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すいません、予約がうまく出来ていませんでした。
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薬師の妹、車いすの少女メルシー・ゲットリッドは、アイリスの顔を見て何故か驚きと訝しさを半々に混ぜあわせたような表情を垣間見せたが、手紙のことを伝えると家の扉を大きく開いてアイリスとツバサを招き入れた。
「兄は問診で街に繰り出している最中で、ごめんなさい」
手紙を読み終え、メルシーは心の底からほっとするような慈愛の笑みを浮かべ、ついで済まなそうに言った。腰にかかるほどの流麗な黒髪が波打って、目に掛かった前髪は指でさっと払われた。
「なんも言わずに来たのはこっちだからね。むしろお茶を用意してくれてありがと」
お互い初対面のはずなのにツバサはなんとも馴れ馴れしい。メルシーが手紙を読んでいた時から彼女は常に口をもごもごさせていた。テーブルにはハーブティーとバスケットが置かれており、一口サイズの菓子パンがバスケットの中に入っている。
ここに来る前に立ち寄ったパン屋の親子ーー応急処置を手伝っていた親子はパン屋を営んでいたーーが手紙を受け取ったお返しにとアイリス達に持たせたバスケットで、ひとつはリハビリ中の彼に、もうひとつは自分たちにと手渡してくれたものだった。その大半が食欲旺盛なツバサに飲み込まれている。
アイリスもティーカップに手をかける。
マドニア城下から少し離れた小高い丘に薬師の家はあり、その庭で採れたハーブを煮出したハーブティーのスッと鼻の奥に抜ける爽やかな匂いはアイリスの不安感と焦燥感をいくらか中和してくれる。
「良い匂い」
「そう言って頂けると、兄も喜ぶと思います」
「お兄さんが育てているのね」
「はい。日常生活には不自由していないのですが、畑仕事となるとどうしても」
動かない膝を撫でるメルシーは、折り合いがついているのだろう、感傷を感じさせない。
「それに兄は草花を本当に生き生きと育てるんです、まるで会話でもしてるのかと思ってしまうくらい。庭の植物たちは今まで一度も枯れたことがないんですよ」
自慢げな語りに気恥ずかしさでも覚えたのか、メルシーは「ただ兄は少々不器用なところがありまして、料理や調剤はわたしが行っているんです」と可愛らしく結んだ。
「互いに支えあっているのね」
パン屋の親子からゲットリッド兄妹の両親が既に亡くなっていることを聞き及んでいたが、どうやら彼らはそれを感じさせないほどの強い信頼で結ばれているようだった。
それはそれは眩しくて、それはそれはーー苦しくて。アイリスはこの複雑な感情をぽつりと羨ましいという言葉にのせた。
「だからアイちゃんはコハ姉にあんだけ入れ込んでるんだね」
はちみつの甘い匂いをさせながら、ツバサが思いの外耳元で囁くものだからアイリスはビクリと体を震わせた。アイリスの肩で両手を合わせて、その上にあごを乗せる形でツバサがニヨニヨと笑いこんでいる。
「だったら、ぼくのお姉ちゃんになってみるのはどう? きっと愛満ち満ちた悪戯の真髄に嬉しさで涙がちょちょぎれちゃうかもよ?」
「あら、私を舐めないで下さる? ツバサの悪戯程度軽く流せるだけの教養とおおらかさはお父様とお母様から頂いているわ」
ツバサの額を指先で軽く突いてアイリスは不敵に笑う。
「仲がよろしいのですね」
菓子パンをひとつ飲み込んだメルシーは、空になっていたツバサのカップにハーブティーを注ぐ。
「アイちゃんがあたふたしているのは見ていて楽しいからね」
慌てた時のアイリスの様子を暴露しかけたツバサの口は、アイリスの手でしっかりと蓋をされた。大口を叩いたところで、いつもいつもツバサのほうが一歩上手なのがバレてしまうからだ。
アイリスはバスケットに手を伸ばして、そこにもう何もないことに気がついた。これ見よがしに最後の菓子パンを掲げているツバサにため息一つ。
「少し長居し過ぎました」
「もう少しゆっくりしていかれてももいいんですよ」
「いえ、今日はもう。少し心残りがあるもので」
窓の外で雲は厚く、身に蓄えた水分が雨に転じるのは時間の問題のように見える。
テーブルの上にある食器を片付けようとするアイリスを恐縮するようにメルシーは止めたが、これぐらいのお礼はさせてとアイリスは続ける。
「あなたの淹れてくれたハーブティーは今まで口にした何よりも美味しかったわ」
食器を水で洗い流しながらアイリスは言う。
「またお邪魔しても?」
「えぇ、もちろん」
次はまた違うハーブティーをごちそうさせてくださいと言うメルシーにアイリスは心から微笑むと、メルシーは出会った時と同じ驚きと訝しさを顔にする。
どうかしたのかとアイリスが尋ねると、メルシーは柳眉を少しだけ下げた。
「やっぱり似ています。アルマさんの娘さん……というわけではないですよね」
アイリスの目には、言に相反する少量の希望を確信で希釈して吐き出したメルシーが映っている。
「確かにすっごい似てるけど、アイちゃんは違うよ。最近うちに来たばっか。世界には自分のそっくりさんが二人いるっていうけど、これはもう確率にめっちゃくちゃケンカ売ってるとしか思えないよね」
というかアルマんのこと昔から知ってたの……というツバサの質問には、ひと月前のあの時が最初とメルシーは返した。
「アルマさんにもハーブティーを美味しいと言ってもらえたんですよ。あの時は状況が状況でこんなに和やかな時間にはなりませんでしたので、アルマさんにも是非ともまた来てもらいものです」
「では、そう伝えておきますね」
アイリスは最後の食器を洗い終わった。
思いの外話し込んでしまったとアイリスは思う。
「メルちゃん、なんか隠してたね。多分アルマんと初めてあったのもっと前なんじゃないかな」
「そう……」
「というかメルちゃんの名前どっかで見たことある気がするんだけど、どこだっけ」
「どこだろう……」
靴底が素早いリズムを刻んで、ふくらはぎがいつも以上の大股に引っ張られている。雲行きもいよいよ怪しく、鼻孔に強い雨の匂いが入り込んでくる。ハーブティーの香りが追い出されて、今はもう少しも感じられない。
「そんな急がなくたって大丈夫だよ」
「でも」
まるでメルシーの淹れたハーブティーがほんとうの意味で様々な負の感情を散らしていたのでは思えてしまうほど、アイリスは焦っていた。
「コハ姉がヴィネルマにいる限りは誰も危害を加えることは出来ないよ。アイちゃんの言うその男が、どれだけのものを腹に溜め込んでるかは知らないけど、その腹に溜め込んでいるものの|せい(、、)で男は絶対何も出来ない。ヴィネルマのセキュリティについてはアルマに聞いてるんでしょ?」
ヴィネルマのセキュリティ。推量ではなく確信を伴って最先端で最高峰と万人が知る。
文明の象徴と謳われるヴィネルマを象徴足らしめているのは、何をおいてもまずは数。文明基板を形作る魔術の圧倒的数量が成しえる知識の要塞。物理的であれ魔術的であれヴィネルマへの干渉が悪意で起こされた現象であるならば、ヴィネルマは保管された魔術書から対現象を起こすものを自動で見繕ってそれを相殺する。それを実現するための類推機構と学習機構が他の組織のものに比べて著しく正確であること。アルマ曰く、これら機構より更に上の層にセキュリティを絶対たらしめる機構なりが存在しているようではあるが、それは代々ヴィネルマ図書館館長によって秘匿されている。これらを議題に掲げ、ともすればヴィネルマと他の魔術基板に数十年どころか三桁の隔たりがあろうともおかしくはないと断じる学者も中にはいる。ただ、時間すらもいっそ神話から現象に落ち込んだことを知る身としては、その時間の隔たりにどれだけ意味があるというのか。
とは言うものの、ひとまずヴィネルマに属する|もの(、、)は一切、正規の手続きに沿わない限りはその内に封じられるのは記録として確かだった。手続きには有意思な対象への意思確認も含まれる。男はコハネを如何とも出来ない。
「でもコハネが悪意を受けて震えていた時、男がヴィネルマから制止を受けていたようには見えなかったわ」
「ならそれは男がコハ姉に邪な感情を持ってなかったってことじゃないの」
「コハネが震えた理由がなくなるわ」
なぜとツバサが言う。なぜ震えた理由を悪意と直接結びつけるのと。
「多分何かに怖がってたのは確かなんだと思うけど、怖いって別に自分に向かってくるものだけに感じるわけじゃないじゃん。目の前で誰かが誰かにナイフでメッタ刺しにされてたらぼくだって怖いと思うよ。多分体だって震える。でも、メッタ刺しにしている奴の悪意ってされてる方に向かってるだけでぼくには向いてないでしょ。見ているぼくが自分にも危険があるかもと勝手に思って怖がるだけーーコハ姉はヴィネルマの外に向けられた悪意を、『天啓の折』で掬い取っちゃっただけなんじゃないの? まぁそれはそれで問題なわけだけど、少なくともコハ姉は安全でしょ。さっきの例なら口封じのためっていう線はあるけど、男は悪意のナイフで何かをメッタ刺しにしている姿をコハ姉に覗かれていたとは夢にも思わないだろうからね」
ちょっと頭が硬くなってるんじゃない? とツバサに言われてはアイリスも二の句が継げない。視野狭窄は確かに起きていた。ただ同時に、ツバサはあの時のーー去り際の男が纏っていた妖気とでも言える空気を直に感じていないからこんなにも軽く考えていられるのだとも思っている。
窮鼠の気。何を仕出かすかわからない状態。
でも……とアイリスは続ける言葉を持たずして口にして、やっぱり何も思い浮かばないまま口を閉じた。それに一体どのような悪感情を抱いたのかはわからない。それでもツバサは多分に棘を含んで、
「コハ姉ラブですか。そうですか」
驚いてアイリスがツバサに目線を合わせようとも、そっぽを向かれてはそれも叶わない。アイリスの未練がましい言動に辟易したにしては、ツバサの節々から発せられる毒は強力で、けれどもアイリスに対する指向性を持ちあわせてはいない。いみじくもツバサが例えたコハネと男の関係を肌で感じている気分になった。
「まぁつまりはこんな感じだよ」
そして毒は中和される。
この切替の鋭さがツバサが悪戯の真髄と掲げるもので、アイリスはいつもこれにやられる。今だって呆気に取られたアイリスは抱きついてきたツバサを背負って、ほっぺたを突かれるに任せている。ただ、違和感もあった。ツバサにしては珍しいミスだった。それは悪戯を意識したアイリスがその悪戯の尾を引いているということ。毒が中和された末に薄っすらと撹拌されている結晶を見ているようなものだ。本当に薄っすらと。この結晶すらろ過してしまうような後味の良さがツバサの悪戯でーーつまりは、ツバサは本調子ではないようだった。
「ごめんなさい。いま一緒にいるのはツバサなのにね」
つまりはこういうことだった。可愛く妬いている。アイリスはそう捉えた。
「仕方ないよ。コハ姉はダメダメなところがあって、自分よりも他人が気をもむことが多いんだから」
しとしとと雨が降ってくる。
「雨もか。まったく」アイリスから離れて、ツバサは足の筋を伸ばし始める。「さぁ日頃の成果を見せる時だよ、アイちゃん。競争だ。愛しのコハ姉にどちらが先にたどり着くか、普段の二割ぐらいでお相手しよう」
「ちょっと待って。今私スカート履いててーー」
「問答無用」
ひどいもので、ツバサは翻るスカートに気を取られたアイリスを眺めることで意趣返しとしているらしかった。ヴィネルマまでの距離と雨脚は反比例を関係として採用したのか、意趣返しや競争などと言っていられたのはかなり早い段階までで、すぐに黙々と駆けていく。
傘を借りることなど、曇り空を見ても思いつきもしなかった。それは用意されているものだった。最近はこのような差異もほとんど起こらなくなっていたが、いざ起きれば教師が記憶を促す罰則を与えるように何かが身に降りかかる。
今回は雨を象った。
不安を励起する冷気の粒。
ふと、以前どこかで経験したことのように感じたが、雨に打たれるなど城の者が許すはずもないので、夢かデジャビュの類だろう。こんなことなら誰かの言付けを律儀に守ってばかりではなく、雨空のもとに飛び出せばよかった。
確かに不安はせり上がる、けれど同時に流されてもいく。
アイリスは意外にも心地よさも感じていた。少なくとも悲しさはない。
コハネの言ったことが外れただけだというのになぜだかすごくおかしな気分になる。
思えばコハネの言うことには不思議な説得力があるのだった。論理的ではない、むしろ感情的な子供らしい意見に何故か自分の心は確信を得るかのように、満足するのだ。
結局、アイリスとツバサがヴィネルマ図書館の扉を潜った時、雨に足止めを喰らわされた一般客の層を交わして女性司書が一人近寄ってきたことに疑問を感じはしたものの悲しみはなく。
その人がコハネの面倒を見てくれるようお願いした女性で、顔面蒼白の彼女はアイリスの前で深々と頭を下げると申し訳ありませんと謝って来たことに異常を感じたものの悲しみとは無縁で。
息切れするアイリスときょとんとしたツバサにコハネが誘拐されたと小声で伝えたところでアイリスは驚愕に目を見開くばかりで悲しみを感じる暇はなかった。




