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◇
——わたしのせいだ。
「私のせいだ!」
私が外に出たから、アロンドに頷いたから、忠告を聞かなかったから、コハネから目を離したから。
いいや、知らない。理由なんて知らない。でも、私が悪いんだ。なんとなくだけど、そうなんだ。
「私のせいだ……」
「いいや違う、お前はアイリスであってコハネではない。引きづられるな、その思いはコハネ以外が抱いてはいけないものだ」
なんでこんなことになったんだろう。原因は一つかもしれないしたくさんかもしれない。もしかしたらそんなものは根っから存在なんかしてなくて、悪い人は悪いままにもとから存在しているのだろうか。
存在自体が罪。私もきっと、そんな使い古されたカテゴリに立っている。だって――
原因なんてわからなくても、私が悪いのはわかりきっている。
両頬に奔った衝撃は、鋭い痛みで感覚を揺さぶった。それは頭のなかで複雑に絡まり合っていた二本の糸を根底から吹き飛ばす暴風で、記憶の聖域は一時的に地平を望むだけの薄っぺらい板になった。
「俺は誰だ」
「……ガルド」
「そうだ。お前は誰だ」
「アイリス。アイリス・フランロッド・イリール」
「そうだ。お前はコハネか」
「……いいえ」
人間の持つ恒常性。外部から入り込んでくる異物に対する反応は排除か隔離か。
学習の過程を経ずに埋め込まれた経験に対してアイリスの体は後者を選択した。
夢から覚める直前、それまで疑問にも思わなかった夢の世界に不意に現実の思考を持ち込んでしまった時のように、コハネの経験は夢での記憶として頭のなかに刻まれる。
当事者から俯瞰する傍観者に。コハネの経験が悪夢に成り代わる。
それは強い引け目になってアイリスを苛んだ。目覚めて直面する逃げ場のない苦しみにコハネが震えるのを、逃げ出した先でゆうゆうと眺める自分が思い浮かんでアイリスは心がはちきれそうになる。
「それでいい。自分の思考を取り戻してから考えた事柄にもしも根拠の無い確信があったとしたら、それは真っ先に捨てろ。無思考の産物は破滅しかもたらさない」
「……そうよね。人は考えなくてはいけない。主張には根拠を、現象には理由を、行動には経験や知性を求めなくてはいけない。そうでなければ空虚で意味のないものになってしまう。……そうなのよね」
人間は理由と過程ありきの生き物だとアイリスは思っている。
勘の鋭い人が過程を一足飛びにして正しい結論を導いているようにも見えることもあるが、あれは回転の早い頭が豊富な知識基盤や経験則を駆使して最適解を瞬時に導いているだけ。勘を行動の根拠に据えるのは馬鹿げている。
でもコハネは違った。彼女の行動規範はあまりに歪だった。
『なんとなく』でコハネは動く。あまりに複雑な原因や理由で、常人ならば正解とは考えられない行動であっても、そう思ってしまったならばコハネはその思いを第一に他の悪条件をないものとして扱う。
そして、それは多分真実だ。コハネが『なんとなく』に理由を求めないのは、理由がなくても間違った事がないからだ。そうでもなければあそこまで『なんとなく』に自分の身を任すことは出来ない。
「これが『天啓の折』の力なの。ガルド」
ガルドは押し黙っている。
夢も見れないほど深く眠り込んだコハネをアイリスは伺い見た。片羽を失った小鳥の中に、アイリスは竜を見るようだった。
アイリスもまた、アロンドと同じように誤解していた。だってそうだろう。誰が思い至ると言うのだ。宗教家や学者ならば発狂しかねない、神の代弁とも言うべき偉力に。
魔術書どころではない。世界の秘奥を過程なく、際限なく暴きかねない暴力にコハネが浸されていることを、一体誰が知れるとうのだ。
これは同時にコハネにはどこまでも逃げ道がないことを物語っている。
アロンドがあれだけの惨劇に見舞われたのは自分のせい。コハネの記憶が途切れる寸前、コハネが『なんとなく』思っていたのはそれだった。だからこれは紛れも無い真実。
過程を知らないコハネは、過程を無視、曲解することで真実をぼかすことが出来ない。真実が彼女に非常な現実を突き詰めたとして、それで彼女が袋小路に囚われてしまったら、彼女はもう抜け出すことが出来ないではないか。
魔術書には所定の形というものはない。本の形状である必要すらない。ならば『天啓の折』が表す形は――
――檻だ。
たちが悪いことに、それは人が使うための形ではなく、人を使うための形だった。
『天啓の折』はコハネをどこまでも道具のように扱う。コハネを出力装置に見立てて、結果を大衆に認知させる。
啓示とはよく言ったもの。コハネは未知から行動を委託されていた。大衆が魔術を使う中、魔術がコハネを使っている。
これはもう良いか悪いかの問答領域では語れない。技術は手法、魔法は道具。これはそれを真っ向から否定する何かだ。
「『天啓の折』をコハネから引き離すことは出来ないの」
「もちろん、研究は進めているよ。でもあれがコハネの何に結びついているのか、未だ解明できていないんだ。生命核――いわゆる魂なんて呼ばれるものだけど、『天啓の折』が入り込むならそこだろうと当たりをつけたぐらいでね」
この世界では魂が観測されている。重量占めて二十一グラム。人が死ねば、つまりそれだけ軽くなる。
この手に乗せられてしまうほどの軽さに、世界の真理が込められている。コハネを規範に世界を正してしまうことも、或いは可能なのかもしれない。
「話が込み入りそうならここを出るぞ、それはここでやるべきではない」
コハネを外気から守る透明素材に手のひらを当てた格好で、ガルドは頭を垂れていた。祈りや謝罪をしているようにアイリスには見えた。
コハネはガルドに特に懐いていた。ガルドと会話するとき、一緒に食事するとき、いつもコハネはガルドの隣を陣取っていた。
コハネの中でガルドは父のようにあったようで、それはガルドもわかっていることだろう。鉄面皮の裏側で彼が何を思っているのか察するのも烏滸がましいけれど、きっと、コハネの前でこれ以上話を勧めたくなんかなかったのだ。
アイリスも頷いた。
「いや、アイリス君はしばらく心を落ち着けていなさい。一週間、心と情報をまとめ上げて、そして決めなさい。君の立ち位置を。――君がこの世界にどう接していくのかを」
それは意外な提案だった。アイリスはてっきりこのまま畳み掛けるようにヴィネルマの深い部分に組み込まれるものだと思っていた。
「不思議そうな顔をしているけどね、アイリス君。自分は君の論理的思考と異世界文化からの視点に期待しているんだ。コハネの記憶に引きづられてしまった君は一度自分の思考を取り戻さなくてはいけないよ」
「……わかったわ。でもその間は」
「もちろん。というよりもだよ、君は自分たちが何もしないとでも思ったのかい。コハネを、そして悪ではなかったシルドルフ学士を地獄に落とし込んだ輩に対して」
「そうね、貴方の言うとおり私は冷静には程遠いみたい」
仕方ないさとブックはコハネに繋がる計測機器を一瞥した。ディスプレイに映される波形や数字、文字列が意味するところをアイリスは読み解くことは出来ないけれど、どれも穏やかなものだった。
「大丈夫よね、コハネは」
「大丈夫だ。自分のせいでと責めてはいたが、自分が悪いと確信していたわけではないようだからな。まだ逃げ道はある」
ガルドの返答は後頭部をガツンと強打する勢いでアイリスの脳に染み入った。
「そう、そうね。『自分が悪い』ではなく『自分のせいで』……。罪悪感を軽減するなら私でも出来るかもしれない」
アイリスも先ほどガルドがやっていた、祈りのポーズを倣って、
「コハネ。コハネは覚えてる? 初めて一緒に入った時の会話。今日コハネの秘密を知って、私は救われたよ。コハネの|せいで(、、、)救えなかった人がいた、でもそれとは別にコハネの|おかげで(、、、、)救われた人がいた。目を覚ましたらね、一緒にそんな『おかげ』を探そう。きっとみんなたくさん持っているから」
あの時コハネは、なんとなくだけどお父様に会えるよって言ってくれた。ガラリと変わった世界で途方に暮れていた自分は、その言葉で後ろ向きになりそうな気持ちを前向きに保てた。そして今、未来に希望を持つ事ができた。
いつになるか分からなくても、いつか必ず元の世界に帰れると分かっただけで、いつか来るかも知れなかった絶望から救われたのだから。
そうしてアイリス達は緊急処置室を後にする。
命のリズムを機器が代弁して、コハネは過去と未来の隙間に揺蕩う束の間の平穏に浸されている。
「さっきガルドは否定してくれたけれど、やっぱり私のせいなのよ」
白衣から司書服に着替えて、待合室で二人と合流してすぐにアイリスは打ち明けた。
こればかりはちゃんと報告しなければいけない。前を歩く二人は耳だけ傾けて聞いてくれている。
アイリスは続けた。
「実は私、コハネに『なんとなく』の形で忠告されていたの、今日は図書館の外に出ちゃいけない、出たら悲しくなるからって」
「それは……確かに事件が起きる前に知りたかった情報だ。けれど、『天啓の折』を正確に把握していなければ誰だって言葉そのままに受け取ることはしないだろう。それで罪に感じる必要はない」
アイリスの頭をぽんぽんと、ガルドの手のひらが叩く。
「そうだね、罪の追求をしたって何も変わらないよ。悪意に起因しない罪悪感が感染を広げるだけだ。無益なだけだよ」
待合室を抜けた先のエレベータホールでアイリスは二人と別れることになる。アイリスは居住棟に、二人はすぐにでも追い始めるのだろう。犯人を、あの黒衣で『影』になりきれない『黒』とでも言うべき存在を。
エレベータが開かれる。二人が乗り込んだ時、アイリスは独白するように言った。
「本当のところを言うと、過去に戻ってやり直したいわ。図書館から出るか否か、その分岐まで。もう一つの道がこんな凄惨な結末を迎えないと分かっているのだもの」
出来るかもしれないのよねとアイリスはガルドを覗き込む。
だって私がここにいるから。
「出来るだろうな」ガルドがしっかと頷いた、そして「あぁ、魅力的だなぁ」と震えるようにエレベータの天井を仰ぎ見た。
それはガルドが初めて見せた弱気だった。




