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原書の罪  作者: 玉之浦椿
起ノ章
13/19

/4-4

       ◇



 コハネの言っていたことは少しも的を外すことなく、アイリスは深い悲しみに暮れていた。ただそれは最悪と呼べるほどのものではなく、いや、むしろ想定していた最悪以上のものなのかもしれなかった。

 マドニア国の東地区は多国間との緩衝を担うために興された。その全域を物流の拠点、他国の逗留客を捌くための施設が占めている。特にアイリスはこの区がマドニア国の東、山脈を幾つか超えた先でいがみ合うオノギスとエルアノールの二国に対する中立立場からの牽制策に組み込まれていることを知っている。

 その性質上、国の中央から放射状に土地が抱える資源価値というのは低くなる。人や重要物資は中央区に近づき、外縁部はもっぱら滅多に人の出入りがない保管庫や古くなって解体の迫った倉庫が密集する場所だった。

 アイリス達がたどり着いたのはその更に奥まった一角。赤レンガ造りと塗装された金属製のものが混在し、絡まったツタの合間から見える壁は、摩耗しているか、塗装が剥がれ赤錆が蔓延っているかのどちらかだった。おもったるい雨の匂いにむき出しの鉄の臭いと物の焼ける臭いが融け合って、アイリスの鼻孔にどよりと残る。

 退廃――そして崩壊のにおいだ。

 コハネは生きていた。

 一層劣化の激しい倉庫で国警とヴィネルマの両組織から派遣された幾人かが入れ代わり立ち代わり魔術による消火を続けている中、光天ひかるかみからアイリス達が飛び降りたのと、ガルドが炎蛇に舐られながらもコハネを抱えて飛び出してきたのはほぼ同時の出来事だった。

「医療班のコール。俺ごとで構わない水の一単語ネロによる冷却を大至急だ」

 ガルドの怒号は天を衝くようで、作業に従事していた者達のほとんどを震え上がらせた。アイリスもそのうちの一人だったが、コハネへの思いがすぐさま勝った。ガルドがここまで焦っているのは、コハネが生死を彷徨うような重症であることを伝えているからだ。言い換えればコハネはまだ生きている。自分だって水の一単語を使えるのだ。ここで使わなければ覚えた意味が無い。

 近づくほどアイリスはコハネの惨状を見せつけられた。

 コハネは服を着ていない。ガルドの腕の中でうつ伏せに抱えられ、背中を雨に晒している。理由は一見して明らかで、顔から左腕を除く全ての部位が白く変色し、ところどころ黒く焼け爛れているからだった。特に右手はひどいものだった。ただの火傷ではこうはならない。一体どれだけの時間を高温に焼かれ続けたのだろうかと、アイリスはこみ上げる吐き気と真っ白に世界を塗りつぶそうとする目眩を堪えながら宙に現れた純水の塊を静かにコハネの患部に当てていく。

 数人がかりの応急処置が続く。途中、リィンと澄んだ鈴の音に似通った音がして医療班かとアイリスが見やると、慧華えのはなから転がるようにアルマが降りてきた。おぼつかない足取りでコハネの元までたどり着くとコハネの状態を前に足から力が抜けたようにへたり込んでわんわんと泣きだしてしまった。

 子供のようだった。

 『泣く』以外の感情伝達の仕方を忘れて、それでも荒れた心情を最大限吐露しようとする仕草だった。

 言葉も何もない。歳を取るにつれ増していく外聞への意識をほっぽり出して、泣き喚いているようなものだ。

 周囲にいるヴィネルマのメンバーの驚きかたからして、今日一番の変貌をアルマは見せた。

 それだけ追い詰められているということかもしれないけれど、幼児退行とも取れるアルマの様子はどこかおかしい。それ以上のことを感じ取るのは今のアイリスのは難しいことだった。

 雷が照らしだす頬を伝う流れが雨なのか涙なのかもうアイリスには判別がつかない。

 間も無く医療班は到着した。急患を処置するための機材が積載された救急用大型魔道二輪にコハネは収容されヴィネルマに運ばれる。

 こんな形で片翼の小鳥が空を飛ぶことになるとは。アイリスは初めて一緒に入ったお風呂でのコハネを思い出していた。あの、雲に思いを馳せていたコハネを。

 アルマは泣き崩れて動かない。ガルドもアルマを支えて動かない。

 アイリスは自分だけでもコハネの傍にいようと考えるが、自分には魔道二輪を動かす権限がない。それに動かせたとしても飛び出した瞬間にどこかの倉庫に突っ込むのが落ちだろう。

 シシーに頼むためにアイリスは背後の光天ひかるかみを振り返る。そこにはシシーと、いつからいたのかツバサが立っている。

 アイリスの背筋を極寒の怖気が這いまわった。

 淀んだ黒ずみが空を見上げるツバサの網膜に張り付いていた。それはアイリスと目を合わせて一度まばたきする間に取り払われたが、アイリスはツバサがコハネに悪感情を抱いていたことを見抜いてしまった。

 俯いたツバサが拒絶を纏う。

 だがそれはあくまで人間的。驚きこそすれ恐怖することではない。

 アイリスを真に縮こまらせた原因はシシーにあった。


 濡れそぼった長い癖っ毛を纏わりつかせ、笑うシシーのその顔が、幽鬼のごとくに壊れていたから。


 俯いていたツバサが何かに反応し、逃げるようにアイリスもツバサの視線を追う。

 焔のだいぶ収まった倉庫の入り口、煙にまかれて一台の担架が国警二人に担がれ現れた。

 担架に載せられているものは——炭だ。物が灰になる過程で生まれる蒸し焼きの何かが運ばれてくる。

 形は——人間だった。膝や肘が曲がり、首もとを守るように、もしくは自分の頭を——失った自分の頭を恐る恐る確認するように硬直したその表面は黒黒とささくれだって、裂けた部分は赤黒い下地に白い斑が散っている。

 残虐に振り切れた死の体現。

 その首なし焼死体は一見して男か女か分からないほど激しく損傷していたが、纏っていた衣類についていたであろう金属具だけは、煤けるだけでその形を保ち続けている。衣類が焼け落ち散らばったそれらは国警によって、担架の上、死体の脇にひと纏りに集められたのだろう。

 その金属具の一つが教えてくれる。この死体の生前の姿を。

 アイリスは少し前に見かけている。

 コハネの誘拐が真実だとした時、真っ先に思い浮かんだ男がいる。

 |球体を鷲掴みにする猛禽の図(、、、、、、、、、、、、、)。

 オノギス国からやってきたあの男だ。

「……お前か」

 周りの騒音を押しのけて静かに静かに広がった声。

「おまえかぁ……!」

 アイリスは自分の体に衝撃が走るのを知覚した。衝撃の勢いそのままに泥濘ぬかるんだ地面へと転倒する。さっきの声は本当にシシーの声だったのか。鉄と鉄がぶつかり合う一合の合間に音は危機を孕んだ。

「アイちゃん、大丈夫?」

「ツバサ?」

 泥だらけのツバサはアイリスの背中に回していた腕を解くと、平身して腰のナイフを抜き放った。眼力鋭くシシーを見ていた。

 シシーが何故かガルドに襲いかかっている。アイリスや他の人を守るために使用していた、あの球形の結界が今や至る所が刃のように変形し、その一本をガルドが両手の剣で抑えている。

 どうやらツバサはあの刃から自分を退避させてくれたようだった。作業員たちも安全圏へと我先にと逃げているようで、怪我を追った素振りは見せていない。

「手を出すなよツバサ。もう収まる」

 じりじりとシシーの背後へと回っていたツバサは、ガルドにそう言われて足だけ止めた。

 何が起きたかとんと見当がつかないアイリスは泥にまみれて釘付けのまま。

「シシー。こいつは被害者だ。火を放った当人には成り得ない。この首を見てそれを察せないお前じゃないだろう」

 こいつはやっていないとガルドはゆっくりと繰り返した。アイリスはといえばこれでやっと現状を把握したのだった。

 不思議な静寂があった。

 明滅する結界と跳びはねる雨のしずくが時を刻んでくれている。

 元々儚い燐光を放つだけの結界が、更に薄く薄く空に溶けていくようになるとシシーが震えだし、糸の切れたマリオネットさながらにシシーが地面に崩折れると結界も消失した。

 この場は悪魔に支配されている。

 アイリスは聖書も空想生物も信じていたわけではないが、そう信じてしまいたくなった。悪魔がコハネとアルマとツバサとシシーを変貌させているだけ。祓えば自分がこの世界で構築した日常がひょっこりと戻ってくる。

 自分の気持だってそうだ。悲哀も恐怖も――罪悪感もきっと悪魔が想起させている。祓えば夢から覚めるように、多少気持ち悪さは残っても後に引く程のことではない。そうじゃないと、そうじゃなければ……

 ――なんとなくだけど、アイお姉ちゃんは今日外に出ちゃだめな気がする。

 アイリスは口を抑えて立ち上がった。少し離れた倉庫の角に一目散に走りだす。頭のなかでは助言を破った自分に対するコハネの声がこだまする。

 ――きっと、悲しくなるから。

 アイリスは今、どこまでも悲しい。

 ――きっと、悲しくなるから。

 それがつまり自分の罪悪感の源で。

 ――きっと、悲しくなるから。

 壁に隠れて、アイリスはついに吐いた。

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