/4-7
知らない場所でコハネは目覚めた。
多少の肌寒さとカビ臭さ。途切れることなく聞こえてくる水と風の音に紛れて、閉じられた換気窓が時折がたんと窓枠を打ち鳴らしている。その窓も時間の流れに形が歪み、埃にまみれていた。
コハネは自分がごわごわとした木屑の緩衝材の山に男物のコートを一枚挟んで寝かせられていたことに気がついた。
起き抜けのぼやんとした気だるさと眼の奥にある鈍痛にも似た圧迫感で、コハネはまだ正常に辺りを分析することが出来ない。
けれど、ぼやぼやした頭とは切り離されているかのように、体はこの異常にはっきりと反応した。
緩慢な動作でコハネは周囲を見回していく。危害を与えてくるものと自分を守ってくれるものを選別するためだ。そうしていく内に、朧気だった状況が研ぎ澄まされていく。
ここにあるものは全て淋しげだった。
朽ちかけの木箱も、腐りかけの建材も、黒くまだらに変色した天井も、埃まみれな床も。
それらが闇に囚われぬよう、頼りなく明滅する生命片灯ががらんとした部屋の中央にある。
そして、その光を一心に見つめてぶつぶつと独り事を呟く男がその灯りの傍らに腰を下ろしていた。
背筋が曲がり、顔に落ちる影が彼の造形をより深めている。その顔は疲れきっていた。瞳は危機感に乾ききり、肌は寝不足に荒み、唇は後悔に震えている。
コハネが夢心地にいられたのはここまでだった。外からの刺激が微睡みに隠れていた先の記憶を引き出したからだ。
コハネはヴィネルマから飛び出してしばらく、小川を横切るかどうかというところで、背後から伸びてきた腕に口元を抑えられ、悲鳴を上げる間もなく何かを嗅がされたのだ。その途端視界が真っ白になって、気がつけばここにいる。
連れ去られたんだと思うまでに時間はかからなかった。
コハネは男に気づかれないよう静かにスカートのポケットを漁って、スカート生地とはまた違う硬い肌触りを手のひらに滑りこませると、手のひらの上に広げてみる。
小さな小物袋。スミレの花が刺繍されている。なかにきれいな石が入ってるのをコハネは前に見せてもらっていた。
アイリスが肌身離さず持っていたお守りだ。これを医療棟リハビリテーション施設で見つけた時にはアイリスはもう手紙を届けに出かけていて、コハネはそれでも届けようと初めてヴィネルマ図書館の敷地を出たのだった。
途中で落としたりしていなくてよかったとコハネはほっとする。
それからちょっと顰めっ面になった。ブックの言いつけを思い出してしまった。
「外に出てはいけないよ。神様が怒ってしまうからね」
耳にたこが出来るぐらい言われ続けてきたブックの言葉。
この言葉をいう時のブックをコハネは嫌っていた。笑いかけてくるから。笑いたくもないのに笑っているから、すごく怖くなる。いつか自分がその理由に興味を持ってしまえば、きっとそれを理解してしまう。
それがたまらなく怖いから。
「神様なんて」自分の耳に届くかどうかの小さなつぶやきをコハネはした。
さっきから辛そうにしているこの男が誘拐犯で、自分が勝手に図書館を飛び出した結果だというなら、神様はなんて自分勝手なんだろう。
自分の怒りを現すために、他の人を使うなんて卑怯者だ。怒ったのなら、怒りに任せて雷でも落とせばいいんだ。
――なんで私はこんなことを考えていたのだろう。誘拐されているというのに。非ぬ神に聖言か、もしくは罵言を浴びせ続けているような目の前の男が、本質で悪ではないと確信しているのはなんでだろう。
|なんとなく(、、、、、)、この男の人が図書館で黒い感情をぶつけてきた人物だと。コハネは思っている。
あの時コハネが震えたのは、焦り、不安、渇望、無力感、様々な負の感情が今までに体験し得なかった濃度、粘度で絡みついてきたからだった。息ができないほどのどん詰まりを処理するにはあまりに難しく、どうしようもないからこそ、息を押し込めて耐えるという手段しか用いることが出来なかった。
一方で、その時コハネは悪意を感じることはなかった。
|つまり(、、、)、目の前の彼は悪い人ではなく。
|だから(、、、)、コハネは恐怖ではなく怒りを、彼ではなく神に向けたのだ。言葉と経験が一緒くたになったちぐはぐな神様に。
コハネが左腕を支えに起き上がろうとすると、一点に重さの集中した木屑の山はそれを支えきれず陥没し、バランスを崩したコハネはその場に倒れこむことになった。
それは周囲に小さくない音を拡散させる。
男が勢い良く顔をもたげた。
崩れた体勢を戻したコハネと視線が交錯し、男は悲喜交々の感情を顔に貼り付け、不格好にコハネへと近寄っていく。そこに悪意や害意というものは感じない。先の思いから男は悪い人間ではないと信じ込んでいたコハネは、けれど、大の大人が近づいてくるというだけで、動かない右腕を左手で掴み無意識に縮こまるような姿勢をとっていた。
右腕を庇ったコハネを前に、男は膝から崩れてそのまま額を埃の積もった床に擦り付ける。
男の第一声は「済まない」だった。
これしかなかったんだと弁明し、男はとつとつと語り始める。
男はアロンド・シルドルフと名乗った。オノギス国王直属の学者として魔術書の解読や研究を担い、その日も新たに発見された遺跡に保管されていた魔術書を解読していたそうだ。
アイリスがヴィネルマ図書館に来た日、四月の二十がそもそもの発端だった。
遺跡からの帰路、魔術書の護送中にアロンドは『影』の襲撃を受けていた。幸いアロンドと、同じ仕事を賜ったもう一人の学者は気絶するだけに留まったが、警備隊の面々は惨たらしく殺害され魔術書は消失していた。自分たちが気絶している間に、何者かが奪っていったのだとアロンドは言う。
その奪われた魔術書が程度の低い、大衆に認知されるようなものだったならまだ良かった。それならば事件はオノギス国で内々に処理され、ヴィネルマの関知しない内に収束しただろう。
新規魔術書を見つけた当初に行われる、題字解読及び序文解読の結果、その魔導書は今までに公表されたどの系統にも当てはまらないものだった。
その本についてアロンドは詳しく説明する気はないらしく、コハネは題名すら終ぞ知ることは出来なかったが、その異様性足るや筆舌に尽くしがたいものだったという。
種の存亡、構造改変など、コハネには全くと言っていいほど理解できない言葉が多数アロンドの口から放たれたが、彼にはそれをいちいちかみ砕いて説明する余裕はなさそうだった。
理路整然として、けれど相手を顧みない独白が終わり、最後に、アロンドは深々と頭を垂れ「助けてくれ」とコハネに言った。
使い方を間違ったらみんな死んでしまう。口を挟むことなくひたすら理解に努めたコハネだったが、魔術書について聞き取れたのはその程度のことだった。
「……いいよ」
そして、それだけでコハネにとっては十分協力に値した。
アロンドは悪い人ではないから、彼がここまでの事をしたのは本当に危機感のみからで、それだけ事態は逼迫しているのだろう。
困っている人がいて、それを解決できる力が自分にあるのならば、出来る限り力になってあげたい。
全然知らない人で怖かったけど、だからコハネは頷いたのだ。
――それでも、『天啓の折』を使うことはあまりに危険だった。うなずかなければ隠し通せたかもしれない。たとえ事実が広がっても、それは噂に成り下がったかもしれないのに。
コハネの了承が本当のことだと理解する過程で、アロンドは喜びに震え、顔に載る喜色は際限なく濃くなっていく。痩けていたが、人を引きつける好青年の雰囲気が彼に戻ってきていた。
「……聞いてもいい?」
「あぁ、何でも、何でも言ってくれ」
救いの手を差し伸べたコハネに、アロンドは神聖を見たようだった。
「……なんでわたしのこと知ってたの?」
物心ついた時から周りから浮くのを嫌い、ひた隠しにしていた力だ。自分から力を明かしたのは、アイリスただ一人だけだった。それも、アイリスならば、なんとなく言ったほうがいいと思ったからこそコハネは伝えたのであって、そんなことを思えた人物はそれまでに一人として居なかった。
『天啓の折』がヴィネルマの外まで広まっていないことは、なんとなくだけど知っている。
アロンドは特に思考した様子も無く答えた。
「噂を思い出したんだ。オノギス国の官職に引き上げていただく前まで住んでいた、名前もない小さな村の噂を。……どんな失せ物でも見つけ出してしまう女の子がいると、当時、子供たちが話していたのをかろうじて覚えていた。両親が遺跡探索者ということが強く印象に残っていたんだ。その時はただ洞察力の強い子がいるもんだと思っていただけだったんだけど、オノギスに移り住んでから幾年か経った頃、風の噂でその女の子とその妹がミリの教会に身を寄せたことを知らされた」
君のことだろう? とアロンドは半ば確信を持っているようだった。
実の両親が遺跡から帰らぬ者になってすぐ、自分とツバサは確かにミリの町の小さな教会に保護されていた。お腹いっぱいとはいかなかったけれど楽しかったはずだ。それ以前についてコハネは思い出そうとしたが、記憶は朧気でもう両親の顔ぐらいしか覚えていなかった。
自分が忘れ去ってしまった時間を近くで眺め続け、懐かしげに話してくれる人はもう一人もいない。
もう誰もしらないはずの時間を、さっきまで知りもしなかった人から聞かされるというのは、コハネをおかしな気分にさせた。
コハネが衝動的に、そのことを笑み混じりに伝えると、アロンドも少しだけ笑った。彼の笑みはすぐに真顔に戻る。
「それから暫く。あの……痛ましい事件が世界を震撼させた時、君達姉妹と教会の名、そして君たちがヴィネルマ図書館で保護されたということを知った。あまり大ぴらに言えるものではないけれど、私の研究主題は『魔術暴走』だ。資料収集の一環で君達やヴィネルマを目にすることは多々あった」
これから先は四月の二十を過ぎてからの思考だから、突拍子もなく理論破綻してるかもしれないけれど。そう前置きをしてアロンドは続ける。そのお話は自分には難しかった。アルマやブックならもっと分かりやすく話してくれるのに。
「あのヴィネルマ図書館が、無闇矢鱈と人を取り入れるわけがないんだ。内側の人間が情報統治の脆弱性になることは、利益の損失以前に世界の危機になりかねない。それがたとえ身寄りを失った幼子だとしても、ヴィネルマが行うのは傘下の孤児支援施設紹介までで——教養教育においてこれほど恵まれた孤児もいないだろうけれど——、君のように保護された後そのままヴィネルマでの生活権を与えられるというのは、その背景に政治の関与が存在したとしか考えられなかった。
……まぁつまり、何が言いたかったかって言うと。排他的なヴィネルマ図書館が君を迎え入れたということは、君には何かあったのではと……失せ物探しの力は本物なのではとそう思ったんだ」
アロンドは『天啓の折』を知らない。あくまで少ない条件から推論していった結果、彼は『天啓の折』の片鱗を疑った。確信に変わったのはきっと、この場で自分がお願いを聞き入れたからだ。
コハネは握りしめていた菖蒲の小物袋を脇に置き、アロンドに左手を伸ばした。
「……おでこごっつんこして」
「あ、あぁ、分かった」
コハネの意図が分からなかったからだろう。アロンドは反応に困っていた。娘が父親に甘えるために有りもしない熱を訴える仕草にも似ていた。もちろん、親子愛というものはない。形だけで——実際、意味も殆どなかった。
アロンドがコハネの額に自分の額を合わせると、コハネは手のひらで彼の頬に優しく触れた。そして、目を瞑る。
他人の失せ物を探す時の形式。こうしたほうが見つかりやすい気がするから、というだけの『天啓の折』行使の形。相手がいない捜し物の場合、コハネは動かない右手を無理やり組んで額に当てる。
「……さがし物の名前は?」
後は名前を知るだけ。けれど、アロンドは難色を示した。
「言わないとダメかい?」
「……見つけたいなら」
「……待ってくれ」
暫くの逡巡の後、アロンドは言った。そして、なにかしらの意見を戦わせているのかまたしても黙りこむ。コハネは当てた額から、アロンドの眉間にしわが寄るのを感じながら辛抱強く待っていた。
責任や愛国心、信仰や損得勘定といったものをコハネはよく知らない。だからアロンドが何故、何を悩んでいるのか全く分からない。
内心で早く言わないかなと自己本位で。外見で相手を気遣う体勢を。
コハネはなんとなくそうした。そのほうが|彼にとっては(、、、、、、)良いことだと思ったからだ。
伝わるアロンドの息遣い。だんだんと酷くなる雨音に責められ塞ぎこむように小さくなっていく。息をしているのかしていないのか判別つかない段階を経てついに息が止まり、そして反動したかのように次の言葉は大きかった。
「分かった、言うよ」
コハネは息を潜め、耳を立てた。難しい言葉であっても、文字とイントネーションさえ分かれば探せる。聞き間違える事のないように、と……。だからだ。
「魔術書の名前は、『ら、ぷひゅ……」
目を瞑っていたコハネは、異音を鮮明に捉えた。アロンドが名前に言いかかる直前に起きた、幽かな風切り音、くぐもった切断音、そして軽やかな噴出音を。
両手にかかる重さ。支えきれずに取りこぼす。腿に鈍痛が走った。
その痛みにコハネは目を開ける。
先程まで額を合わせていた場所、そこにアロンドの顔はなかった。より正しく言うならば、コハネの下腹部に刺さるように倒れこんだアロンドの、首から上がなかった。凋花切りされたバラの趣。まだ鮮やかさの残る萼や花弁はその根本からたち消え、斜めに整った切断面は今まさに生きていた証として鮮やかに命を吹き上げている。
コハネの中に静寂が広がった。視覚だけで心が張り詰めて、それに危機感を抱いた体が聴覚を追い出してしまったしたようだった。
吹き上がる命が衰えていくにつれ、噴出口に円形の溝が現れる。それが今までは食べ物や空気を通していた穴だと気づいた時、コハネはやっと声を出す。
あ、なのか、え、なのか。逃避の音は現状を夢とする言霊足り得ない。
相も変わらず、コハネはここにいて。
相も変わらず、アロンドはコハネを赤で侵し。
相も変わらず——黒い感情が三人(、、)の周りを逆巻いている。
アロンドの背後に佇んでいたものを見て、コハネは小さな悲鳴をあげた。突き刺す悪意の黒を纏って、人型の『影』が静かにナイフを振りぬいている。
『影』——ヴィネルマの皆が噂する異形の魔法。ついに人間にまでなった魔法が死を撒き散らす。
――違う。
目の前の『影』は立体を平面に収めようと画策していた。コハネがうわさに聞くものとは自分を顕す方法が反対だ。これは『影』じゃない。影になろうとした人間だ。コハネは普段使わない思考をどうにか働かせて、そう考えた。
体のすべてを、深度を打ち消す黒い布が覆う何者か。それは倉庫の中に浮かぶ黒いシルエットとなり、体格や性別、年齢——物理的な特徴を見事に隠匿していた。
これでは『天啓の折』もうまく機能しない。力がこの『黒』を暴くのに必要な時間で、『黒』はコハネを如何様にも殺害し、如何様にも逃走できてしまうだろう。
『黒』が近寄ってきた時、コハネは死を予感した。
この感覚をコハネは何故か知っている。
|あの事件(、、、、)に巻き込まれた自分が自ら失った記憶が今更になって掘り返され始めたのかもしれなかった。
『黒』が屈んで手のひらを向けてきた。コハネはどうしようもなく、手負いの小鳥らしく縮こまって目をつぶって震えるしかない。ぎゅっと閉じられた目尻からにじみでた涙が頬の上で赤く染められ、アロンドの断面に落ちていく。
一滴、二滴。
床を引っかく音がする。
三滴、四滴。
布の千切れる音がする。
下半身に掛かる圧迫感が無くなった。
音はするのに、自分に降りかかるはずの死がいつまで経っても音沙汰ない。
重いものが——そう、まるで寝ぼけたシシーがソファから転がり落ちたような——鈍い音がして、死が近づく恐怖とは別の不気味な焦燥に急き立てられる形で、コハネが下がる目蓋を押し返す。
突き刺す鮮やかな橙に包まれるのと重なった。
弱々しかった生命片灯が、なんの役にも立っていなかった。なぜなら部屋を照らす役目を他に取って代わられたから。より強い光を発するものが至る所に現れたから。
「アロンド」
雷が落ちた。
コハネの悲鳴に応答するように、アロンドが徐々に両手を持ち上げる。ただしそれは、意識を伴わない反応。高温に晒された体の収縮運動。心臓辺りを中心に、炎がアロンドを焼いている。何もかも消してやろうとうねっている。
それをしでかした『黒』の方が、悲しいことにコハネに反応を返した。今まさに引き抜いたという体と、持ち上がるナイフに残留する赤い生命片を纏わり付かせて、感情の透けない黒衣越しにコハネを一瞥したかと思うと、翻って倉庫の裏口に駆けていく。扉が開け放たれ、足音が遠くなる。雨音に消されて聞こえなくなる。
『黒』はコハネをどうすることもなく逃げ出した。
死が遠ざかった安心感など微塵もなかった。アロンドの体を種火に、積もった木屑に引火して、炎はすぐにコハネを取り巻くだろう。そうなればコハネに生き残るすべはない。けれど、かといって恐怖が頭のなかを暴れまわっていたかというと、そうでもなかった。むしろ静かなものだった。
コハネにあるのは喪失感。
暴虐を尽くした『黒』は、もういない。
自分に向けられた人の良さそうな笑みも失われた。
アイリスに返すはずだったお守りも——たぶん、床を引っかく音はお守りを取り上げる音だった——なくなった。
――何もない。
炎はもうコハネに何の感慨も齎さなかった。抵抗もなくするりと彼女の心に入り込み、張り合いがないとため息混じりにすり抜けていく。
コハネが動かずとも、火は着実に勢いを増していた。
燃えていく。鼻につく異臭が死を鮮やかに演出する。
ただ、火の手がアロンドの頭部に掛かろうかという時、無意識に助け出そうとコハネは手を伸ばしていた。
その手がアロンドの額に触れて——




