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前節のラストを変更しました。大筋に影響は起きませんが、ツバサはコハネの発言を知りません。前節を既に読んでくれていた方には申し訳ありません。
「あんのバカ姉!」
息切れで動けないアイリスを置き去りにして、ツバサは再度扉を潜り外へと躍り出る。と、振り返って、
「アルマんは鐔黎の倉庫開けてくれてる?」
と女性司書に言う。彼女が頷くやいなや身を翻して本降りの雨を裂いて消えた。研究棟に向かったのだ。その地下一階で建物内外に鞏固な扉で接続される銘付き魔道二輪の保管庫に、ツバサはわざわざ外から回りこんだ。
アイリスは水滴を滴らせて体の線が浮き出た服を省みることなく、すぐさま建物の内を通って保管庫に向かおうとした。実距離としてこちらのほうが幾分か近いからだ。けれどもすぐさまアイリスはツバサの思惑を知る。人の壁は思いの外に厚かった。アイリスの方を見て戦慄するように一歩二歩と離れていく者たちばかりだというのに、もどかしいほどの時が経つ。
医療棟を経由して研究棟にたどり着いた時、飾り気のないスライド式の分厚い金属扉が半分ほど開かれていた。研究棟全体に染み付いた無機質さとはまた違う、どこか危機感を与える赤い塗装が鉄階段に張り付いているのをアイリスは今日はじめて目にした。シシーやガルド、銘付きの魔道二輪を所持した司書が使用申請を受け入れた時以外には、アルマ率いる少数の技術班しか踏み入ることのできない場所。いくらかなりの場面でアイリスを良くしてくれるアルマでも一度として入れてもらえたことはない。
それがぽかんと口を半開きにしてアイリスの通過を許すのだから、現状がどれだけ異常か知れるというものだ。アイリスが舌先を踏みしめると、やっと思い出したように警告が発せられるが階段の中腹で折り返しを超えたアイリスには無駄だった。
セキュリティが執行されると、アイリスは周りの空気が粘性を帯びて固体へ変じたかのように感じられ、事実体が少しも動かせなくなる。口も開かず、視界も霞がかっている。鼓膜もザラザラと低音を響かすのみで、こうまで入出力の手段を抑えこまれてしまうともうどうしようもなくなってしまう。
ただアイリスはそうなる前にシシーの姿を保管庫の入り口に見つけていた、向こう側もこちらに気付いた様子で、しばらくもしないうちにアイリスの拘束は解かれた。焦っていたとはいえ、自分のよく知る誰かに会えれば一時的な滞在の権限をもらえるだろうというアイリスのずる賢い知恵が実を結んでいた。
硝子で区分けされた小部屋が六部屋。その内の二部屋には生命片光を散らばるコード群と緊急承認の字面が浮かぶモニターに投げかけ、見知った魔道二輪が待機状態を維持している。
光天、そして慧華。
ほか二部屋には同じようにコードやモニタが散らかっているものの魔道二輪の姿はなく、残りの二部屋はそもそも何もない殺風景を晒していた。
「何故コハネの監視を外した」
保管庫の中ほど、ちょうど慧華の部屋の前。ブックとアルマが向かい合っていた。
元々血の気の失せた病人のような顔が怒りで更に青白くなって、アイリスはここまで気の張ったブックの声を聞いたことがない。アルマへの叱責を重ねるたびに生気すら吐き出している。
針のむしろに立たされたアルマを見やってもピンと伸びた背と力ない謝罪の不釣り合いな印象を受け取るだけで、コハネがどのような状況に身を落としているのか知ることは叶わない。
「シシー、コハネは本当に誘拐されたの?」
「そうだろうね。幾ばくかは希望があるけど、ヴィネルマにいないのなら誘拐としてヴィネルマは動くよ」
それはコハネの持つ力を考えればしかたのないことだった。魔術書の場所がわかるという『天啓の折』の力は、個人、集団、国、世界、どの粒度においても変わらぬほどの巨大な恩恵を無条件に落とすのだから。
神の恵みと悪魔の囁き。天秤がどちらに傾こうとも、最終的に闘争の渦中に人々を貶める。それは言葉が生まれてから脈々と紡がれる歴史が示していた。
世界が変わっても、そこは変わっていないのだとアイリスは歴史書から学んでいた。
何もなければ万々歳。ヴィネルマとしては誘拐と見るしかないというのが本当のところか。
ヴィネルマが情報流出や外からの攻撃に強いのは先の通りだろうし、実際アイリスはその一端を自身で体験していた。もはや檻と見紛う程の厳重さで抑えこまれるのは、保管物というよりは人の心の方だろう。何人もコハネを無理矢理に連れ出すことは出来ない。行動を起こす前に防衛機構の強固さに|諦める(、、、)。
——逆にいえば、彼女がヴィネルマにいない現状を顧みる限り、彼女は自ら外に出たということに他ならなかった。
「コハネの監視すら機能していないとは思わなかった、自分の端末には未だコハネの監視を継続している旨が表示されているというのに」
いつからだ、といよいよもって危篤患者に片足を踏み入れたブックはアルマを問いただしたが、その返答には危篤患者すら突き抜けたようだった。死人の見せる形相だ。
「初めからです」とアルマは言った。
「……確認を怠った自分の責任か」
一周回って、というやつだろうか。手のひらで顔を覆い隠すように掴んで離すと、そこには冷静さの戻ったブックの瞳が覗く。
「すぐに慧華を走らせ、展開された魔導二輪のネットワークを纏め上げて揺籃に渡すこと。渡された情報の解析はこちらがすべて引き受けるから。君たちは疎なく飛び回って情報の抜け落としを避けるように」
返事を待たずしてブックはエレベータの扉に消える。
広々とした倉庫は水よりも重い何かで満たされている。アイリスは吸い込むのも苦労するほどの空気に喘ぎそうになるのを堪えて、顛末を見守っていた。
アルマは無言で慧華に近づく。既に左右のつっかえ棒は外され、慧華は淡く明滅しながら浮かんでいる。
光天へと足早に向かうシシーの腕をアイリスは急いで取った。彼が出て行ってしまえば自分はもう待つことしか出来ないと思ったからだ。自分には足がない。ツバサのためにできる有効な手段を持っていない。
「アイリス。乗せてって言ったのはそっちだよ。急いで」
「ごめんなさい」
シシーの言葉よりも彼の醸す余裕の無さに急かされる形で、アイリスは光天の後部座席に飛び乗った。
もたもたと体勢を整えるアイリスの横を素早く通りすぎて、アルマが空に昇っていく。
アイリスの腕がシシーの脇腹に回されてやっと、光天も後に続いた。
こうして人を失った倉庫は他者の侵入を防ぐため自動的に外部との接続を絶ち始める。重い金属扉が完全に閉じられて、内にあるもの全てが隠された。
「コハネだって司書の一人なのだから、出入館管理用ディスプレイに外出が示されたのよね」
身を重く太らせた雨粒が穿つように畳み掛けてくる。光天の速度からすればもはや暴風の中に身を置いているようなもので、遮るものが無くなったアイリス達は、しかし、髪や服を濡らすことなく飛行していた。
雨粒が光天からいくらか離れた所で不自然に軌道を歪ませ、アイリス達を避けながら落ちていくからだ。
不思議なものだった。
風がほとんど感じられない。急加速した時の体への負荷も軽く、頭を引っ張られたかなと思える程度で済んでいる。
空を飛ぶために集められた魔術の粋だ。
「そうだよ、アイリスが出かけてちょっと経ったぐらいに」
「そんなに前に……。管理者の人は気付かなかったの?」
「仕方ないよ。監視機能ーー警報がコハネに対して作用していなかったのだとしたら後はもう人の目でしかコハネを追えなかったから。人がすべてを見逃さないために、先入観はあまりに邪魔だ」
普段のコハネを知っている者にとって、彼女が外に出ようとするなんて|考えられなかった(、、、、、、、、)。だから、出入管理用のディスプレイに映されるコハネの名前にグレイが掛かった時、管理人はしばらく気づくことが出来なかった。
誰かが悪いというわけではない。
「責任の居所を追求する段階ではないよ」
「そうね」
だからアイリスは自責の念を振り払う。
それよりもコハネを見つけることが先決。
アイリスは目を凝らすけれど、前方以外、軌道を変えた雨粒が帯状に繋がって、肉眼では何も見えない。
「これじゃ、コハネを見つけられない」
「大丈夫。揺籃がコハネの生命片を追跡してるから、僕たちはただ飛び回るだけいい」
個々の生物から発せられる生命片は固有の波長を刻みながら大気に溶けていく。その波長を解析してやれば個人を特定でき、なおかつ波長の減衰振動量——なんていう良く分からないものから方角を割り出すことが出来ると以前アルマに教えてもらった。
その機能を魔導二輪は備えているということだ。
つまり、この乗り物はコハネを見つけ、そこに案内出来るだけのポテンシャルを保持している。
「そんな機能まで」
「飛行技術から一部使用してるだけだよ」
——でもここまで雨がひどいと生命片の拡散も早そうだ。
シシーはそう言って、光天に搭載されたタッチスクリーンを何度かタップした。すぐにアルマの顔が表示される。一文字に結ばれた唇は震えて、目元は笑っていなかった。彼女の顔から微笑みが消えたのを、アイリスは初めて目にした。
失うかもしれない恐怖はそれほどまでに強い。
アイリスも母の一件で痛いほどに身にしみている。
母もまたこんな顔を、一度だけしたことがあったのだ。自身の命日に、自身に宿った命へ向けて。
「僕たちは次にどこに向かえばいい?」
音源の曖昧なアルマの声が響く。
『町の東側が手薄ですので、そちらへ』
「わかった」
やり取りは短く、アルマとの回線は途切れた。
光天が小さく左旋回し、静かに空を疾駆する。外部音も何かしらの魔術が吸収し、アイリスは静寂に不安を重ねていた。だからこそさっきからシシーへの質問を積み重ねていた。
けれど今はそうもいかない。シシーから何故か発散される怒りがアイリスに質問をするだけの余裕を奪っていた。
そしてしばらく。ふつふつと自分の中で主張を大きくしていくのは――恐怖。未だ悲しいという思いを抱けない自分に対するどうしようもない恐ろしさが心臓に溜まっていくようだった。
コハネの発言がまだ外れたわけではないことに気付いてしまったから。
自分がもしも悲しさを感じるならば、一体何に対してか。それを考えれば自ずと最悪のヴィジョンにたどり着く。コハネの言葉など信じるべきではないとわかっているのに、心に言葉が反響する。
悲しくなるというのならばそれは、きっと……。
一瞬空が白く染まった。一拍遅れで雷鳴が轟いた。
反射的に辺りを見回したアイリスは、光源を見つけた。
赤と黄色が鮮やかに、黒が空へと立ち上る。
町外れの一角が燃えていた。
同時に、
『コハネを見つけました』
ブックの声が光天から発せられた。




