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お風呂から上がった後、アイリスはコハネと別れてアルマの研究室へと足を向けた。これからのこと、という名目で食後に研究室に来るようにと言われていたからだ。
とりあえず研究区と呼ばれる建物の十六階最奥にあることだけは教えてもらったのだが、そもそも研究区がどこにあるかわからない。
仕方なくアイリスは、コハネに案内してもらえばよかったなどと思いつつ、近くを通りかかった図書館員に道を聞いた。
言われた通りの道筋をたどりながら、アイリスは太ももにかかる違和感に慣れずにいた。
というのも、昨日から着ていた黒いドレスは洗いに出され、代わりに女性司書の制服を一着貸してもらったのだが、この制服、どこか格式の感じられるブラウンチェックのチュニックと白基調のスカートを組み合わせたものだった。
違和感は偏に丈の問題で、どちらもあまりに短すぎる気がするのだ。普段くるぶしから上を見せることのない服装ばかり選んでいた自分にとって、膝にすら掛からないスカートというのはあまりに恥ずかしい物だった。
ドレスが乾いたらすぐにでも着替えようと心に決める。
今いる建物——居住区の十六階までエレベータで上り、先程朝食をとったホールを脇に見ながら歩いて行く。しばらくもせずに道がTの字に交差している広場に出た。絨毯や木のアンティークなどが置かれ、絵画が壁を彩っている。研究棟とへと繋がる大きな連絡橋に差し掛かったところだ。床と天井、それと——天井を支えるにはあまりに少なく、また細く感じる——支柱以外は全面ガラスでできており、少し壁際によるだけで図書館の立体構造を一望できる。
ヴィネルマ図書館は巨大な4つの建物によって構成されていた。内側からではいまいち形がつかめないのだが、たしか魔導二輪からちらと見下ろしたときには円型の建造物だったはず。たぶん上から見て扇形の建物が角同士を向かい合わせるようにして並んでいるのだろう。その向い合った二辺のそれぞれを繋ぐようにして連絡橋が四階層毎に伸びている。
視線を下げれば幾人かの人たちが見つかった。建物で囲まれた広場にて、本を片手にくつろいでいる。図書館で本を借りた人たちが、心地良く読書できる場所を求めてこの場所まで来たのだろう。よく手入れされた草木が石畳のテラスを囲んで、いくつか置かれた椅子に木陰を落としている。そこにゆったりと腰掛けて気ままに頁をめくる初老の男性が一人。あとは小さな子供たちだけだが、彼らは椅子に座らずテラス横に広がる芝の上にひとまとまりに寝転んでいた。と、その中に見知った人影が紛れ込んでいることに気がついた。あの鳥の翼を象った特徴的な髪飾りをつけているのは、コハネだ。うつ伏せになって、足をパタパタさせながら何かを読んでいる。隣の少女がコハネに話しかけて、それから二人で笑っているようだった。
なんだか、少し安心した。図書館から出られないという先入観からか、人付き合いからも疎遠になっているイメージがあったのだ。考えてみれば、ここは図書館として開放されているのだから本を読みに来る子供もたくさんいるだろう。むしろ色々な人たちが集まるこの場所は、交友の場としては最適なのかもしれない。完全な籠の鳥というわけではないのだ、彼女は。
そんなことを考えながら一分ほど歩き続けると、ついに橋の終わりに近づいた。窓が途切れて、かわりに小さな広場が顔を出す。一度足を止め背後へ振り返ってみると、手のひらに隠せるくらいまで小さくなった居住区の入り口が見えた。橋もそうだが、このヴィネルマ図書館は全てのものがいちいち大きかった。自分のいたイリール城と比べようものなら、きっと勝っているのは土地の広さくらいのものだろう。それも、国土を含んだ土地の広さで、だ。
居住区が暖かく包み込んでくるような趣があるのに対し、冷たく尖った印象を与えてくるのが研究棟だった。
幸いなことに案内板が目の前にあり、道に迷うことはなさそうだ。
白で統一された画一的な廊下を進むたびに足元からさびしい音が鳴る。太陽の光は鳴りを潜めて、天井に取り付けられた筒から発する無機質な白い光が代わりの光源になっていく。それは均一で温かみはなく、ただ人の行動の妨げになる暗闇を駆逐しているだけのよう。なぜか急かされている気分になった。
暫くの後、アイリスは第一種研究開発室と表記された札を見つめていた。研究区総責任者の文字とアルマ・カンパネルダという名前も一緒に刻まれている。
総責任者という言葉が与えてくる重みとは裏腹に、研究室の扉は先ほどまで通り過ぎてきた部屋のものと代わり映えしなかった。白い板に取っ手を取り付けただけの質素なものだ。そう言うと対したことのないような気がしてしまうが、決してそういうわけではなかった。無駄に意匠が施された扉よりよっぽど扉らしいと言えばいいのか、とにかく、無駄な部分を極限まで取り払った先に、扉本来の機能が美しさを帯びたようだった。断絶やら潔癖という言葉が真っ先に思い浮かんだ。中の様子が見えないから、なかなかに入りづらい。アルマの役職が理解できてしまったことも一因だろう。お城で、大臣の部屋の前にたった時の心境そのままだ。
だからと言って、ここでもたもたしている訳にもいかない。アイリスは意を決して扉をノックする。拳を作り扉に近づけて、あとは軽く手首をひねればいいというところで……。
部屋の中から男性の怒鳴り声が聞こえてきた。対するアルマの声は聞こえないことから、かなりの声量でまくし立てているのがわかる。
取り込み中か。
仕方がないからまた後で訪ねてみようと扉から一歩離れたアイリスは、しかし、どこに行くでもなくその場に突立っている。悪いと思いながらも、話に耳をかたむけている。少し気になる言葉を男が発したからだ。
コハネを貸してくれ、と言ったか? 中の男は。
要領の得ない説明がその後少しの間続き、だんだんと落ち着いてきたのか声は聞こえなくなってしまった。結局分かったことといえば、コハネを(と言うよりはコハネの持つ『天啓の折』の力を、だろう)借りたいということと、できなければ大変なことになるということだけだった。どう大変になるのか、それで誰が被害を被るのか、詳しいことは一切わからない。そもそもそういう所を無理やり隠して話しているような喋り方を、男はしていた。
コツコツと近づいてくる音。アイリスは慌てて、けれど音を立てないよう細心の注意を払って扉から離れる。部屋3つ分ほど離れたところでアイリスは向き直り、扉から出てきた男にあたかも今来たかのように演出した。
男は一度こちらを向いた。目にくまさえなければそれなりに女性の好意を受けそうな顔立ち。訝しげな瞳の奥底には、まるでこちらを寄せ付けない暗がりと染み出すように焦りがあった。この瞳には、思い当たる節がある。似ているのだ、父に。追い詰められた先に、すがれるものを見た時の、盲目的な一途さ、とでも言えばいいのか。とにかく一点にのみ明瞭で限界まで狭窄した視野を男も持っていた。きっと、男はアイリスを見ていない。彼女を自分の陥っている問題に結びつけた未来展望こそを見ているのだ。
男が動きを止めていたのは一瞬で、なんの役にも立たないと銘打つかのように興味の完全に失せた目を横に流して、男はアイリスのいる道とは逆方向——案内板には医療棟と記されていた建物への連絡橋に歩いて行った。その際、男の胸元が光を反射して一瞬煌めく。アイリスは目敏く、そこに描かれたものを見て取った。
球体を鷲掴みにする猛禽の図だった。
「お?」
この声は一体誰のものか。
アイリスははじめコハネがこの場に居るのかと考えた。けれども、彼女は先ほど見かけたばかりだ。建造物に囲まれたヴィネルマの中央広場で子どもたちと本を読んでいた。遠目での確認だったが、あの特徴的な髪飾りは大きさも相まって確固とコハネの姿を浮かび上がらせていた。
ならばとアイリスは音源をたどる。コハネに比べたらいささか高めの声色。けれど声質は非常に似ているこの声の主は、ソファーの背もたれから顔だけひょこと飛び出してこちらを覗いていた。翼の意匠を拵えた金属質の髪飾りが目に映り込んだとき、アイリスはまたしてもコハネの存在を疑った。そしてすぐ、その顔にはコハネの持つ幼さや小動物めいたおどおどとした雰囲気が取り除かれていることに気がつく。髪飾りをとっても、羽休めをする鳥を彷彿とさせるコハネのものと違い、今まさに飛び立とうと羽を広げる鳥を表すようにぴんと羽先を空に向けている。人の悪そうな笑みが妙に印象的で、コハネとの同一性を確固と否定していた。双子だろうか。
第一種研究開発室は綺麗に整頓された部屋だった。と言うよりも、物があまりにも少なかった。得体の知れない道具があちこちに設置されているのかと少し期待していたのだが、机の上に書類や書籍、筆記具などが多少置かれているくらいで、部屋には他に目に付く物はない。向かい合うように置かれたソファーにはアルマの他にコハネ似の少女ともう一人、主張し過ぎない程度に装飾の施されたガウンを羽織り、色素の抜けた髪を後ろに撫で付けた初老の男性が座っていた。男はシワの刻まれた目元とは裏腹に子供っぽさを感じる瞳をこちらに向けてくる。どことなくシシーと重なる挙動だった。
「ごめんなさいね、アイリスさん。此方から呼び出しておきながらまだ準備が整っていないのですよ」
アルマが軽く頭を下げた。青みがかった灰色の、厚めのハイネックをインナーとして着用していることを除けば、アルマの服装は今までみてきたものとまったくかわっていなかった。相も変わらずの白衣姿だ。
「いえ、なにか緊急のようでしたし気にしないでください」
元の世界ならいざしらず、今アイリスがやらなければいけないことなど皆目見当もつかない状況では、忙しいはずもなく、予定など臨機に変更できる。時間がかかるというのならば、その間にこの世界のことでも調べておけばいい。それが出来る環境がヴィネルマにあるのだから。
刈り揃えたあごひげをのんびりと撫で付けて、ついで男が口を開いた。
「悪いね。私等とてここまで時間が伸びるとは思っておらんかったのよ」
これもあの小童のせいじゃなと軽く口を尖らせる。多少の怒気を孕みながらも大抵はつまらなかったと言わんばかりの抑揚の乏しさだった。その身から漂う威厳や尊厳を感じなければいっそシシーよりも身体と精神の歳の差が現れていたかもしれない。逆に、それらを強く感じるからこそアイリスはこの男が非常に高い位置に座し、強大な権力を振るう人間なのだと察せた。それでも、ここまで裏をさらけ出す権力者をアイリスは一度も見たことがなかったのだけど。
終始この場にいて話の全容を聞いていたわけではないアイリスは、曖昧に返事をする程度に留めて二人を観察していた。と、いつの間にか立ち上がっていた少女が足早に歩み寄ってきて、アイリスの手をとった。
「きみがアイちゃん? アルマから話は聞いたよ。これからここで生活するんだってね。お仲間だ、お仲間。ぼくはツバサ・サブナハ、こことお城の二重スパイとかやってるよ。あと遺跡の攻略も。好きなことは運動。頭脳労働とか他の人に任せます、なツバサだよ。よろしくね。あ、こっちはマルタ爺ちゃん。呼び捨てでいいよ」
ツバサと名乗った少女が早口に畳み掛ける後ろで、アルマとマルタが幾度か突っ込んだ。アイリス自身どう反応していいのかわからず、
「よ、よろしく?」
なんて動揺混じりの疑問形が飛び出す始末。彼女に悪気や後ろめたさは一抹も感じられない。あっけらかんと底抜けの明るさに失言の一つや二つかき消されてしまいそうではあるのだが、しかしアイリスはあっけらかんではいられない。間諜なんていうのは隠すもので、間違っても面白そうに、堂々と、宣言するものではないはずだ。我が国イリールならば首を落とされても文句は言えない。アイリスはちらりとソファーの上の二人を見るのだが、二人は口でこそツバサを咎めてはいたものの、今は何もせず此方のやり取りを眺めるだけに留まっている。そのことにアイリスは多少ではあるが戸惑っていた。ツバサがそんな状況を顧みることなくアイリスの瞳を覗きこんでいたものだから、ついには、アイリスの方が一歩身を引いた。
にぃと口の端を釣り上げたツバサは、そんなアイリスの一挙一投足を面白がっているようだった。事実、次のツバサの一言はアイリスに仕掛けた悪戯の種明かしであり、尚且つアイリスをより戸惑わせるものであった。
「ところで、二重スパイってのはね、アルマがガルに言い寄る算段を立ててる、とか、爺ちゃんがヴィネルマの女性司書ばかり目で追いかけてる、とか逐一報告する仕事だからね。そこんとこ勘違いしないように」
後ろのマルタの真似だろうか、はきはきと威厳を持たせたしゃべり方をしたのだろうが、顔で全てが台無しだった。アイリスは考えるまでもなく、遊ばれていたと分かった。初見のあのひとの悪そうな笑みは、なるほど遊び道具を見つけたのだとしたら納得できる。
「遊び相手だから」
そこんとこ勘違いしないように。ツバサは小声でそう言った。彼女としてはアイリスが自分自身を道具に例えたのが気に入らなかったのだろう。別に自分を卑下して道具と呼んだわけでは全くなかったのだけど、コハネはそうは取らなかったようだった。と、流れとしてはそう考えるのが妥当な所だけれど、そうすんなりと思考が続くにはコハネの言葉は脈絡がない。そのピンポイントな返答は問題として、私はその思いを一言も口に出していなかったのにと文頭に付け加えられる事態を孕んでいた。アイリスははねた心臓が押し出した言葉をどうにか飲み込み、ここ一番の動揺を表に出さずに済んでいた。
「使えないスパイがいたものだ。魔導二輪の魔の字でも報告してくれれば幾らかやりようがあったものを」
そのかいあってかなくってか——いや、今の会話の脈絡のなさをあごひげを軽く撫で付けるだけで看過しているのだから、多分に無駄骨だっただろう——アイリスの誤魔化しに対してマルタはこれといった反応を示さなかった。アルマと机を挟んで向かい合う形で椅子に腰掛け、アイリスはその背に隠れる場所でツバサと相対していたが、マルタの瞳はアイリスがこの部屋に入ってきた直後から常に此方を向いていたのだ。指の先まで観察されていた。ぼうと此方を眺めていたわけではない。
「ぼく、面白いもの担当」
ツバサはピシャリと言い切った。マルタはついに眉間に指を当てる。どうやらここまでが普段のやりとりのようで、マルタが二度ツバサを追い払うような仕草を行って、会話は一段落ち着いた。かなりのおてんば娘だ。天真爛漫でいたずら好き。振り回される方はたまったものではなさそうだが、アイリスは不思議と悪い気はしなかった。それはツバサが本当に楽しそうに笑うからだろう。
ようやく場の雰囲気に馴染んだアイリスだったが、突如体が大きく振れた。それはツバサに抱き寄せられたからで、目を白黒させながらアイリスは拘束されていた。その力の予想外に強いこと。多少の抵抗ではびくともしなかった。
「どうせ、また難しい話をするんでしょ? その間アイちゃんを借りるよん」
返事を聞く気はなさそうだった。ツバサは扉へと歩いて行き、手を取られているアイリスも引っ張られながら追従する。
ここには目的があって来ていたアイリスは、けれどツバサの勢いには抗えそうにもなく、確認の意味を含ませた目線をアルマに飛ばす事しか出来ない。
「後でこちらから伺いますので、ツバサをよろしくお願いしますね」
口を開いたアイリスの前で、二人を通した扉が閉まった。
「ねぇ」
ツバサに強く手をひかれて、主導権は完全にツバサの物だった。さっききた道とは違う方向、球体と猛禽の図を胸に留めたあの男と同じ道を行く。さすがに、男を見かけることはなかった。行く手に構える医療棟への連絡橋に差し掛かった所で、ツバサが振り返る。
「遊び相手、について?」
「え、えぇ」
まさに聞こうとしていたことだった。
「なんとなくだよ、なんとなく」
大袈裟な身振りでアイリスに顔を近づけるツバサ。揺れるアイリスの瞳の奥を見定めるように目を細めた。
「ぼくの特技なんだ。相手のちょっとした表情や仕草から相手が今どういうことを考えているか察するの。もちろん完璧に心を読むなんて芸当は出来ないけど、相手の感情が発散しているのか収束しているのか、自分を貶めているのか高めているのか。感情が流れる方向を見繕って、そこに意味を当てはめてみるの。まぁ、最終的にはほぼ勘なんだけどね、これが意外と当たるんだ」
いたずらするのにぴったしの特技だよ。
ツバサが笑う。アイリスは笑っていなかった。
「じゃぁ、医療棟を探検してからシィちゃんにでも会いに行こうか。多分図書館にいるだろうし」
揺れるツバサの髪飾り。これから羽ばたこうとする鳥を象って、離れていく。彼女と共に進みたければ、同じく飛ぶか、彼女に連れて行ってもらうしか無い。
地面から離れられないアイリスは何故か、前を向いているだけなのに、見上げているように感じていた。
魔法じゃないんだ。誰かに聞かせるわけでもなく、呼吸に音を乗せるようにアイリスは呟いた。
自分ですら聞き取れない程の声量。
魔法じゃないよ。ツバサは振り返ることもなく答えた。




