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友達っていつの間にかに成ってる

輪子がクラスメイトと会話する頻度がもっとも高いシチュエーションは、放課後の清掃時間である。遊びの誘いなどでは勿論ない。


「山田さん、お願いがあるんだけど~…」


「な、何?」


綺麗に上向いた睫毛をバサバサと瞬かせ、とある女子生徒が輪子に話しかけた。まるで異性を誘うかのように潤んだ瞳で見つめながら、体をくねらせている。


「あのね、真依ね、これから病院行かなきゃなの。だから…掃除当番、代わってくれない?」


やはり来た、と輪子は思った。これでもう何度目だ。この女に限ったことではない。輪子は何かと白々しい理由を並べ立てられては、掃除当番をクラスメイトから請け負ってきたのだった。


「…うん。いいよ」


輪子はひきつる笑顔で答えた。女子生徒は瞬時に顔を輝かせ、「ありがとう」と輪子の手を取り上下に激しく振った。


「お待たせ!行こ~」


教室の入り口で待たせていた男と腕を組み帰っていく女子生徒を、輪子は横目にとらえた。ひっそり口角を持ち上げる。予想通りの展開に、怒りよりもいっそ笑える。


断ることなどできなかった。期待があったのだ。どんなきっかけでもいいから、他の人間と関わりたかった。そこから友情が生まれるかもしれないと。


今ではそんな期待も薄い。かといってこれまで引き受けてきた手前、今さら拒否もできない。輪子をそんな人間に仕立てあげたのは彼らなのだから。




「おっそいよワコちゃん。お腹空いたー」


平の開口一番の言葉がそれだった。輪子は開けたばかりの扉をまた閉めてしまいたい衝動に駆られた。


やりたくもない掃除当番を任され、何の恩もない人間にほぼ毎日夕飯を作らされ。自分の存在理由とはいったい何なのだろうか。


「どうしたの、そんな渋い顔して」


「したくもなりますよ…カレーでいいですか?」


冷蔵庫の中はほとんど酒で埋め尽くされていた。無理に押し込められひしゃげたカレールウの箱が目に留まった。しかし、野菜は玉ねぎとキャベツしか残っていない。


「キャベツってどうなんだろ…カレーに合うのかな。てかお肉もないし…」


「白鳥から何か貰ってきなよ。あいつワコちゃん気に入ってるみたいだし、何でも恵んでくれるよ」


「自分で買いに行くって選択肢はないんですね…肉なしでもいっか。私が食べる訳じゃないし」


後ろから聞こえる文句を聞き流し、輪子は調理に取りかかるためワイシャツの袖を捲った。古びたシンクに備え付けられたまな板を手に取り、玉ねぎとキャベツをその上に乗せる。


「…あれ。平さん、包丁は?」


振り向くと、ソファに胡座をかいている平の手には包丁が握られていた。輪子がここでいつも使っている、切れ味の悪いそれだった。


よくよく見ると、平が刃先を鑢で入念に磨いている。以前自分が「切りにくくて苛々する」とぼやいていたのを、覚えていたのだろうかと輪子は思った。新しいものを買ってくれないあたりが、彼女らしいとも感じた。


「いいですよ、そんなことしなくて。全く切れない訳じゃないし」


「何言ってんの?こんなんじゃ、肉は貫けないでしょ」


「だから肉なしのカレーって言ったじゃないですか」


「その話じゃなくて…仕事で必要になるんだよ」


眉間に皺を寄せ、輪子は首を傾げた。続く言葉の前に、平はふっと刃に息を吹き掛け妖しく笑った。


「人をね…殺してくれって、頼まれたの」




輪子が事務所に来る数時間前のことだった。平のもとに一人の客が訪ねていた。


「クラスに、憎くてたまらない奴がいる。そいつを殺してくれ」


彼はそう言って、すぐさま親指の爪を食んだ。他の指は垢がたまるほど伸びきっているのに対し、親指だけが丸く削られている。彼にとってその行為は煙草のようなものなのだろう。尤も、彼は煙草の味を知らない中学生の男児ではあるが。


「誰を殺してほしいんです?」


平は静かに腕を組み、前髪の隙間から辛うじて覗く淀んだ男児の瞳を見つめた。よくない感情が渦巻いているのがわかった。


「こいつだ…」


男児が差し出したのは、体育祭時に撮ったであろうクラスの集合写真だった。彼は真ん中で大きくガッツポーズをとる男子生徒を指差した。


写真だけでも、彼が中心人物であろうことは想像できた。その弾けるような笑顔は、彼がいかに充足した日常を送っているかを物語っていたのだ。


対照的に、端っこで遠慮がちに画に収まっている男児は精気がなく、まるで背後霊のようだ。


「爽やかだし人当たり良さそうだけど。どうしてこの子が憎いの?」


「…そいつは善人の皮を被った悪魔だ。裏では僕を…奴隷のように扱ってる。物を買いに行かせたり、直接金をせびってきたこともあった。何の意味があるのか、わからないような嫌がらせだって…!」


男児は己の膝頭を握る手に力を込めた。吐露すればする分だけ、発散されるどころか恨みは募っていく。


「…わかった。あなたが最も憎んでいる人、殺してあげる」


躊躇の色を見せない平の表情に、男児は驚いたように目を見開いた。が、すぐに平静を装いうっすらと口元に笑みを浮かべた。




捲った袖がずり落ちたのにも気づかず、輪子は唖然と口を開けていた。話を全て聞き終えた数秒後。軽快な鼻唄のBGMを遮断するように、平に向かって声を荒らげた。


「あなた、受けたんですか!?その依頼!!」


「びっくりした…だから受けたって言ってんじゃん」


「人殺しの…依頼をですか…?」


「うん」


輪子は「やっぱり」と呟くと、頭を抱えながらその場にくずおれた。恐れていたことが現実となった。自分はとうとう、人道に反する行いの片棒を担ぐことになるのだ。


「油断しきってた…たった一回、白鳥さんを助けるところを見たくらいで、平さんのこと見直しちゃってた…」


自分はこれからどうなるのだろうか。ニュースや新聞、週刊誌などに取り沙汰される己の姿ばかりが目に浮かぶ。「そんなことをする子には思えなかった」と、きっと口々に言われるのだろう。


「悲愴に溺れてるところ申し訳ないけど、冗談だからね」


「え?」


「ちょっと脅かしてやろうと思っただけだって~」


平はバシバシと輪子の肩を叩いた。そうは言うものの、輪子にとってはそれすらもフェイクに思えて仕方なかった。とどのつまり、彼女に対しての信頼は完全に消え失せていた。


「騙されませんよ…やっぱり平さんは、危ない業界の人なんだ!」


「仮に殺すとしても、誰がこんなボロい包丁使うかよ。もっと計画的にやるって…例えばそうだね。チューで相手の息の根、止めちゃったりとか」


平は輪子の顎を持ち上げ、鼻を摘まんだ。グッと近くなった互いの距離に、別のベクトルに危機感を覚えた輪子は、平の手を払い除け後ずさった。


「全っ然計画的じゃないですから!」


「ロマンチックじゃない~映画とかにありそう」


「…でも、依頼は受けたんですよね。どうするつもりなの?」


「うんとね。今考えてる最中」


平は呑気にそう答え、手に持っていた包丁を食器棚に放り投げた。刃が食器を引っ掻く不快な音に、輪子は顔をしかめる。


「そんなことできない!って断って、本人が実行しちゃったらやばいじゃない。あの子が冷静になるまでの時間稼ぎだよ。あと私がいい説得の言葉を考え付くまでのね」


平は言いながらローテーブルをどかし、向かい合っていたソファをぴったりとくっつけた。ちょっとしたベッドのような形状になったそこに身を横たわらせる。


「ご飯できたら起こして」


一分も待たずに寝息を立て始めた雇い主に、輪子は文句を言ってやる気力もなくなっていた。とにかく、依頼主である男児が考え直してくれるのを期待していると言う話なのだが、輪子は不安で仕方なかった。


平にとっては、刹那的で脆い感情だと思うかもしれない。だけどあのくらいの子供だからこそ一度着いた火は消えにくく、ガソリンなしでも一気に燃え広がる懸念があるのだ。輪子には痛いほど、男児の気持ちが理解できる気がした。




僕がいったい、何をした?罵倒され虐げられる度に、そう問い質したくてたまらなかった。


しかしそんなことさえ許してくれない。男児にはわかっていた。理由などはないのだ。標的はきっと誰でもいい。単なる暇潰し、悪ふざけ。求める先に納得のいく答えなどは待っていない。


「小田くーん。退いてくれないかなぁ。君が前にいると、周りの空気が淀んでくるんだよね」


移動教室の際に、教科書を胸に抱え一人で廊下を歩く小田と呼ばれた少年。彼こそが平に依頼を持ちかけたその人だった。自分の憎んでいる相手を、殺してほしいという依頼を。


彼の憎む相手は、同じクラスの山下という少年だった。バスケ部のエースを務めるほど身体能力が高く、おまけに成績もいい。明るく活発な性格は生徒からも教師からも評判がよかった。絵に描いたような優等生と言える人物だ。


しかし自分をいじめている、主犯格でもある。


「何か言えよ小田!」


山下の腰巾着が無反応の小田の後頭部を叩いた。ぶわっと心の中に広がる憤りの念に、目頭が熱くなる。すぐさま自分を叩いたその人物を睨み付けるが、その反応は返って彼らを面白がらせるだけだった。


「やめとけって武井。怒り狂った小田くんに、殺されちゃうかもしれねーよ?」


へらへら笑っていられるのも今のうちだ。呑気な態度の山下を、小田こそが笑ってやりたい気分だった。


殺されるのはお前の方だ、山下。せいぜい残りの生活をのうのうと過ごしていればいい。


小田は今か今かと待っていた。山下に、天罰が下されるその時を。しかし待てど暮らせど、山下の殺害が実行されることはなかった。彼は変わらず登校し、小田にいじめを働いていた。


我慢の限界だった。小田はもう一度、あの事務所に乗り込んだ。扉を開けた先に見た光景に、小田は言葉を失った。依頼を申し込んだ平と言う女はソファに凭れかかり、何と酒を煽っていたのだ。


「うぃっく…あれれ。お客さんれすかぁ?」


呂律も回らないほどに呑んでいたらしい。大きな酒瓶から直接口をつけて、まるで炭酸飲料のようにごくごくと飲み下している。


「あんた…何してんだよ…?」


「何って…呑んでるんですぅ。依頼なら…ちょっと待って。もう少しで、助手が来やすから…」


おまけに自分から既に依頼を受けていることもわかっていないようだ。何てことだ。小田は頭を抱えた。自分はこんな女のことを信じていたのか。山下よりも寧ろこの女の方に、今は殺意が膨らんで仕方ない。


「どうすんだよ…あんた言ったじゃんか!山下を、殺してくれるって!俺をあいつのもたらす苦しみから、解放してくれるって!!」


「…ああ。誰かと思ったら、こないだ来たお客さんですか。まぁ待ちなさいよ。今にゅーねんに計画をですね…」


「もういい、自分でやる!これ貸せ!」


小田は皿の上にフルーツと一緒に置いてあったナイフを手に取った。平の制止の声も聞かずに、乱暴に扉を開け小田は出ていってしまった。


「あーあ…行っちゃった」


ギィギィと錆び付いた音を立てて揺れるドア。わざわざ閉めにいくのも億劫なのでそのままにしておいた。十数分後、学校帰りの輪子がいつものように事務所に訪れた。


「あれ?何で扉が開いてるんです?」


不思議そうな表情で輪子は平に尋ねる。平は空になった酒瓶に少し機嫌を悪くしながら答えた。


「何かぁ…殺し依頼してきた中坊がぁ。ナイフ持ってった」


「へぇ。…は?」


平の間延びした声に、輪子は危うく受け流すところだった。平が今、いかにとんでもないことを口走ったかを。


「平さん…あなた今、何て言ったの?」


「だから、ガキがナイフ持ってどっか行っちゃったんだってば。相当思い詰めた表情をしながら」


「馬鹿ですか!?」


表情までこと細かくわかっていながら、どうしてこの女は引き留めることをしなかったのだ。輪子は一瞬にして引いた血の気に目眩を起こしながらも、すぐさま携帯を取り出した。警察に電話をしようと思ったのだ。輪子が何をしようとしているのか瞬時に悟った平は、さっきまで酒に呑まれていた人物には思えないほど軽やかにソファから降り輪子の携帯を奪い去った。


「滅多なことするもんじゃないよ」


「どっちの台詞よ!このままじゃ、あの子犯罪者になっちゃう!」


輪子の懸念はよくわかるが通報されたりして万が一大事になったり、うちの事務所がお世話になることがあったら、平にとってはそっちの方が困るのである。もともと依頼主には説得して思い止まらせようとしていたのだ。加担した、なんて思われたらとんでもないことなのだ。


「きっと警察に言っても取り合ってくれないって。それにさ、ワコちゃんだってお縄になる可能性があるよ?」


「何でよ!私は何もしてない。全部平さんのせいだって言いますから」


実のところ、輪子は平に対し一度くらい刑務所にでも入って規律正しい生活を身に付けてもいいのではないかと考えていた。そんな輪子の思惑に気づくはずもなかった平は冷や汗をかき珍しく露骨に慌てた。


「待って、待ってよ。わかったから。今すぐあの子を追いかけよう」


「当然です!」




平は白鳥の所有している原付を勝手に拝借し、後ろに輪子を乗せて小田を追いかけた。完全なる飲酒運転のうえに二人乗り、ノーヘルと言う違反行為のオンパレードだったが、状況が状況なので輪子はヒヤヒヤしながらも口をつぐんでいた。


「まだ何も起きていないみたいだね」


小田の通う中学校まで近づいてきたが、何事もないように下校していく生徒たちを見て輪子は僅かに安堵した。しかし肝心の小田が見つからない。平は原付から降りると勝手に自転車置き場に侵入し、原付を自転車と一緒に並べた。


「ねぇ。周りから怪訝な目で見られてる」


生徒たちからの突き刺さる視線に輪子は焦燥し、いてもたってもいられず平の腕を掴んだ。特に反応を示さず平は我が物顔で敷地内を歩いた。


「ねぇねぇ。一年の小田くんって知ってる?眼鏡でおかっぱで暗い子」


仕舞いには堂々と生徒に話しかける始末。生徒は困惑しながらも、平の質問に答えてくれた。


「一応同じクラスではあるけど…あんまり話したこともないっすよ」


「あなたは彼をいじめている人間の一人?」


平のあまりにも直球な言葉に、生徒は一瞬言葉を詰まらせた。そして怯えたように平の表情を窺っている。自分を小田の身内か何かだと思ったのだろうと平は察し、すぐさま砕けた笑顔を見せた。


「ああ、心配しないで。別に私小田くんの家族じゃないから。乗り込んできた訳じゃないのよ」


僅かに生徒の強張っていた顔の筋肉が緩んだ。そして暫くは躊躇いの表情を見せていたが、やがてその重い口を開いた。


「俺は直接いじめてる訳じゃないけど…見て見ぬふりしてます。山下たちがあいつをいじめてるの」


「山下くん…そうだ、その子はどこにいるかわかる?」


「そういや…小田と二人で裏庭に向かってた!小田が山下を連れてってるみたいに見えたから、珍しいなって」


「そっか。ありがと」


「あ、俺が山下のことチクったのはこれで…」


生徒は人差し指を自分の口に当てた。平は薄く笑ってヒラヒラと手を振り、彼に背を向けた。


「平さん…山下くんって子見つけても、告げ口しちゃダメですよ」


「しないってば。あの子だってきっと、快く思ってないのよ。小田くんがいじめられてること。だからゲロってくれた」


「…ならいいけど。ていうか、裏庭がどこかわかってます?」


「わからん」


平と輪子は無言でUターンし、またさっきの生徒を捕まえに戻った。




裏庭についた頃には、そこは既に修羅場と化していた。


小田が平から奪ったナイフを両手に握り、鬼気迫る表情で山下と対峙していたのだ。


「山下…もう僕を、解放してくれ…!」


「おい…何のつもりだよお前」


山下の額に冷や汗が流れる。痛烈に感じ取ったのだ。小田の本気を。恐怖で足が固まり、逃げることも叶わなかった。ただ喉を鳴らし、わなわな震える小田を見つめることしかできなかった。


「ダメ!!小田くん!!」


突然の叫び声に、小田と山下の肩が同時にびくりと跳ねる。見慣れない制服を着た女が息を切らしている。


輪子は間一髪で、裏庭に辿り着いたのだ。走ろうともしない平を置き去りにして、怠けがちな脚の筋肉を酷使した。お陰ですっかり太股が痙攣している。


「え…誰」


山下が小田に問う。小田は「知るかよ」と返し、互いに怪訝な眼差しを輪子に向けた。小田は平とは面識があったが、輪子とは初対面だった。しかし輪子は平から、小田の特徴を聞いていたため一目で理解した。おまけに、その手に握られているキラリと光るナイフ。輪子の頭は小田を止めることでいっぱいだった。自己紹介もないまま声を張り上げる。


「小田くん、早まらないで!復讐は、自分の身を滅ぼすだけよ!」


「何だよ…何なんだよあんた!」


「私んとこのバイトちゃんよ」


漸く登場した平に輪子は安堵すると共に、競り上がる怒りを爆発させた。


「あなた、こんな非常時によく欠伸なんてできますね!?」


「うるっさい…頭に響く」


「とにかく、小田くんを止めて!説得する言葉、考えてたんでしょ?」


「ああ、わかったわかった」


平はのっそり輪子の前に出ると、仁王立ちで腕を組み、顎を突き出した。


「小田くん…あなたに、一つだけ言いたいことがあるの。それでも山下くんへの殺意が消えないなら、殺せばいい」


「平さん…!」


「…何だよ、言いたいことって」


小田はごくりと喉を鳴らし、平の言葉を待った。平はそっと目を閉じ、やがて決心を固めたように黒く光った瞳を露にし言った。


「そのナイフ…百均で買った引っ込むナイフなの」


時が止まった。というような体験をしたのは、輪子にとってこれが初めてだった。


小田が恐る恐る掌でナイフの刃先を押し込める。「シュコン」と乾いた音を立て、刃は柄の中に収まった。


「ワコちゃんを脅かすために買ったやつ。酔っぱらって間違えてたみたい。どうりで切れないと思ったんだ」


「馬鹿じゃないの?って言っていいです?」


「もう言ってるし。ところでどうすんの小田くん。刺さりはしないけど、それでも殺せないこともないと思うけど」


平が小田を止めたいのか、殺意を助長させたいのかわからない。輪子は頭を抱えた。寧ろたった今、小田の殺したい相手は平に切り替わったのではないか。顔の皮膚と同じく真っ赤に充血した目が、山下にでなく平に向けられているから。


「…くそ…」


ナイフが小田の手から滑り落ちた。全てを諦めたような表情だった。あまりの馬鹿馬鹿しさに、惨めな思いの方が強くなったのだろう。輪子には小田が不憫でならなかった。助けを求めたはずの人間に、とんだ恥をかかされたのだから。


「はは…だっせ。所詮お前はそうやって、いつまでも空回ってるしかない人間なんだよ」


山下は乾いた笑いと共に小田に吐き捨てた。もう言葉を返す気力もない。


不意に、小田の視界に錆の入ったスコップが目に入った。教頭が毎朝丁寧に手入れしている花壇に、それはぽつねんと置いてあった。


ふらふらとおぼつかない足取りで花壇に向かう。小田は身を屈ませおもむろにスコップを手に取ると、先端を己の喉元に突きつけた。


「つ…!」


スコップを持ったままの小田の手が、セメントで固められたかのように動かなくなった。


「何、すんだよ…!」


平が、小田の腕を掴んでいた。片手にも関わらず、女のものとは思えないほどの握力だった。


「こっちの台詞。私そういう冗談、嫌いなんだよね」


唇は弧を描いていたが、その目は笑っていなかった。ぞくりと小田の背筋に悪寒が走った。初めて感じたこの僅かな恐怖は、いったい何なのだろうか。


小田がスコップをもといた場所に置くと平の態度が一変し、また飄々としたものに戻った。


「小田くん。君がこの子に立ち向かおうとしたのは偉いと思うよ。だけど完全にやり方を間違えてる。あんたが悪者になってどーすんのさ」


平は感情のこもらない声音で言い放ち、回れ右すると後方にいた山下のもとへ歩み寄った。


目の前までやってきた平に、山下の身体の筋肉が緊張で固まった。平のその瞳が、物理的に寒気を感じるほど冷えきっていたのだ。


「こういうガキを高いとこから嗤ってやるために、あんたは墜ちちゃいけないのよ」


耳に鋭い風の音が聞こえたと同時に、山下の頬に電気を当てられたかのような衝撃が走った。


じんじんと疼く左の頬。平にぶたれたのだと気づいた。


「あんたもいつまでも小便臭いことしてないで。今度は本当に刺されるかもよ」


平はにんまり笑ってみせると、「業務終わり!」と清々しく伸びをして踵を返した。勝手にやり切った、みたいな顔をしているがいったいどの辺に達成感を感じたのか輪子にはまるでわからなかった。そもそも二人の少年にした説教紛いのことも、何の説得力も感じなかったのが正直なところだ。


「さぁさ、帰ろうワコちゃん。お腹空いてきちゃった」


「え…いいんです?このままで」


「いいのいいの。ていうか早く帰らないと、不審者が入ってきたとか言われちゃうよ」


平は軽々とフェンスを越えて道路に出た。輪子もそれに続くが、見事にフェンスから落下し固いアスファルトの上に頭から落ちた。捲れ上がったスカートを慌てて直し、すたすたと先を行く平を追いかけた。




「大丈夫かな…小田くん」


「さぁね。ニュースに物騒な話題も出ないし、報酬金返せとも言ってこないし…大丈夫じゃない?」


平はいつもと変わらぬ呑気な口調で答えた。あれから三日が過ぎたが、事務所はいつも通り酒の臭いが充満しているし、雇い主も相変わらずのぐうたら姿を晒している。


輪子はあれからの二人が気になり、放課後小田の通う学校に行っては外から様子を覗いていた。生徒から不審な目で見られるため、未だに二人の姿は見かけていない。結局どうなったのかわからずじまいだ。


「でも、何か事件があったような雰囲気でもなかったし…」


「そんな心配しなさんな。もう私たちには関係ないことなんだから」


「関係ないことないでしょ…お金貰ってるんだから。お金が絡むと、何だかすっごく不安!」


「平気だって~小田くんに貰ったお金だって、誰が証明できるよ?別に私たちがお縄になったりとかはないでしょうよ」


気休めにもならない平の言葉に、輪子は大きなため息をついた。どうしてこうも危機感がないのだと、問うてみたい。きっと納得できる返答は聞けないのだろうけれど。


「あれ、お客さんかなぁ。足音が聞こえる」


平の言葉の数秒後に、事務所の扉がノックされた。なんと耳がいいことだと、そこばかりは感心する。


「どうぞ」と声をかけると、いつものように耳障りな悲鳴と共に扉が開いた。


「え…小田くん?と…山下くん!」


まさに懸念の対象であった二人が、まさかの揃ってのご登場だった。輪子はこれでもかと目を開けた。


「ふ、二人とも…どうしたの?」


輪子は湿布が貼られた山下の頬を横目で見た。随分険しい顔をしている。もしかして治療費、慰謝料、賠償金…諸々の金を請求しに来たのか。青ざめる輪子を横切り、山下はふんぞり返って自机に座る平の前に立ちはだかった。


「初めてだぜ。人に説教されんのも、ぶたれんのも」


「…予想通りの甘ったれちゃんね」


わざと煽るようなことを言う平に、輪子は山下の後ろから「頼むから黙って」という意味を込めて口元に指で作ったばつ印を当てた。


「そうやって余裕ぶんのも今のうちだぜ。絶対あんたに…俺が最高にいい男だと思わせて、惚れさせてやる」


「……はい?」


明らかに場にそぐわない言葉が山下の口から飛び出し、さすがに平もフリーズした。どう返せばいいのかもわからないまま時は過ぎ、見かねた小田が割って入った。


「山下はあんたを好きになっちゃったらしい。あの一件以来」


「はぁ?」


「おい小田!はっきり言ってんじゃねーよ!」


山下が顔を真っ赤にしながら小田の胸ぐらをつかんだ。小田は鬱陶しそうにそれを払い除け、尚も続ける。


「ここの事務所の場所を教えろって、うるさくて。仕方なく連れてきたんだよ」


「君ぃ…そんな若くして変な趣味に目覚めちゃったの?悪いことしたね」


「そんなんじゃねーよ!ただ…俺を叱ってくれたの、あんたが初めてだから…」


羞恥に俯く山下のその様は、非常に年相応であどけない。小田は横で「やれやれ」と言いたげな顔で山下を見ていた。


「二人とも…仲良くなったのね」


「は!?そんなわけないだろ!」


「何否定してんだよ小田。俺らダチだろ?俺の恋を応援してくれるって言ったじゃんか」


「ついこないだまでいじめてたやつの言う台詞か全く」


輪子は二人のやり取りを見て笑んだ。まるで、友達同士の言い争いを見ているようだ。興味無さそうにそれを見ていた平と不意に目が合い、輪子は小さく親指を立ててみせた。


「馬鹿らしい」と声を出さずに言った平の唇が、ほんの僅かに引き上げられていたのを輪子は見逃さなかった。

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