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母がいる。椿と菖蒲に囲まれて、ウッドチェアに凭れている。
これから咲く紫の花を想って、深紅に白覆輪の花弁が見下ろす憩いの場、風は母と私を穏やかに撫でる。
椿の花が落ちれば、菖蒲の花が色を満たし、それが終わると——白百合が余韻を白く調和する。
それが、すごく嬉しい。菖蒲が枯れればそれまでだった春の庭が、これからは更に続いていく。
幼い時の記憶。
私は母のお腹に耳を当てている。私が顔をうずめたせいで追い出された母の手は私の頭に。
私の髪色は父譲りの銀色だったけど、母と同じように腰あたりまで伸ばしておくのが私の中の当たり前だった。その髪を母は綺麗ねと梳いてくれるから。それがうれしくて、意味もなく抱きついた腕に力を込めたりもしていた。
けれどそのときは、ひたすら耳を澄ましていたんだ。はじめに聞くのは私なのだと頑なに。
少し困り顔で、母が梳いていた手を止めて、そのまま頭を撫でてくれるのもいつもどおり。
そして最後に、普段から微笑んでいるような目元を本当にほころばせて、母は言った。
もう少しだけ待っててね、お姉ちゃん。
——いっぺんとも疑わない、日常のはずだった。
◇
きっとそんな夢を見たからだ。アイリスがここに居るはずのない顔を見つけたのは。
「目を覚ましましたよ。ガルド様」
声色の優しさ。懐かしい音色。——もうずっと聞くことなどないと思っていたのに。
動揺する心とは裏腹に、アイリスは動かなかった。動けなかった。表面的な停止の裏で鼓動が早鐘を打つのを感じている。
ガルドとの言葉の遣り取りを挟んで、アイリスと女性は初めて見つめ合う。
「なんで……」
こんなところにいるのと聞く前に、思考は現状を強く否定していた。
実は起きたつもりになっているだけで、ここはまだ夢続きなのではなかろうか。それとも、幻を見せる魔法にでもかかってしまったのではないだろうか。
……はたまたここは天国で、私は奈落の底に叩き付けられて死んでしまったのではなかろうか。
いままで独走していた心に体が追いついてしまった。心の震えがそのまま体の震えになる。自分の中を満たしている恐怖がそうさせていた。
迫りくる影が、満たされた血が、底の見えない暗がりが、鮮明に思い出される。それらが過去から、明確な悪意を持ってアイリスを切り刻もうとしていた。少しはものを考えれるようになった自分は無防備にそれを受け入れるしかない。
「大丈夫。影などここにはいませんよ」
背筋を這い回る冷たさに耐え忍んでいると、ふと視界が暗くなって、背中がほのかに暖かくなる。
暖かさは上下して、アイリスは自分の背中を擦ってくれている手のひらを遅ればせながらに知覚した。
周りをよく見てという女性の言葉に従順に、アイリスはゆっくりと辺りを見渡す。
萌木の新緑があった。苔むした木肌は大きく、立ち並ぶ木々は高く。最後には蒼穹の青が広がった。
赤と黒の残滓が自分の中から解け出し霧散しても、一切侵されない自然の偉容だった。
「落ち着きましたか?」
「……はい」
目頭が熱くなって、耐えようと俯いて、けれど涙は流れ出てきた。
安心したというのもあるけれど、一番は、そのせいでまた目の前の女性に向き直ったからだろう。
見れば見るほどそっくりだった。
と、いままで背中を撫でてくれていた手が離れた。寂寥感を感じたのは一瞬で、その手はうつむいたアイリスの頭にのっている。
その仕草まであまりに似ていたから、アイリスは自分を抱いていた二つの手を相手にまわして、ぎゅっと力を込めた。
いるはずない。さらに腕が強張った。
もう会えるはずがない。腕は逃がすまいと強くからまった。
内と外でちぐはぐに。心と体があべこべに。心の片隅で否定の言葉がわき上がり、中空で定まらない。
「こわかったでしょう、よく頑張りました」
顔を埋めるようにして抱きしめたせいで、真っ暗になった世界のうちに母の声が響いてくる。
「……お母様」
ここが夢だという考えはもう捨てた。伝わる体温が、夢などではないのだと伝えていたから。これが幻だとしても、見続けられるならそれでいい。死後の世界だとしたら、神様はなんて粋な計らいをしてくれたのだろう。
「あり得ない」
ガルドの声が聞こえた。
鈍重な陶器を床に落としてしまった時の、あのすくむ体を更に裂いてくるような余韻を残して、アイリスはありもしない音を聞いた気がした。
「ガルド様」
「……済まない」
余韻はうなって、耳鳴りが言葉を担って、アイリスは現実に引き戻される。
宙ぶらりんの否定が天地をひっくり返すように、心は足場を失い落ちてくよう。
わかっていたことだった。物心つく前からおぼろげに理解していた、簡単な事実。だからこそ人が悲しむもの。
急にアイリスは怖くなった。伝わってくる体温がまるで悪魔の甘言のように感じられて、勢いをつけて離れると侘しそうな表情が目に入る。しばらく見ない間に老けてしまった母の面影。肌も少し荒れている。
母の顔がその表情をしているというだけで、アイリスは離れたことを後悔した。たとえそれが母の顔を持つ他人なのだと恐怖しても、そう感じてしまうほどアイリスは母を愛していた。
「アイリスさん」
アイリスは肩を跳ね上げる。
子供に言い聞かせるように、教え子にものを教えるように女性は言う。
「恥ずかしながらワタクシ、仕事にうつつを抜かし過ぎまして、今の今まで身を固めたことはないのですよ」
ワタクシは貴方の母ではありませんよ。
万人に聞こえがいい、丁寧な言葉遣い。それはさながら、目の前の女性が母とそっくりの赤の他人だという証明だった。
盲目的な思いが潰えていく。潰れて砕けて涙に転じてアイリスの頬が冷たく濡れる。顔を見られたくなくて、アイリスは俯いた。
小鳥のさえずり。木々のざわめき。猛禽の類の甲高い声が頭上を通り過ぎていく。
「ワタクシは貴女の母を知りません」
ふわりとアイリスは引き寄せられた。
「けれど、どれだけ貴女に愛され、そして貴女を愛していたのか。今の貴女を見ていれば痛いほどわかるというものです」
静かに頭を撫でる手の、母のような優しさ。アイリスは女性の顔を見つめて、無言が二人の間を暫くの間漂った。
「お母様のお名前は?」
「……カメリア。カメリア・フランロッド」
「カメリア。|ワタシ(、、、)のそっくりさんはとても素敵な名前を持っているのね。ワタシの一番好きな花の名だわ」
母も、自分と同じ名を持つこの花を好いていた。
こんなところまで似ているのかと、アイリスは閉口せずにはいられない。
「ワタシは、母親が子にどのような顔を向けるものなのか分かりません。けれど、もしもあなたがワタシの姿や言葉に母の面影を感じて、母を重ねて心が休まるのならこれほど嬉しい事はないのです」
ワタシは母に憧れているのですと女性は言った。それからちらりとガルドの方に目をやっていたが、ガルドはといえばその直前にすっと視線を何処かに飛ばしている。
「ワタシが本当の母になることはあまりにも難しいことですが、それでも貴女が良いと言うならば、ワタシのことを母と呼んでくれても構わないのですよ」
アイリスの中で、目の前の女性を母と呼ぶことはもう無理だった。心の奥底にしまいこんでいた大切な思い出を鋭く砕いて相手を傷つける行為にしか感じられなくなっていた。
けれども、だからといってすぐさま女性を他人として割り切れるほどアイリスの母に対する愛は浅くなく、思考を無理やり納得させるための短くない時間をアイリスは女性の胸元を濡らすことで費やした。
◇
母似の、けれど白衣をまとった研究者然とした女性はアルマ・カンパネルダといった。
ヴィネルマ図書館専属司書、研究開発部門長。肩書きから何かを想像することは難く、その名も姓も記憶にない。
ガルド曰く、近年世に出た人工魔術のほとんどは彼女の肩に乗っているという。人工魔術の母であり、ヴィネルマ図書館での魔術分野の研究統括でもある。なんとも壮大な話だ。
アルマの自己紹介は彼女にも理解できるように、簡潔で、短かった。彼女が抱きついていた時間の方が長かったくらいだ。
手短な名乗りの後は、アイリスが離れるまでの短くはない時間を、ただ静かに待っていてくれた。
「みっともないところを見せました」
改めてアイリスは言った。アルマが微笑む。
今更ながらに、すごく恥ずかしい。いつもの自分なら絶対にしないことだった。気の惑いもここまでくれば、むしろ感嘆すら覚えてしまう。おかげでアイリスは、不安を押さえて周りを見渡すことができるくらいには、心が軽くなっていた。
改めて、ここは森の中だった。腕をまわしても樹幹の半分も抱えられないほどの巨木が立ち並ぶ中にアイリスは立っていた。
自分が一回り以上小さくなった印象を視界は伝える。とともに、より小さな体の鳥たちの視点はもっと奇怪な世界を捉えているだろうとアイリスは空想した。
木々を幾つか交わした先にある扉のなんと大きなことか。扉が大きければ外壁も大きい。外壁が巨大ならば、建物自体も巨大だった。建物と森が地図上で勢力争いしている中、現地で境界に取り残された気分になる。
外壁のほとんどを蔦で覆われ、唯一無事な扉の周りには蔓の残骸が散っていた。中に入るために処理されたのだろう。外壁の蔦の覆い具合からかなりの時間放置されていたのだろうことが分かったが、そのくせ、隙間から見える外壁や扉に風化も汚れも見られないのだ。おかしなことだった。むしろ建てられたばかりに見える。
これがつまり、遺跡なのだろう。
朽ちていないのは、そういう”魔法”がかけられているからだ。自分はあそこの中に居た。きっと、今も扉の向こう側にはあまたの『影』が徘徊しているんだろう。
「あんまり思い出すなよ」
太く力強い声。ガルドは巨木の影に立っていた。話をするには遠い距離だが、自分に気を使っているのだろうか。それ以上近づいてくることはない。
「大丈夫です、落ち着きましたから」
言って、アイリスはガルドへと足を向けた。ガルドの横でうつぶせに倒れているシシーの容態が知りたかった。さっきから身じろぎしていないのだ。
それはただ眠っているのだと、少し近づくだけで分かった。木漏れ日の下で髪が規則的にたゆたっている。所々無造作に飛び跳ねているそれは泉の端で風に揺れる若草のようだ。服装も緑を基調としたものだから、ひどく自然にとけ込んでいる。
……だからこそ、彼の背を覆っている白色は不自然に周りから浮いていた。
腰を落としてシシーの顔を覗き込む。包帯の巻かれた背中の痛々しさとは対称的に寝顔は至っておだやかだった。
「けがの方は……」
「心配ない。傷は処置し終わって、回復待ちだ。生命片の使い過ぎで眠ってはいるが、すぐに起きるだろ」
「そうですか」
確かに包帯の巻かれた背中からは、血が滲みだす様子は見られない。シシーの呼吸に合わせて緩やかに上下している。けれど、大なり小なりは関係なく、この傷は自分のせいでついたのだ。アイリスは真白くなった背中から目を離して立ち上がった。ガルドへと向き直る。あまりの身長差に、姿勢は自然見上げる形だ。
「いきなり走り出したこと、謝罪します。先ほどは助けていただきありがとうございました」
アイリスは頭を下げた。
「あら」
頓狂な声。いつの間にか背後に移動していたアルマからだった。……母もそうだったのだが、どんな心象にも微笑みを足して顔に表すその技法はどうやって培ったのだろう。
予期せずに口から漏れてしまったのか、アルマはアイリスの視線に居心地悪そうにしていた。——側から見ればただ微笑んでいるだけの表情から、そこに母の面影を見ているアイリスはその内の機微をしっかりと判別している。そしてどうやらガルドもこちら側らしい。
「申し訳ありません。高貴の出と伺っていたもので」
「命の恩人に礼を失する傲慢に浸るなど到底許せませんし、ありもしない身分にすがりつくようなこともしません」
「だからですよ。きっと貴方の周りには、良き人格者たちが集まっていたのでしょう。聡明で、礼儀もわきまえている。報告とは少し違いますね、ガルド様」
むぅと腕を組んで、ガルドは黙り込んでいる。何となくだが、目の前のガルドがどんな報告をしたのか分かる気がする。刺々しくて、痛々しかったのではないだろうか。
「あのときは動転していたのです。恥ずかしいことですが」
「恥ずかしいことではなく、当たり前のことでしょう、それは。貴方にしてみたらいきなり世界そのものが変わったのですから」
「……ここでは、ああいうことは日常茶飯事なのでしょうか」
「いいえ、私の知る歴史上貴方が初めてですよ。時を超える魔術も人が時を超えたことも両方ともです」
「確かにそれもあるのですが、私……」
あれだけの血を見たことなどなかったのです。アイリスはそう言おうとして、気づいた。手のひらにも顔にも、血などついていない。軽く肌が傷ついてはいるけれど、それは地面に手をついたときにでも出来たのだろう。それ以外はいつもの手だった。
「血が付いてない」
考えてみたら、シシーの髪も綺麗になっていた。なんと言うか、ひどく現実感が薄れている。実は夢だったのではなかったのかと、そう思ってしまう。
「ワタクシが洗わせていただきました。たしかに、手が染まるほどの血液など普段ならば見かける機会すらないでしょう。ワタクシも貴方達が血ぬれで出てきたときは動揺しましたもの」
実際そんな訳がないのだと、アルマの言葉が教えてくれた。……けど、何だろう、この違和感。
ふと、若草の山が身じろぎした。もぞもぞ動いて、一度大きく跳ねてから、すぐに動かなくなってしまった。
「いたい〜」
開口一番、シシーは痛みを訴えてくる。弱々しい、というよりは心中を親に訴える子供のような不器用さが口調に現れている。出会った直後のシシーだった。
「しばらくはうつぶせで寝ることになるな」
うぇ〜と心底嫌そうに息を吐くシシーだったが、アイリスが一歩近づく音に反応して視線だけをこっちへと向けてくる。その視線に合わせるために、彼女は膝を折った。
「怪我はしてない?」
謝ろうとしたアイリスに先駆けてシシーは言った。その言葉の柔らかなこと。純粋に心配してくれているのだと伝わってくる。自分のせいでそんな怪我を負ったというのに。
「あなたのおかげで。ありがとう、あのとき私を助けてくれて。怪我をしてまで私を守ってくれて」
「気にしない気にしな〜い」
みんな生きてるんだし。極論じみた理由が返ってきた。でも、おかげで多少救われた気持ちになる。
「あのときね〜」一拍おいての軽い口調。流れる髪が顔にかかっていて、表情は伺えない。「一回アイリスのこと見失ったんだよ。周りは暗かったし、倒れちゃってたからね」
それでもアイリスの手を取れた。楽しそうに、うれしそうに、シシーは言う。
「たすけてって言ったよね?」
……ちゃんと、聞こえてたんだ。
「うん。ありがとう」
もう一度お礼を言う。アイリスの声は、震えていた。




