人体実験
「久保ちゃん……」
「うん」
訳が分からなかった。どうしていいか、分からなかった。何でこんなことになったのか。順調に、久保ちゃんと二人で生活していたのに……突然、この幸せが消えてしまった。もう、温和にこれまでのような生活は送れまい。俺は、この部屋にはもう居られない。そう感じた。
だから、出て行こうと思った。
「ただいま」
「……」
普段通りの笑みで、部屋の中に入ってくる男の他には、誰も居なかった。「榊」という女の姿はない。途中で別れたのか、どこかで待っているのか。
「あれ、笠原さんも居る……莱伽とは話したけど」
「笠原」という男は、むすりとした顔をしたままコーヒーをすすり、何も応えなかった。
「で、こんな時間にひとりでどこ行くの?」
のんきに笑みを浮かべながらそんなことを言うものだから、俺はついかっとなって、壁を叩いた。
「どこって……どこでもいいだろ!」
自棄になっているのは、自分でも分かった。そんな俺を見て、男はよしよし……と、子どもをあやすかのように、俺の頭を撫でて来た。そんな男を間近で見ると……顔には痣やら血の痕が残っていることに気づいた。
「久保ちゃ……その、傷」
顔の傷なんて、たいしたものではないことを俺は、知らされることになる。笠原が立ち上がると、躊躇いなく久保ちゃんのところまで歩み寄り、その左腕を掴み上げた。すると、久保ちゃんには珍しい……苦い顔を、一瞬だが見せた。
「痛いんだけど……笠原さん」
「だろうな。どうした、この腕……奴らか」
「奴ら」……っていうのが誰で、何のことを言っているのか。これまた俺には、検討がつかない。
本当に、何もないんだ……俺には。
「うん」
「こっち来い」
「うん」
どっちが家主か分かったものじゃない。だが、とりあえず俺はこの場から逃げ出すタイミングを逃したことだけは、はっきりした。
スニーカーを脱ぎ、スリッパに履き替えた久保ちゃんは、右足を引きずりながら、廊下を歩いた。その様子が気になって、凝視してみると、ジーンズに染みが出来ている。きっと……血が染みた痕だと覚った。
「藍、俺もここに居てえぇか?」
ライガだ。今まで傍観者を決め込んでいるのかと思ったら、ここへ来て口を挟んだ。もともと、ライガの電話に久保ちゃんから連絡が入ったんだ。久保ちゃんは、ライガに何か伝達することがあったということだ。
「うん、いいよ。おばさん元気? 急に居なくなったりして、平気?」
「さっき、メール打っといたで。しばらくは藍のとこに居るって」
話が、俺を挟まずに進んでいく。ますます、俺は「他人」だと言われている気がして、胸が苦しくなった。そのことを察してか、久保ちゃんは、ソファーに座ってから俺の方を見て、俺の顔色を伺った。
「秋、大丈夫?」
「えっ……ぁ、あぁ」
大丈夫なはず、なかった。
「大丈夫」
だけど、ここで見栄を張らなかったら、自分が惨めで仕方ないと感じて、こころが折れそうな自分の芯を奮い立たせた。
「……見栄っ張り」
そう、笑っていったのは意外なことに、久保ちゃんだった。
「見栄張ってんのはお前だろ、藍」
服を脱がされた久保ちゃんの身体は、荒々しく包帯でグルグルと巻かれていた。応急処置が施されているんだ。何てことはないなんて顔をしているが、よほどの失血をしたようで、笠原の言葉のとおり、見栄を張っているのは久保ちゃんの方なのかもしれないと思えてきた。痛いなんてものを、とおりこしているのではないだろうか。
「撃たれたのか!?」
ライガが心配そうに、今にも抱きつきそうなくらい、距離をつめてきた。そして俺は、そのライガの言葉に、耳を疑った。
今、なんて言った?
撃たれた?
「弾、抜けてるよね?」
久保ちゃんは、いたって冷静だった。冷静過ぎて、逆に怖いと感じるほどだ。弾、撃たれたって言ったら、「銃」しかないだろう? そんなものを軽々しく口に出来るようなところに、久保ちゃんは身を置いて、今まで生きていたということなのか? そうでなければ、こんなにも落ち着いて、自分のことを観察出来ないはずだ。普通なら、ライガや俺のように、慌てるはず。
いや、出血があるということだけで、撃たれたという発想が出てくるライガも、イレギュラーなのかもしれない。
「そうだな。被弾は、左肩と右足だけか?」
「うん」
どうしていいか分からない俺は、ただただ目を狼狽させて傷の塩梅を気にすることしか出来なかった。
「おい、秋月。救急箱持って来い」
どうして、こんなことになったんだろう。そんなことを考えていたら、笠原の言葉を俺は聞き逃した。その様子を覚って、笠原はもう一度、同じことを口にした。
「あ、あぁ」
俺は、急いで救急箱を取りにいった。その間に笠原は、久保ちゃんの身体に適当に巻かれていた包帯を外し、さらには当て布も取っていた。急ぎ足で持ってきた救急箱の中から笠原は、消毒液を無雑作に取り出すと、キャップを外して、どぼどぼとそのまま傷口にかけていった。相当染みるのだろう。久保ちゃんは、痛そうに目を細めていた。でも、傷口から目を離すことはなく、視線を落としていた。鮮血ではなく、すでに赤黒い血となっている。流血の早さから見ても、直に止まるだろう。
「傷痕が残るかもしれないが、縫合しておくぞ」
「ん、お願い」
「あれ、笠原さんって医師免許なんてあったん?」
ライガが顔を覗かせると、笠原は当然という顔で短く言い放った。
「細かいことを気にするな」
それでいいのか……と、俺は心底不安になった。
「あ、あのさ……救急車呼べばいいんじゃねぇのか? これ、撃たれたんだろ? だったら、警察も呼ばないと」
俺が恐る恐る意見を述べると、久保ちゃんは口角を上げ、うっすらと笑みを浮かべるだけだった。ライガは困った顔をして、笠原に至っては、若干怒り気味というか、呆れたような感じで俺に言い聞かせるように言葉を発した。
「お前が言うな。誰のせいで、こうなったと……」
「笠原さん」
どうして俺が責められなきゃいけないのか、全く分からない。ただ、久保ちゃんが仲裁に入ってくれたから、俺は怒りを面に出すことなく、ただ、困惑するだけに留まった。
「お前は過保護だ」
笠原さんは、おもむろに鞄から洋裁セットのようなものを取り出すと、それで傷口を縫い始めた。ごつごつとした手からは想像出来ない、意外と繊細な縫い口だった。
久保ちゃんは、何も語ろうとはしなかった。だから、俺も何も聞けないし、笠原は手当てに集中。ライガも、黙って見守っていた為、俺は自分のことを知ることも、久保ちゃんのことを知ることも、何もできなかった。
※
「いつまで隠し続けるつもりだ、藍」
まだ、未成年組の秋とライガを寝かしつけてから、俺は久しぶりに、笠原さんとふたり酒を飲み交わしながら語らった。熱が上がっていたところだったけれども、特に好きでもない酒をこの傷だらけの身体で飲んでいるため、相乗効果は著しい。
「いつまででも」
俺は、缶ビールにまた口をつけた。
やはり、苦い。
だが、痛みを忘れるにはこれくらい苦いのがちょうどいい。
「無理だ」
同じく缶ビールを口にする義理の兄、笠原さんはタバコを吸わない代わりによく酒を飲む。ただ、酒乱というわけではない。静かに酒を飲むのだ。
「……組織に、秋を引き渡せと?」
俺は核心をついたことを口にした。笠原さんは、まだ、義理の親が生きている頃から、俺のことを本当の弟のように甘やかし、時には厳しく、接してくれていた。そんな俺が、あの大学へ進学しようとしたことを、止めようとしたのは言うまでもない。
人体実験。
俺の「研究」テーマだ。ゼロから作り出すことは、流石に無理だった。そこで俺は、今にも死にそうな……そう、いわゆる「脳死」というものを下された人間を手に入れ、記憶操作を行った。脳の復元は俺からしたら簡単であった。とある細胞……A細胞とするものを用いることにより、損傷した部位を再修復。そして、後は俺が適当に作り上げた記憶を脳に電気シグナルとしてインプットすることにより、俺だけに依存する、俺だけの人間が完成するというシナリオだった。
なぜ、こんな実験を行ったかと言われれば、きっと、俺がこころの拠り所を求めていたからかもしれない。
俺は、血のつながった「家族」を知らない。
俺だけのものが、欲しかった。
俺だけにしか目もくれない、完全なる「俺だけのもの」が……。
目の前にいる義兄に申し訳ないが、これが本音だ。結局、「独り」では生きられない、何かに縋りながらでしか生きられない、弱い人間だったのだ……俺も。どれだけ強がってみても、所詮は独りでは揺らいでしまう、「不確かなもの」である。
「そんなに秋が大事か?」
「うん」
俺は、寝室でライガと横になって眠っている秋を想像しながら、頷いた。ライガとは孤児院で一緒だった仲だ。途中から入ってきた子で、その頃から髪の毛は紫。瞳も紫。一風変わった彼は、孤児院で浮いた存在だった。誰にも心を開かず、独りで居た俺もまた、浮いた存在だった。
浮いた存在同士、波長が合ったのか。物静かな俺と口達者なライガは、仲良くなった。ライガは、俺よりも四つ年下だ。
「こんな目に遭ってまでも、守らなきゃならないものなのか?」
「……咎だよね」
空になった缶をテーブルに置くと、今度はタバコを取り出し、一本口に咥えるとライターで火を点け、煙をふかした。
今朝方のことだ。
秋の調子がまた悪かった為、俺は大学へ久しぶりに脚を運んだ。