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原書の罪  作者: 玉之浦椿
起ノ章
2/19

/1-2

       ◇



「浮いてる」

 信じられない光景に、アイリスの殺意は霧散していく。

 自分自身が——どころの話ではなかった。自分が立っているこの大地がそのまま空中で留まっていた。

 正確に言うならば、あたり縦横に蛇行し枝分かれしながら広がっていく薄っぺらい大地は、自分が出てきた部屋の麓との細い接点に支えられている。けれどそれは、支点とするにはあまりに儚く、当たり前に重力がかかれば一瞬で崩壊するような小さなものだ。浮いているのと変わらない。

 重力を忘却した大地だった。

「これも魔術だよ〜」

 そう言うシシーの歩きには躊躇というものが少しもない。曇りなく大地が支えてくれると確信している風体で先へとずんずん進んでいく。ガルドもだ。

 怖くないのだろうか。足場があろうと支えがなければ、足場もろとも落ちていく。それはつまり中空だ。

 何かの拍子に大地が重力を思い出せば、目の前の矛盾は足場とともに崩れ落ちてしまうだろう。ただただ、底の見えない暗がりに。

 視線を上げれば円状に青い空が見える。下げれば円状に闇が広がる。立てられた筒の途中にうすっぺらく大地が浮いている。そんな構造だった。青々と繁茂している雑草も、ちらほら見える木々も、道をふさぐようにある巨大な岩も、馬鹿みたいに浮いている。落ちたらきっと、助からないというのに。

「嫌だ、怖い」

 踏み出す一歩が、何かの拍子になりそうで、アイリスは奈落に見入っていた。

「何が怖いの?」

 無邪気にシシーが聞いてくる。いつの間に近づいてきたのだろうか。目の前いっぱいに疑問の表情が広がっていた。

 感じる違和感。

「あなたには関係ない」

 つっけんどんな返事。違和感の原因が異様に怖くて出た言葉だった。奈落を見たときの、身のすくむような怖さではない。一番近い感情は嫌悪感、だろうか。

 今までの仕草や外見から受ける印象には多分に幼さが含まれていて、けれど今、背丈やつぶさに見た顔の造形からはむしろ年は同じくらいだろうと推察できた。自分は生まれてから十六年たっている。まだ子供だという自覚はあるけれど、これほどの時間が経過していながら、人はここまで幼いままでいられるのだろうか。十数の年の子に幼子の精神が介在しているようで、薄気味悪さすら感じてしまった。

 シシーは、いっそ訝しむように軽く首を捻って、まぁいいやとアイリスの手を引っ張った。唐突で、抵抗できずに一歩を踏み出してしまう。

 大地は軽々とアイリスの体重を支えた。二歩進んでも三歩進んでも地面は硬くて、しなやかだった。踏みしめた緑が鼻につく。なんとなくだけれど、城の後ろ一面に広がっていた草原を思い出した。小さい頃、城を抜け出して草原の中に身を潜めて遊んでいたことがあった。そのときの匂いだ。息の詰まる部屋の中みたいに埃っぽくなくて、すごくうれしくなったのを覚えている。そんなことを考えていたら、体からぎこちなさが抜けた。怖いことに変わりはないのだけれども、足は素直に動いてくれる。

 アイリスはシシーの手を振り払った。きょとんとしたシシーの脇を擦り抜けて一人で歩き出す。手のひらが自分の体温だけを灯す。すごくほっとする。

 ガルドは足を止めていた。巨大な岩が道をふさいで、それ以上進めそうになかった。

「行き止まりね、どうするの?」

「進むだけだ」

 ——質問が悪かったのだろうか。

 アイリスは手段を訪ねたはずが、返ってきたのは分かりきった行動方針だった。

「そういうことではありません」

 どうやって。そう続くところを遮って、ガルドが腕を上げた。アイリスの肩越しに後ろを指し示している。そのさきに、ぼうと宙に浮かぶ赤色の光源に手をのばして、シシーが居る。

 ろうそくがそこにあるわけでもなく、小さな太陽が浮かんでいるわけでもない——それはそれで天文学を馬鹿にしているとしか思えない非常識な光景だ——けれど確かに光だけが浮いているのだった。

 そのまま触れるのかと思いきや、手は光源の少し手前で止まった。別に躊躇した訳ではないのだと、シシーの顔を見れば分かる。

「周りをよ〜く見ててね。面白いから」

 幼子が自慢でもするかのように、その顔はひどく楽しげだった。再び動き出した手のひらが、光源に重なる。そのまま、


 視覚、触覚、聴覚。五感のうち、三つの感覚が、暗転した。


 暗黒が空を覆う。アイリスは始め断末魔の悲鳴を聞いたのかと錯覚した。頭の中を劈いた音の残滓は、次第に金属特有のひどく甲高いものだったのだと思い至った。耳が痛い。

 アイリスはこの音に近しいものを知っていた。狭苦しい部屋の中に流れ着いたそれはあまりに些細なもので、耳を澄まさなければいとも容易く意識の網を擦り抜けてしまうものだったけれど、確かに似ていた。

 剣を打ち付けあう音だ。刃をつぶした剣で兵士たちが訓練していたときの音だ。……場違いな思考だけが正常に働く。

「シシー!」

「分かってる!」

 頭上から放たれたガルドの声の大きさにほぐれてきた体がまたも強張った。何事かとぎこちなく上を確認しようとしたアイリスは、次には中空にいた。おかしなことだ。自分は一切動いていないのに、視界だけが勝手に移り変わっていのを薄ぼんやりと知覚する。

 いつもより少し低いところから俯瞰する景色は、真っ暗だった。さっきまでの景色がうそのよう。若緑色の地面は掻き消えて、露出した岩肌の所々に黒い何かが群青している。植物、なのかも知れない。見たことなどないし、こんな真っ黒な植物があっていいとも思わない。生物特有の瑞瑞みずみずしさはなく、死を魂の抜け殻と等価したような引きずりこむことしか無いこの黒い物体が、生きているとは思えなかった。

 お腹の辺りに規則的に掛かる圧迫感に、アイリスは自分がガルドに抱えられていることに気がついた。

 この状況のどこにシシーは面白さを感じろというのか。

 アイリスはどうにか周りを見ようと重い頭を持ち上げる。

 瞬間、顔に何かが飛び散った。手で撫でてみるが特に何かついているわけでもない。けれど、肌に残る気持ち悪さは一向に消えようとしない。

「この遺跡、まだ何かあるのか」

 どうにも、面白さを感じていないのはガルドも同じらしかった。

 視界の端で、真っ暗だった空に白く線が入る。切り傷を無理やり裂いていくように線が幅を広げていく。

 なぜか月が在った。星が瞬いていた。それらが発する青白い光に照らされて、多数の腕が迫ってきていた。人のようで、けれどひどく不恰好な黒い塊がアイリスに掴みかかろうとしている。引きちぎってしまおう、握りつぶしてしまおう。そんな狂気じみた空気が全身をなめている気がした。

 揺ら揺らと風に身を任せる木の影みたいに形の定まらない体をしているけれど、唯一つ、突き出された腕だけは硬く変質しているようだった。金属みたいに月の光を光沢として跳ね返している。厚みを感じられない『影』の、そこだけが立体的に見えて、目が痛くなってくる。

 アイリスはひたすら前を見ていた。首が痛くなるほど上を見上げて、やっと前が見えた。数えるのも億劫な『影』の集団が迫ってきている。道が二つに分岐する手前、少しだけ道幅が広がっている場所にわらわらと集まっている。

「先導するよ」

 一瞬誰だかわからなかった。アイリスの隣を通り抜けた人影が緑銀の髪をなびかせているのを見て、やっとそれがシシーなのだと気が付いた。声色がまるで別人だ。子供特有の浮ついた喋り方がなりを潜めて、年相応かむしろ達観したものへと変わっていた。……なんだろう、この変わりようは。

 暗闇の中で、シシーは一際目立っていた。月明かりを反射する髪のせいでもあるけれど、一番はシシーを中心に広がる不可思議な現象のせいだろう。

 シシーの背に背負われた大きな本の表紙に、銀とも青ともつかない輝きで、図形や記号が浮かび上がっている。それを中心としてさらにおかしなことがアイリスの周りで起きていた。

 見えない水玉に石でも投げ込んだよう。波紋が光となって球体の表面を這っては、その裏側で一点に収束して消えていく。その光に守られて、自分達はいた。波紋の通った後が余韻を残して明暗し、そこに薄い膜が形作られる。燃えつきかけたろうそくみたいに頼りなくて、吹くまでもなく消えてしまいそうな薄明かり。トクントクンと鼓動して——。

 全てを拒む。留め、防ぎ、弾く。

 『影』たちが厚みも分からないほどの薄膜に押しのけられていく様は、はたはた理解できるものではなかった。突き出された黒い腕は中にいる三人に届くどころか近づくことすら叶わない。光に触れた瞬間、甲高い金属音を響かして止まる。

 道の両側、押し込まれ行き場を失った『影』が足場をも失い落ちていく。その姿は闇に落ちていくというよりも、陰に溶けていくようだった。

 無理やりこじ開けた道を駆ける。たびたび現れる分かれ道を迷わず選び、進んでいく。シシーの先導は的確で、袋小路に迷い込むことも『影』がアイリスを捉えることも、なかった。

「ガル」——そんな言葉が聞こえるまでは。

「干渉が激しすぎる。多分保たない」

 シシーの声には覇気がない。何が、とは思わなかった。そんなものは分かりきっていた。

 出口はまだ遠い。

 ガルドは返事をしなかった。かわりに、握っていた小ぶりの剣を体にかかる鞘の一つへとしまいこむ。わき腹にかかる圧力が大きくなった。今まで見えていたシシーの背中の代わりに横顔が視界に映りこみ、それも脇に消えていく。二人の立ち位置が完全に逆転してから、ガルドが口を開いた。

「たのむ」

 一言。三人を守っていた光が消失した。無理やりに固定されていた敵との距離が、縮まる。反応の遅れたアイリスが恐怖を感じる前に……


 ——世界が染まった。暗闇に敗退して、色彩が落ちてもなお、世界はひどく赤かった。


 生暖かいものが頬を撫でる。拭った手のひらは赤かった。

「…………」

 瞳だけが下を向く。手のひらと同じ色が広がっていた。

「…………ゃ」

 地面に落ちてしまえば、どろどろと鈍く流れるだけなのに、噴き出した直後はとても身軽そうなのだ。

 ガルドが剣をふるたびに、赤は広がる。

 代わりに、アイリスの心は白かった。

「ぃやああぁああぁぁぁ…………!」

 アイリスはわき腹辺りにある支えを無理やりにこじ開けた。受身も取らずに地面へ叩きつけられる。ガルドの慌てた声が聞こえる。それを無視して走り出した。

 背後の喧騒がよりいちだんと激しくなっていく。制止の声も、鈍い打撃音も、誰かの苦悶の声すらもアイリスは無視した。そも、気付いていなかったのだ。

 走って走って。少しでも遠くへ。一番安全な場所を離れて、死に急ぐように。

 その目には出口の扉しか映っていない。よろけて地面に転がって、不格好にまた走りだす。

 唐突に、アイリスは足を止めることになった。右頬に何か硬いものが押し付けられ、首を痛いほどに締め付けられる。直後に、

 体が、浮く。

 馬鹿みたいに浮いて、重力を思い出したアイリスは強く下に引かれる。ただただ、底の見えない暗がりに。

 その暗がりを震える瞳、震える体で体感した時、アイリスは悟った。自分はきっと、助からない。


———大丈夫。きっと同じ場所へいけるさ。


 走馬灯は流れなかった。代わりに一言だけ、父の声が空っぽになった頭に響いた。

 それは忘れようもない言葉。潰れそうな私に私よりも潰れそうな父が言った言葉。

 この後父に褒められたのだ。手のかからない出来た娘だと。

 でもまた叱られもしたのだ。心に何でも秘めて、一人で背負い込むなと。


 忘れていた。一人ではどうしようも無くなった時、言うべき言葉があるのだと父に教わったというのに。

「……たすけて」

 喉は引きつり、声は掠れる。——これじゃあ誰の耳にも入らない。

 ゆっくりと昇っていく世界の中で、アイリスだけが止まっていた。伸ばした手のひらは空に浩々と輝く月を隠していた。できるはずがないと分かっていながら、握り締める。月の輪郭が手からこぼれだして、空に変わらず浮かんでいる。それでもと、閉じていく手のひらに、何かが滑り込んだ。

 止まった世界の中で、アイリスだけが左右にふれている。その手をとったのは、父のたくましい腕ではなく、シシーの華奢な腕だった。

「待ってて。すぐに助けるから」

 浮遊する大地の縁から身を乗り出したシシーが言う。暗くて表情がよく分からないけど、声は硬く、怖がっているようだった。

 ふと、掴まれた腕に赤いものがたれてきた。暖かくて恐ろしいそれは、シシーの血液だった。よく見れば、さっきからアイリスの頬を撫でている緑銀の髪も根元から少しずつ赤に侵食されている。

 ——あぁ、わかった。さっき私の首を痛いぐらいに締め付けたのはこの腕で、ほほに感じたものはきっと彼の胸だ。

 ——私は、彼に救われた。

 赤色を辿って、シシーの顔をまた見上げて、そして見てしまった。

 シシーの後ろ、夜空を背景に、『影』が腕を振り上げている。



「危ない!」

 とっさに叫んだところで、何かが変わることもない。『影』の腕が止まる。そのまま振り下ろされてしまえば、シシーは貫かれて、アイリスは奈落に沈んでいく。

 それなのに、シシーは敵の姿を見もしない、アイリスだけを睨んでいる。ただ少しだけ、血でぬるぬると滑り始めたお互いの接面に力が加えられた。

 『影』が腕を振り下ろすのと、アイリスが目を閉じるのはほぼ同時だった。次にくるであろう浮遊感に耐えるために、歯を食いしばる。

「大丈夫」

 シシーの声が暗闇の中に響いた。薄目を開ければ、そこにシシーの顔がある。

 なんでと言いかけて、口をつぐんだ。人影は今もシシーの後ろにいる。けれどそれは厚みのない『影』なんかではなく……

 およそ人のものとは思えないほどゴツゴツとした、けれど、暖かな人間の手のひらがアリスの手首を掴む。軽々と彼女は舞った。引き寄せられて、またも地面を俯瞰する姿で固定される。

 さっきまで肩の上しか見えなかったシシーの全身が視界に入り込んだ。

 息が止まった。

 鋭く尖った黒い破片がその背にいくつも突き刺さっている。緑色を基調とした服装だったはずなのに、今は真っ赤なまだらの方が面積の多くを占めていた。

 ——私のせいで。私がいきなり走り出したから。

「責めるな。傷自体はそれほどじゃない」

 不意に、ぽんと頭をたたかれた。自責の念が動きを止める。

 ガルドは、アイリスの頭を叩いたその手で、シシーを持ち上げた。ぐったりとしていたけれど、意識はあるようだった。う〜と呻くシシーに、アイリスは気が気でない。

「疲れた。眠たい……」

 傷が痛くて声が出ないとか、血を失いすぎて呂律が回っていないとか、そう言うことは何もなく。シシーは本当に疲れているだけのような口ぶりだった。

 その事に少しだけ安心する。安心が呼び水になり、ふっと、緊張の糸が解けてしまった。

 急激に襲いかかってくる眠気に抗うことも出来ずにアイリスの意識は霞を帯びていった。

「もう少しだけ起きててくれよ、シシー」

「分かってるよ。ねぇ、ガル」

「何だ?」

「ナイスフォロー」

「……あぁ」

 完全に意識が途切れる寸前、一瞬だけ父が微笑んだように感じた。

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