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原書の罪  作者: 玉之浦椿
起ノ章
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        /1



「時の子さんですか?」

 目の前の顔は言う。意味が分からなかった。そのくせ、冗談を言っているにしては顔つきが至極まじめだ。そもそも冗談を言える関係ではないだろうし、もっと言ってしまえば、その顔に見覚えはない。初対面だ。

 上半身を起こした状態、ぼぅと霞んだ頭でそんなことを考えた。夢心地で、今日のベッドは硬かったなという思いと同列に処理されて消えてしまうような儚いものだったけれど、それは後者が消えた後もひたすらに残り続けていた。理由を挙げるならば、自分を見つめる両の眼が夢よろしくに霧散しないからだろう。青色の瞳。無邪気そうにこっちをのぞいている……。

 アイリスは後ろに退いた。体裁なんて考えている暇はなかった。

 驚いて反射的に逃げようとしたものだから背中から転がるように——というよりは、腰のあたりを強く引っ張られて背中から転がっていた。見れば足首に掛かる丈のスカートを自分は履いていて、その裾を自ら踏んでしまったようだった。ズキズキと痛む背中に自分の中を漂っていた靄が晴れていく。

 何かがおかしい。

 果たしてその思いは場違いなものだっただろうか。まだすこし夢を見続けていたのかもしれない。

 今アイリスの居る状況は、おかしいで済まされるほどのものではなかった。

 静謐さあふれる伽藍堂。空間を仕切る絵画の限度を越えたディテール。自分が横たわる床の異様な滑らかさ。どれもアイリスの部屋にはないものだ。今着ているドレスや靴にだって見覚えがなかった。なぜか自分が誘拐されたと考えるよりも前に、自分が何か違うものへと変質してしまったように感じられて、アイリスは両の手のひらを覗き込んだ。

 傷のない真っ白な手。ほとんどの仕事を他人にやってきてもらった手。——よかった、私だ。

 ならば、やはり自分は誘拐されたのだ。目の前の者達に。

 さっき覗きこんできた少年には仲間がいた。男が一人、少年から少し離れた所に立っている。きっとその男に運ばれたのだろう。人間の一人や二人軽々と持ち上げてしまいそうな巨漢だった。

「答えて。あなた達は誰。私を何処に連れてきたの」

 時すらも止まてしまいそうなこの場所は、音の波すら受け入れがたいのか、声がよく響く。声色の細かいところまでを忠実に跳ね返してくる。アイリスの声は震えていた。

 何かを考えるように天井を見やって、少年は話すことが決まったのだろう、開かれた口は男によって塞がれた。耳障りな音が鼓膜を擦る。

 何の錯誤か、男は数多のつるぎをマントを羽織るような気軽さで身に纏っている。生き物を殺すための道具が、身じろぐ男に合わせて舌なめずりしているよう。アイリスの視線は勝手に彷徨って、ふと、少年の方を向く。

 男だけじゃない。少年もおかしなものを持っていた。

 尋常ではない大きさの本が、巨人というものが存在するならば彼らの辞書にでも使われていそうな本が、華奢な体躯の少年に背負われていた。まかり間違って転べば、背中の自重はあっさりと少年を押しつぶしてしまいそうだ。

 それを軽々と背負う少年の異様さ。——いや、そもそも本自体が発する異様がアイリスを震わせていた。

 何故かは分からない。でも、この本はいつか私を粉々に砕いていく——そう感じずにはいられない。

 頬をぷっくりと膨らませた少年の事を無視して、男が口を開いた。

「俺達は司書ライブラリアン。まずは落ち着け、話はそれからだ」

「落ち着けるわけがないでしょう、知らない場所で、知らない誰かに」

 剣は明確な脅威で、本は不穏な怪異でアイリスを攻め立てる。

「分かる、が、話を聞く姿勢だけでも整えてもらわなきゃ困る。動揺しているのはこちらだって同じだ……あぁ、すまない」

 男が背中に腕を回したかと思うと、纏っていた剣がその場に落ちた。鞘や柄が大理石でヒステリックな音色を叩いて、アイリス自身、萎縮した体が甲高い悲鳴を垂れ流す。

 目一杯息を吐き出したら次は吸わなきゃいけないのに、喉の奥につかえができたように息が詰まり、無理に吸おうとする度より密に気道を塞いできた。

「筋道立てて説明するにせよ、まずは互いを知ることが先決だと思うんだが」

 呼吸すらまともに出来ないのに、会話なんてそれこそ無理なことだった。落ちた剣をその場にまとめ上げ、地べたに腰を下ろすまで男はそんな簡単な事にも気づかない様子で、気づいたら気づいたで両手を挙げつつ一言謝ったきり動きを止めて微動だにしない。

 少年も男の肩越しにちらちらとこちらを窺うばかりで、空間の時は氷結した。


 氷解にどれだけかかっただろう。

 いつまでも実害に及ばない恐怖に心が慣れてしまったのか、もしくは麻痺してしまったのか。

 彫像張りに不動を貫いた男を前にアイリスは落ち着きというものを取り戻し始めていた。反動かは知らないが、同時に怒りも。

「もういいか?」

 睨みでもってアイリスは返答した。それでも、男の真面目くさった顔は崩れない。

「ガルド・クォーツ。ヴィネルマ図書館専属司書、遺跡攻略部門長を任されているガルド・クォーツだ。それでこいつが」

「シシーだよ〜」

 シシーは感情を素直に出す子なのだろう、さっきまでは怯えて男——ガルドの背に隠れていたというのに、今は起き抜けのわたしを覗いていた時と同様、不躾な興味の視線を向けてくる。

「こいつもヴィネルマ図書館専属司書、遺跡攻略班所属。本名はシシー・ノーレッジ。俺達は此処に安置された魔術書の回収をおこなっていただけだ。決して、お前をどうにかしたこともどうかすることもない」

 これが証明だ、とガルドは一枚の板を投げてよこした。

 手のひらに収まる程度の長方形。角は丸みを帯び、手触りはつるつるしている。硝子みたいだけど厚紙ほどの薄さしかなく、両端を持って軽く力を入れてみたら割れることもなくしなやかに曲がった。固い手応え。

「力むなよ、折られると困るんだ」

 ぱっと板から手を離した。支えを失った板は重力に引かれてわたしの膝に落ちていく。改めてまじまじと覗き込んでみれば、表面には文字や紋様が書かれていた。金字が黒の地に映えている。きっとこの模様が彼らの証明シンボルなのだろう。裏返してみれば、ガルド・クォーツという名前が目に入った。描かれた模様の厳かさも、でこぼこ一つない表面の滑らかさも、確かにそれ自身が意味を持つことの現れのようだった。

 けれど、

「だからどうだというの? こんなものを見せられても、どう反応すればいいのか分からないのだけれど」

 アイリスにとっては名前の書かれた板きれ一枚。価値など分かるはずもない。

「ヴィネルマ図書館を知らないのか?」

「知りません。騙るなら騙るで、もう少しましな話を拵えるべきです。それとも、わたしはそんなに幼稚に見えましたか。賢者の石や飛行術を信じこんでしまうような気の触れた人間だと。魔術なんてものは児童か秘密結社にでも語りなさい」

「……後者についてはあながち間違ってはいないんだが」

 ガルドは切り揃った黒髪を一度撫で付けその鉄面皮に小さくしわを刻んだ。それは聞き分けのない子供の戯言に眉根を寄せているように見えて、アイリスは反論するべく口を開いて、閉じた。シシーがよりひどく、よりわかりやすく困惑していたからだ。

 明らかに手入れされていない髪は緑銀を湛えて、頻繁に跳ねながらシシーの膝下ほどまで伸びている。草葉を掻き分けて呆け顔を覗かせる形で、阿呆さが透けて見えるようだ。

 言動の端々に垣間見える外見も性格もどこか対照的。中心を挟んで対をいく二人が、同じ心象をアイリスに映している。

「シシー、魔術のない時代からの時渡りなんてあり得るのか?」

 ガルドの口から飛び出す不穏な言葉。荒唐無稽だと笑い飛ばすか、ちゃちな騙りだと肩を怒らすべきところだ。けど、出来ない。顔をしかめたガルドも、「さぁ?」と小首を傾げるシシーも演技とは到底思えないものだった。

 普段から他人の上辺や下心を見つめてきたからこそ分かる。どんなに我が目を疑っても、どんなに和が目を凝らしても、彼らは、特に少年は自分の言動を偽ってなどいないと。

 当たり前に過ごしていた世界が音を立てて崩れて、塵芥は茫洋として不安に満ちている。きぃんという耳鳴りは世界崩落の音色だろうか。嘘だ虚言だと否定しようにも、そんな自分自身が否定されてしまう空気が、この空間にはあった。

「とりあえずおいておこう。名前を聞かせてもらえるか?」

 アイリスの中で誘拐されたという疑念は薄まっていた。それ以上に、より異常な事態に巻き込まれているのだという意識が執拗に心をひしいでいた。

「アイリス・フランロッド・イリール……」

 アイリスは敢えて言葉を止めた。

 反応を期待してのことだったが、すぐに無駄だと分かってしまった。

「驚きませんか」

 二人はそろって首を傾げている。その邪気のない首の角度が、日常へと帰る道を修繕不可能なほどに折り曲げた。

 アイリスはスカートの端を持ち上げる。声色は毅然と。その実、どうにか自分を保とうとして。

「イリール国王主、ファーゼン・フランロッド・イリールを父とする第一子です」

 仰々しい挨拶に、少しの間が空いた。

「ほんのちょっと先の未来なのかもしれないね〜」

 その瞬間、シシーの言葉はアイリスの理解の範疇を越えていた。少し考えて、先程の会話を蒸し返したのだと理解できたが、その時にはシシーの接近を許していて。

「ねぇねぇ、魔法見たことないんだよね?」

 見せてあげるよと小走りで近づいてくるその唐突さにアイリスは体を強張らせた。シシーは目の前で立ち止まると両手を差し出してみせる。隙間を空けず、お椀のような形を作っている。

 その手のうちには何もなかった。

 戸惑ううちに、アイリスは音を聞く。言葉だけれど、意思疎通という用途の一つを一切排除したような、平坦で感情のない、音の羅列。

水の一単語(ネロ)

 本に書かれた文字をなぞっているような錯覚が、アイリスにはあった。読んでも読んでも理解できない文章の上をしばらくすると視線が滑りだすように、そのままうとうとと浅い夢の中を漂っているのなら逃げ道としては十分なのに……

 地面を跳ねた水滴が脛にかかった。冷たさは、本物だった。

 シシーの手から今も沸き出す水の流れが、床を覆っていき、アイリスの常識も覆していく。

 これが魔法だよとシシーは言った。



「本題だ」心を整理する暇もなく、ガルドが畳み掛けてくる。「今お前がおかれている状況だがな、」

「過去」アイリスは、途中で言葉を遮った。「または未来から来たのだというのでしょう」

 そしてきっと、今は帰る術がない。

「あぁ、そうだ。未来から来たのか過去から来たのか、それはわからない。それ以前の問題として生物が時を越えると言うこの事態こそが前代未聞だからだ」

 動揺する体に言葉はするりと染みこんでいく。身構えていてもやはり、頭を打ち付けたような衝撃をアイリスは味わった。痛みはない、けれども意識は遠くなる。既に顔を上げることすら億劫になっている。だから、上目遣いでガルドを見つめた。

「……ねぇ、本当にわたしの国、知らない?」

「……聞いたことがない」

「帰る方法は」

「現状、人類は時を超える術を持っていない」

 ガルドは苦虫でも噛み潰したように、顔をしかめている。言外でもなく、帰れないことを是とする意味合いで、ただし多少の希望を残したのは自分がここにいるからだろうか。

 ——私が、ここにいるから……。

「泣いてるの?」

「いいえ。ただ、この理由わけもわからない出来事に圧倒されていただけです」

「……泣いたら少しは楽になるかもしれないよ?」

 シシーという少年は感情表現だけでなく感情移入も激しいのか、アイリスから見ればむしろ自分よりも目元口元を歪めているように感じた。感じただけだ。事実かどうかははわからない。ここに鏡があればシシーよりももっと顔を歪ませている自分が写っているかもしれない。

 アイリスは目を閉じて少しの間脱力した。その顔はきっと、余り人には見せられない顔だろうから。

「……そんなことはしません」

 幾つも吐き出したい思いがあったが、結局口をついて出たのはそれらを包み隠す上辺の虚勢だった。

 言いながらも気づいている。これはただの強がりだ。

 本当は、早く私を元いた世界に帰してと喚きたかった。けれど現状はそれを良しとしない。周りに見窄らしい姿を晒すなんてことは自分のうちにある何かが許さなかった。自尊心か教養か、はたまた親への尊敬か。

 普通ならば、納得できるはずもない。過去や未来から来たのだなどと言われて信じられるはずもない。けれどもアイリスは見てしまった。幻想的な燐光を閉じ込めて、シシーの組んだ手のうちに何処からともなく水がわき出す光景を。その信じられない光景は、ひどく現実的で、夢の入り込む余地などないほどに冴えた思考が、もう魔術というものを認め始めてしまっていた。

 密閉された空間では、空気の流れは殆ど起こらない。水面は荒立つことなく、アイリスを映し込んでいる。

 アイリスは水たまりに片足を下ろしてみた。ともすれば、ピンと張った糸にハサミを通すように、勢い良くこの視界から雲散霧消するかもしれない。

 実際にはそんなことはなくて、ぱしゃんとつま先が水を持ち上げて、波紋がそこに映るアイリスの顔を歪ませる。

 崩れた顔を見て ふと 思った。


 ——この力があれば、この力さえあったら……


「アイリス?」

 冷や水でも浴びせられたように、背筋が震えた。自分は、何を考えていた? この力があれば……何?

 名前を呼ばれなければ、その答えが無意識に浮かんできたかもしれない。でもそれは、思ってはいけないものだった。考えてはいけないものだった。そんな気がする。

 心の奥底のもやもやした部分に、何か得体の知れないモノが住み着いてしまったような。ぽっかりと開いた心の穴が何かに塞がれてしまったような。

 そんな悪寒や充足感を、アイリスは頭を軽く振ることで払う。

 見れば、すごく心配そうに見つめる青色の瞳がそこにはあった。

「だいじょ〜ぶ?」

「えぇ、ちょっと考え込んでいただけです」

 ふと気づいてしまった傷が途端に痛みを訴えだすように、振り払った感情が強さを増して縋り付いてくる。

 気持ちよさと気持ち悪さの同居。生来生じたことのない感情が何故生まれたのか。

 理由もなしにこんな思いを抱くはずもないのに、過去を少し辿っても理由が見つからない。

 夜、いつもの様にベッドに潜り込んで、気がついたらここにいた。いつも通り。そう、いつも通りだったのだ。何も変わり映えしない。侍女に起こされて、日に日に重くなっていく気分にため息をはいてごまかす毎日。周りの人たちが自分に気を使うのがたまらなく辛くって、でもそれは毎年のことだと受け入れていた。

 一日一日と過去を遡っていくが、どれも同じようなものだった。それでも世界は変わっているんだなんて考えをアイリスは持っていなかったため、覚える努力をしなかった記憶は掠れて不明瞭に映し出される。

「……一度出るか」

 ずっとここに居るわけにはいかない。遺跡の外に人を待たせているとガルドは言った。

 正直な所、それはありがたい申し出で、少なくともアイリスは悪感情への流れを一時的とはいえ棚に上げることが出来た。

 帰り支度を始めた二人を眺めながら立ち上がると、見知らぬ自分の黒いドレスが悲しそうにその身を震わした。いつもの寝間着ではなかった。修飾は最低限で儀礼的。普段、侍女が渡してくる寝間着とは趣が全くもって異なっている。

 つまりは、この服はわたしがベッドで寝入ってから着替えさせられたもので、誰が、何故こんなことをしたのか、何故自分は気づかなかったのか甚だ見当がつかなかった。

 ひどく不気味な事柄だが、解答をもたらすものはいない。自分の意識しないところで自分を弄られる怖気を鍵に、アイリスはそれを記憶の片隅に置きやった。

 改めて辺りを見渡すと、おおよそ部屋の中心に自分達は居ることがわかる。円状に広がる空間はがらんとしていて、けれどももの寂しい場所ではなかった。というのも、壁一面には匠が己の命を分け与えたかのようにいきいきと描かれた大衆が居る。どこから発せられてるかも分からない光りに照らされて、彼らは必死に手を伸ばしている。血まみれで、目が血走っていて、刃毀れした簡素な武器が燃え盛る火炎を映し込んでいる。

 負の方向へ脈動するこの生々しい息吹は、明らかに戦争の縮図だった。

「ここが遺跡?」

「あぁ」

 これは過去の歴史だろうか。

 さっき彼らは遺跡に魔術書なるものを取りに来たと言っていた。遺跡が粛々と守ってきたものはつまりは戦争の道具だったのだろうか。

 魔法というものが存在するならば、すぐにでも思いつける使用方法。先ほど感じた悪寒と充足感が、心の奥底をまたしても満たしていく。

 絵画の大衆が欲望と狂気に侵された瞳で見つめる先、ちょうど出入り口の扉の上に、彼らに睨まれながらも穏やかなほほ笑みを湛える女性が一人、祈るような優しさで一冊の本を抱いている。

 戦争の画から、神々しさでもって切り取られた一端の絵画。

 その絵画がひどく不気味に思えて、アイリスは目を背けた。

「遺跡が守るは一綴りの叡智。なんて言うと聞こえはいいんだがな」

「要は使い方次第ってことでしょ〜。まぁ、戦争しちゃってるけどね」

 ガルドが扉に手をかけた。シシーもいつの間にかガルドの後ろへと移動していて、楽しそうに体を振っている。

 軋むことなく開いていくつがいの扉。隙間から差し込んでくるまぶしいまでの光が二人の姿を影として切り取った。

「それにしても、時の魔術書なんて手に入れられたら世紀の大発見だったのにね〜」

 影の一つは流れ星を見逃した子供めいていた。

「まぁな」

 もう一つはそんな子供を慰めるために頭を叩く父親のよう。

 その情景の中に自分はいない。

 アイリスは、動けなかった。平坦だった記憶の地に植物の芽が一つ、育ったから。

 抜いてみたら今まで忘れていた一つの場面がそこに繋がっていた。

 父と顔のない二人の学者。楽しそうに話し合っている。学者の一人は流れ星を見逃した子供めいていて、もう一方の学者はそれを慰める父親めいていた。遠巻きにいる小さな私は少し不貞腐れ、微笑む父を眺めている。二人に父をとられたと思っているのだ。

 ——父にも笑顔を見せるときがあったんだ。

 そんな当たり前なことを今まで忘れていたことに、少し驚く。

 同時に、さっきの答えが何だったのか分かった。

「いくぞ」

「……えぇ」 

 いったい、どうしてしまったんだろうか。


 記憶の中の私は、顔のない誰かを、つまらなそうに見ている。

 私は、記憶の中の顔のない誰かを、無性に殺したくなったのだ。


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