至高の価値は人それぞれ
今日も今日とて、輪子は己の世界に陶酔していた。退屈な授業をやり過ごすのにもちょうどよかった。
自分は目立たない。存在感がない。だから教師に名指しされ、問題を解かされるなんてこともない。故に授業なんて聞いていなくていいのだ。普通なら恨むべき己の性質が、好都合だと思えるようになった。若干の虚しさは否めないが。
ところで、輪子は最近バイトを始めた。胡散臭い建物でお悩み相談を請け負う、胡散臭い人物の助手をしている。
といっても、内容はほぼ家政婦のそれだ。雇い主である平の身の回りの世話が主である。部屋の掃除、書類の整理、酔い潰れた平の介抱。挙げ句の果てには夕飯の支度まで任されている。
「ワコちゃんの手料理最高だよ~胃に優しいねぇ」
「ご飯くらい自分で用意したらどうです?てか、また昼間からお酒飲みましたね!?」
「いいじゃん。どうせ客来ないんだし」
輪子が作った野菜スープを飲みながら、平は他人事のように言った。事実、輪子がバイトを始めてから一週間経ったが一度も客は訪れていない。
本当にここは、「お悩み相談窓口」なんて生温い響き通りの場所なのだろうか。未だに不安は拭えない。踏み込んではいけない領域に、足を突っ込んでしまったのではないかと。
己の雇い主である平のことだって、知らないことばかりだ。仕事中に酒を飲んだりパチンコに行ったり、ソファでぐうたら寝こける姿ばかり見慣れている。ずぼらでがさつだと言うこと以外は何も知らない。
飄々としていて何を考えているのかまるで読めないが、妙に言動が幼かったりするので、訝しみつつも世話をする手を止められないのだ。
「そう言えば、ここ時給は幾らなんです?」
「何言ってんの。うちは完全歩合制だよ」
「…じゃあ今のところのバイト代って」
「零だよ零。当たり前じゃん」
輪子はあんぐりと口を開けた。ちょっと目を離した隙にすぐさま物置と化す事務所の掃除、仕事もせずに思うまま不精をする雇い主の飯支度。自分はタダでこれらをやらせられていたというわけか。
「ひどい!ここまでこき使っといて…」
「職場の掃除は基本中の基本。そこにお給金求めるバカがどこにいますか」
「ご飯だって作ってるじゃないですか」
「んじゃ手間賃として勉強教えたげるから。それとも参考書がいい?」
言うなり財布の中身とにらめっこする平に、輪子はげんなりと肩を落とした。同時に、すぐにでも契約解除してほしい思いに駆られた。
「むむ。なんか今日当たりが出そうな予感がする」
「ちょ、またパチンコ?」
「うん。時間来たら鍵かけて帰ってね」
平は小さく手を振ると、何の手入れもされていない黒々とした長髪を翻し事務所を出てしまった。
ギャンブルに嵌まってしまった旦那を持つ嫁はこんな気持ちなのだろうか。輪子はしみじみと感じていた。
「バカみたい…」
お金ももらえずに働いて。貴重な勉強の時間まで裂いて。とっとと辞めればいい話なのだが、輪子には恐れがあった。いざ平に「辞めたい」と申し出て、果たして無事に帰してもらえるだろうか。とんでもない要求を突き付けられそうだ。
そんな懸念を抱きつつも毎日ここへ来てしまうのは、果たして恐れだけだろうか。輪子は漠然と感じていた。
信用できないという点ではここも学校も同じであるのに(寧ろここの方が不信感は強い)、事務所までの道程を行く自分には微かな高揚感があるのだ。
「平、いる?」
ノックもなしに突然扉が開かれた。物思いに耽っていた輪子は、ソファに完全に委ねていた体を瞬時に硬くさせた。
「…あれ。誰?」
扉を開けた人物に輪子が言葉を失ったのは、単に見知らぬ人物の突然の登場に驚いたからだけではなかった。
とんでもない美青年だったのだ。雪のように真っ白な肌は陶器のようで、すうっと通った鼻筋は思わず指でなぞりたくなる。少し垂れ下がった目尻と薄く捲れた唇は、儚げながらも確かな色気を醸し出していた。
「わ、わわ、私、ここのバイトで…」
すぐさま立ち上がり何とか言葉を出そうとするも、彼のオーラに気圧される。鳴り止まない鼓動が更に輪子の頭を沸騰させた。
「たた、平さんは今、がいしゅちゅして…!?」
思い切り噛んでしまったことなど気にしていられなかった。
青年がいつのまにか、輪子の目と鼻の先にまで来ていたのだ。
「ななな何ですか!!?」
髪と同じく綺麗な栗色の瞳に見つめられ、緊張のあまり胃から何かが競り上がってきそうだ。蒸気が出る勢いで熱を帯びた輪子の頬を両手で挟み、青年は口を開いた。
「地味だ…!!」
そう言い放った彼の目は、輝きに満ちていた。輪子に対する慈愛すら感じられた。
「……は?」
さっきまでの高ぶりが嘘のように、冷静さが戻ってくる。キンキンの氷水を頭からぶっかけられた。まさしくそんな気分だった。
「ただいま~。そういや約束してたの思い出し…何だ。来てたの」
酒とつまみの入ったビニール袋を手に持ち、漸く平は帰宅した。青年が訪れてから30分が経過していた。
それまで輪子と青年は終始無言だった。彼から放たれた一言を、輪子は悟り開くほどに反芻していた。対して青年は何故か、安寧の笑みを浮かべながら輪子を見つめていたのだ。
「どしたのワコちゃん。大仏みたいな顔しちゃって」
「どっちかというと…こけしだ」
両者とも馬鹿にしているわけでなく本気で言っているのだとわかるだけに、やるせなさは大きい。
「平さん…この人、誰なんですか」
「三階に住んでる白鳥ってやつ。こう見えて画家なんだ」
目の前の見目麗しい男の職業よりも、ここが三階建てだったということに驚く輪子だった。
因みに一階に住んでいるのはここの大家である、小日向と言う男性らしい。
「窓とかないから二階建てかと思ってました」
「こいつ、日の光浴びると良い絵が描けないらしいんだよね。おまけに自分ん家で個展やったりするから、窓が邪魔らしいの」
「へぇ…」
「この子露骨に興味無さそうだな」と、平は輪子を見ながら苦笑した。輪子の瞳が何の色も宿していなかったのだ。
「五時に行くってメールしただろ…どこ、行ってた?」
「例によりよ。それより、用件はなんだっけ」
平は輪子の座っているソファに腰かけた。白鳥は不満げに口を尖らせながらも、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「ストーカーに、つきまとわれてる」
神妙な面持ちで語り出す白鳥に、輪子はハッと目を見開いた。
これだ。これこそ輪子が待ち望んでいた瞬間、「お悩み相談」だ。少しヘビーな内容ではあるが、漸く平の生業をこの目で確かめることができる。
「ストーカーを捕まえてほしいって依頼?」
「ああ」
「あんたの場合心当たり多すぎるからね。高くつくよ」
任侠映画のような緊迫感に、またもや不安が舞い戻る。どうしてわざわざ悪役のような顔をするのだと平に問い質したい輪子であった。
「俺、いつも深夜の2時まで絵描いて、夜食買いにいくんだ…建物から外に出るときに、いつも背後から視線を感じる…」
「で。そっからは?」
「視線を感じるのは、その時だけ…コンビニまでの道中も、帰ってからも、人の気配は無くなってる…」
「ふーん」
平は深くソファに凭れかかった。二、三度瞬きすると、その瞼を完全に閉じてしまった。30秒経ってもそのままなので輪子が乱暴に彼女の肩を揺すれば、無言の平手打ちが輪子の額に飛んできた。
「痛いな!起こそうとしてあげただけなのに!」
「寝てねーよ。とりあえず…明日個展開く日だよね?私らも行ってみるよ」
「わ、私も?」
「土曜は学校休みでしょ。いい加減、雑用は嫌みたいだしね」
自分の頬をつついてくる平の手を、輪子は鬱陶しそうに払い除けた。餌でペットのご機嫌を取ろうとする飼い主のような態度が面白くない。容易く揺れ動く自分の心はもっと面白くなかった。
ギャラリーは、沢山の女性客で溢れていた。せっかくの絵が人で隠れてしまっている。しかし彼の作品を観たいと思っている人間など、ここには誰一人いなかった。
皆の目当ては、白鳥そのものなのである。次元を越えたような美しさを持つ彼自身を鑑賞するために、彼女たちはここまで足を運んでいるのだ。
「確かに…これじゃあ誰が犯人か、絞れないですね」
「でしょ?皆やらかしそうな目、してるもん」
輪子と平も客として紛れ込んでいた。しかしきらびやかな洋服は目に悪いし、化粧や香水の匂いが充満していて落ち着いて絵画の鑑賞などできたものではない。劣悪な環境に早速顔を青くする輪子に、平は呆れたように言った。
「あらあら。もうへばってんの?」
「だって…何か女の欲望に押し潰されそうです」
平に背中を擦ってもらいながら、ふと一枚の絵に目を向けた。芸術なんてものは正直わからない。白鳥の絵だって、評価すべき点が見つからなかった。ただ適当に絵の具を塗りたくっているようにしか。
しかし目前にある絵だけは、何を表現したいのかわかった気がした。ピンクや黄色など鮮やかな色ばかり使われているのに、酷く不快なのだ。共鳴、という言葉が最もしっくりくるだろう。
「自宅で個展なんか開くからこんなことになるんだっつの」
「本当に犯人、捕まえられるんですか?」
「さあね。今のところ金には困ってないし、別に捕まえられなくても…」
身も蓋もない発言に、輪子は何か言い返してやろうと思ったができなかった。驚きや憤り、呆れ。それらの感情がないまぜになって、まずどれからぶつけるべきか迷ったと言った方が正しい。
「うーん、もういいや。帰ろう。人酔いしそうだわ」
「何かわかったんですか?」
「わかったよ。やっぱりここに来ても、なんの意味もないってね」
「…はぁ」
平の考えていることが、やはり輪子には読めなかった。収穫がなかったというよりは、最初から期待は薄かった。そんな口振りにも思えた。
バイトで失った時間は、真夜中に取り戻すしかなかった。輪子は帰宅し夕食と風呂を済ませると、脇目もふらずに机に向かった。
宿題、そして予習復習。気づけばいつも床に入るのは深夜の二時過ぎだった。
せっかくの休日だというのに結局定時まで事務所にいさせられたので、今日もいつもの深夜までお勉強コースとなってしまった。
「あのアホ雇い主…私の貴重な睡眠時間削りやがって…給料払えよ…」
シャープペンを握る手に力が籠る。ノートの端にデフォルメした平を描き、ひたすら芯を刺しまくった。深夜のテンションとは恐ろしいものだ。
そんな行為に没頭していると、不意にベッドに置いていた携帯の着信が鳴り響いた。輪子の肩が大袈裟に震えた。ディスプレイには「平香菜」の文字。盗聴器でも仕込まれているのではと本気で考えた。
「も、もしもし…?」
通話ボタンを押し恐る恐る呼び掛ける。
「あ、ワコちゃん?遅くにごめんね。今からこっち来れる?てか来て」
「え、ちょっとま…」
気づけば耳に届くのは通話終了を告げる音だけだった。輪子は時刻を確認した。夜の一時半だ。こんな時間に学生を呼びつけるのだから、それなりの配慮ってものをしてほしい。
「いったい何なの…」
暫く鳴らなくなった携帯とにらめっこし、輪子は観念したようにパーカーを羽織った。親にばれないようこそ泥にでもなった気分で家を抜け出した。
建物の入り口に、誰かが立っているのが見えた。輪子は走るのをやめ、窺うようにその人物に近づいていった。
「…白鳥、さん?」
月明かりがぼんやりとその人物を照らしている。非常に画になっていた。彦星様が実在していたら、きっと彼のような容貌をしているのだろう。気の毒だが確かに彼の絵を見るよりも、彼自身を見る方が心踊る。
「あ…ワコ!」
白鳥は輪子を認めるなり破願し駆け寄った。きょとんとした表情で彼を見上げる輪子を、白鳥は何を思ったか突然抱き締めた。
「!!?」
「はぁ…落ち着く」
現状についていけず、餌を乞う鯉のように口を開閉することしかできなかった。ほぼ初対面の女子高生に抱きつくなど、この男だから許されるものを。
「ちょちょちょ、白鳥さん!何してるんですか!?」
「ああ、ごめん…今日いっぱいキラキラした人見たから…胸焼けしちゃって」
要するに己に好意を寄せる沢山の女たちに群がられ、気が滅入ってしまった白鳥にとって、輪子はこれ以上ない安定剤と言うわけだ。何故なら輪子は「地味」だから。
「なるほどね…」
この人嫌いになりそう、と輪子が思っていると、ポケットに入れていた携帯が震えた。今度は驚かず冷静に通話ボタンを押す。
「もしもし?」
「今すぐ白鳥の部屋来て。獲物捕まえた」
「はい!?」
通話が切れたのがわかると、輪子は咄嗟に白鳥の腕を掴み建物の中へ駆けていった。
犯人とおぼしき人物の体は、極太のロープによってぎっちりと椅子に固定されていた。よくもここまで恰幅のいい男を一人で捕らえられたものだと、輪子は思わず感心してしまった。
「…って、男!!?」
輪子は唖然と口を開いた。目の前で無様に縛られているのは紛れもなく男性だった。脂肪が厚いので胸があるように見えなくもないが、斑に生えた真っ黒な髭が、彼の性別を確証していた。
「凄い…白鳥さんの美貌は、同性まで魅了しちゃうのね」
「滅多なこと言うんじゃねぇぞ餓鬼!俺にそんな趣味はねぇ!」
口角泡を飛ばしながら男は吠えた。自分は何か間違ったことを言ったのだろうか。鼻息の荒い男を見下ろしながら、輪子は小首を傾げた。
「こいつの目当ては白鳥じゃないよ。現に、白鳥がワコちゃんに抱きついたときも、何のアクションも起こさなかったでしょ。熱烈なファンなら激昂して何かしら行動を起こすはず」
「確かに何もなかった…てか平さん、見てたの!?」
「当たり前じゃん。それを確かめたくて、ワコちゃんを呼んだんだから」
「それって…」
輪子は全てを理解した。自分は囮に使われていたのだ。高校に進学したばかりのいたいけな少女を真夜中に呼び出した挙げ句、何の説明もなしに道具として危険な状況に晒していたわけだ。
「鬼だ…」
「ごめんごめん。でも、多分大丈夫だろうなと思ったから」
「…どうしてだ?」
「だっておかしいでしょ、家を出るときしか視線を感じないなんて。それはつまり、部屋が無人になるのを見計らっていた。そうとしか思えないよ」
平は決して広くはない部屋の中をジグザグに歩き回った。意図して配置されたキャンバスを縫うようにして。
「あんたは、白鳥の絵が観たかったんだよね」
「…」
男は押し黙った。説教を受ける子供のように、ばつの悪そうな表情を浮かべていた。
「でも来れないよねぇ。白鳥目当てに集まった女共がうじゃうじゃいるせいで」
「あんな奴等に混じって、白鳥太郎の作品が観られっかよ!俺のプライドが許さねぇ!」
口をついて出た本音に、男は苦虫を噛み潰したような顔で平を睨めつけた。平はほくそ笑みながら言葉を続けた。
「気持ちよかったでしょう。貸しきりで好きなアーティストの絵を見れて。この部屋の鍵、全然機能してないしね」
「…そうだったのか!?」
「あんたは今まで、かかりもしない鍵を律儀にかけてたわけ。わかったら早く小日向さんに直してもらいな」
「わかった…」
「いや、気づいてたなら教えてあげればよかったじゃない!」
「だって。こいつんとこに不審者が入ろうが、私には関係ないもん」
輪子には平よりも、白鳥の作品見たさに家へ忍び込んでいた男の方が人格者に思えて仕方なかった。
「おい…俺の存在、忘れてないか?」
置いてけぼりにされ少し寂しそうな目をしている男のもとへ、白鳥は徐に歩み寄った。彼と目線を合わせるようにしゃがみこむと、天使のように柔らかく微笑んだ。
「俺の絵を認めてくれた人、あんたが初めてだ。ありがとう」
そのまま床にへたりこむ彼の瞳には、涙が滲んでいた。白鳥は勝手に家に入られたことよりも、自分の作品を他人が評価してくれた。そんな事実の方が重大だった。
「…すまねぇ。こんなやり方で絵を見に来た俺の方が、あんたの作品を冒涜してたな」
「今度は、あなたの為だけに個展を開くよ。その時は堂々と観に来てほしい」
白鳥の嬉しそうな表情を見ていると、男を咎める気にはなれなかった。輪子にはわかったのだ。画家としてのプライドを傷つけられる日々を送ってきた白鳥にとって、この男は希望を与えてくれたのだと。
本人の強い希望により、平は男を警察に通報した。罪を償いまっさらな心で、改めて白鳥の作品を観に来ると言い残し、彼はパトカーに乗り込んだ。
「ねぇ平さん。私、あなたが危ない仕事してる人なんじゃないかって、疑ってたんです」
輪子は冷たい床に胡座をかきながら、平の横になっているソファに凭れかかった。気怠い返事が左後ろから飛んでくる。
「何さ、危ない仕事って」
「悪徳業者か何かだと思ってたんです。でもちゃんとお悩み、解決してあげてるんだなってわかってホッとしました。白鳥さんも自信を取り戻せたみたいだし」
「あんなのただの結果オーライだよ。私はちゃっちゃと捕まえれりゃそれでよかった」
「でも、何か気持ちがよかったです!人助けするのって」
「…若いねぇ」
平は目を輝かせる輪子を見て笑んだ。声音は相手を揶揄する気持ちを孕んでいるようだったが、その表情はひどく穏やかで優しかった。
「私は誰かを助けたくてやってるわけじゃないよ。自分で選んだ仕事だから、それだけ。働くってそういうことだよ」
「…でも」
輪子の言葉は平の寝息によってかき消された。消化不良の思いをため息で誤魔化し、輪子は中途半端に平の体を覆っている毛布をかけ直してやった。




