救いたい命
「やってみるかな」
タバコを胸ポケットから取り出すと、咥えたままライターで火をつけ、フーっと煙を蒸かした。また、ライターをしまったズボン左のポケットには、チップが入っている。秋の脳に埋め込んだ、データチップを初期化するものだ。これを初期化すれば、神経が元に戻る……すなわち、記憶が戻り「神」となる……はず。
まだ、教授もやり遂げていないことであるし、俺自身、やってみたことが無いことだ。上手く行く保証はないし、このチップが上手く働くかどうかも、やってみなければ分からない。すべてが手探り状態だ。
「藍」
「……今は、会いたく無かったかな」
そんな俺の目の前には、榊さんが車を横付けして、立っていた。
「秋くんのところ、行くんでしょう?」
「そうだけど……榊さん。その時計、はじめて見たときから気にはなっていたんだ」
榊さんの左腕には、女性の物にしては太めのベルトに十二時のところには、何かの紋章のような彫刻が施されている時計が光っている。
「ふーん……それで?」
「教授とあまりにも近しい関係のようにも見えたし。だから、裏の顔も知っているのかなって」
「それで?」
「だけど、ちょっとだけ違ってたみたい」
「何が?」
「裏の顔を知っている……じゃなくて、裏なのは、榊さんなんだね」
榊さんの眉がぴくっと一瞬反応した。榊さんは、今日はこげ茶のコートに赤いシャツ。黒のタイトスカートを穿いていた。一見、普通の女性だ。髪にゆるくパーマをかけて、少量の毛束をトップの方でまとめている。「研究者」と言われると、「確かに」と頷けるような容姿でもある。ただし、付けまつげに、濃い目のルージュ。顔は夜の蝶に間違われても、仕方がないような派手さがある。
「裏が、私?」
「そう。組織のリーダーって、実は榊さんなんじゃないのかな」
「……」
「違ってたらゴメンね」
「本当だったら?」
「見逃してくれるでしょ?」
俺は止めていた足を動かしはじめ、ゆっくりだが着実に榊さんとの距離を縮めはじめた。
「脳死の人間だからといって、思うように実験してはいけない」
「治る見込みのない子なら、いっそのこと、新たな人生をあげた方が幸せじゃない」
「それを本人ではなく、他者が決めてはいけない」
「死人に口無し」
「だったら、それを尊重するべき」
榊さんの横まで来た。そこで足を止めることもなく、俺はアパートに向かって真っ直ぐに、歩き続けた。
「藍!」
「……」
そんな俺を、呼び止めるとは思わなかった。
「秋を……もしくは、チップを渡しなさい!」
その言葉には、少しだけ驚いた。初期化チップのことは、教授にもまだ、話してはいない。もしかしたら昨晩、組織に襲われ助けられた際に、ズボンのポケットのライターと、小さなガムの包み紙。その存在に気づいたのかもしれない。
ガムに見せかけて、俺は常にチップを持ち歩いていた。俺が留守中に、秋が過ってチップに触れないようにするために。そして、組織や教授に、このチップを取られないようにするために。チップと近づきすぎてしまったら、秋の身体に何か異変を起こすかもしれないと思いながら、大切に保管してきた。
「藍! 聞いているわね! どちらかを渡しなさい!」
聞こえている。でも、そんなことは関係ない。俺はもう、こころに決めた。
これまで、俺はブレていた。
何が正しくて、何が間違っているのか。
それすらも分からなかった。
俺はただ、飢えていただけ。
「愛」に、飢えていた。
家族、友達……あたたかい存在に、憧れていた。
それを純粋に、笠原さんや莱伽に求められればよかったのに、俺はそれが出来ずに居た。そういう行為を、恥ずべきことだと感じていたんだ。その為、捻じ曲がった性格となり、「実験」「研究」という名目を使い、歪んだ行為に及んでしまった。失うべきものがあるとしたら、それは俺の「命」。
「秋」も「神」も、救いたい。
報われる道を、模索したい。
「榊さん。何を言われても、俺は秋を守る。そして、チップは渡さない」
「……命、惜しくはないの?」
「そんなものを語る資格、俺にはないよ」
俺はなおも恐れることなく、再び歩き出した。榊さんは、追いかけては来ない。追いかけてこなくとも、俺の居場所なんて、知れているからかもしれない。それでも良かった。俺は、眠っている秋のもとへと、また一歩……踏み出すだけだ。
榊さんは、無理やり後を追っては来なかった。
しばらく黙って歩き続けると、程なくして自分のアパートへとたどり着いた。笠原さんは、仕事があると早朝より出かけて行った。中に居るのは、秋と莱伽。俺は二階建てのアパートの階段をあがっていくと、自室の扉の前に立ち、ドアノブに手をかける。鍵を入れて回し、カチャリという音がすると、ゆっくりドアを開けた。
「ただいま」
「おかえり」
「……」
迎えに出てくれたのは、予想通りの紫頭。莱伽だった。背丈は俺の肩辺りほど。だいたい百七十センチくらいだろう。秋と並んだら、それこそどんぐりの背比べだ。
「何してん? 大学で何かあったん?」
「……莱伽。秋を戻す」
「は?」
「神に戻す」
「えっ? それは……どうやって? そないなこと、出来るんか?」
「やってみる。どのみち、このままじゃ秋は衰弱して死んでしまうだけだから」
「……せやな。神の兄弟と同じ道を辿ってまう」
俺は紐靴を脱ぐと、フローリングの床をスリッパも履かずに中へと歩いて行った。入っていった右手側には、寝室がある。俺はズボンの右ポケットに手を入れると、ガムの包み紙に丁寧に包められた、チップを取り出した。
「なんや? それ」
莱伽は興味を示して、俺の手の中を覗いてきた。今のところはまだ銀紙に包まれているため、中身がチップだとは分からないだろう。いや、見たところで莱伽はまだ十八。これが何かを知るには若い。
「ガムだよ」
俺は嘘を吐いた。
「へぇ……」
莱伽は、昔から勘がよかった。頭もよかった。
だから、隠しておきたいと思った。
俺がこれから何をするのか……知られたくはなかった。
下手をしたら、莱伽まで組織に狙われると思ったから……。
俺には守りたいものがこんなにもあったなんて、知らなかった。
「失う前に、気づけてよかった」
「?」
莱伽は首を傾げていた。ただ、次の言葉に俺は内心で驚きを見せた。
「秋と、ほんまにさよならするんやな」
「……」
すぐに答えなければ、それを肯定することになる。それをわかっているのに、あまりにもストレートに見透かされたその言葉に、俺は動くことも、言葉を発することも、何もすることが出来ないでいた。
やはり、莱伽はあなどれない。「普通とは違う」と言うと響きは悪いが、莱伽は本当にひとを見る目、そして世間を渡る術を知っている。同じ施設に居たとは思えない。浮いていた「ふたり」という枠組みからはもう、卒業している。いつまでも、そこに浸っていたのは俺だけだったようだ。
「莱伽」
「ん? どないしてん」
「俺は、いつから道を間違えたかな」
「なんや、急に……」
「……何でもない」
不意に、秋との思い出が頭をよぎる。路上に置き去りにして、ずっと監視をしていた頃。我慢しきれず、自らのもとへと連れ出しアパートにてふたり暮らしをはじめたこと。一緒に作る食事。薄味だった俺に、濃い味を好んだ秋。
「佐倉神」という人生を歩み、終わりを告げた「秋」は今、静かに眠っている。秋の額にそっと手を当てると、身体がやや冷たくなってきていた。このまま体温が下がっていき、放置しておけば……今夜にはもう、息を引き取りそうな勢いだ。
「莱伽、ちょっと席外してくれる?」
「……えぇけど、藍。後悔ないようにな? 俺は藍の味方や」
「……うん」
そんな風に言ってくれるひとが居るなんて、思わなかった。俺は「罪人」だ。ひとの「命」を弄んでしまった……まるで、「カミサマ」にでも、なったかのように気取っていた。
ひとは、カミサマにはなれない。
なってはいけない。
なれないからこそ、秩序が保たれる。
だから……組織や教授に、チップを渡してはいけない。