツバサがシシーに合図したのはこの時のためだったのだろう。

 攻撃の防御、薄膜の消失、風の刃。

 流れるような反撃だった。

 水に垂らしたインクが悶えながらその身を薄くしていくように、おぼろげな輪郭を更に崩しながら起き上がった『影』をツバサの爪先が抉る。それを、復活した薄膜越しにアイリスは見た。

「ツバサ、報告」

 シシーの声質が変わっていた。クロノパイディアの時と同じだ。間延びした語尾が鳴りを潜めて、言葉少なに必要最低限だけを言う。

「攻撃出来るのは顔だけだね、体に関してはカーテン蹴ってたほうがまだ足応えがある」

 『影』はまたしても草の陰に紛れていた。一撃加えるたびにこれでは埒が明かないと、ツバサは地に張り付くかというほど腰を落としナイフを対角に構える。装飾がふんだんに施されたナイフだった。礼典で用いられるならばともかく、普段ならばどこそこに祀られていそうなほどのそれを、今は緻密な紋様を緑色に光らせ、ツバサは地に水平に凪いだ。

 草原が哭いた。

 草葉は根本から絶たれ、踊るように身をくねらせて地に伏せた。

 草刈りの刃を通すより綺麗な切り口を見せ、辺り一面に重なる。

 広範囲に、連鎖的に、葉擦れと堆積する音が何故かアイリスには血の噴きだす音に聞こえた。

 流れ溜まった血をかき分けて、『影』が浮き上がる。

 以降は、一方的だった。


 ツバサが一人、薄膜の外で戦っている。アイリスはシシーに近づいた。

「ねぇ、シシー。これってクロノパイディアから出てきたんじゃ……」

 もともと噛み付きを繰り返していた『影』は、隠れる場所を失ってからはいいようにツバサの手球になっていた。

 そもそも『影』にとって危機的状況を作り出している一番の要因であるところのツバサを、『影』が全く意に介していない。ツバサの攻撃の合間合間、チャンスがあるたび『影』は薄膜に守られたアイリス達に特攻した。

 単調どころではない。

 ツバサの攻撃が吸い込まれる度、唸るような苦しんでいるような音が強いノイズを伴って発せられる。

「それは否定したいかな。あの『影』は遺跡の仕掛けのはずだから、遺跡の外には出てこれない」

 シシーはそう言うが、アイリスはどうしても無関係だとは思えなかった。厚さのない影の一部分だけが立体的に形作られる様から、これとクロノパイディアのが無関係だと切り捨てられるとは到底考えられない。

 無知からくるものだと否定されてしまえばそれまでだけど、遺跡だからという偏見だけで思考を切り上げてしまうのは危険なのではとアイリスは感じた。

 アイリスの機微を察したわけではないだろう、けれど、シシーはアルマに視点を転じた。その顔に少し苦いものを滲ませている。

慧華えのはなは何か言ってる?」

「難しいですね。ヴィネルマに登録されている魔術ではない上に、どうにも解析が上手くいきません」

 戦闘に余裕が生まれてから、アルマは慧華に接続された端末——身分証を作成する際に使用されたものと同一だった、薄いなめらかな板の、画面と呼ばれる一面に文字が踊っている——を指で叩いていた。慧華のカーネーションを象る装甲が燐光を発して、風が遊んでいるかのように、花弁の隙間を縫って流動していた。

 よく見れば、それは文字だった。もしくは記号だった。

 『蝶の黙示』を受け取って初めて知らされた、この世界で古代語と呼ばれるものの一部だった。

 アイリスにはその記号列が何を表しているのかわからない。

 ただ、その記号の連なりが何かしらの意味を織り成して、何かしらの現象を綴りだしていることだけは理解していた。

 今回の場合、現象は解析。目に見えない力が、『影』の内側を解剖ひらこうとしている。

 アルマは微笑みこそしているが、アイリスからしてみれば解析が全く上手く進まない事に歯噛みしている心情がありありと見て取れた。

 今までこの様な荒事に遭遇したことのなかったアイリスだ。襲撃に一番過剰に反応したのは彼女で、今の戦況の優位性に緊張の糸を一番弛ませたのも彼女だった。

 『影』ではなくシシー達を見ていたのもいけなかった。

 結果、今までで一番鋭く、頭蓋の内で反響し留まってしまうような金属音が薄膜内を駆け回った時、アイリスだけが飛び跳ねて、一番近くで薄膜維持と観察に努めていたシシーに抱きついていた。

 シシーはむしろその事に対して多分に驚いていた。

 自分が何をしているか気づいて、アイリスは慌ててシシーを開放する。

 ツバサの舌打ちが地を蹴る音の合間に聞こえた。

「またそっち行った。なんか恨み買うことしたの? アルマん」

 幾度と『影』を払う度、皆、『影』がアルマだけを攻撃の対象に据えていることに気づいていた。気づかなかったのはアイリスだけだ。

「記憶にございませんね」

「うわ。なんかやってそうな雰囲気。あくど〜い」

 軽口を叩き合っているわりに、ツバサの目は行動の極微を見逃さないとばかりに鋭い。

 油断はしていないのだ。アイリスには出来ない芸当だった。

 戦闘もそろそろ終りに近い。

 生物が満身創痍を体現する際、その体には無数の傷が走っているように、『影』もまたその輪郭が無数にうねり、うねった先から茜空に霧消していた。

 けれど、その状態でも生物は生きているように、『影』もまたそこにいる。

 そして、生物には真似できない機敏さで、外傷を感じさせない豪胆さで、『影』は攻撃を続行しようとする。

「解析出来ないようなら、さっさと消しちゃうよ」

「えぇ、お願い」

 アルマに飛びかかった『影』の顔をツバサの足の甲が凛と捉えた。

 落ちた先で風の刃が。

 転がる先で風の刃が。


 『影』が形を維持できなくなり、風に攫われ儚く消え失せるまでそれは続いた。

 

「さて、私も国警に行かねばならなくなりました」

 アイリスの中で戦闘の余韻が薄れ始めた頃、アルマは慧華に乗ってマドニア城下の方角に飛んでいった。

 空の茜が紫苑に変じ、ジィィと晩春に鳴く虫が求愛に羽を震わせ始める。

 平穏だった。先ほどの出来事がうろの幻めいてしまう穏やかさが道中にはあった。

 その平穏が、涼しさが、アイリスの内にある熱を確固と浮かび上がらせた。 

 『影』について。

 シシーとアルマはクロノパイディアの『影』と同様の意味を持つ魔術書の存在を疑っていた。

 ツバサは冗談めかした態度のみで『影』の正体についてこれっぽっちも興味を示さなかった。

 アイリスは自身の勘と相違ない疑問を発する事なく飲み込んでシシー達の考えを受け入れた。

 多分、シシー達が正しいのだ。自分はただ自分のわがままを通そうとしているだけ。けれど、

 アイリスの頭蓋の内側に、シシーに腕を振り上げる『影』が居た。

 その眼窩に宿る理知的な光を、アイリスは暗闇から見上げていた。

 理知的な光とはつまり、殺意だ。

 人型も獣型も殺意を抱いていた。

 

 魔術は殺意を孕むのだろうか。そこが引っ掛かりとなって、疑問が、炎を纏わず身の内に高温を留めながらアイリスの心でジリジリと存在を主張していた。

 

 それは、ヴィネルマの門を潜ってからも燻ることはなかった。


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