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出会いは胃酸の香りがした

昔からよくこんなことを思っていた。例えば全校朝会のとき、突然ポケットの携帯電話が震えるのだ。液晶には「事件発生。出動セヨ」の文字。かったるい校長の長話中に体育館の天窓から脱け出し、どこぞのヒーローのごとく颯爽と空を飛び現場へ向かう。


山田輪子は高校生になった今でも、そんな妄想に日々浸っている。少年漫画の見すぎだと自覚はある。だけどせずにはいられないのだ。


自分のことが好きじゃない。現実の自分はいつだって引っ込み思案で、友達なんてものは生まれてこの方できたことがない。皆に頼られるヒーローなんて、夢のまた夢。初めはただ、必要とされる人間になりたいという気持ちだけがあった。いつからだろう。己は他の人間とは違う。孤高を気取りたいという思春期まっしぐらな思いが投影されてしまったのは。


(恥ずかしいなぁ…我ながら)


頬杖をついて窓の外を見やる。現代文の授業は特に嫌いなので、無意識のうちに自分の世界に入り込んでしまう。評論文はいいのだが、物語となるとどうしても胃の辺りが痛くなるのだ。道徳を説いているような感覚が嫌で仕方ない。


自分と重なる主人公が出てきたときなんかは地獄だ。その人物が己の殻を最終的には打ち破る結末を見た日にはもう、死にたくなる。


「今日カラオケ行かない?」


「いいね!行こー」


テスト期間だというのに、クラスの連中は呑気に遊びの約束を取り付けている。何のためにお昼で帰してもらっていると思っているのだ。勉強する為だろうとひとりごちるも、己が期待の眼差しで同級生を見つめていたことに気づき自己嫌悪に陥った。




俯き小石を蹴りながら歩いていると、不意に何かにぶつかってしまった。硬く角ばったそれは輪子の弁慶の泣き所に直撃したのだ。


「ふ…んぐぅ…」


痛みのあまり喚き散らしたかったが何とか堪え、輪子は目の前のそれをきっと睨んだ。


看板だ。白塗りされた木製の看板には、赤字で「あなたのお悩み、解決します」と書かれていた。ペンキが滴り落ちて血塗られているように見える。一瞬ここはお化け屋敷なのかと錯覚する。


「相談窓口は、二階…」


輪子はゆっくりと顔を上げた。コンクリートでできた鼠色の建物が視界に入った。どでんと大きな箱が置かれているようだった。汚損が激しく壁全体が生い茂る蔦に喰われている。


不気味だ。それ以外形容しようがない。怪しすぎる。


それでも。ほぼ無意識のうちに足が動いたのは、好奇心と言う他なかった。輪子は吸い込まれるように建物に入り、二階へ続く階段を登っていった。




「お邪魔しまーす…」


錆び付いた扉を開けると、遠慮がちに呼び鈴が鳴る。ここまで来るのには苦心した。廊下にはミミズや毛虫が這い回っているし、空中には粉雪のごとく埃が舞っている。この短時間で死にそうなほどくしゃみが出た。


例の「相談窓口」とやらには、誰一人いなかった。鍵はかけられていないし、留守と言うことはないと思うのだが。よっぽど警戒心のない住人なのだろうか。


「あの、誰かいませんか?」


勇気を出して少し大きめの声で呼んでみる。応答はない。そこで一つの可能性が頭を過った。もしかしたらここはもう廃業していて、空き部屋となっているのではと。


だけどそれにしては生活感があるように思える。事務用の机には沢山の本や資料が積み重なっており、向かい合うソファを挟んでいるローテーブルには、飲みかけのペットボトルとカップラーメンが置かれている。


「夜逃げ…?」


そう呟いたときだった。水が勢いよく流れる音がどこからか聞こえた。輪子はこの音に聞き覚えがある。そう、水洗トイレの音だ。


「世逃げて…今時の女子中学生が咄嗟に思い付くことかね」


声のした方を振り向くと、トイレとおぼしき場所から一人の女性が姿を現した。


長いボサボサの黒髪を乱暴にすきながら、その女性は輪子を睨んだ。睨んだと言うか、開きたくても目が開かない。そんな感じに見えた。


ひどく顔色が悪いのだ。もともと色白なのだろうが、それを通り越して真っ青だ。本物のお化けのようだ。


深い隈を隠そうともしないその人からは、どうしたって客を出迎えようと言う気概が感じられない。


「あの…私、高校生です」


なぜ今そのつっこみなのかと自分でも思ったが、実年齢より幼く見られるのは昔からコンプレックスだったのだ。仕方がない。


女性は特に反応せず、徐にそばにあった冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。


がしかし、力が入らないのか二リットルのペットボトルを手から落としてしまった。輪子があ、と口をまあるく開けたが遅かった。ペットボトルは女性の足の上で鈍い音を響かせた。彼女は靴もスリッパも履いていなかった。完全なる丸腰だったと言うことだ。


「…」


マネキンのように動かなくなってしまった女性を、恐る恐る覗き込む。彼女は口から泡を出しながら白目を向いていた。




「うう…気持ち悪いよぉ…」


べそをかきながらソファに寝そべる女性の足に、輪子は冷水の入ったビニール袋を当てていた。にっくきミネラルウォーターではなく、水道から汲んだ水だ。


「お酒ですか?」


女性の姿はどう見ても二日酔いに苦しむ人のそれだった。アルコールと胃液の臭いが彼女から僅かに漂う。さっきまで大惨事であったろうトイレに目を向けた輪子は、自分まで何かが腹から込み上げてきそうだった。


「ちょーっと飲みすぎちゃったねぇ…久々の報酬だったし」


絶対にちょっとなんかじゃない。輪子はつっこみたい気持ちを深いため息と共に流した。


「足はもういいからさ…水持ってきてよお嬢ちゃん」


何故ゆえ初対面の人間に召し使い扱いされなければならないのだと憤りつつも、輪子は水を汲むため腰を上げた。わざと水道水をコップに注いでやった。


「どうぞ」


「ありがと…っ鉄くさ!!!」


盛大に水を吐き出した女性はついでによからぬものも吐瀉しそうになったのか、這うようにしてまたトイレへと還ったのだった。


「何なの、あの人…」


全く理解不能だ。仕事はしているようだが、「報酬」と発言したのが気になる。お悩み相談とは、カウンセラーのような仕事だろうかと輪子のイメージにはあった。けれどあんな人間にカウンセラーが務まるのだろうか。心を開いて相談したいと思えない。


「私を殺す気…?」


未だグロッキーなままトイレから出てきた女性に、輪子は遠慮もなしにあれこれと質問していった。


「ここは何なんですか?あなたは何をやってる人?報酬って何なんです?どうして…」


「ああもう。そう矢継ぎ早に聞きなさんな。頭に響く…」


女性はどっかりとソファに腰を下ろした。はしたなく大股を広げて天を仰いでいる。


「看板に書いてる通りよ。悩みを解決する仕事」


「話を、聞いてくれるってこと?」


「聞くだけでいいならそうするし。それ以外にしてほしいことがあるなら、できる限りでする」


「それって…」


何でも屋、というのが一番しっくりくるだろうか。だとすれば、彼女が報酬と言うのも納得できる。


「こないだはね。金持ちのジジィのお相手してあげたの。おかげでガッポリよ」


厭らしい笑みを浮かべる女性に横目で見られ、輪子は頬を赤らめた。


「ち、ちょっと。私一応、未成年なんですけど…」


「純情ぶんなしガキ。つうか変な意味じゃないから。将棋の相手してあげただけだよ」


わざと匂わす発言をしたくせに。自分を陥れて満足気味に鼻を鳴らす女性に、また鉄分豊富の水道水を飲ませてやろうかと思った。


「お嬢ちゃんは何しに来たの」


「え?えっと…」


輪子は言葉に詰まった。ここまで歩を進めたのは、ただ気になったから。それだけの理由だ。真面目に何かを相談しようと言う気は更々なかった。


胡散臭さはまだ拭えないが、とりあえずここがどういった場所なのかは知れた。もう用はない。


女性に対し商売人としてのあり方に疑念を抱いていた輪子だが、己だって客としてどうなのだろうと今更ながら罪悪感が生じ始める。


「わかった。君の相談したいこと」


「へ?」


「バイトしたいんでしょ。ここで」


予想だにしない一言に、思わず面食らった。


否定も肯定もできないまましどろもどろになる輪子に、女性はにんまりと悪どい笑顔を見せつけた。


「ちょうど家政婦…助手が欲しかったんだよね」


「今家政婦って言いました?」


「歓迎するよ。私は平香菜。えっと…山田、ワコちゃん…?」


瞳が見えなくなるくらい目を細めて胸元の名札を覗き込む平に、すぐさま「リンコです」と訂正を促す。


「長い、却下。よろしくねワコちゃん」


問答無用で右手を差し出す平に、輪子は絶句せざるを得なかった。会って間もないが、明らかに胸を張って他人に紹介できるような雇い主ではない。


「ま、待ってください!私、ここで働きたいなんて言ってません」


「そうなの?…何だ。てっきりどこも雇ってくれなくて自暴自棄になった学生が、相談にかこつけて働かせてもらおうとしてるのかと。だってお嬢ちゃん見るからに冴えないし。普通の接客業は無理でしょ」


スラスラと失礼な考察を並べ立てられ、輪子は奥歯を食い縛った。強ち間違っていないのが余計に気に入らない。自暴自棄になるほどではないが、いくつかバイトを断られたのは事実なのだ。


「まぁまぁ社会経験だと思ってさ。手伝ってよ、私のこと」


「…私で、いいんですか?」


彼女は自分のことを「冴えない」と評した張本人だ。お悩み相談だって、立派な接客業であるはず。それともやはり、そんなものは建前なのだろうか。実態は危険な内容を生業とする場所であるのでは。


険しく眉根を寄せる輪子とは対照的に、平は実に軽やかに笑った。


「うん。なんか君、この仕事やりたそうだし」


「…っ」


彼女の一言に、図星をつかれたように鼓動が鳴った。輪子にそんな自覚はなかった。寧ろ「何勝手なこと言ってんだこいつ」と思った。


しかしなぜだか動機が止まないのだ。恐怖や焦りなど、マイナスな感情に影響されているものではない。それだけはわかった。

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