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原書の罪  作者: 玉之浦椿
起ノ章
6/19

/3-2

       ◇



「……広い」

「……広いでしょ。この国で一番おっきぃお風呂なんだって」

 お城よりもだよとコハネが言った。

 ちょっと遅めの朝風呂だった。思えば、昨日は地面を転がったり、今日は寝汗を大量にかいたりしていたのだ。気がついてしまえば、あのまま一日を過ごす気なんて起きなかった。

 自分のために暖め直してくれたのかとも思ったが、お湯の温度は常に保たれているのだとアルマが言っていた。そういう魔法もあるにはあるが、ここのお風呂は魔法を使っているのではなく、温泉をどこかから引いているらしい。それはそれですごいことだった。温泉があった場所に建物を建てたのではなく、建物のある場所に温泉を拵えたのだから。今は使っていなくても、建設工程で魔法は使っていたのだろうか。

 一体どういう原理なのかと、アイリスは考える。もちろん。これっぽっちもわからない。

 気がつけば、こっちこっちとコハネが手招きしていた。何かの容器とロープのようなものが彼女の背後にある。

「これがかみの石けんで、こっちが体の石けん。こういうのあった?」

「私の世界で? ううん、なかった」

 固形や粉末の石鹸ならあったけれど、こんなどろどろとした液体の石鹸は初めて見た。……そんな意外そうな顔で見られても困る。

 コハネは二つある容器のうち体用のものを左手に取った。

「これをこうやって」柔らかそうな厚い布片全体に行き渡るほどの、目一杯の石鹸がかけられる。コハネの動きが少しの間止まった。

 何か小声で呟いているようだったから耳を澄ましてみると、どうにもかけすぎちゃったようだ。

 まぁいいよねと自分の中で折り合いを付けたらしいコハネが続ける。

「こうやって泡立ててから、体をこするの」

 コハネは運動方面にかなり疎いのかもしれない。いや、実際そうなのだろう。いつも本を読んでいると言っていたし、図書館から出ることもないのだから運動できるはずもない。それであたりまえだ。でも、説明が終わらぬうちから布片が手からすっぽ抜けて、片手でお手玉を始めた時は不覚にも少し笑ってしまった。

 そのせいでむくれてしまったコハネに、内心微笑ましく、上辺だけの謝罪をしてから、アイリスもロープの近くにあった布片を手に取り、体を洗い始めた。

 女三人寄れば姦しいというけれど、二人で十分に騒がしい。出会いが気まずいものだっただけに、なんでこんなにも親しくはなせているのか多少疑問に思ってしまう。

 一時もしないうちに二人は泡だらけになった。特にコハネは出しすぎた洗剤相応に泡にまみれている。首から下で肌の見えるところなど一つもない。

 お湯を汲もうと桶を手に取ったアイリスをコハネが止めた。

「どこいくの?」

「体を流そうとしたんだけど、もしかして違うの?」

「……うん、ちがう」

 これを使うのとコハネが手に取ったのは、先ほどから気になっていたロープだった。片側は壁に繋がって、もう片方の先には金具が付いている。

「これは?」

「……これはねー、」

 しゃわぁ!

 そう言うコハネの手元から、いきなり吹き出したお湯にアイリスは飛び上がった。バランスを崩して転びかけるが、不格好にもなんとか持ち直す。

 見れば、コハネは笑っていた。くすくすと、まるで悪戯が成功した時のように。

 あぁ、なるほどとアイリスは思った。これは仕返しだ。さっきコハネのお手玉を笑ったことを根に持っていたのだ。子供は人情の機微に敏感だというし、謝罪の真意も読まれていたかもしれない。

 体を洗っている時、そんなそぶりはちらりとも見せなかったというのに。あの笑顔と親しさの裏でこんなことを画策していたなんて……などという思いはべつに浮かびはしなかった。

 思いついたのは、最後に話した直前だろう。

 まぁ、なんにせよ。————やられた。

「やられたー!」

 自分の掲げる理想の姉妹みたいで、アイリスはコハネに抱きついた。なんというか、楽しくなっていたのだ。体が理性よりも心を優先するぐらいには。

 やぁぁと控えめに鳴いているコハネも、わりかし楽しそうだ。一瞬そんな事を思いもしたけれど、考えてみれば今、自分たちは泡まみれな訳で……


 ……教訓が一つ出来た。お風呂場で、はしゃいではいけない。

「おでこ、まだいたい?」

「ちょっとだけね」

「ぷくぅってなってる」

 まさか顔面からいくとは思わなかった。一度滑り出した腕は途中で引っかかる事もなく地面へと到達してしまったのだ。まぁ、それはそれでコハネを転ばす事がなくてよかったのだけど。おそるおそる額に手を触れるとずきずきと鋭い痛みが走った。軽く触れるだけでこれなのだから、きっと見た目はすごい事になっているはずだ。

「本当に。でも血が出てるわけでもないし、ちょっと大きいだけのたんこぶだから、放っておいたらすぐに治るよ」

 髪も洗い終わり、今は湯船で揺れている。コハネは一度心配そうに視線を合わせ、なぜか泳ぎ始めてしまった。見て見て、片手だけで泳げるんだよと、せわしなく水を掻いている。はっきり言ってしまえば、そこまでうまくはない。さっきから何回もバランスを崩しては、お湯を飲まないようにと口をあっぷあっぷさせていた。

「コハネは、ここにいて……ヴィネルマ図書館で生活してて楽しい?」

 そんな後ろ姿に、口をついて出た言葉。アイリス自身、何で今こんな事を言ってしまったのか分からなかった。コハネの姿をぼうと眺めて、考える暇が出来てしまったからだろうか。はたまた、額の痛みに連なって、暗い感情が想起したからか。コハネはこちらに振り返るも、その顔には疑問の色が浮かんでいた。首をかわいくかしげて、

「うん、楽しいよ。アルもガルもブックもシィちゃんも、みんなみんなやさしいもん。いっしょにお話しして、いっしょにごはんを食べて、いっしょにあそんで……」

 それからすごく悲しそうな顔をして、アイちゃんは違うの? と言った。

「ううん、そんなことないよ。私も楽しい」

 これは本心のつもりだった。すらすらと、途中心で濾過されることなく放ったつもりでいた。だから……

「あ……、うそついた」

 そう言われたときのアイリスの心のざわめきは一入ひとしおだった。コハネのせいだけではない。否定しようとしたアイリスは、そのときになって初めて、直隠しにしていた、あるいは先延ばしにしていた心と向き合ったのだった。


 ——お暗い顔をなさっていますよ。


 確かに私は、嘘をついた。

「バレちゃったか」

「……なんとなく分かっちゃった」

 明るく言ってみたものの、気分は羽ほども軽くはならなかった。あのとき、朝食の場でブックに日付を聞いた時にはもう漠然とこんな気分になるのだろうと予想してはいたのだけれど、わざわざコハネの前で落ち込まなくてもいいじゃないか、私。思いと裏腹に、アイリスは過去と向き合う事をやめない。一昨日の夜、ベッドへと向かう直前の侍女との会話が脳裏に浮かんでは帯を作って流れていく。まずは、そう、自分がため息をついたのが始まりだったはずだ。


 ——お気持ちは痛いほどに分かります。いえ、きっと私が心を痛めてもあまりあるほどに、貴女様の悲しみは深いのでしょう。


 次々と現れる場面と感情。アイリスは一昨日から今日までの出来事を回想する。侍女との会話、世界の変化。『影』の襲撃。そしてヴィネルマヘ。確かに悲しみはまとわりついてきた。でも……

「……でも、そうだよね。ここにはアイちゃんの知ってる人、だれもいないんだもん。きっと、すごくすごくかなしい。それは……わたしにも分かる」

「ううん」コハネがまだ何かを言おうとしていたようだったが、アイリスは首を振ってそれを遮った。心と向き合ってなお変わらない思いが確信となって、こんどこそ自然に言葉になる。

「確かにこの世界に来てすぐはね、まるで息が止まっちゃったみたいだった。音も匂いも空気も……自分もね、何か違う者に変わってしまったんだと思ったの。苦しくて悲しかった。でも、ずっとってわけじゃないんだよ」

 今私と話してるのは誰? とアイリスは聞いた。

「……わたし?」

「うん、そう」

 手招きをしてアイリスはコハネを呼んだ。記憶の中から母がしてくれたように、コハネを膝に座らせる。こうしているとコハネの顔が見れなくなるけれど、頭を撫でるにはちょうどいい格好だ。アイリスが頭に手を載せてもコハネはいやがるそぶりを見せなかった。

「コハネとシシーと、あとガルドさん、アルマさん、ブックさん。ほら、私の知ってる人が五人もいる。まだ全然話してないからお互い知らない事も多いけど、そんな事は些細な事ね。コハネも言ったでしょ? 一緒に話をして、ご飯を食べて、コハネとは一緒にお風呂まで入っちゃってる」

 コハネが見上げ、アイリスが見下ろす。示し合わせたわけではなかったが、二人の目が合った。

「だからコハネの言った事は間違い。私の知ってる人、まだ少ないけれど、ここにいるんだもの」

 そう言ってアイリスはコハネの額をポンと叩いた。

「……うん、間違っちゃった」

 しっぱいしっぱいとコハネが無垢に笑い始める。つられる形でアイリスも頬が緩んだ。

「それにね、楽しくなかったわけでもないの。ううん、むしろすごく楽しい。私ね、この世界に来た日に空を飛んだの」

「……魔導二輪?」

「そうそう。こっちの世界じゃ当たり前の事なのかもしれないけれど、私の世界には空を飛べる機械なんてなかったからね、雲の上を飛んだ時なんて、凄くわくわくしちゃった」

 もちろん、これから自分はどうなるのだろうとか、元の世界にちゃんと帰れるのだろうかなどの危機感が心の大半を占めてはいたのだが、それらとは又違う部分で自分は感動していたのだと、今になって思う。

「……くもの上ってどんなところ? 鳥さんとんでた?」

「白色の小さなお山があたり一面にぽこぽこってたくさん生えてるみたいだった。鳥は、うーん、いなかったと思うよ」

 コハネは魔導二輪には乗ったことがないのねとアイリスが聞くと、コハネはうんと首だけで頷いた。やっぱり、図書館から出たことは無いようだ。コハネの持つ『天啓の折』という力がどれほどのものか少しは察しがつくけれど、それほど厳重に図書館へと縛り付けなくてはいけないものなのだろうか。

 アイリスが考え込んでいると、不意にコハネが聞いてくる。

「……雲って、すごく柔らかくて、触ったらもふもふーってするんだよね?」

「え?」

 そんなことはなかったと思うが……そう考えたアイリスはすぐに考えを改めた。触れる雲というのがあってもいいのかもしれない。魔法みたいと一笑するような話であっても、実際、ここには魔法が存在しているのだ。そもそもの常識が根本から違った。空をとぶなんてお伽話でしょうと言った切ったアイリスは、その日のうちに空を飛んでいた。自分が自分の常識でそんなことはないと言い切ったとして、こっちでは必ずしもそうだとは限らない。

「どうなんだろう、私には分からないや。ガルドさんたちに聞いてみるのが一番じゃないかな?」

 結論として、その質問は自分には荷が重い。他の誰かへと丸投げすることに決めた。

「……ガルが触れるって」

「嘘ぉ」

 言っておいてなんだが、やっぱり信じられない。けれどもあの人ならこんな質問に嘘をついたりしない気もする。とすれば、つまり雲によっては柔らかいのか。もふもふーってするのか。……俄然、触りたくなった。今度魔導二輪に乗る機会があったらその雲の近くに連れていってもらおう。アイリスはそう決意した。

 その前で、コハネがおもむろに両手を持ち上げる。

「魔導二輪でこうやってビューンってやってね、……」

 そうするとどうだろう、魔導二輪役のコハネの右手は雲役の左手にまっすぐと突撃していくではないか。最終的には両手はぶつかってひとまとまりになった。なんとなくだけど、雲に触ると言うよりは激突したというほうが適正かと思う。拙い手振りと説明だけれども、おもむろにガルドがどういう説明をしていたのかがわかってきた。

「コハネに質問があるんだけど」

「……なぁに?」

「ガルドさんが、雲は柔らかくて、もふもふするって言ったの?」

 コハネははっきりと首を横に振った。「だって、ふわふわひつじさんがたくさんあつまってるみたいなんだもん」

「なるほど」

 これを聞いて、自分の中でひび割れ始めていた常識のが、多少なりとも希望を宿したように感じた。簡単に言うならば——なるほど、ガルドさん説明を端折ったな。きっとあれだ、雲の中に突っ込んで、ほら触れている。そんな子供の屁理屈じみた事を言ったに違いない。——と、割り切ることができた。この際、ガルドの第一印象は無視だ。シシーだって幼子から歳相応へと雰囲気を急転換させたのだから、ガルドだって真面目な性格から面倒くさがりな性格へと一変するのかもしれない。

 んー、っとアイリスは唸った。実際のところ、ガルドは嘘を言っていない。否定するならば、柔らかくてもふもふするというところだろう。

 言うべきか言わざるべきか。

 たとえ間違って覚えてしまっていても、こういう知識は修正されるまでにそこまで時間はかからない。今か後かの違いだけだ。ならば今教えてしまってもいいだろう。子供が理解できないような難解な話ではないし、まだ早いのではとはばかるものでもない。せっかく空をとぶ機会があるのだから、自分で体験してみるのが一番だとは思うけれど、コハネはここから出られないのだ。

「ガルドさんがそういうのなら、きっと触れるのでしょうね」

「……うん、ガルは嘘つかないもん」

 そっかそっかと頷いて、ガルドの印象を再確認。やっぱり、見たとおり感じたとおりの人なのだろう。

「それで、柔らかいかどうかの方なんだけど」とアイリスは続ける。

「やっぱり分からないや。でも、たしかにそうかもしれないね」

 アイリスはそう言った。

 コハネはどうなんだろうと天井を眺めている。その先に浮かんでいるであろう白い雲に思いを馳せているのだ。

 ……理由ならあった。やっぱり子供の時は想像力豊かな方がいいと思うのだ。感情が大きく揺れ動く時、人はその内に巨大な想像を張り巡らしている。自分は早くから、いわゆる現実的な考え方というのを習わされてきたが、現実的な視点はあまねく物事を平坦に伝えてくる。起伏なんて殆ど無いから、それを読み取るだけの自分に大した感動もない。それではつまらない。すべてのことに差別なく想像をふくらませる事のできる子供のうちにできるだけたくさんのことを想像するべきだ。

 平坦ではなくでこぼこに。

 もう一つ、理由があることにはあるが、こちらはつらつらと説明する必要はないだろう。大した理由ではないのだ。……いや、でも、自分にとってはこちらも同じくらい、むしろそれ以上の理由になっている気がする。

 あえてコハネの言い方を真似すれば。

 だって、このほうが、面白そうなんだもん。


「ほかには、コハネとわーわーはしゃぐのも楽しい」

 コハネが首をきょとんと傾げてしばらく、さっきのこと? と聞いてくる。アイリスはうなずき、

「まさか仕返しされるとは思わなかった」

 後ろからコハネの頬を引っ張った。もちろん、痛くないように優しくだ。やぁ〜ともぅやぁ〜ともとれるコハネの抵抗を少しの間堪能してから、アイリスは指を離す。やろうと思えばどこまででも伸びそうなその頬を今は大きく膨らませて、コハネはアイリスの事を見上げていた。

「……ひどぃ」

「ごめんね、でも……」

 こういうことを姉妹ならやるのかなって。そう言ってアイリスは、今度は優しく労るように頬を撫でる。……そう見せかけて、赤子のようにふにふにと柔らかい感触に浸っていた。

「……アイちゃんがおねえちゃん……」

「うん? もしかしてコハネがお姉さんの方が良かった?」

 ふるふると頭を振ってから、

「あ、でも、それもいいかも」

 思いついたように言う。

「だーめ。やっぱり私がおねえちゃん」

 普段滅多に使わない。と、言うよりは今まで一回も使った事がない口調でアイリスはコハネの思いつきを切った。

 そんな場面は全く思い浮かばない。年齢的にというわけではなく、性格的にどこか間違っている気がするのだ。一応、今のコハネと自分の立場を入れ替えて想像する事は出来るけれど……

 例えばの話——コハネが自分を叱ろうものなら、最終的に、意味も思慮もない反論をぷるぷるとひたすらに聞いていそうだし。

 例えばの話——コハネが自分に悪戯しようものなら、最終的に、仕返しからやぁぁと言って逃げ回っていそうだ。

 たとえ立場を逆転させても、その立場の中でコハネとアイリスの立ち位置は逆転するばかり。やはり性格というのは人それぞれ違うものだからと人は口を揃えて言うのかもしれない。世界は広くて、探せばこういった兄弟や姉妹がたくさん居るのだろう。

 と、こんな事を考えてもみたが、結局のところ、

「私は世話を焼かれるより焼くのが好きで、悪戯されるよりするのが好きだから」

 そして自分にとって姉とはそう言うものなのだ。これに限る。

「……ずるぃ」

 それじゃぁわたしがいたずらされてばっかり。またしても膨れたコハネの頬を両手で挟み込んで潰すアイリス。ふしゅっと憚らず音が漏れた。

「ふっふっふ。悔しかったら仕返ししてみなさい」

 後から思い返すような事があったら、きっとアイリスは恥ずかしさのあまり顔から火を出してしまうだろう。

 アイリスは英雄劇の悪役さながらに口端をつり上げ、目を細めて笑っていた。普段の彼女を知るものから見てあまりに芝居がかったその笑みは、しかし、まぎれもなく彼女の素であった。

 そんな笑みが、次には頓狂に変わる。

 始まりは静かに。コハネがぼそりと呟いた「仕返し」という言葉をアイリスは聞き取った。

 それとともに繰り出された両手が湯を切り、くうを進んで、アイリスの……そう、男女を分ける外的特徴を鷲掴みにしたのだ。つまりは胸である。

 静かに揺れていた湯船が悲鳴に強く乱された。

 コハネはすぐに手を離したが、視線は両の手のひらに固定されている。まるで未だに余韻に浸っているかのように結んで拾いてを繰り返している。そして一言。

「アルマの方がおっきぃ」

「なっ、な、な」

 なにするの、とアイリスが言いかけたところで、

「だいじょうぶ、きっとこれからだから」

 コハネの無邪気な一撃が繰り出された。

 そして直撃。軽い沈黙。

「……コハネ、そういうのは余計なお世話っていうんだよ」

 重い衝撃に、感情も思考もいっぺんに吹き飛んでしまった。

「……それじゃぁ、わたしがおねぇちゃん?」

「あなたがしたのは仕返しで、余計なお世話はお世話ではありません」

 別に今まで胸の大きさで悩むなんて事はなかったのだけれど……。はてさて不意打ちからの防御不可能な追撃を経て、アイリスはしばらく思い悩む事になったのだった。

 大丈夫、母だって大きかったのだ。私だってきっと……。


 ぴちゃんと水滴の跳ねる音が聞こえた。一回、二回と数えてみる。三回目をまわった時点で無意味な事をしてるなと自分で自分に呆れた。さっきの会話から小休止とでも言うように、二人の間で会話はない。けれども、コハネがそわそわとこちらを伺っているのは容易に見て取れた。それもそうだ。結局のところ今までの会話は体よく話を脇道に逸らしていただけに過ぎないのだ。大事な部分には一切触れていない。

 アイリスはふうとため息を吐いた。それから自分の頬を両側からぴしゃんと叩く。コハネが小鳥めいて過敏に驚くが、今は気にしないことにした。

「うん、このままうじうじしてても仕方がない」

 せっかくさっきまで場が和んできていたのだ、ここでまた空気を落ち込ますのはいただけない。アイリスはなるだけ明るい口調になるように心がけながら、本当はこんな話コハネに言うべきではないんだけどと前置きした上で、説明をはじめる。伴ってまたも一昨日の出来事が思い出されるが、不思議と気分は悪くなかった。

 あの時の侍女との会話。その続きは、そう……


 ——けれども、そのお顔を他の者達には、特に民の者には絶対に見せてはなりませんよ。手厳しい事を言っているのだと理解しておりますが、皆の上に立つ貴女様はそれだけで注目されるのです、そのことを努々(ゆめゆめ)お忘れなきよう。


 分かっているわと、いつも言われてることだものねと私が笑うと、侍女は少し小じわの増えてきた目元を細めて、けれども幼少から彼女の世話を受けていた私から見れば泣いているようにしか見えない顔で笑い返した。


 ——さぁ、明日は忙しくなりますよ。明後日に備えなければいけませんからね。なんて言ったって七周忌なのですから。国をあげて行う最後の大儀式、私が腕をかけて召し物を揃えさせて頂きます。逃げようなんて考えないでくださいね。


 そんな冗談を私に言って、侍女は部屋をあとにしたのだった。

 これは四月の十九(、、、、、)の話。まだ少し肌寒い夜のこと。

 そして、次の日目が覚めてみれば、私は違う世界にいた。

 つまりは……

「今日はね」四月の二十一(、、、、、、)は………


 お母様の死んだ日なの。


「……おかあさん、死んじゃったの?」

「うん、ちょうど七年前にね」

 コハネは、変に驚いたり過剰な反応をしたりはしなかった。聞き返したのだって、会話の中の自然な流れによって口に出たといった感じだ。ありがたいと思いながらも微妙な違和感。

「コハネって、今何歳?」

「? ……じゅうよん」

「十四かぁ」

 これくらいの歳なら死というものがいまいち判別つかなくてもおかしくはないのか。二年前の私とはずいぶんと受け取り方に差がある様に見えるが、私の場合は九の時に母が死んでいるために、死というものに敏感になってしまっただけなのかもしれない。今の会話が逆の立場でされていたら、私はきっと相手に同情して態度がよそよそしくなっていただろう。けれども、コハネにはそれがなかった。

 コハネがどうしてと聞いてくる。なぜいきなり歳を聞いたのかということだろう。アイリスは何でもないと答えた。

「お母さんが死んだのは、やっぱり六年たった今でも悲しいの。はじめの方は思いつめすぎて、部屋から一歩も出たくない、誰の顔も見たくない、なんてことになっていたんだけど、いつまでも悲しんでたら疲れちゃうしね。国としても結構忙しい日ばかりだったから、最近ではもう、日常母の死を思い出すようなことはなかった。でも、今日だけは特別」

 私が悲しみを表に出しても大丈夫な、唯一の日。

 けど、さっき嘘をついた理由はもうひとつある。

「朝食の時、ブックさんに今日の日付を聞いて、母の命日だって気づいたの。それと一緒にね、あぁ、今はお父様もいないんだなって思っちゃって……そしたら余計悲しくなって」

 他のどんな思いよりも、そのことがさっきまでの私を支配していた。

「不安だったの。今だけじゃなくてこれから先も、もう一生、会えないんじゃないかって。そんな気持ちばっかりだったから、心の奥で嘘をついちゃったのね。さっきも言ったけど、コハネといるのは楽しいのよ。元の世界じゃこれだけ素直に振る舞えないもの」

 一日の始まりに、化粧で軽く顔を整えて、心にも上辺を繕う。日中はそれらが剥がれないように体裁を取り繕うことに終始する。解放されるのは、自分の部屋にいる時くらいだ。

 私の立場から見れば宿命のようなものだと気にも留めなかった。必要なことと決めて誰一人として本心をさらけ出したことはなかった。父にさえ。

 母が死んでからの父は、目に見えて治政に注力していた。それまでが不抜けていたわけではない。誰がどう見ても分かるほどに、自分の体を顧みない努力を、政治に注ぎ始めたのだ。私が一時部屋に引きこもってしまったのも一因だろう。ただただ追いつめられて、父にはもうそれしかなかったのだ、きっと。コケた頬に増えたシワ。毛髪もすぐに白髪だらけになった。それなのに、私に対してはそれだけの苦労を、隠せるはずもないのに、表に出そうとしない。どころか、私の身を案じては余計に心労を募らせる。そこまでされて、父の前で弱音を吐く事など私に出来るわけがなかった。

 だからだろうか。

「歯に衣着せぬっていうのは、すごく心地がいいのね」

「……はにきぬきせぬ?」

「思ったことをそのまま言うことよ」

 それは、すごく楽だ。驚くくらいに。

「私、コハネやシシーたちに逢えてよかった」

 遺跡で目を覚ました時、シシーやガルドがいなかったらと思うとゾッとする。アルマやコハネがいなかったら、私はこの世界の何もかもを呪っていたに違いない。

「……わたしもアイお姉ちゃんに会えてうれしい」

 ねぇねぇ、そう言いながらコハネはアイリスの膝元を離れ、向き直った。

「なんとなくだけど、アイお姉ちゃんはお父さんに会えるよ」

 それを聞いて、自然と顔がほころぶ。根拠があるわけではないのに、なんでだろう、コハネがそういったのなら本当に実現してしまうような気がした。

「ありがと」

 どれくらいお湯に使っていたのだろうか、向き直ったコハネの顔は真っ赤だ。きっと私も。

「そろそろ出ようか」

 言って、立ち上がる。コハネが後ろをついてきていることを確認して、脱衣場への扉を開けた。流れこんできた冷気は、思いの外心地よかった。

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