不穏なる研究者
「……」
電話を切ってからもなお俺は、聞こえてきた怒声の持ち主の顔を思い浮かべながら、その場に座り込んでいた。口の中には血の味が広がっている。肩からも強い痛みを感じる。だが、致命傷はない。即死を望んだというのに、惨めな形で生き延びてしまった。いや、相手はもともと俺を殺すつもりなんてなかったのだ。俺が口を割るか、「あいつ」があの連中に見つかるか。とにかく、情報か本体が連中の手の中に入らない限り、奴らは俺を殺したりはしないと見ていた。
だが、現実はそこまで甘くはなく、どうやら俺を殺すつもりはないのだが、死んだとしても構わないと命令が下されているということに、俺は判断を見誤っていた。そのために、この大怪我だ。無様としか言いようがない。左肩と右足太ももに銃弾を受けた。失血はもちろんしているが、ジーンズをはいていた為、それが肌に密着し、止血効果をしている。
こんなときにでも、ふとタバコが恋しくなるのは、もはや病気かもしれないと、俺は声には出さずに笑った。そんな小さな動作すら、今は傷に障るようで、痛みが走った。
「まさか、莱伽と一緒に居るなんてなぁ」
ぽつりと呟くと、打撲傷のある右手で頭を掻いた。それは完全に、計算外のことだった。
秋が、莱伽と一緒に居る。
本当に、複雑な心境だった。
「おい、居たか!?」
「そう遠くには行っていないはずだ!」
「もっとよく探せ!」
威勢のいい男の声が徐々に近づいてくる。俺は、けん制の銃が放たれた後、行動を起こした。その場から逃げ出そうとしたのだ。
敵前逃亡、かの有名な新選組隊士ならば、「士道不覚悟」ということで、切腹ものだろう。けれども俺は、死を覚悟していたくせに、結局は惨めなほどに、生き永らえる道を選んだのだ。男気がないと言われても、これでは仕方がない。
まずは、手足を縛っている紐を何とかする必要があった。何とか解けないものかと、男たちにばれないよう手を捻っていたのだが、やはり安易には解けなかった。しかし、そこまで固く結ばれてもいなかったようで、時間をかけて粘ってみたところ、どうにか手を縛っていた紐を解くことに成功した。それに気づいた男たちは、俺に止めを刺そうとしたのか……銃口を俺の身体に向け、発砲した。それが、左肩に当たったのだ。痛みを堪えながらも、立ち上がると一人の男に狙いを定めて体当たりをし、ナイフを奪って足に絡み付いていた縄を切った。その後はただ、出口を目指してひたすらに走った。振り返らずに走った為、後ろから放たれた銃撃に応戦出来ず、右足を負傷した。それだけではない。至る所に打撲や切り傷が出来た。こんな姿で街中へ飛び出せば、間違いなく事件沙汰だ。それは避けたかった。
仕方なく俺は、路地裏に身を潜めることにした。あまりにも連中のアジトに近いと、すぐに捕まる心配があった為、出来る限りこの場から離れようと、物陰に隠れながら徐々に距離を置いた。
「……報いを受けるはずだったのになぁ」
死ぬつもりで捕まった。それなのに、結局俺は生きることに執着した。自分はなんて愚かで、醜いのだろうかと、また、不適な笑みを浮かべた。
不意に眠気が襲ってきた。こんな、組織の連中がうようよしている中で意識を失っていては、もはや助かる術はない。わかってはいるのだが、目が霞んで仕方がなかった。
「……ここまでかな」
ついに俺は、目を閉じその場にぐったりと横たわった。
「藍……っ!」
名前を呼ばれる。
けれども、目を開けるほどの力は残っていなかった。
※
腹が立つほどいい男。長身で黒髪。容姿端麗である男の名は、久保田藍。歳の頃は十八。都内の大学に通う一回生だった。
私が卒論研究に失敗して、酒におぼれ堕ちこぼれていた何度目かの大学四年のときに、藍はこの私立の大学に入学してきた。やる気のなさそうな、何を考えているのかわからないような、不思議な目を持った男だと思った。顔立ちがあまりにも整っているからか、他の人にはないような雰囲気を持っているからなのか、藍はたちまち大学内でも有名人となった。
割とミーハーな女子が多いこの大学の中、一人浮いていたのが私。研究に没頭し、その「研究」成果が何度やってみても得られなかったことで、私はついにタバコと酒に溺れたのだ。
「飲みすぎじゃないの、先輩」
あるとき、声をかけてきたのは藍の方だった。同じ学部で同じ学科。私はもう、授業に出ることなんてほとんどなく、ただゼミに時折顔を出したりしていたのだけれども、その回数も次第に減り、研究室の教授にも、見切りをつけられ始めた頃だった。栗色に染めた髪を胸あたりまで伸ばし、赤の強い口紅。そして、二重の付けまつげを付けて、露出の多い服装をこの頃は好んで着ていた。いわゆるバイトは夜の蝶。これだけのお酒を飲むのだから、ちょっとやそっとの時給のバイト代では、払いきれなかったのだ。一人暮らしだったし、家からの仕送りのほとんどをお酒に使っていたし。堕落しすぎた生活を送っていたと今でも思う。
「人気者の君には、私の気持ちはわからないでしょうね」
藍は、目を細めて私のことをじっと見つめていた。派手な女……とでも、思ったのではないかしら。でも、何を思ったのか、藍は誰も近寄らない私の隣に座ると、私に手を差し出した。何のことかと思い、私は怪訝そうな顔をすると、無表情のまま、藍は私に告げた。
「タバコ。俺にもくれない?」
「……あんた、未成年でしょ」
「うん」
「じゃあ、あげられないわね」
そういうところだけは、我ながらおかしなことにきちんとしていた。しかし不意に、悪戯心からか、私はこの美麗な男の顔を歪めてやりたくなった。成功者を嫉む、「愚かな人間」の行動に過ぎない。
「……」
相手の頭を掴み寄せると、有無を言わさずに唇を奪った。そして、濃厚な口付けを続ける。不思議と相手は嫌がらず、それに応えた。
「どう? タバコの味は」
私は悪戯っぽく微笑むと、相手は自分の口についた私の口紅の痕を拭うと、それを見ながら不適な笑みを浮かべた。
「まぁまぁ、かな」
これが、藍と私のファーストコンタクト。
藍はまだ、一回生。担当教授もいないし、皆と同じだけの単位を取るための授業に出席していた。私は何度か落としていた授業に参加していたから、そのときは藍とも顔を合わせていたけれども、それ以外で顔を合わせるといえば、学食か、或いは研究室かということだった。第二研究室が、一回生の控え室になっている。ただ、私たちが卒論研究の遺伝子分離をするための、遠心分離機。そのほかにも電子顕微鏡、光学顕微鏡など、揃えられているのもこの、第二研究室だった。藍は、どちらかといえばまじめな学生で、研究室にはよく顔を出していた。
この日も例外なく、自分の授業が終わると、藍は真っ直ぐに研究室へやって来た。私は、彼がここへ来ることを知っていたから、タバコを蒸かしながら先回りして待っていた。胸元の開いた服を着ているのは、彼を誘惑しようとしていたわけではない。単に、暑かったからだ。
「?」
研究室の扉が開く。案の定、入ってきたのは講義を終えた藍だった。薄いノートを片手に、眠そうな顔をして、私の顔を見た。
「先輩、またここに居たの?」
私は、机に腰かけ脚を組んでタバコを吸った。携帯灰皿は持ち歩いているから、部屋を汚すことはない。ただ、未成年も居る学校で、このように吸うことは青少年育成の場においては、そぐわないことかもしれない。
「先輩なんてよしてよ、優等生くん」
厭味をこめて言った訳ではない。しかし、彼にとっては意外と面白くなかったようだ。
「それなら、俺のことも名前でいいよ」
藍は、さくさくとこれまでの論文、研究ノートに目を通していくと、一息つこうとしたのか。買ってきていた缶コーヒーを開け、椅子に腰を下ろして飲み始めた。藍がなぜ、この大学の、この学科に入って来たのかは、今のところ誰にも知られていない。
ここの大学での研究内容は、他には一切知られてはいないもので、入学者数もとても少なかった。それは、真の実態であり、表向きでは、本当にきらびやかな学生が、キャンパスライフを楽しむための場所である。そのため、入ってきた学生の顔を見れば、この大学の裏の顔を知っているか、知らずに入ってきたのかは、大方見受けすることが出来る。
藍と同じように入ってきた、この学科、講座の人数は藍を入れて四名。もちろん他の学部、学科もあるのだから、そこまで小さな大学ではないが、大きな大学でもなかった。容姿端麗かつ、頭のいい藍は、大学中の人気者。だからこそ、はじめはそんなミーハー女に付きまとわれるのが嫌で、この研究室に逃げ込んできているのだと思った。
「ねぇ、藍」
「ん?」
私は、思い切って聞いてみることにした。
「あなたはどうしてこの学校に?」
すると、藍は「あぁ」と、不適な笑みを浮かべて顔に影を落とした。そして、私の目をじっと見つめて来た。
「先輩、それは聞かないほうがいいよ」
その藍の警告を振り切って、私はあえて聞いた。廊下からも、人の声はしてこないし、人気もなかった。誰かに聞かれている可能性は低いだろう。
「いいから、教えなさいよ」
少し、間が開いた。考えているのか、私のことを見計らっているのか。ただじっと、私を見つめて何かを考えているようだった。
「……」
藍は、風の音に重なるよう、恐ろしいことを口にした。その言葉を前に、私は高笑いを上げた。
「あはははっ……藍、面白いわ! 教授に話つけてあげる。もっと、研究資料がほしいでしょう?」
私は、利用されたのかもしれない。藍の狙いは、これだったのかもしれない。それでも、私は構わないとさえ思った。それほど、藍の動機に私は共感を覚えた。
「私は榊」
「うん。知ってる」
そういって、藍はタバコを一本蒸かした。
それから、藍はよく私の隣を歩くようになった。教授との繋がりを持ちたかっただけなのかもしれない。けれども、それでも私は構わなかった。これまで、研究に明け暮れていた、それも、失敗続きの私の人生を大きく変えてくれたのだから。
「榊先輩、最近変わったよね」
藍は、顕微鏡を覗きながら、あるときそう呟いた。私は、相変わらず後ろでタバコを蒸かしていたのだが、なんだか気分がよくなり、藍に近寄った。
「そうね。誰かさんのおかげで」
藍は、口元だけで笑った。それを見て満足した私は、隣に座って藍の顔を覗き込んだ。藍の髪は、やや伸びはじめ、肩につくほどあった。私から見たら、いい男という感じがさらに増したように見えるのだが、ミーハー女子からしたら、好みのタイプからは外れてきたらしい。藍へのマークは薄れはじめ、藍はより自由に、研究に没頭することが出来ていた。これもまた、藍の狙い通りだとしたら、末恐ろしい。
「どこまで進んだの?」
「内緒」
研究内容について、藍は詳しく語ろうとはしなかった。けれども、何をしているのかおおよそ想像がついている私は、笑みを浮かべながら頬杖をついた。その様子を気に留めることもなく、藍は細胞分裂を促すための促進液をピペットを用いてプレパラートに落としていた。
「一年のうちから、研究室入りするなんてね」
「誰かさんのおかげだよ」
「それって、褒め言葉よね?」
私の言葉を真似て言った相手に対して、私はまたも笑みを浮かべながら相手を見つめた。すると、相手もその視線に気づいて、顕微鏡から目を離すと、私と目を合わせてにやりと笑った。
「さぁ、ね」
にやりと不敵な笑みを浮かべる藍には、きっと敵わない。そして、藍ならやり遂げるだろうと私は確信した。藍ならば、この研究を成し遂げるだろうと。この、禁忌の研究にピリオドを打つのだろうと。
私には、成しえることの出来なかった研究を……。