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飼われる人間

 当たり前になった日常。


 いや、当たり前だからこそ、日常と呼べる。




 俺はようやく、居場所を見つけたのかもしれない。




店にたどり着くと、俺たちは今夜の献立について相談をはじめた。

「パンに、ジャムに、マーガリン。それと、豚肉こま切れと、キムチにもやしに卵。キャベツも要る?」

店内は、本日の特売品の紹介やら音楽やらでいつも騒がしい。客もわいわいと仲間内で喋りながらスーパーのカートを押しながら、品定めしていた。

 俺は、キャベツをひとつ手に取りながら相方の意見を待った。お金はいつでも相方持ちだ。もっとも、俺もバイトをしていないわけではない。学校に行ってないから、そういいところでは働けないが、たまたま募集していた近くの薬局のレジ及び雑務をこなすバイトを週一でしていた。毎週金曜日が俺の担当日だ。本当は、土日に働けると聞いて応募したのだが、いざ採用されてみたらなぜだか金曜日に飛ばされたのだ。今でも人員募集しているが、やはり土日働けるひとと書かれている。謎の薬局だ。昼の一時から夜の七時までぶっ通し。それでも、たとえ週一だとしても、少しでも働かなければこの男に申し訳がない。全生活費を賄ってもらっているのだ。たまに恩返し出来るぐらいの金は手元に欲しかった。

「んー……キャベツ炒めって美味しいよね」

俺の今の保護者……というか、飼い主。かれこれ拾われて一年近く経つが、久保ちゃんの親というもの、家族というものには会ったことがない。触れていい話なのかどうかも分からなかったから、俺は聞けずに今に至る。もっとも、「人間が欲しい」なんて言い出すような性格だ。普通の家庭環境下で育ってはいないと想像がつく。

「じゃあ、買い……だな?」

「そうだね」

俺は山積みにされたキャベツをもう一度見直してから、一番ずっしりと重みのありそうなものを選び、籠の中に入れた。それから、家で書いてきたメモをズボンのポケットから取り出す。

「あとは……えぇと、あ、久保ちゃん。チョコ買っていい?」

「どうぞ?」

久保ちゃんが俺に対して「ダメだ」と言ったことはない。だから、聞かなくても返答は分かっていた。それでも一応、久保ちゃんのお金でこうして生活しているわけだから、確認は取ることにしている。

 久保ちゃんは、あまり……いや、ほとんど自分のことを話そうとはしない人間だった。そして、他の人間に興味を示すこともない。興味があることといえば、わけの分からないことばかりだ。そう、たとえば先ほどの子ども向けのアニメのようなものだ。アパートから一緒に買い物に外へ出て、スーパーに向かっていたのだが、俺がふと新作ゲームが気になるからと電化製品店に寄り道したのだ。すると、一緒にゲームコーナーに来ると思っていたのだが、相方はその手前のテレビコーナーで足を止め、そこに映し出されていたアニメを見始めたのだ。ゲームに興味がないことは知っていたけれども、まさかあんなアニメに惹かれるとは思わなかった。それも、俺が少しゲームを見に行って戻ってきてからも、相方は俺には目もくれず、ただ黙ってアニメを見続けているものだから、退屈になった俺はもう一度ゲームコーナーに戻り、試作品が置いてあったからそれで遊んでいた。そして結局相方は、アニメを最後まで見終わるまでそこを動かなかったというわけだ。二頭身の動物たちが日本語を喋っている。その時点で俺としてはアウトなんだけど、相方的にはストライク……一歩手前だったらしい。

 手前だったらしいといのは、次回予告までは見ずにその場を立ち去った辺りからの推測だ。本当にはまっていたのなら、次回予告まで見てから動く男なのだ。

 他に今はまっていて、俺が知っているものといえばお寺巡りだろうか。適当に街をぶらついていて、どれだけ小さなお寺でも見つければ必ず参拝していく。別に、信心深いわけじゃないと思うんだけど、最近やたらお寺にはまっている。

「久保ちゃんは? 何か菓子食う?」

「じゃあ、飴」

そして食べ物では飴を好んで食べていた。タバコ吸う癖に飴が好きとか、ちょっと変わってるなと思うけど、本人が好きなんだから別に俺が文句つける必要もない。俺は、カートをお菓子コーナーへと移動させると、まずは自分が食べたかった新発売のビターチョコを籠の中に入れ、次に久保ちゃん用にと美味しそうな飴を探した。

「久保ちゃーん。ミルクとべっこう飴、どっちがいい?」

このチョイスも無しかもしれないと思いつつも、とりあえず聞いてみた。ミルクは俺好み。べっこう飴は久保ちゃん好みのものだ。おそらく、べっこう飴の味がいいってわけじゃない。見た目が好きなんだと思う。

「ミルク」

俺は思わず、「へー」と声を出した。俺の予想が外れるのは結構珍しいことだった。相方は、俺の反応を見てどうしたのかと尋ねてきた。痩せ型で長身の相方は、首を傾げている。

「いやぁ、べっこうだと思ったから。久保ちゃんがミルクチョイスするの、珍しくね?」

すると、相方は「あぁ」と俺の反応に納得したらしい。自分でも、いつもならばべっこう飴だと認識しているようだ。

「たまには気分変えようかなと思って」

今度は、俺のほうがどうしたのかと不思議に思った。この男が気分転換したいだなんて、これまで口に出したことはなかった。

「何かあった?」

じっと相手を見つめるようにそう問うと、相手は視線を外さずにただ目を細めた。

「いや、別に。 何で?」

「……なんでもねぇ」

なんとなくだけど、何かあったんじゃないかって思った。だけど、久保ちゃんが踏み入れて欲しくないと思う領域なら、俺が土足で踏み入ることはしたくなかった。だから、これ以上追究しようとはしなかった。


 もっとも、本当に別に何でもなかったのかもしれないが。


「さてと、会計行くよ?」

「お、おう」

俺は、ミルク味の飴を籠の中に入れると、一番空いていそうなレジのところに向かって歩いた。相方は、ズボンの中から折りたたみ式の黒の長財布を取り出すと、ここの店のポイントカードをまずは取り出していた。こういうところは結構豆である。パンについている点数シールなども、集めたりする。コレクターかと問われれば、そうではないのだが、こだわるところはとことんこだわる性格だった。

「お次の方どうぞ」

俺たちの番が回ってきた。俺は籠を台に乗せると、カートをレジの前まで動かした。相方は財布からお札を取り出し、支払いの準備をしていた。

「あら、久保田くんじゃないの!?」

レジのおばちゃんだ。どうやら久保ちゃんと顔見知りだったらしい。今日は俺が寄り道を頼んだから、いつもの近所にあるスーパーではなく、少し離れたところにある店まで歩いてきたのだ。久保ちゃんは、長い前髪の間から細い目を覗かせて、声をかけてきたおばちゃんの方を見た。

「あぁ……」

この様子だと、誰だか認識していないように思われる。

「誰でした?」

こういうとき、割と久保ちゃんは素直だった。ただ、それがいいことなのか悪いことなのかは微妙だ。普通なら、知ったかぶりでその場をやり過ごすものと思うのだが、面倒ごとが嫌いな癖してあえて突っ込む。やはり久保ちゃんはどこか変わっていると俺は思う。案の定おばちゃんは苦笑していた。言わんこっちゃない。

「忘れたのかい? まぁ、君は昔からそういう子だったわね」

昔からということは、結構の古株なのだろうか。そんなひとを忘れていいものなのかと俺は不安に思った。そして、このおばちゃんは久保ちゃんの何を知るひとなのかも気になるところではあった。

「お会計は?」

久保ちゃんは、何事もなかったかのように商品を指して呟いた。おばちゃんは、これ以上長話をしていても無駄だと思ったのか、上司に見つかるといけないと思ったのか、言葉をやめレジの仕事に戻った。

「あぁ、袋つけてください」

エコを必要とするご時世だというのに、毎度五円払ってレジ袋を買っている。そのうちバイト代で、エコバックぐらい買ってやろうかと実はもくろんでいるのだが、この男にエコバックというものは、何だか似合わない。浪費家というわけでも決してないのだが、久保ちゃんがエコバックとか考えると、何だか笑えて来た。

「秋?」

「あぁ、はいはい」

会計が終わったらしい。俺は不透明なレジ袋と商品が詰められた籠を持ち上げるとカートに乗せ台まで運ぶと、袋に商品を詰める作業を始めた。久保ちゃんはレシートとポイントカードを財布に丁寧にしまっていた。でも、久保ちゃんが家計簿などをつけているところは見たことがない。レシートをどう処理しているのかまでは把握していないが、財布の中身はいつもすっきりとしている。

「おっし、完了。久保ちゃん、行くぞ」

「はいはい」

店を出るなり、久保ちゃんはまずは喫煙所に向かった。ヘビースモーカーというわけでもないのだが、割と本数を吸うほうだ。正直俺は煙が嫌いだったから、最初のうちは離れた処に居たんだけど、長いこと一緒に居たら、相方からは常にタバコの匂いがしてくるものだから、慣れてしまった。慣れとは怖いものだ。

「タバコ、そんなに美味いの?」

俺は、立ったままタバコをふかす相方を見ながらそう呟いた。日が傾き始め、影が伸びてきていた。歩いて帰るより、バスに乗って帰った方が早そうだ。

「味は別に。なんとなく吸ってるだけだから」

なんとなくで吸うものなのだろうか。俺は疑問を抱いた。ちょっとからかう気持ちで、後を続けた。

「肺やられて、早死にするぜ?」

「うん。別にいいよ」

即答する相方に、俺のほうが戸惑った。俺も、別にじいさんになるまで長生きしたいとか、そういう願望は全くなかったけど、この相方よりは生きることに執着しているはずだ。もし執着していなかったら、とっくに路上生活で野垂れ死にしていたところさ。

 相方は、何に執着を覚えているんだろう。学生っつったって、まともに授業出ている雰囲気はないし、この後就職なんてこと、考えているんだろうか。進学するつもりがあるなら、もっとゼミとか出てなきゃダメなんじゃねぇの?

「なぁ、久保ちゃん」

「ん?」

煙をふかし、簡易喫煙所の灰皿にタバコを押し当て煙を消すと、そのまま吸っていたタバコをゴミ箱に捨て、俺の方に顔を向けた。

「何で生きてんの?」

失礼な質問だったかもしれない。ただ、俺は純粋にそう疑問に思ったから相手に投げかけた。相方はまるで気にも留めていないようで、目を細めるだけだった。

「さぁ、何でだろうね。心臓が動いてるからかな」

いや、そうじゃなくって……と、俺はすかさず突っ込みを入れた。そういう意味ではない、俺が知りたい真理は。きっと、相方は分かっていてそう応えているんだろう。だったら俺にはこれ以上、突っ込んだことを聞ける立場はない。

「いこっか」

「うん」

俺の長髪が風に揺れた。今は胸辺りまで伸びている。黒ベースで赤のメッシュを入れた髪だった。そんな俺の髪を見て、相方は何かを思い出したかのように空を見た。

「あのひと、理髪店の奥さんだ」

おそらくは、レジのおばちゃんのことだろう。久保ちゃんが、忘れたことを思い出すことは珍しいことだった。そんなにも思い入れのある人物だったのだろうか? いや、もしそうだとしたら忘れることはないかと、内心自分で突っ込みを入れた。

「今日のこのレシピからしたら、豚キムチだろ?」

「うん。手軽で美味しいよね」

「俺、辛いの苦手だから卵多めな?」

卵が割れないようにと慎重に持っているつもりなのだが、基本的に俺は神経質ではない。久保ちゃんもそうだ。神経質にはとても思えない。だからこそ、これまで俺たちは成り立ってきたのかもしれない。

 久保ちゃんのアパートは、一LDK。一人暮らしするには十分すぎる部屋だったけど、野郎二人にしてみれば、結構狭い。寝室にはベッドがひとつ。セミダブルのベッドを処狭しとふたりでくっついて寝ている……が! 別に俺たちは出来ているとか、そういうわけじゃねぇからな! 誤解のないように。

俺は健全な男子だ。久保ちゃんだって……たぶんそう。自信はないけど。久保ちゃんが女を連れ込んだり、女と一緒に居る姿を見たことは、今のところない。

「バスで帰ろうぜ? もう日が暮れるしさ」

「そうだね」

俺たちは、最寄のバス停に向かった。市街地ということもあり、バスの本数は割りとある。

 バス待ちをしていると、近くに女子高があって、その帰りの時間と重なってしまったらしい。久保ちゃんを見るなり、きゃーきゃーと黄色い声援を送っていた。

 確かに、男である俺から見ても、久保ちゃんは整った顔立ちで綺麗だった。姿勢こそ悪いが、モデルのような容姿だ。でも、そんな久保ちゃんはまるで彼女たちの声が聞こえていないようで欠伸をしていた。

「手でも振ってやったら?」

俺はからかいながらそう言ってみた。すると久保ちゃんは、にやりと微笑み俺の目を見つめてきた。

「秋に?」

「ばーか」

俺はくくっと腹を抱えて笑った。その様子を見て相方は満足したらしい。彼女たちに目をくれることはなく、ただ時刻表と時計、そして空を見ながら時間を潰していた。綺麗な夕焼け空だ。もう少ししたら「秋」が来る。久保ちゃんに拾われてまる一年だ。

 そんなことを思っていたら、程なくしてバスが来た。滅多にバスなんか乗らないから、整理券を取りそこねた。それに気づいた久保ちゃんが、俺の分まで整理券を取って、バスの奥のほうへと進んだ。バスの中は混雑していた。椅子は、たとえ空いていたとしても座らなかったと思うが、今回は満席だったため、考える余地もなく、立ち席となった。


 揺れる景色を見ながら、俺は今の生活がこれまでで一番楽しい。


そう、かみ締めていた。


「たっだいまー」

「ただいま……と、もうご飯にする?」

相方は、買い物袋を俺から受け取ると、いつもどおりという感じで、品物を冷蔵庫にしまって、飴だけはテーブルの籠にしまい、買い置きしているタバコに手を出した。

「久保ちゃん、禁煙とかは考えてねぇの?」

「考えてない」

「あ、そう」

特に意味はない。好きなものは、好きなだけやればいいと俺は思ってる。それが俺の生き方だし、そんな俺にとやかく相手も言われたくはないだろう。ただちょっと、言ってみただけであり、今のやりとりに意味は特にないことは、相方は分かっている。

「で、ご飯はどうする?」

「そうだな。食べる」

相方は頷くと、ジャケットを脱いでソファーに置き、黒のTシャツ姿になった。あまりセットされていない髪型から、それほどお洒落にこだわってはいないということが伺えた。

「秋、机拭いておいてね」

「ん。わかってるって」

隣に並んで、もやしを洗っている相方の顔をふと見上げた。タバコを咥えながら目を細め、「どうした?」と問いかけてきた。いつもの光景なんだけど、思い返せば夕方からこの何を考えているのか分からない相方は、様子がどこかおかしいように思えたのだ。そう、あのアニメが目に留まってからだ。

「あのさ……言いたくねぇなら、黙ってていいんだけど……」

気まずそうに、小声ながらそう切り出してみた。ただ、確認したかっただけだ。あのアニメがどんな内容だったのか。あのアニメから、何を感じ取ったのか。この、何ものにもとらわれない男に影響を与えるものとは、いったいどんなものなのか。知りたくなったんだ。仮にも相方と思っている相手だ。少しくらいは、俺だって把握しておきたいと思うのが、当然ではないだろうか。

「じゃあ、言わない」

「なっ……俺、まだ何も言ってねぇんだけど!」

相方は、俺の質問内容を待たずして、あっさりと棄却した。別に、悪気がある訳ではないことも分かっている。こういう人間なんだ。あまり、人に気を使わない性分なんだ。相手が自分の対応を見て、機嫌を損ねたとしても、知ったこっちゃないんだ。

「うん。でも、何か面倒臭そうだったから」

厭味たっぷりな言葉にくわえ、相手はにやりと笑みを浮かべた。俺は、分かっているのに、相手がこういう奴だってことは、分かってきていたのに……このときだけは、不思議と苛立ちを覚えた。

「何だよ、面倒臭いって! 俺のこと、何だと思ってんだ!」

自分で言っておきながら、この理不尽な怒りは何だろうかと冷静に見つめる俺も居た。どうしてこんなにも苛立つのか、分からない。どうしてこんなにも、この男に執着したのかが分からない。


 すべてが、分からなくなってきた。


「秋?」

「……悪い。飯、後にして」

俺は、濡れかけの布巾をテーブルにほかると、動悸を感じながら寝室へと重々しい足取りで向かった。その様子を見て、何事にも無関心な相方でも、流石に異変を察知したのか。俺の後を追って、寝室へと遅れて入ってきた。

 電気は点けなかった。顔を、見られたくなかったからだ。こんなしょぼくれた自分を自覚するのは、もしかしたら生まれてはじめてだったかもしれない。そんな情けない顔を、他人に見られることは、俺の自尊心が許さなかった。

「秋」

軽めな声調で俺の偽名を呼ぶ。しかし、俺は思い出せなかった。「本当の」俺の名前を……。

長いこと独りっきりになって、路上生活をしていたからか。長いこと、久保ちゃんと一緒に居たからなのか。俺は、自分のことを忘れはじめていた。

「嘘だろ……」

自分の名前すら、忘れてしまうなんてことが、ありえるのだろうか。俺は思わず、何度も何度も、自問自答した。


 何が本当で、何が嘘で、どこまでが俺なのか。


俺は色々なことを、見失いはじめていた。


「……」

寝室の床にうずくまり、俺はパニックを起こしていた。息が苦しい。吸っても吸っても、空気が足りない。目からは涙が溢れてきて、ついには息が止まりそうになった……そのときだ。冷たい床から抱き起こされ、背中から優しく手を回され、口元には大きな手のひらをあてがわれた。

「過呼吸。大丈夫、ゆっくり自分の吐いた息を吸って」

落ち着いた口調で、男の声は響いた。顔を寄せてきた相手の身体からは、タバコの匂いがする。ここ最近の、俺の周りにある「いつも」の匂いだ。その匂いを感じたからなのか、相手の手のひらの中に溜まった自分の吐いた二酸化炭素を吸って落ち着いたからなのか。俺は少しずつ、落ち着きを取り戻した。

「……久保ちゃん」

俺が声を発すると、大きな手のひらが、ゆっくりと俺の口もとから離れていく。


今の俺には、ひとつだけだった。


確かなことは、たったひとつだけだった。


「久保ちゃん」

「うん」


 俺のことを守ってくれるもの。俺、「秋月」のはじまりで、終わりであるものは、この、久保ちゃんだけだってこと。


「寝る?」

久保ちゃんは、俺が落ち着いてきたのを見計らって、少し距離をとった。俺が泣いていたことに気づいての判断だろう。俺が変にプライドが高いことを、久保ちゃんは知っていたし、俺をこれ以上傷つけないための処置なんだろう。

「何、抱いてくれんの?」

心にもないことを、口にしてみた。自分で言いながら、笑みがこぼれているのを自覚した。もちろん、嬉しくて笑ってるわけではない。馬鹿馬鹿しい問いかけだと、遊んでいるんだ。

「お前が望むなら」

「え?」

真顔で即答した相手を見て、俺は思わず耳を疑った。しかし、久保ちゃんにはそういう気があるわけではないことも知っていたから、すぐに笑い飛ばしてやった。

「ばっか。本気にするだろ」

「してもいいけどね、俺は」

そういう久保ちゃんの顔からは、とても「本気」だとは窺えなかったから、俺は満足して相手の頬を軽くつねってやった。久保ちゃんは、にやりと笑うだけで、その行為に対して何かを言うことはなかった。

「で、寝る? ご飯にする?」

本題に戻ってきたところで、俺は腹が減っていることを思い出した。不思議なことに、忘れているときはそんなに感じないことでも、思い出したとたんに身体は正直になるものだ。静かな部屋に、俺の腹の音が鳴り響いた。

「……飯」

「はいはい」

久保ちゃんは、もう俺が落ち着きを取り戻していると判断したのだろう。俺に背を向けると明るいリビングの方へ向かっていった。その後に続いて、俺もゆっくりと歩き出そうとした……けれども、急に目の前が暗転し、俺はそのまま意識を失った。




 タバコのにおいが……ふわりとしたことだけは、覚えている。




 嗅ぎなれた、タバコのにおい……。





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― 新着の感想 ―
[良い点] 「久保ちゃん」がどういう人なのか、22才という年齢と幾つかの嗜好以外は殆どわからないのに惹かれます。 男性二人の同居生活が描かれているにも関わらず、性愛の要素が殆ど無く、愛玩動物の関係に留…
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