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「誰にも言わないで」
アイリスはすりガラス越しの茫漠とした光を眺めることをやめた。
ヴィネルマ図書館医療棟緊急手術室。魔術の権化ヴィネルマの更に魔術が集積した場所でコハネは一命を取り留めた。待合室で知らせを受けた時、この場には他にガルドとアイリスが子守を頼んだ女性司書がいたが今はツバサとの二人っきりだった。
もともと精神的に追い詰められていたアルマもシシーも精神安定剤が投与されて深く眠り込んでいる。事件の後処理に駆りだされたガルドが明らかに自分を責めていた女性司書を連れ立っていなくなると、長椅子に腰掛けたアイリスの膝に頭を載せて無言を決め込んでいたツバサがついに口を開いてそう言ったのだった。
夜が更け、時折体勢を整える二人の衣擦れの音が染み入るに任せていた場所だ。しんとコハネの声は響いた。無機質に。
アイリスは思い返す。コハネを見上げるツバサの瞳に淀む黒色を。
アイリスはあの場面に二度、衝撃を受けていた。一度目はツバサが初めてこのような感情を見せたことに。二度目は一度目の信用を補強するために過去をさらったとき、ツバサとコハネがーー少なくともアイリスが記憶している中でーー全くと言っていいほど接触していなかったことに。
サブナハ姉妹が二人で仲良く話している場面というのをほとんど見たことがない。彼女たちが話す時はいつも周りに誰かいたのだ。そして会話から離れるのはいつもツバサが最初だった。
気づかなかったことが恐ろしい。まるで手品師や精密技師のよう。針をつくような言動の技巧で、ツバサは自分に気づかせないままにコハネのいる場から忽然と姿を消してしまっていた。
アイリスにとってこれは衝撃的なことだった。彼女たちの関係は、ツバサの綿密な計算の上で成り立っている。それは、昔夢見た姉妹像からは大きく乖離したものだった。
お風呂に一緒に入った時のコハネとの関係こそが理想。それはつまり、上辺や繕いのない話ができることだとアイリスは思っている。ツバサのやっていることは、自分が城に招かれた賓客に向けてやっていることと同種だった。
アイリスは口元に人差し指をピンと立てて、しぃっとジェスチャーした。言わないよの意図と共に笑って見せる。
幻滅はしなかった。むしろ、自分ではない顔を自分の顔に貼り付ける苦行を、良く毎日顔を合わせる相手に行ってきたと感心するほどだった。
誰にだって裏はある。隠し事はある。アイリスはそれを嫌というほど知っている。
人間は、小さな子だって、親に怒られたくないばかりに嘘をつける生き物だ。
この世界に魔術はあれど、それはまだ人の根本を変えるには至っていない。その事にアイリスはひどく安心していた。
人が心を意のままに操れるようになったら、心はもう人を動かすことをしなくなってしまうと思ったからだ。
ツバサの驚きようと言ったらなかった。
きっとツバサは自身を偽ることを絶対悪とまではいかないまでも、人に知られてはいけない悪いことだと思っているのだ。バレてしまえば嫌われる悪いことだと。
この時、飛び立つ姿を下から見上げるだけだったアイリスは初めてツバサの顔を見れた気がした。
安心したのか、ツバサはすぐに寝息を立て始める。寝るのには邪魔そうな大きな翼の髪飾りをアイリスはそっと外してやり、癖のついた髪をゆっくりと撫で付ける。
いつまでも、いつまでも。
コハネとすぐに面会できるようになるとは、アイリスは微塵も思っていない。ただ、足が動かなかった。ここ以外の居場所がふわふわと定まらない感じがしてどうしても自分から動こうという気分にはなれなかった。
幸か不幸か。
うとうとと船を漕ぎ始めていたアイリスは反響する足音にすぐさま覚醒した。
待合室にブックとガルドがいる。
緊急手術室の扉の横に置かれた生命片認証装置に手をかざして、二人は開かれた扉を潜ろうとしていた。
ブックだけならばきっとアイリスは特に思うところもなく素通ししただろう。ブックの持つ肩書はヴィネルマ館長というものだが、その下に一つ隠れるようにヴィネルマ図書館医療棟最高責任者という肩書もあった。
引っ掛かりはガルドの存在。アルマですら面会謝絶だというのに何故彼は通されるのか。そうしてアイリスは意識した。彼らの姿を。彼らの持ち物を。
「待って、コハネに何をするつもりなの」
大した声量でなくとも二人は振り返ってアイリスを見た。
ブックの肩にかかる無題の魔術書が大きく揺れる。肩紐の軋む音だけが繰り返されて小さくなっていく。
「それはシシーの持ち物よね」
「いいや、これはヴィネルマがシシー君に貸し与えているものだ。彼に所有権はないよ」
「それを使って何をしようとしているの」
ブックの目配せを受けて終始無言だったガルドは手術室に入ってしまった。どこまでも鉄面皮で、感情の透けない表情で。
ブックだけがその場に留まる。すりガラス越しの逆光はその病的なまでの青白い外見に影を落とした。
「これは暴走したというシシーから緊急処置として取り上げたにすぎない。何かしらの使用意図があって所持していたわけではないんだよ、ただ保管場所に向かう前にコハネの生体検査を行おうとしただけで。結界が張れようと遺跡辞典が書かれていようとそれがコハネにどう関係すると言うんだ。君の不安は不当なものだよ」
「いいえ。シシーは言ったわ。その魔術書には題がないのだと、だから何について綴られた魔術書なのか判別がついていないのだと。結界としての機能と遺跡辞典としての機能が、無題の魔術書が包括する機能の全てであるとは言い切れないじゃない。現にシシーの発した結界は、倉庫前での出来事では守りの意味合いから攻め――いいえ、破壊の意味合いに変貌していた。シシーの害意に呼応する形状をとったのよ」
「確かに、どうやら結界は使用者の某かに反応して形状を変化させるようだ。これは貸出要項をより厳しくしなくてはいけないな。――ところで君は自分が害意でコハネを傷つけると思っているのかな。大火傷から一命を取り留めたコハネを前にして途方も無い害意を彼女にぶつけると」
だとしたら心外だとブックは首を振った。
「コハネは大事な家族だ。叱りこそすれ、傷つけることは絶対にない。もちろん、コハネをあのようにした者に対する怒りは尋常ではない、だがそれはヴィネルマが捜査の手綱を握るという形で晴らさせてもらう」
これでは駄目かいとブックは目尻を下げる。アイリスは申し訳ない気持ちになって、
「そういうことを聞いていたわけではないの、ごめんなさい。貴方が邪な考えを持っているなんて、そんなことは微塵も思っていませんでした。ただ、怖いんです。その本が」
その本にはまだ何か秘められた力がある。それはアイリスがクロノパイディア遺跡で受けた印象と重なるものだった。
得体の知れなさ。
クロノパイディアでは己を破壊する脅威に変換されたわけだけど、今では魔術全般に感じているそれをどこまでも凝結したものだと分かる。
出自不明の知慧。起源の証明されない力。
「君はどうにも過分な恐怖をこの本に抱いているようだけど、その源が一体どこにあるのか自分にはよくわからないな。結界は確かに変化した、ただしそれ自体は結界としての意味合いを超えてはいない。害を与えてきた敵に対する攻撃は防御と違わないからね。結界と遺跡辞典という二軸を揺るがすことはしていないのだから、この魔術書の題名に『守』や『知識』が含まれるという見識にほころびは出ず、これらの言葉に恐怖を喚起する意味合いはない。それとも一見不釣り合わせな二つの機能が備わっていることが原因かな。けれどそれは、知識の存続という観点で見れば水と油から水と塩くらいにはなるんじゃないかな」
「源が分からないということ、それが一番の恐怖です」
「……というと」
「百年ほど前、唐突に一冊の魔術書が見つかった。そこには当時の人々には及びもつかない技術と魔法が記されていた。それらが魔術と呼ばれ、以降、続々と発掘された魔術書とともに人々は文明を著しく発展させた」
「良いことじゃないか。おかげでコハネを助けられた」
「それは……認めます。コハネが生きていてくれて本当に良かった」ただ、とアイリスは続ける「魔術は、言ってしまえば歴史の流れに突然現れた強制力でしょう。本来あるべき歴史が百年前の出来事で大きく変えられてしまった」
「ということは君は魔術それ自体が怖いと、そういうことだね」
アイリスが頷くとブックは少し唸った。
「技術の方は百年前から脈々と受け継がれてきた考え方だ。いわゆる科学と呼ばれていたもので――魔術というカテゴリに埋没してしまったけれど、魔術書は技術実現までの道筋をちゃんと証明している。これは結局学術論文と変わらない。歴史が曲がったと言うよりは歴史が加速した、と見るのが妥当かな。理論がある以上、人間がその内発明するはずだったものが過去に既に発明されていたということだよ。馬車が魔道二輪になった理由はちゃんとある。次に魔法だが……」
ブックはずり落ちかけていた魔術書を肩にしっかりとかけ直すと、アイリスに手のひらを向けた。
「魔法を使用するための条件はなんだい」
「その魔法を理解していることです。知ってるのではなく」
「その通り。魔術書には魔法が現出する仕組みが記されている。それらは科学的、数学的アプローチを主としてあらゆる分野からその魔法についてロジカルに説明している。その論理が読者の頭に回路として焼き付いてやっと魔法というものは使用可能になる。その上で人が取る行動というのは結局、使用方法があまりに複雑な果物ナイフをどう扱うかということと変わらない。技術は手法だ、魔法は道具だ。しかも懇切丁寧な説明書付きの。それでどうして怖がることがある」
「魔術それ自体を使うことに対して魔術書は何も言及していないわ。短期的、そして長期的な損得。ある魔法、ある技術単体を見ればそれについての予想は可能かもしれない、けれど全体を俯瞰した時にそれらが何をもたらすのか人々はちゃんと予想出来ていないのではなくて?」
「その通りだね」案外素直にブックは認めた。「けれどそれは何にだって当てはまることさ」
君は服と馬車と宗教がもたらす損得を俯瞰したことがあるのかい。と言われて、アイリスは押し黙った。
どうにか妙句を継ごうと四苦八苦してみるも何も思い浮かばず、アイリスは悔しげに感情論を一つこぼした。
「魔術書を作成した者の意図が見えないのよ。製作者が、または当時の文明が私達に何を残そうとしたのか、魔術書は何も書いていないでしょう」アイリスは一つため息を吐いた。「もちろんこれはどんな本にも言えること。ただ、魔術書が一種のイデオロギーやプロパガンダを密かに含んでいた時の被害が想像を絶するほどに大きすぎるから。世界や文化の一つや二つ簡単に刷新してしまうのですもの」
後はブックが反論しておしまい。そもそもブックが無名の魔術書を使わないといった時点で自分の意見はすべて場違いなものに成り果てている。ただ、ブックがその本を所持してコハネのところに向かっているという事実がたまらなく不穏だったという感情をどうにか論理的に脚色しようとして失敗したということにすぎない。
だからブックがそうだねと肯定を返した時、アイリスはひどくびっくりした。
「というよりもだね、アイリス君。君の意見にはほとんど賛成するよ。唯一の反論は君が未知のものに対してのみ今までの論を展開していたということ。……まぁ、つまり全ての事柄に思考あれってことだよ」
「……私を試したの?」
「さぁ」
いっそ大げさにブックは惚けてみせた。そして降参するように両手を上げてみせ、
「自分は一つ嘘を吐いた。この魔術書は必要だから持ってきたんだ。だけど、信じて欲しいのだけど、それはコハネを不当に貶めるものじゃない、コハネを脅威から助けるためのものだ。自分はちゃんと考えるよ、そこに自分たちを貶める何かが含まれていないか。それが知識人としての義務だ」
ブックはアイリスが何もしゃべらないことを確認すると手術室へと足を踏み入れた。それから振り返って、
「気になるなら来るかい? ただしこの扉を潜ったが最後、君には大きな責任がつきまとうことになる。守秘義務だ。特に君の立場は特殊だからね、君の人となりを自分が見極めるまでの間、様々な制約と監視に晒されることになるだろう。これは家族にだって課さなければいけないものだ」
アイリスは少し逡巡した。相手の意図が読めないのは今更のこと。この流れに予め持っていくつもりだったのか、数瞬前に気まぐれでも起こしたのか、はたまた会話に何かしらの価値を見出したのか。
一つ言えることはもうブックは自分と会話を重ねるつもりはないということだ。
「嘘を吐いたのは私を巻き込まないため?」
「その通り」
それを聞いてアイリスは覚悟を決めた。
様々な消毒機材に通されて体中滅菌されたアイリスは白衣姿で寝台へと連れて行かれた。まるで人の命を救うことはその人の機能を整えることだと言わんばかりに、綺麗に整った外見の機材がこれまた綺麗に整頓されている。透明素材に密封された寝台の上でシートがテント型に張られており、その中で呼吸器のつけたコハネがうつ伏せで寝かされていた。
「人工皮膚が定着するまでの約二週間、コハネはここで眠り続けることになる。右腕は……残念ながら再建出来なかった」
ブックが近くの台に魔術書を開く傍らでアイリスはマスクの上から口を抑えた。流れ出る涙はマスクを少しずつ湿らせていく。
「何故アイリスを連れてきた」
ドスの利いた声をガルドは発した。明らかに怒気が込められていた。
「アイリス君にも協力してもらおうと思ってね。彼女の了承はもらっているよ」
「そういう問題ではない、そもそもがアイリスを追い返す算段だっただろうが」
掴みかかる勢いでガルドはブックに迫ったが、ブックが手を向けて制するとガルドは止まった。行き場の失った腕はしばらく彷徨っていたがすぐに力が抜けて垂れ下がる。
「彼女はこっち側だよ。ガルド君」と、ブック。
「知らねぇからな」とガルドは吐き捨てた。
では始めようとブックは無題の魔術書に手を触れる。
「最終確認だ。此処から先の出来事は守秘義務のうちに含まれる。ガルド君には魔術的制約、アイリス君には魔術的制約と監視が施されること、二人共了承するね」
アイリス達が頷くと無題の魔術書が生命片を纏って発光し始める。古代語が開かれたページから浮き上がって、ブックの右手に収束していく。それは紛れも無い記述式だった。魔法発現の第一段階。
ブックが右の手のひらをコハネに向けると記述式は透明素材を素通りしてコハネの額へと移動した。
「無題の魔術書には結界と遺跡辞典のほか、もう一つ機能がある」
そうした後、ブックが引っ張るように右手を引くとコハネの額から白く発光する糸状のものが抜け出してくる。
「対象が保持する現在近傍の記憶を追体験できるというものでね、その性質上追体験をするものには多大な精神的負荷がかかる。特に今回の記憶はきっとそれが顕著だ。人道的問題も付随する。他者の記憶を勝手に覗くわけだからね。――ここまでを聞いてアイリス君、君はこの記憶を覗くかい」
それは意地の悪い質問だった。アイリスの心は嫌悪感に満たされている。
記憶は普通自分だけのものだ。それを他者が見るというのは赤の他人に素肌を晒す以上に気持ちが悪い。
けれどもそれが非常に有効な手段であることをアイリスの現実的な思考は導き出している。
「コハネには申し訳ないけれど、止めることは出来ないよ。『天啓の折』の力を知るものが現れたのだとしたら、そいつはすみやかに無力化しなくてはいけない。時が経つほどコハネの敵が増えるリスクが高まってしまうからね」
目覚めたコハネが口で説明するよりも迅速に、そして多分確実に。
「記憶を覗くということは、事件捜査に協力するということね」
「一つの選択肢としてそれがある。後は記憶を覗かずに協力するか、はたまた協力しないか。その三通り」
「……見るわ。お願い」
アイリスはコハネを見る。今は安らかな表情も、目覚めた時には歪んでしまう。それはもう回避できないことだろう。
コハネをこの様にした者を捕まえる。原動力は怒りだが、それで少しでも罪滅ぼしになると信じて。
この世界にきてふらふらと目的なく飛び回っていた蝶は、一本の花を見つけた。
「では決まりだ、気をしっかり持つように。今から体験するのはコハネの記憶だ。自分の記憶と混同して引き込まれないように」
まずはガルドがブックの指先から伸びる白糸に額を叩かれると一度痙攣して瞑目した。そのまま引く手を返すようにしてアイリスの額へと白糸は伸びる。
アイリスは記憶の聖域に導かれる。




