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環境が大きく変わるというのは思った以上に体に応えるもので、アイリスはしばらくの間物がうまく喉を通らなかった。生活のペースは大きく崩れ、昼間に寝こむことも間々あった。
見かねたガルドがアイリスに朝の鍛錬を課して、シシーやツバサと共にヴィネルマの周りを走らされるようになってようやく、アイリスの生活に芯というものができたのだった。
ヴィネルマの敷地は広く、課された五周というノルマすら一月経った今でも達成出来てはいないが、いつもぴょんぴょん飛び跳ねてるツバサはともかく、いつも本に埋もれているシシーにすら一周する間に四度追い抜かされるのは非常に悔しく、アイリスは鍛錬をまじめに続けている。最近足の線が綺麗に引き締まったのは女性として嬉しい限りだった。
そうして鍛錬を終えたあとは、汗を洗い流して朝食を取った後、図書棟に足を運んだ。
立ちくらみを起こしてしまいそうなほどの本の奔流から、毎日数冊を背表紙から掬い取って、共用の長机でペンを片手ににらめっこする。一冊のノートは二日もしないうちに文字がこぼれだした。
書かれている内容が頭のなかで訳も分からず踊りだした時は、より丁寧な説明を載せる著書を探した。
それでもなお踊る言葉が無規律な軌道を描き始めたら、アイリスはとりあえず誰かに尋ねてみることにしていた。言葉に秩序を与えるにせよ、今の自分にはそれが出来るだけの基礎がない。誰かしらからの補強が必要だった。それは、研究の合間に時折現れるアルマの場合もあり、館長室から滅多に現れないブックの場合もあり、もしくは一日中本に囲まれているシシーの場合もあった。
アイリスはもともと、何かしらの努力を重ねることにほとんど抵抗を持たない。興味を引く事柄についてはもとより、全く心弾まない事柄についても人並み以上の集中力を見せる。
そんなアイリスにとって、魔術はこれ以上ないほど魅力的な学問だった。
学べば学ぶほど、底が見えなくなった。
学べば学ぶほど、どっぷりと闇に沈み込んでいった。
その没入感は気持ち悪さを越えて、むしろ感動的ですらあった。
数時間の集中が苦にならない。少しの休憩を挟むだけで、アイリスの姿勢はたいてい精彩さを取り戻した。
それでも胸がどんよりと重くなり、知識を掬う網の目ががばがばに弛んでしまったとき、アイリスは気分転換のためにヴィネルマの中央広場に足を運び、芝生の上に寝転がるコハネに悪戯を仕掛けて、他愛無い話を楽しんだ。
新しい世界で出来た、新しい日常だった。
ヴィネルマ図書館で一日の大半を過ごすようになって、ヴィネルマ図書館従事者の少数から密かにこもりちゃんと呼ばれるようになったアイリスだったが、それでも、『影』についての話題がヴィネルマであがるたび、話題主に特攻した。
依然、『影』が現れては少なくない被害を周囲に及ぼしている。犬、猫、鳥、はてはカエルやミミズまで。国警が本格的に検挙に乗り出しても、『影』の様々な形態が報告されていくだけで、肝心の犯人については雲を掴むように進展がない。
犯罪調査が生態調査に取って代わりそうな勢いだった。調査に乗り出した人員が『影』の被害に合うこともあるようで、雲よりはむしろ熱された水蒸気でも掴んでいるのかもしれない。
ところで、アイリスをこもりちゃんと呼び始めたのはツバサだった。
そして五月の二十。曇天の空を傍目に流しながら、アイリスは医療棟へと向かっている。朝食を食べた後は図書棟に向かうのが常ではあったが、今日はその進路を変えていた。面会謝絶になっていた『影』の最初の被害者——脇腹を喰い千切られた探索者の男性が、リハビリテーションを始めたと知ったからだ。
医療棟二階はすべての空間をリハビリテーション施設として用いられている。エレベータから降りたアイリスは、施設の入り口を仕切るガラス扉の向こうに件の探索者を見つけた。
長椅子に腰掛けた彼は、リハビリを中断した直後だったのだろう、首筋に汗を滴らせながら手に持つコップを一気に呷っている。
いきなり話しかけて来たアイリスにうろんな目を向けた彼だったが、理由を話せば人懐っこい顔に笑みを浮かべた。
怪我の具合を確かめるのが第一ではあったが、同じくらいアイリスは、目の前の探索者とアルマにいったいどういった共通点があるのか、そこが知りたかった。
『影』は襲撃対象を無差別に選んでいるのではなかった。以前の襲撃でアルマだけが攻撃されたように、ヴィネルマで話題に上がる『影』達もまた何かしらの判断基準を持っている。
その基準を超えれば『影』は愚直に責め立てるが、下回っている場合はその場で揺れるだけの置物に成り下がる。
犯人から話を聞けない以上、『影』がどんな判断基準でもって相手を選別するのか知るためには、被害者の傾向を逐一分析して、定まらない輪郭から確固とした形を削り出す必要があった。
言葉には十分気をつける。事件の記憶に無遠慮に触れるのはご法度だ。
幸いアイリスは言葉遣いや話術について、城中で強く指導されていた。
それでもいい顔はされない話のはずなのに、探索者はよほど人がいいのか、彼が足を引きずってリハビリテーション施設に消えるまで、和気藹々とした雰囲気は続いた。
探索者に戻れるかはリハビリ次第。
彼が額に脂汗を浮かべて、引きずっていた足を曲げ伸ばししているのを眺めながら、アイリスは先の会話を反芻していた。
目的の情報は手に入らなかった。代わりに、二通の手紙が手の内にある。
探索者が薬師の兄妹と応急処置の手伝いをしていた親子——血塗れのタオルを抱えた女性と男の子——に宛てた手紙だ。
探索者は流れの身だった。もともと、外出を許可されていない自分の代わりに、ヴィネルマの誰かに頼むつもりだったらしい。
アイリスは今、ヴィネルマの司書服を着ていた。白いシャツにワインレッドを更に暗くしたシックなストライプベスト。同色のスカートは探索班のものとは違い、節度の保たれた丈をしている。
土地勘のないアイリスは、それでも託された手紙を自分で届けることにした。話のお礼としてこれぐらいはしようと考えたからだ。
お昼にはまだ早いこの時間帯、遺跡攻略に駆り出されていない時、ツバサは自室で鍛錬を続けているか図書棟で本を読んでいる。彼女に道案内を頼む腹積もりで居住棟へ向かう最中、迂回した図書棟でアイリスはコハネを見かけた。揃えたひざ上に置いた本を熱心に読み耽っている様子で、そろりそろりと忍び寄るアイリスが、背後から覗きこんで文章が読み取れる距離になっても、コハネは気づかずにページを捲り続けている。
アイリスはコハネの肩を叩いた。勢い良く振り返るコハネの頬に人差し指が突き刺さる。
特に意味はなかった。コハネの頬が柔らかいことは知っていたので、なんとなく変形させてやろう。そういう心の持ちようだった。
膨らんだコハネのほっぺを潰す。慣れたやりとりだ。
「何を読んでいたの?」
「……ノスタルジアっていう本」
コハネの見せてくれた表紙にはバラの花をあしらった題枠とともに確かにそう書かれている。著名な児童作家の描いた勧善懲悪の冒険譚だそうで、近頃、巷の子供たちの間で人気のある物語なのだとコハネはたどたどしく説明してくれた。魔術のない世界の子供たちが知謀策略を勇気と機転で乗り切る場面が子供たちに強く受けていると。
魔術の有り無しは抜きにして、何処の子供たちも勇者やお姫様に憧れを抱くらしい。
この本についてコハネはもっと話したがっていたが、アイリスは途中で話を切り上げた。
もっと話していたいが、如何せん手紙を出すのが先決だ。
コハネは聞き分け良く頷いてくれた。一点、顔は全面につまらなさを押し出していたけれど。
戻ってきたらいっぱいお話しましょうとアイリスが言うと、ようやく素直な笑顔を見れたのだった。
「それじゃぁ、またあとでね、コハネ」
話の締めにアイリスはそう言った。
見に覚えのない事に対する叱責を、背後から、大声で、叩きつけられたかのような反応をコハネはした。
小鳥のひなが天敵に出会った時の防衛反応を人の身で行おうとして、不格好に体を縮こまらせたようにも見えた。
なんでもないとコハネは首を振ったが、未だ何かを恐れるかのように首を竦めている。
本から抜けだした悪魔が、本棚の影から、本の間から、背筋も凍るような呪詛をコハネに浴びせかけているようだった。
もちろん、そんなものはいない。幻想の類だ。魔術が生き物を象ることはあっても、悪魔に天使、ドラゴンなんてものは言葉の並びや絵のうちにしか存在しなかった。
それに、たとえ居たとしても、ヴィネルマの防衛機構ならばきっと勇者の一太刀よりも迅速に処理してしまう。
だから、これは何か別の要因……。
その時アイリスが後ろを振り返ったのは、全くの偶然だった。
男が一人、本棚を幾つか挟んだ先から現れて、ヴィネルマの出口へと向かっていく。途中、目があった。
隈の酷い目元は落ち窪んで、頬も痩けて……何より、男の胸には、球体を鷲掴みにする猛禽の図——オノギス王国の国章が厳粛に輝いていた。
コハネを借り受けたいと言っていた男だった。
凛とした猛禽の威容と鬱ぎ込んだ男の異様がひどく歪に絡まり合って生まれた形容しがたい臭いが、彼の周囲にどろどろと漂っている。歯を折られたあげく、猫の前に放り出されてなお生にしがみつこうとする窮鼠がもしもここに居たならば、きっと彼のことだろう。
本の城から鼠が立ち去り、小鳥はやっと震えを止める。けれどもその瞳には不安がありありと見て取れた。その不安の色が脱色されるまでアイリスはその場でコハネの背をさすり続けて、そうしてやっと二人は図書棟を後にする。
『ノスタルジア』を胸に抱えさせたままアイリスはコハネを居住棟の自室まで連れて行くと、図書棟にはしばらく行かないようにと念を押した。
コハネのもとを離れるのは心配ではあったが、手紙を届ける約束をしてしまっている。約束は果たさなければいけない。
アイリスはツバサを誘い、途中出会った司書の女性にコハネの面倒を見てもらうよう頼むと手紙を届けに街へ繰り出した。
道中ずっとアイリスがもやもやとした後悔に苛まれ続けていたのは、ただコハネをおいてきてしまったからではない。彼女の言った一言が無根拠に心を縛り付けてきたからだった。
コハネの部屋から出て行く際に、アイリスのスカートをちょこんと摘んだコハネはこう言ったのだ。
「なんとなくだけど、アイお姉ちゃんは今日外に出ちゃだめな気がする」
きっと、悲しくなるからと。




